考古学のおやつ 著作一覧

大野城市出土新羅土器の再検討

−須恵器との並行関係ならびに流入の背景−

出典:『福岡考古』18号(1999)

大野城市で資料調査した成果をまとめたもの。日本出土例を時期別に整理すると変動が読み取れることを主張している。大野城市に限らず,周辺の資料調査を通じて,「北部九州なら,いつでも多量の朝鮮半島系遺物が出土する」といった考えは成り立たないと感じていたので,それを表明するために編年・並行関係・実年代など,欲張った内容となり,投稿規定違反であった。

1997年に執筆したもので,先に発表された「博多出土高句麗土器と7世紀の北部九州」の構想のもとになっている。(15/Apr/2002)

目次


1.はじめに

福岡県大野城市で出土した新羅土器については,これまでも繰り返し言及され,北部九州の古墳時代史や当時の日朝関係を語る重要資料としての地位を占めている。筆者はこれらの資料を観察し,これまでに知られている事実を確認するとともに,若干の新知見を得ることができた。また,新羅土器と須恵器との並行関係の追求を通じて,時期ごとの出土傾向にも特徴がみられることを知った。本稿では資料調査の成果を報告し,若干の考察を加えることとする。「再検討」と銘打ったが,必ずしも従来説に抵触するものではなく,近年のさまざまな調査や研究の成果に照らしてみるというほどの心づもりである。


2.編年

本稿では,日本の須恵器について,九州における編年を利用し,九州IV期などと表現する。次に述べる新羅土器の分期も,新羅III期,新羅VB期などと表現する。

新羅土器の編年はこれまでもいくつかの案が呈示されており,特に近年,地域ごとの編年案も示されるに至っている。相対編年としてはほぼ一致しており,あえて筆者が論ずる必要はないかもしれない。しかし,似た内容とはいえ,土器編年の視角は論者によってさまざまであり,また,6・7世紀を通観する研究には不向きな編年体系のものが多く,利用しにくい。以下,筆者の大まかな編年観を述べることとする〔1996a〕。いずれ詳論の機会があろう。

(1) 供膳器種による分期

新羅の供膳器種(高杯とその蓋)の基本成形技法は,土器が古墳に大量副葬される時期にミズビキ成形が,その前後の時期に円板巻上成形が行われている〔朴天秀1990:12-14;白井1995a・b〕。また,ミズビキ成形を行う時期は,杯(高杯)・蓋を異形の原形杯〔白井1995b:84〕から製作する時期と,両者を同形の原形杯から製作するその前後の時期とに分かれる。以上より5期に大別できる。

このような変化は大量生産に伴う工房の分業化の反映と考えられる〔白井1996a〕。新羅I期からIV期の細分は別稿に譲る。

(2) 長頸壺による分期(第1表)

長頸壺は新羅土器の主要器種の一つであり,特に6・7世紀を通じて経時的な変化を示すので,この時期(II期末からV期)の編年に適している。

長頸壺の編年上の画期は,叩き出し丸底技法〔白井1996b〕による丸底球形体部(第I型式)から,叩き出しを行わず,胴部下端(腰部)にケズリ〔白井1997〕を行う平底体部(第II型式)への変化である。この変化は,同時期の新羅の壺形器種にほぼ共通してみられる。この後,体部が球形から扁球形,算盤玉形と変化し〔江浦1987:118〕,脚部が2段構成脚部から高台へと変化するが,これらの変化は体部の変化〈丸底→平底〉への対応であり,明確な型式学的方向性を持っている。よって,平底の付加口縁長頸壺(長頸壺IIb式)は,5つに細分できる。

供膳器種による5期区分と対比すると,新羅III期以前に丸底の第I型式長頸壺が伴う。新羅V期にはIIb3式・IIb4式・IIb5式・IIb6式長頸壺が伴い,これにより新羅V期をそれぞれVA期,VB期,VC期,VD期に細分できる。新羅IV期には良好な資料が少ないが,型式学的に長頸壺第I型式と第II型式の間に位置づけられるIIb1式・IIb2式長頸壺は,新羅IV期と考えられる。

