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比恵遺跡群をめぐる国際環境

−燕,衛氏朝鮮,真番郡,楽浪郡,韓−

出典:『比恵遺跡群21』(福岡市教育委員会.1996)

報告書の末尾,わずか1ページに言いたいことを全て盛り込んだ論文。中国の戦国時代「燕」の製品と考えられ,そのために年代を遡らされていた二条突帯鋳造鉄斧を,出土コンテキストを尊重してほとんど弥生中期前半に収まるとし,出自を衛氏朝鮮に求めた。これに関連して須玖式の実年代に言及した。

衛氏朝鮮の重視,日本と朝鮮半島の並行関係の追求による実年代論など,「日本出土の朝鮮産土器・陶器」や「勒島貿易と原の辻貿易」のもとになる議論がすでに登場している。
本稿に前後して年輪年代の成果が喧伝され始めた。(18/Apr/2002)


弥生時代鋳造鉄斧の流入時期 鉄斧30005を出した土坑SK-201は,出土土器が須玖II式古段階に属し,弥生時代中期後半に位置づけられる。鉄斧30005は2条突帯をめぐらし刃部が広がらぬもので,川越哲志氏のAa−1型に属す。戦国時代(前5〜前3世紀)の河北・遼寧,西北朝鮮(燕)が製作地と考えられている。日本では下稗田遺跡D地区406号貯蔵穴出土例がある。報告書で前期後葉から中期中葉とされ,以後同様に言及されるが,伴出土器はなく,鉄斧の型式観(弥生中期は既に燕代ではない)から時期が論じられているようだ。しかし,概報では同貯蔵穴を中期前葉ないし中葉に属せしめ,これが遺構(貯蔵穴の構造や貯蔵穴群の変遷)に対する認識とみられる(本報告まで徐々に年代が古くなる)。出土状況と伴出土器の知れる鉄斧30005が中期後半に属す以上,鉄斧の時期を前期に遡らす必要はなく,概報の認識を支持したい。かかる視点で再考すれば,日本出土同型式鋳造鉄斧とその候補は中期前半から中葉に位置づけられる。鉄斧30005は同型式最新例であり,Aa−1型の下限は須玖II式古段階となる。すなわち,同型式鋳造鉄斧は主に弥生中期前半から中葉に流入したと考えられる。漢4郡設置を契機とした前漢系遺物流入期とされる弥生中期後半は,戦国系遺物の流入終了期でもあるといえる。さらに,大澤正己氏の指摘(本書附論)のように,弥生中期鋳造鉄斧に経時的発展が窺えるなら,戦国系鋳造鉄斧は弥生中期並行期に継続的に製作されたといえる。

弥生時代鋳造鉄斧の製作者 前3世紀の燕の滅亡後,その鉄器製作技術は河北・遼寧では廃れたようである。しかし,朝鮮平安南道大同郡でAa型鉄斧鋳型が出土しており,燕人衛満の建てた衛氏朝鮮が燕人技術者と鋳造鉄斧製作技術を継受したのであろう。前2世紀末に漢が衛氏朝鮮を滅ぼすと,戦国(燕)系鋳造鉄斧は消滅し,その技術を漢の領域外で受け継ぐ者もなかった。さすれば,弥生中期並行期に戦国(燕)系鋳造鉄斧を製作,輸出しえた主体は衛氏朝鮮以外に考えられない。燕の滅亡後,衛氏朝鮮が建国し,戦国系鋳造鉄斧製作技術を自家薬篭中のものとしたのを契機に,戦国系鋳造鉄斧の日本流入が本格化したのであろう。

須玖II式土器の年代 衛氏朝鮮が弥生中期戦国系鋳造鉄斧の製作地ならば,日本出土Aa−1型鋳造鉄斧の下限は衛氏朝鮮滅亡時であり,須玖II式古段階は前2世紀末から遠からぬ時期に求めうる。また,南朝鮮の無紋土器は須玖I式並行期までに型式変化の大半を終え,続く三韓系瓦質土器の出現は昌原・茶戸里遺跡の星雲紋鏡から前1世紀中葉と捉えられる。瓦質土器出現期こそ南朝鮮の前漢系遺物副葬開始期であり,九州の弥生中期後半のある時期に対応する。須玖II式期のうちに三韓系瓦質土器が出現したはずである。以上より,須玖II式は前1世紀の土器型式と捉えられる。

漢4郡設置から南朝鮮・北部九州の前漢系遺物副葬開始までの時間差は,韓の強勢による真番郡の廃止などを経て,楽浪郡と韓・倭の間に相対的安定期を迎えるまでに要した時間と捉えられる。比恵遺跡群中央の1期集落で集住が始まるのは,まさにこの時期である。

参考文献


白井克也 Copyright © SHIRAI Katsuya 1998. All rights reserved.