このコラムでは第66話以来,戒律シリーズと銘打って尾野善裕氏の暦年代論を講読しています。
これは,土曜考古学研究会での発表の冒頭80分を再録しているんですが,まだ半分程度なのに13回目という,この異様な長さは何なんでしょうか?すでに卒論が2本書けるくらいの分量になっています。最近は連続ドラマだって9回ぐらいで終わるのに(期首特番を減らして欲しい)。
研究会当日,省略の多い不完全な話をむちゃくちゃな早口で聞かされた参加者の皆さんには,まことに申し訳なく思っています。このコラムで,「そういう意味だったのか」とようやく気づかれた方(掲示板に登場した桃崎氏のように)もいらっしゃることでしょう。
尾野氏の1998年論文のうち,今読んでいる「III 暦年代の推定」の章は,2つの部分に分かれています。
「1」の方は,第71話から前話まで7回かけてお話ししました。ここでの尾野氏の考え方を図にすると,次のとおりです。
紀年資料《墓誌》→共伴例1(武寧王陵)←媒介資料《耳飾や熨斗》→共伴例2(江田船山古墳や高井田山古墳)←《須恵器》
∴ 紀年資料(墓誌)≒須恵器(TK23)
紀年資料と須恵器の間を,2つの共伴例と1つの媒介資料で繋いでいます。これ以上距離があると根拠薄弱とみなすあたりに,尾野氏の暦年代論の厳格さが顕れています。この戒律は評価に値しますが,論理の骨格は正しくても,尾野氏の議論には問題があります。
武寧王陵と江田船山古墳の耳飾が似ていることは周知の事実(第71話)で,すでに年代論にも活用されている……つまり通説の一部でした(第72話)。これを打ち破るために,尾野氏は追葬の否定を試みますが,追葬の根拠(第73話)を覆そうとはせず,奇妙な形の蓋杯と提瓶に曖昧な位置づけを与えただけでした(第74話)。しかも,それらが韓国製かもしれない(須恵器の編年に載らない)という可能性を伏せていました(第75話)。
高井田山古墳の熨斗については,韓国でもっと古い熨斗の類例(慶尚北道慶州市・皇南大塚北墳)があるになぜか触れず(第76話),しかも,石室系譜論の傍証として熨斗を挙げる韓国の研究を,熨斗中心に捻じ曲げて紹介していました(第77話)。
尾野氏の論理には,耳飾と熨斗に共通した問題があります。数が少なすぎることと,韓国での存続年代に配慮していない(耳飾の場合は問題なかったが,配慮しないことに変わりなく,まぐれ当たり)ことです。
武寧王陵と日本の古墳を対比する資料は,ほかに環頭大刀,帯金具,飾履などもあるでしょう。なぜ,耳飾と熨斗なのか,よくわかりません。
というよりも,尾野氏は武寧王陵について,いったい何を知っていたのでしょうか。
さて、武寧王陵との対比を通して、猿投窯系II期中段階の暦年代の一端を確定したわけだが、その後の各段階についてはどのように考えるべきだろうか。〔尾野善裕1998:87〕
「2 猿投窯系II期新段階からIII期中段階の暦年代観」は,この言葉で始まります。このうち,猿投窯系II期新段階(≒MT15)の事例として登場するのが,佐賀県唐津市・島田塚古墳です。……とうとう戒律シリーズ前半のヤマ場(まだ前半!?),島田塚古墳の話に辿り着きました\(^^)/。
尾野氏は,島田塚古墳から出土した銅鋺は中国陶磁と対比できると指摘し,著名な美術史学者・矢部良明氏の見解として,この銅鋺に類似する中国陶磁を540〜570年代であると主張します。
一方,島田塚古墳から出土した須恵器蓋杯をMT15型式・猿投窯系II期新段階に位置づけて,これによってMT15型式を西暦540〜570年代を大きく外れない時期に当てています〔尾野善裕1998:87〕。
尾野氏の原文は理路整然と,何の問題もないように見えます。しかし,このシリーズにずっとお付き合いくださった方は,ピーンと来るでしょう……「引用は適切か?」と。