(3) 印花紋による分期

このほか,印花紋について宮川禎一の業績を参考にした〔1988・1993〕。印花紋は施紋技法により,スタンプ紋が考案されたが縦長連続紋は存在しない1式,縦長連続紋が施される2・3・4式,縦長連続紋が衰退し,スタンプ紋自体が消滅していく5式に大別できる。

筆者の編年と対比すると,印花紋1a式は新羅III期中葉からVA期,1b式は新羅VB期に対応する。印花紋2式は新羅VC期と,VD期の一部に対応する。新羅VD期は印花紋3式・4式にも対応する。

(4) 実年代

以上の分期に実年代を与えるのは,現状では困難も伴うが,新羅I期は5世紀前・中葉,新羅II期は5世紀後葉から6世紀前葉,新羅III期は6世紀中・後葉,新羅IV期は6世紀末か7世紀初頭,新羅VA期からVC期までがほぼ7世紀に当たり,新羅VD期は8世紀以降と考えられる。


3.資料

(1) 大野城市の位置(第1図)

大野城市は,福岡平野の南端近くを占める。福岡市から筑後方面に抜ける交通の要衝であり,大野城市と東南の太宰府市との境界には,664年に造営された水城が所在する。北東の宇美町と大野城・太宰府両市とにまたがる四王子山地には,大野城市の名の由来ともなった665年築城の古代山城・大野城がある。市域の南側には,春日市・太宰府市におよぶ九州最大規模の窯跡,牛頸窯跡群がある。

南北に細長い市域のうち,次に挙げる上大利出土品は南側に,その後に挙げる王城山古墳群出土品は北側に,それぞれ偏っていることになる。

(2) 上大利採集品(第2図)

茂・佐藤によって紹介された〔1980〕が,蓋1の出土地点はその後修正されている〔舟山編1982:5〕。2点は出土地点が異なり,セット関係にはない。

蓋1 口縁部とつまみに欠損があるが,全形を推定できる。器高62mm,口径120mm,稜径127mm,つまみ径43mm。

胎土は黒色粒子・白色粒子を含むが精良である。

体部はミズビキ成形と考えられる。天井部の器壁は厚めで,口縁部は直立し,端部は丸い。外面は軟性カキメの後,ややブレのある回転ケズリを行い,その後につまみがなでつけられている。

つまみは部品を別に作って接合しているが,やや傾斜している。接合のとき,素地を内外面に補いつつ回転でなでつけ,その後天井部外面に強い回転ナデを施しているようである。この回転ナデは天井部外面の広範囲に及ぶが,天井部外面の回転ケズリによる稜はナデの上からも観察できる。

つまみは全体に回転ナデ整面されている。ナデツケ後に1段4方向方形透窓を切開している。透窓の左右辺を切る切開工具による傷が天井部外面に残り,また,下辺を切るとき天井部外面を一部削り取り,ここをユビでなでて再整面している。

硬質に焼成され,天井部内面と稜下面に灰白色の自然釉が霜降り状にかかっている。外面は灰青色,内面は黄灰色および灰青色である。断口は補修により観察できない。自然釉と色調から,倒置して上にほかの器体を乗せず焼成したと考えられる。

新羅II期中葉,6世紀初頭ごろに比定できるが,器壁が厚い点は地方的といえる。実物を対照したわけではないが,慶尚南道昌寧・校洞1号墳の一段透窓高杯・蓋杯の蓋に近い〔沈奉謹ほか1992〕。

杯2 完形の蓋杯である。器高47mm,口径104〜107mm,稜径121mm,底径40mm。

胎土は白色粒子を少量含むが精良である。

口縁部はややたわんでいる。底部の器壁が薄く,体部の素地が底部に載った様相を示す。これは円板状素地の上に紐状素地を巻き上げたことを示す。受部は水平に突出し,口縁部は直線的に内傾して丸く終わる。底部を除く内外面は回転ナデが行われているが,腰部は非回転のケズリがなされている。ケズリは「手持ちヘラケズリ」と考えられているが,ケズリ単位が底面より下に抜けず,最下段は底部外縁に沿っているので,回転台上に固定されたままで行われたケズリと考えられる。底外面は方形の凹部があり,回転台のゲタ痕と考えられる。ゲタ痕が残るのであれば,離脱後無整面と考えられ,腰部のケズリは離脱前3種ケズリである。ケズリ単位が細かく分かれているのは,腰部の回転面に対する角度が浅いために起こった現象であろう〔白井1997:144-145〕。内底面に素地の接目があり,円板状素地に紐状素地を巻き上げたことがわかる。また,ゲタ痕の存在は,カメ板を用いずに回転台上に直接素地を置いて作業したことを示している。

