考古学のおやつ

文化圏ではすまされない

万維網考古夜話 第1話 24/Nov/1998

佐賀県の吉野ケ里遺跡で、銅鐸が発見されましたね。先週公表され、新聞などでも記事が載りました。吉野ケ里って、ホントに何でもありますね。覚えきれないくらい。でも、銅鐸というのはさすがに驚きました。九州でいわゆる「小銅鐸」じゃない銅鐸が出たのは画期的でしょう。私も現場に出てたうちに、1回ぐらい弥生の青銅器を発見してみたかったですね。あ、でも、弥生の鉄器見つけたから、この方が自慢できるのかな?

新聞を取っていないし、公表された日は帰りが遅かったので、テレビや新聞での報道にあまり接してはいません。しかも、関東にいるので西日本での紙面とかは確認していないのですが、案の定、「銅剣・銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」がどうこう、ということを書いた新聞がありましたね。

多くの閲覧者にとっては常識かも知れませんが、この2大「文化圏」は、和辻哲郎が昭和の初めに言い出したんです。でもねぇ。この「文化圏」って何?っというのが正直な気持ちですね。これ、要するに、「銅剣・銅矛(銅鐸)が出土する地理的範囲」ってことでしょ。それと「文化圏」とでは、飛躍が多すぎる気がしませんか?しかも、2大「文化圏」は、かなり広い範囲重複してるんです。

ある地域の文化(この言葉にまでこだわってたら終わらなくなるので、これは保留(^^;ゞ)がどうこうと言うんなら、その地域の中での、さまざまな遺物やら遺構から抽出された特徴が、有機的に結びついて機能してることを示さなきゃ、と思うんですよ。例えば、銅剣・銅矛が出土するところにだけ、それら以外にも独特の遺物があるとか、銅鐸が出土するところだけ、やっぱり特有の何かあるとか、そういう話ならわかるんですが、どうもそういう訳じゃないんですね。それどころか、あんな半径何百キロもある円なんて描けないんですね。弥生時代のいろんな事態は、もっと小さい地域単位に起こっていることが、詳細な発掘調査が各地で積み重ねられることでわかっています。それは第一線で活躍している考古学者には当然なわけです。

埋蔵文化財調査の体制が整い、しかもそれが自治体単位で行われたことで、地域ごとに考古学情報が自治体(またはその外郭団体)に集約されて、それぞれに地域史を構築しようと試みられてきました(知らず知らずのうちにそうしていた、というところも多いでしょう)。その結果、2大「文化圏」に合理化できない地域の生きた歴史が描き出されてきたといえるでしょう。もちろんこんな美化された一面だけでなく、地域に任された文化財調査は、一方で、お国自慢の傾向とか、地域を越えた情報集約の困難さとか、調査・研究精度の格差とか、さらには、自治体の道連れになって経営破綻とか、いろいろと問題はありますが。あ、ちょっと話がそれちゃいました。(^^;ゞ

しかも、それぞれの「文化圏」を特徴づけていたはずの「銅剣・銅鐸」や「銅鐸」だって、その中に地域差とかがあることがとっくにわかってまして、専門家はもはや2大「文化圏」なんて大まかな図式では考えていません。兄弟銅鐸(同笵の銅鐸−同じ鋳型から作られた複数の銅鐸の組合せ)や、鋳型は違うけど同じ人の作った銅鐸を詳細な分析から見出して、銅鐸の製作背景やら地域間の関係を推定するとかの研究では、畿内中心みたいな論旨も見られますが、以前の「銅鐸文化圏」といった図式よりも、さらに何歩も踏み込んでます。一方、三遠式銅鐸とか、今回話題になった福田型銅鐸なんてのは、「銅鐸」とひとまとめにされた言葉の中に潜む、地域ごとの展開や、地域同士の関係を解明するための、これまた重要な手がかりの一つなんですね。

ですから、吉野ケ里遺跡から福田型銅鐸が出土したって、それはこれまでの研究動向からみると、研究者をさらなる探求にかき立てる魅力的な題材ではあっても、「今まで信じてきたものは何だったの?joj」なんて価値観を大逆転させるような代物じゃないんですね。

