久しぶりに、土器を中心に遺物の話をします。この前、この手のお話をしたのは、第9話 土器のDNAでしたから、2ヶ月も間があきましたね。素直に内情をお話ししますと、
ヤだなぁ。なんか最近愚痴っぽいぞ。でも、今回は土器です(タイトルに「土器」を入れないあたり、姑息(^^;)。
ここのところ、若い(……私ぐらいの世代、という意味です、勝手ながら(^^;ゞ)考古学者に、土器の製作技法に関する細かい議論が増えてきました。私もその一人に数えていただけると嬉しいのですが、まだ、そうもいかないみたいです。
ちょっと待ったぁぁ!
え?遺物の製作技法なんて、ずっと以前から多くの考古学者が関心を持ってきたし、関連の著作も多い?製作技法を無視した遺物研究など存在し得ない?若手だけが活躍してるみたいに言うな?あ、なるほど。
おっしゃることはだいたいわかります。
もちろん、遺物の製作技法はこれまでも注目されてきたし、私もそのような研究者から多くの教えを受けてきました。まさか、どこかの誰かみたいに(だれだよ)学史を無視して先行研究を蹂躙するつもりなんてないですよ。
でも(少なくともここしばらくは)、その流れは細く弱々しいし、「流れ」にさえなっていない場合があるような気がします。
以前、「工房の風景を復元するために」を準備してて思ったのは、「言葉がない」と言うことです。個別の技法とかには名前があるのですが、それを組み上げて工程を復元するための論理の武器となるような言葉が、どうしても足らないのです。それで、土器研究やら、埴輪研究やら、石器研究やら、石棺研究やら、銅鏡研究やら、銅鐸研究やら……、製作技法を云々してそうな論文をあさって、関連の用語がどんな風に使われているか調べ上げました(このころが一番勉強してたかも(^^;)。そしたらまぁ、何とも悲惨な結果。
上で、何の注釈もなく使った「工程」という言葉だって、研究者ごとに意味が違うんです。もともと多義的な言葉だからではありますが、専門用語としては悲しいよねー。
技法の名前が共有されても技法の間の秩序を呼ぶ名前が確立されてない(多くの場合、そのような秩序の存否さえ考慮していないから)なんて、後に続く私らはどうやってこの学史を継承したらいいんでしょ?
そう、継承しにくいのは、これまでも継承なんかされてないからです(こんなこと、言っていいのかなぁ(^^;)。
いろんな原因があるんでしょう。まず、考古学の教育は「経験」を重視します。これはこれで意義があるのですが、弟子の「体験」に期待するあまり、師匠の「表現力」がイマイチだったりすると、追体験しやすいものは伝わっても、追体験しにくいものや抽象的なものは伝わりにくいですよね。また、追体験したつもりで、実は違うものだったりもするでしょう(それが学問の発展のきっかけになる場合もあるでしょうけど)。
でも、やっぱり技法研究なんて、軽視されてるような気がします。そりゃ、みんな技法などへの視点が大切だとかって言うけど、はっきり言って、口だけのことが多いですよね(本人はそんなつもりじゃないんでしょうが)。
ちょっと前のことですが、Lさんが土器製作技法の論文を見せてくれました。なかなか細かい観察をして、そこからいろんな問題を導き出そうとしています。おお、ここにも私のような研究をする人が!でも、正直言って、ちょっとツッコミが甘いというか、もう少し考察をいっぱい書いて欲しかったな……。
Lさん > いやぁ、コメントがいただけて嬉しいですね。ぜひ、白井さんに見ていただきたかったんです。
白井 > え、そんな私なんて。こうして教えてもらってるようなものですし。
Lさん > いえね、こういう製作技法とかの話ができる相手って、私の周りにゃいないんですよ。
白井 > そうなんですか(@@?
Lさん > ええ、この論文も、周囲から「そんなこと長々と書くな」って、非難ごうごうだったんですよjoj。
そんなぁ、ひどいですね。弾圧されてるようなものじゃないですか。それに比べると、私なんかは技法研究に理解のある人(あるいはまさに技法研究をしている人)が周囲にいることが多かったから、はるかに恵まれてたことになります。
実際、製作技法とかの重要性は認め(るような口振り)ながらも、実際に自分でそんな研究をするわけでもなく、それどころか、「そんなこと、とっくにわかってるのさ」とかってバカにしてくださる方もいますが、そういう態度だから継承すべきものも継承されないんですよ。
ホントはわかってないんだったりしてね……あ、冗談だってば(^^;ゞ
技法研究の歴史を見ると、同じアイディアを何人もの人が発見している、ということがあります。え、いろんな人が発見したらいいことだろって?とんでもない。ちゃんと継承されている学史なら、同じアイディアを何度も発見する必要なんてないでしょ。語り継がれていないから、優れた技法論文も「知る人ぞ知る」ものになって、改めて発見しなきゃいけなくなるんです。ちょうど、中国で指南車が何度も何度も発明されるのと同じように。
そして、同じものに違う名前をつけたり、違うものに同じ名前をつけたりしてしまうのも、技法研究が孤立的、散発的にしか行われてなくて、一つのテーマで議論を戦わせる機会がなかったからでしょう。
話を戻しますが、若手に新たな技法研究の波が生まれています。その中には(私の勝手な希望もこめて)いくつかの傾向があるように思います。
ちょっと持ち上げすぎというか、贔屓しすぎという気がしますが、まぁ、自分もこれに属してると思ってますから、ちょっとばかり党派性を露わにしてみました(^^;ゞ。
では、技法に着目し、論理的な記述を試みる若手考古学者の研究は、旧弊を打ち破ってどれも大成功で万々歳か……というと、これが情けない状況だったりします。これからさまざまな論理を持ち寄って、新しい潮流を作りだそうとしているわけで、まだまだ、試行錯誤が続くことでしょう。
次に土器のお話をするときは、その実例を挙げて問題点を……。いや、やっぱりヤバイかなぁ。