体部外面,稜のやや下にX字形ヘラ記号が2ヶ所,対称の位置に刻まれている。稜の下に(下→上)方向で刻まれているので,回転台からの離脱後に刻まれたはずである。

硬質に焼成するが,やや吸水性がある。外面は青灰色,内面は淡青灰色,断口は灰白色である。

茂・佐藤は杯2について,日本製と考えつつも類例のないことを訝っている〔1980:19〕。橋口は初期須恵器の可能性も考えるようである〔1983:92〕。筆者はこれを陶質土器と考える。というのも,蓋1同様,昌寧地域の様相に近いからである。ただし,このような杯は慶尚北道慶州・月城路Ka−19号墳,Na−2号墳,Na−3号墳からも出土しており,特にKa−19号墳,Na−3号墳の例ではX字形ヘラ記号も施されている〔國立慶州博物館・慶北大學校博物館1990〕。杯2の系譜については,月城路古墳群の被葬者の出自問題とともに再検討すべきであろう。

(3) 王城山古墳群出土品(第3・4図)

乙金山は,福岡平野の東を画する丘陵に属するが,その西麓,大野城市乙金に所在するのが王城山古墳群である。九州縦貫自動車道の建設に伴い発掘調査された。新羅土器は報告書〔酒井編1977〕に記述があり,その後小田富士雄〔1978〕,西谷正〔1984〕,江浦洋〔1987・1988〕らによって言及されている。共伴する須恵器については,次章で触れることにする。

壺3 王城山C−5号墳周溝より出土した。

脚部が欠失し,各部に欠損がある。器高55mm,口径74mm,最大径159mm。

胎土はきわめて精良である。

かなり偏平な壺形土器であり,口縁部は短く直立する。底部は偏平で内面周縁が窪むので,円板巻上成形と考えられる。最大径部外面が面をなす。腰部もケズリにより面をなす。ほかは全体に回転ナデ整面されている。肩部外面の紋様帯は,回転沈線2条の間に上向き鋸歯紋を施す。鋸歯紋帯の上下には1段ずつ2重円のスタンプ紋を押捺している。鋸歯紋は関川尚功分類IBa類〔1984:45〕,印花紋は1a式である。

脚部は基部から欠失し,接合沈線が観察できる。全形はわからないが,おそらく高台であろう。

硬質に焼成し,吸水性に乏しい。肩部上面と内底面中央に濃緑色自然釉がみられる。自然釉の及ばない外面下半は黒灰色,内面は灰褐色,断口は灰青色である。正置して上にものを乗せず焼成している。

壺形土器の平底化は新羅IV期に起こると考えられる。印花紋が1a式であることから,壺3の時期は新羅IV期からVA期,6世紀末から7世紀前葉の間に比定できる。

蓋4 王城山C−9号墳石室床面より出土した。

焼成時の歪みがあり,口縁部に欠損がある。器高51mm,口径127mm,つまみ径29mm。

胎土は白色粒子をごく少量含むが精良である。

かえりを有する蓋である。内面中央まで回転ナデが及んでおり,ミズビキ成形と考えられる。口縁部は外方に折り返して成形している。内外面に回転ナデ整面を行うが,内面のナデは反時計回りに進行し,天井部成形時の回転台は反時計回りと推定できる。外面中央近くは,自然釉のため観察しにくいが,回転ケズリの可能性がある。