こんな難しいこと言わなくても、たとえば、1984年・1985年の島根県・荒神谷遺跡での青銅祭器の発見のときに、2大「文化圏」の見直しが必要だの、教科書が書き変わるだの、存分騒がれていたはずですね。当時まだ高校生だった私も、まだ調査中の荒神谷遺跡を見に行きました。まさか、そのとき作業されていた方の一人が、後に私の最初の職場の先輩になるとか、そのときの出土遺物を、さらにその後の職場で展示することになるとか、まったく予想もつきませんでした。あのときさんざん報道で煽っていた新聞とかが、吉野ケ里で銅鐸が出た途端にまたもや和辻哲郎を引っぱり出して、「文化圏」動向と騒いでいるのは、いったい何なんでしょうね。

実際、これまでの発掘と研究の成果で、福田型銅鐸が九州で出る可能性は考えられていたので、九州の考古学者は冷静に受け止めているようです(未確認情報ですが、西日本新聞には、九州の考古学者らの冷静にして建設的な所感が寄せられているようです)。

誤解のないように念を押しておきますけど、私は九州での銅鐸の発見に意義がないとか、和辻哲郎がおろかだったとか、そんな間抜けなことを主張してるんじゃないですよ。「九州」「銅鐸」「和辻哲郎」の三題噺で記事にしてる新聞に、「またですね〜」と思ったわけです。新発見を報道するのに、プロレスのやられ役みたいに和辻哲郎を引っぱり出してくるのはおかしい、ということですね。半世紀も前の時点で、弥生時代青銅器に一つの図式を与え、その後の考古学者の研究にヒントを与えた、その業績を、結局は汚したことになるんじゃないでしょうか。ショッカーの戦闘員じゃないんだから、さっきやられたことになってるのに、今度もやられた、なんて役回りはひどいですよね。

中には、2大「文化圏」の見直しについて、多くの考古学者の意見を載せた、という記事もあるようですが、こういう記事は気をつけて読まなければいけません。まるっきりのウソは書いてないにしても、ご本人の「真意」に沿っているとは限らないんです。

まず、今回の出土について、充分な情報に恵まれた上で答えられたかどうか、紙面からはわかりませんね。報道各社からの電話のせいで、得たい情報も得られない、という本末転倒も起こるそうです。また、記者が最初っから偏った質問しかしない、考古学者がそれに気づいてまっとうな話をしても、記者の耳にはまっとうな部分は聞こえない、という場合があるでしょう。考古学的発見に関してではないですが、私自身そういう体験があります。また、記者の採ってきたメモがそのまま記事になるわけじゃないでしょうから、編集部で改編されちゃうこともあるでしょうね。先に記事を書いて置いて、本人とコンタクトさえ取れれば用意しといた記事を載せる、という記者もいるという話は、さすがにデフォルメ臭いけど、事実だったら、ヤな話ですね。
いずれにせよ、2大「文化圏」が考古学の主要テーマの一つみたいに錯覚させるような記事作りは、変ですね。

この文を書くため、手元にある一般向けの本をいくつか調べたんですけど、和辻哲郎の2大「文化圏」仮説って、あまり載ってないんですね。やはり、新聞報道用のやられ役ってことのようです。シロートさんの考古学ファンにとっても、なんで今さら2大「文化圏」ってところでしょう。

私は銅鐸どころか青銅器も専門じゃないし、よくわからないことも多いんですが、ちょっと私自身の専門に絡む部分で、気になることもあったので、上のようなことを書いてみました。というのも、弥生時代や銅鐸に限らず、遺物や遺構が様式上よく似ていても、地域によって、その組合せ方や使い方が違っていることってあるんですね。で、どこが中心とか、どこが正統とかという問題とは別に、地域ごとに遺構・遺物とその使い方が一つの秩序を持っているわけです。地域ごとの秩序を考古資料から見出したり、あるいは、地域の間の共通する部分・しない部分を明らかにしていくことから、「文化圏」なんて言葉では単純に表現できない、当時の地域間構造みたいなものが解き明かされるはずだと思うんです。

さて、今回は予告もないまま、しかもこのコーナーの趣旨さえろくに書かないまま、いきなり話題に入ってしまいました。実は、このコーナーはもっと遅く始める予定だったのですが、吉野ケ里遺跡の銅鐸のニュースがあったので、前倒しでいきなり第1話にしてしまったのでした。このコーナー自体についての説明は、次回以降、準備ができたら載せることにします。


[第2話 考古学者と考古学業界|編年表]
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