両者の比較・検討を行った矢部良明によると、島田塚古墳の銅鋺に酷似する形態のものは、東魏興和3年(541)の房悦墓・同武定5年(547)の高長命墓・北斉太寧2年(562)の庫狄廻洛墓・同天統3年(567)の韓裔墓・同武平6年(575)の李希宗夫人合葬墓・同武平6年(575)の范粋墓・同天統2年(566)および隋開皇8年(588)の崔昂夫人合葬墓から出土しているといい(矢部1985)、540〜570年代台に集中していることが判る。〔尾野善裕1998:87〕
「年代台」というのも変な表現ですが,それはともかく,引用元の矢部氏の記述は,次のとおりです。
中国ではこの半截球形の碗は、先の高氏墓や高雅墓を先蹤として東魏興和三年(五四一)の房悦墓、東魏武定五年(五四七)の高長命墓、北斉太寧ニ年(五六二)の庫狄廻洛墓、北斉天統三年(五六七)の韓裔墓、東魏興和二年(五四〇)および北斉武平六年(五七五)の李希宗と夫人合葬墓、北斉武平六年(五七五)の范粋墓、北斉天統二年(五六六)および隋開皇八年(五八八)の崔昂と夫人合葬墓などすべて北朝の墳墓から出土しており、日本の島田塚古墳や国越古墳の出土品をこれら中国古墳の出土品の中に酷似品を探すと、早くは東魏の房悦墓出土の黒褐釉碗となり、以後おおむね類似する。〔矢部良明1985:11〕
2つの文はほとんど一致しています。尾野氏は矢部氏の記述を,細部をこちょこちょ改変しながら,ほとんどそのまま利用しているのですが,実は,重大な異同があります。対応する内容を,左右に並べてみましょう。
矢部良明1985:11 | 尾野善裕1998:87 | |
---|---|---|
1) | 両者の比較・検討を行った矢部良明によると、 | |
2) | 中国ではこの半截球形の碗は、 | 島田塚古墳の銅鋺に酷似する形態のものは、 |
3) | 先の高氏墓や高雅墓を先蹤として | |
4) | 東魏興和三年(五四一)の房悦墓、 | 東魏興和3年(541)の房悦墓・ |
5) | 東魏武定五年(五四七)の高長命墓、 | 同武定5年(547)の高長命墓・ |
6) | 北斉太寧ニ年(五六二)の庫狄廻洛墓、 | 北斉太寧2年(562)の庫狄廻洛墓・ |
7) | 北斉天統三年(五六七)の韓裔墓、 | 同天統3年(567)の韓裔墓・ |
8) | 東魏興和二年(五四〇)および 北斉武平六年(五七五)の李希宗と夫人合葬墓、 | 同武平6年(575)の李希宗夫人合葬墓・ |
9) | 北斉武平六年(五七五)の范粋墓、 | 同武平6年(575)の范粋墓・ |
10) | 北斉天統二年(五六六)および 隋開皇八年(五八八)の崔昂と夫人合葬墓など | 同天統2年(566)および隋開皇8年(588)の 崔昂夫人合葬墓 |
11) | すべて北朝の墳墓から出土しており、 | から出土しているといい(矢部1985)、 |
12) | 日本の島田塚古墳や国越古墳の出土品を これら中国古墳の出土品の中に酷似品を探すと、 | |
13) | 早くは東魏の房悦墓出土の黒褐釉碗となり、 以後おおむね類似する。 | 540〜570年代台に集中していることが判る。 |
まず,8の李希宗と夫人の合葬墓について,東魏興和2年(540)の紀年が尾野氏の方には漏れています。これは尾野氏が例示したどの年代よりも古いものです。この年代が消えた理由は,矢部氏の文からはわからないので,原報告に遡りましょう〔石家庄地区革委会文化局文物発掘組1977〕。
河北省贊皇県南刑郭村の李希宗・夫人合葬墓は,前後2つの部屋に分かれた磚室墓です。後室(奥の方の部屋)に釘と木質があり,2つの木棺が安置されていたことがわかります。東が李希宗,西が夫人崔氏のものと推定されています〔石家庄地区革委会文化局文物発掘組1977:384〕。副葬品を見ると,陶器・磁器の碗が数か所で出土しています。