つまみは倒脚形の退化形か,あるいは環状つまみの一種であろうか。成形技法は判断しにくい。 硬質に焼成され,若干歪んでいる。天井部外面とつまみ内面に濃緑色自然釉が観察できる。自然釉は半周では厚く,つまみを隔てた半周は薄い。外面に別の器物の口縁部と思われる熔着物があり,自然釉の流れを妨げている。おそらく別個体の蓋であろう。口縁端部とかえりの間にはワラと若干の自然釉が付着している。外面やや褐色がかった青灰色,内面は淡青灰色,断口は補修のため観察しにくいが,暗灰色かと推定される。自然釉,熔着物,ワラ,色調から,別の器体の上にワラを介してこの蓋を正位に乗せ,いくつかの器体をまたぐように別の蓋を乗せる窯詰めが行われたと判断できる。

形態からみて新羅IV期,6世紀末〜7世紀初頭に比定できる。

蓋5 王城山C−6・7号墳間周溝より出土した。

完形完存品である。器高28mm,最大径86mm。

胎土は白色粒子を若干含むが精良である。

下面中央が尖る円板状の体部に棒状のつまみが付いた蓋であり,本来は長頸壺に伴うものと考えられる。全体に回転ナデ整面されている。

硬質に焼成し,吸水性はない。つまみ上面と体部上面に濃緑色自然釉がかかっている。下面にワラが熔着している。外面上面とつまみは自然釉のため濃緑色,下面は黝黒色である。断口は観察できない。自然釉,ワラ,色調から,ワラの上に正置し,上に物を乗せない窯詰めが想定できる。

新羅土器の長頸壺はIV期以降細頸化する。したがって,IV期以降の長頸壺に伴うであろうこの蓋も新羅IV期以降に比定できる。

長頸壺6 王城山C−11号墳周溝より出土した。

破片が不足し,口縁部は全周が失われている。残存高136mm,胴径165mm,脚径101mm。

胎土は白色粒子をごくわずか含むが精良である。

胴部は上下につぶれた球形をなす。断面は観察できなかったが,円板巻上成形の可能性がある。タタキメはみられず,体部下端が回転ケズリで腰部をなすほかは,回転ナデ整面されている。

頸部は細頸で,ほぼ直立し,上でやや開く。頸基部には突帯がめぐり,頸部中ほどに2条の沈線がめぐる。基部の突帯から考えて,胴部成形後に継ぎ足したのであろう。

台部は低く,断面が歪んだ四辺形をなす。

肩部には,頸基部側から順に,押捺重弧紋1段(i),回転沈線2条(a),押捺重弧紋1段(ii),回転沈線2条(b)が配されている。重弧紋iと沈線aは[a→i]と切り合う。おそらく回転沈線a・bをめぐらせた後,重弧紋i,iiを押捺したと思われる。重弧紋i,iiは同一原体であり,同心円の上端が切れた形状を示すが,線の切れる上端4ヶ所は同一平面をなしてみえる。ここから,この押捺重弧紋の原体製作技法を次のように復元できる。

まず,原体の材料となる角材を準備する(1)。図では四角柱としたが,ほかの形状の可能性もある。次に,原体の端面に紋様のもととなる同心円を描く(2)。さらに同心円が陽出するように端面を彫り込み(3),片方の一辺を切り取ると(4),上縁が切れた同心弧となる。

硬質に焼成しており,吸水性に乏しい。肩部外面に濃緑色自然釉が観察される。台部端面と台部内の底部外面にワラが熔着している。外面は全体に青灰色であるが台の内側のみ黝黒色である。補修のため内面と断口は観察できない。自然釉,ワラの付着,色調から,ワラの上に正置して焼成したことがわかる。

体部形態は長頸壺IIb4式に共通し,印花紋は1式である。新羅VB期,7世紀中葉に比定できる。

このほかの新羅土器 王城山C−15号墳・C−16号墳から出土した新羅土器については,実見の機会を得られなかったが,いずれも壺形土器と思われ,前者は印花紋1a式,後者は印花紋1b式に当たるようである〔酒井編1977:125,138〕。


4.考察−新羅土器渡来の背景

本章では,王城山古墳群の出土資料により,新羅土器と須恵器の並行関係を整理しつつ,新羅土器が大野城市域にもたらされた背景について考察する。

(1) 新羅土器と須恵器の並行関係

王城山古墳群では新羅土器が須恵器とともに出土しているが,横穴式石室を主体部とする群集墳であるため,伴う須恵器を確定するには資料操作が必要である。

それぞれの古墳の所属時期と,新羅土器に伴う須恵器についてはこれまでも考証が試みられてきたが,ここでは新羅土器と須恵器の編年観の対照という視点で再考してみる。まず,それぞれの新羅土器とともに出土した須恵器の時期と,従来の年代観を挙げてみよう。

壺3(新羅IV期〜VA期)を出土した王城山C−5号墳周溝からの須恵器は九州IV期とVI期であり,九州IV期に造営,九州VI期に追葬されたと考えられている。壺3は「第VI型式の須恵器の圧倒的に多い地点」から出土しており,九州VI期に比定されてきた〔酒井編1977:53;小田1978:124〕。

蓋4(新羅IV期)を出土した王城山C−9号墳石室床面からの須恵器は九州VI期であり,このほかに羨道端や墓道から九州IV期の須恵器が出土している。C−5号墳同様,九州IV期に築造され,九州VI期に追葬されたと考えられ,新羅土器は石室内で出土した九州VI期の須恵器に伴うと考えられている〔酒井編1977:75;小田1978:126〕。

蓋5(新羅IV期以降)を出土した王城山C−6・7号墳間周溝からの須恵器は九州IV期であり,この時期に比定されている〔酒井編1977:165;小田1978:126〕。

長頸壺6(新羅VB期)を出土した王城山C−11号墳周溝からの須恵器は,九州IV期からV期にかけてのものである。須恵器にあまり時期差がないことから,九州V期に比定されている〔酒井編1977:87-88;小田1978:126〕。

以上のうち,まず長頸壺6の事例(王城山C−11号墳周溝)より,新羅VB期は九州V期に並行すると考えられる。

これを蓋4の事例(王城山C−9号墳石室)と対比すると,新羅IV期は九州VI期とは並行しえず,九州IV期が並行するといえよう。

そうすると,九州IV期のみを伴う蓋5は新羅IV期に比定できる。

壺3の事例に新羅IV期=九州IV期,新羅VB期=九州V期を代入すると,壺3に伴う須恵器は九州IV期となり,ひるがえって,壺3は新羅IV期と考えられる。

以上より,新羅IV期と九州IV期が,新羅VB期と九州V期が,それぞれ並行すると考えられる。また,壺3と蓋4については,従来の説とは異なる時期比定となる。

(2) 日本列島における新羅土器の出土傾向(第5図)

大野城市出土新羅土器の渡来の背景を考えるため,まず新羅土器の日本列島での出土傾向の推移を把握することにしよう。ただし,半ば恒常的に新羅土器を出土する対馬については,とりあえず「日本列島」から除外している。

以下,主に7世紀について詳しく述べる。6世紀以前については定森秀夫によりまとめられている〔1993〕し,6世紀の新羅土器と須恵器の並行関係や,日本での新羅土器出土傾向については,筆者も別稿で詳述する予定である。

新羅土器が日本列島に本格的に流入するようになるのは,5世紀後半ごろと考えられるが,新羅I期の事例はあまり多くない。杯2が新羅I期ならば,貴重な事例に加えられるであろう。

新羅II期の新羅土器は,九州・本州の広い範囲に分布する。蓋1はそうした事例の一つである。

新羅III期初頭には,一転して,限られた数の日本出土新羅土器しか知られていない。和歌山県和歌山市・前山A46号墳より出土した蓋・高杯から,3セット以上の蓋・高杯が墳丘中央部に存在したと推定されている〔松下1994:98〕。これは,新羅土器が日本列島に流入後,列島内をあまり移動することなく古墳の祭祀に使用されたことを示す〔定森1993:22-23〕。福岡県久留米市・権現塚古墳周溝より出土した蓋や,伝久留米市御塚付近出土の蓋・杯〔立石編1995:103-105〕は,おそらくいずれも権現塚古墳に関係したものと思われるが,やはり3セット以上が周溝の祭祀に使用されたとみなされる。筆者はこれを,この時期の特殊性と考えている。