さらに「瓷碗」の写真も載っています。このうち,銅盤に載った食器セット「全套酒具」〔石家庄地区革委会文化局文物発掘組1977:図版伍 1〕は明らかに上の3ですが,単独で撮影された「青瓷碗」〔石家庄地区革委会文化局文物発掘組1977:図版伍 2〕(矢部氏も転載〔矢部良明1985:9〕)は,2と3のどちらか,報告書からはわかりません。
青瓷器 18件。そのうち碗が16件ある。口縁部はややすぼみ,腰は深めで,高台は中が詰まっており,その中央はややくぼんでいる。胎土は重厚で,青灰色。釉薬は青緑色で,内面の全体にかかり,外面では底部に及ばない。貫入が生じている場合があり,釉薬が剥落した部分もある。口径10〜12.8,高さ7.5〜8.8cm(図版伍,2)〔石家庄地区革委会文化局文物発掘組1977:387〕
この書き方だと,写真がない「瓷碗」も大体同じ形態なのでしょう。すると,銅鋺に似た「瓷碗」は夫妻の双方に副葬された可能性が高く,原報告でも,尾野氏が李希宗の540年を削除する理由が見つかりません。つまり,削除の理由は尾野氏の側にあるはずです。うっかり引用し忘れたのかもしれませんが,偶然にも一番古い年代だけ写し忘れる,なんてことがあるんでしょうか。
興和2年(540)は李希宗の没年で,埋葬年は武定2年(544)です。この件は,次回改めて触れます。
対照表に戻ります。
李希宗墓より重大なのは,3のところ,矢部氏の「先の高氏墓や高雅墓」が,尾野氏の文で抜けていることです。
河北省曲陽県嘉峪村の高氏墓は,北魏の営州刺史・韓賄の夫人・高氏の墓で,矢部氏が島田塚古墳の銅鋺と対比する「陶碗」(矢部氏「灰釉碗」)が出土しています〔河北省博物館・文物管理処1972〕。
陶碗 10件。直立口縁で腰は深く,仮圏足である。大小の2種があり,大きいものが6件で,高さ6〜6.5cm,口径11〜11.5cm;小さいものは4件で,高さ4.5〜5cm,口径6.8〜7cm(図2)。〔河北省博物館・文物管理処1972:34〕
「仮圏足」というのは,李希宗墓の碗で言う「高台は中が詰まっており」(原文「実足」)と同じ形態でしょう。
河北省景県の高雅墓は,高氏の歴代の墓の1つで,高雅墓のほか,矢部氏や尾野氏が例に挙げる高長命墓も含んでいます。高雅墓では,矢部氏が弦紋の存在に着目して対比する「醤釉瓷碗」(矢部氏「黒褐釉碗」)が出土しています〔河北省文管処1979〕。
年代は,高氏墓が北魏正光5年(524),高雅墓が東魏天平4年(537)年で,つまり,失われた李希宗の没年も含めて,尾野氏の引くどの年代よりも古いのです。これを削除する理由は,報告書には見当たりません。
改めて矢部氏の文を見ると,対照表13の「早くは東魏の房悦墓出土の黒褐釉碗となり、以後おおむね類似する。」という言葉が気になります。
念のため,房悦墓の報告〔山東省博物館文物組1978〕を見ると,そこで出土した「瓷碗」は直線的で,島田塚古墳の銅鋺に似ています〔山東省博物館文物組1978:108〕。この点では,高長命墓の「青瓷碗」も近いでしょう〔河北省文管処1979:29〕。これ以外(前後の時期)は,腰が深く丸くなっていて,底部からふくらみをもって立ち上がります。
中国の540年代の磁器の碗が島田塚古墳の銅鋺にもっとも似ているのは確かです。しかし,これは房悦墓より古い年代だけを尾野氏が削除する動機としては,不足です。
つまり,尾野氏はよくわからない理由で高氏・高雅・李希宗という,古い方から3つの年代を,矢部氏の原文から削っていたのです。
しかし,これだけではありません。実は,尾野氏は高長命墓をここで例に挙げてはいけなかったのです。そればかりか……。(つづく)。