新羅III期の中葉から後葉ごろの新羅土器は,日本列島での出土がほとんど知られていない。

新羅土器は新羅III期終末のものから再び流入する。大野城市の壺3・蓋4・蓋5に加え,福岡市・山崎古墳群C−1号墳出土の蓋11〔濱石編1994〕,山口県豊浦町・心光寺2号墳出土の蓋7・蓋8・杯9・盤10〔山内1988〕など,玄界灘沿岸の例がある。今のところ畿内に明確な例はない。

新羅VA期の新羅土器は,大阪市・東中学校跡地出土の長頸壺〔伊藤1991〕,京都市・大覚寺3号墳出土の壺〔江浦1988〕などが知られている。福岡市・三郎丸B-3号墳出土の壺13〔小田1988;二宮・大庭編1996〕も,小型のため時期を確定しがたいが,新羅VA期とみてよかろう。このように,新羅VA期の新羅土器は墳墓の出土品が多いようである。また,これ以前にあまり新羅土器の出土が知られていない畿内に新羅土器の集中がみられるのもこれ以後の特徴である〔定森1993:23〕。

新羅VB期の新羅土器も北部九州と畿内に分布する。大野城市の長頸壺6のほか,福岡県宗像市・相原2号墳出土の壺〔酒井編1979;宮川1991〕,奈良県明日香村・石神遺跡出土の長頸壺〔奈良国立文化財研究所1985〕,奈良県桜井市・阿部ノ前採集の壺〔清水1993〕,奈良県榛原町・神木坂3号墳出土の壺〔柳沢1988〕,千葉県富津市・野々間古墳出土の緑釉長頸壺と蓋〔石井1977〕などが知られている。

このほか,新羅VA・VB期の範囲でとらえられるものとして,山口県秋芳町・国秀遺跡竪穴住居跡SB−26出土の高杯〔岩崎ほか編1992〕がある。同じ住居からスラグの出土が報告されるなど,「冶金に関る遺跡」と考えられている〔岩崎ほか編1992:10,36〕。

新羅III期末から新羅VB期までの,日本列島出土新羅土器の特徴は,対馬と九州で古墳からの出土が大半であるのに対し,畿内では宮都・官衙・寺院・生産関係の遺跡からも出土するという傾向である〔江浦1987:119〕。江浦洋は,古墳より出土する新羅土器を「氏族レベルあるいは個人レベルでの搬入」と推定している〔1987:120〕。

新羅VC期以降の新羅土器は,やはり北部九州と畿内にみられるが,新羅VB期以前と違い,北部九州の中での新羅土器の分布は大きく変わる。すなわち古墳に新羅土器が副葬されなくなり,代わって福岡県太宰府市・大宰府条坊跡第115次調査SX164で出土した長頸壺〔狭川1993〕や,福岡市・鴻臚館跡SD−26,SB−31や整地層から出土した土器片〔山崎編1993〕が知られている。古墳からは,福岡県久留米市・権現塚古墳周溝より採集された蓋14〔立石編1995〕があるが,古墳の時期とあわず,筑後地方に新羅IV期以降の確実な新羅土器の出土は知られていないので,参考として挙げるにとどめる。これ以後,北部九州でも畿内でも,新羅土器は宮殿・官衙関係で主に出土するようになる。畿内では大阪府美原町・太井遺跡出土の碗〔江浦1987〕,奈良県天理市・長林新池で採集された壺〔村瀬1991〕,奈良県橿原市・南山古墳群で出土した蓋〔宮崎・江浦1989〕がある。

(3) 新羅土器流入の背景(第6図)

以上の出土傾向を,須恵器との並行関係に当てはめてみよう。

権現塚古墳より出土した須恵器は九州IIIA期に当たるので,新羅III期初頭を九州IIIA期におくことができる。6世紀の中葉ごろであろう。したがって,九州IIIA期=新羅III期初頭は磐井の乱直後の時期と考えられ,権現塚古墳や岩橋千塚での新羅土器の特異な出土状況は示唆深い。

また,大野城市・春日市・太宰府市にまたがる牛頸窯跡群の成立は九州IIIA期ごろである。

新羅III期の中葉から後葉ごろは,前後の並行関係からみて九州IIIB期が並行する。6世紀後葉ごろであろう。九州IIIB期は,新羅土器に限らず,古墳の関係遺物に朝鮮からの舶載品がほとんど見られなくなる時期でもある。

新羅IV期は前述のように,九州IV期に当たる。心光寺2号墳の例より,新羅III期末も九州IV期に並行するとみられる。6世紀末から7世紀初頭ごろであろう。さすれば,この時期は福岡市・広石古墳群I−1号墳の瓶12のように百済土器も見られ〔山崎ほか編1977〕,久々に対外交流が盛んになった時期といえる。寺院の建立や瓦の製作も始まる時期であり,対外交渉の政治的・文化的背景もかなり変化しているようである。

新羅VA・VB期は九州V期に当たるであろう。7世紀前半ごろである。

大宰府条坊跡第115次調査SX164の事例〔狭川1993:827-828〕より,新羅VC期は,九州VI期に並行すると考えられる。7世紀後半に当たる。とすれば,鴻臚館跡SD−08出土蓋15は,九州VI期の須恵器に共伴しているので,ここに挙げてよかろう。蓋15は,鴻臚館跡で須恵器と確実に共伴したもっとも古い新羅土器であり〔山崎編1993:68〕,先ほど例に挙げた新羅VC期の新羅土器片も,本来並行すべき九州VI期に鴻臚館に流入していたとみなせる。

この時期の朝鮮半島系資料として新羅土器とともに重要なものが,福岡市・博多遺跡群で出土した高句麗土器・長胴壺〔柳沢・杉山編1985〕であり,伴出する須恵器によって九州VI期に比定される〔白井1996c〕。

新羅VC期=九州VI期に九州における新羅土器の出土が古墳中心から官衙中心に移行し,一時的に高句麗土器もみられるという状況を生み出した要因は,朝鮮半島の政治情勢に対する畿内政権の干渉政策に九州が巻き込まれていったことにあろう。百済の滅亡(660),高句麗の滅亡(668),安東都護府の撤退(676)と続く新羅の朝鮮半島統一過程で,中大兄皇子を首班とする畿内政権は宮都を一時的に九州に移し(661),半島情勢に対処した。この機会に,対外交渉権の一元化が図られ,北部九州の首長が保有していた交渉権が畿内政権の手に渡ったとすれば,そうした経緯を,新羅土器の出土傾向の変化が示しているのではなかろうか。


5.おわりに

大野城市より出土した新羅土器について,これまでの年代観を若干修正しつつ,出土の背景を考察した。

6世紀以降,特に磐井の乱以後(ほぼ金官加耶投降以後に当たる)の日本列島の新羅土器出土傾向は,ひとり新羅側の事情のみに従属するものではなく,畿内政権による地方支配の進展過程に連動して推移する。大野城市出土の新羅土器は,こうした過程を語る重要資料であることを再確認しつつ,筆を置くこととする。

(1997.7.27.)

本稿を草するに当たり,貴重な所蔵資料の調査・使用を許可され,あるいはさまざまな協力を惜しまれなかった各機関・諸氏の芳名を記し,感謝いたします。

石木秀啓,小田富士雄,岸本圭,重藤輝行,菅波正人,立石雅文,常松幹雄,濱石哲也,舟山良一,古谷毅,宮井善朗,柳沢一男,山崎純男,吉留秀敏,大野城市教育委員会,福岡県教育委員会,下関市立長府博物館,福岡市埋蔵文化財センター,福岡市博物館,久留米市教育委員会,東アジア考古学会(順不同)


【掲載資料】

*凡例:a)器種,b)系統,c)出土・採集地,d)調査主体・旧蔵者,e)所蔵機関,f)文献
*e)に挙げた自治体名は「教育委員会」を略す。


【図・表の目次】


【文献】

白井克也 Copyright © SHIRAI Katsuya 1998-2007. All rights reserved.