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新羅土器の型式・分布変化と年代観

―日韓古墳編年の並行関係と暦年代―

出典:朝鮮古代研究第4号,朝鮮古代研究刊行会,1-42(2003)

目次


1.はじめに

最近,尾野善裕〔1998;2001〕は古墳時代の暦年代論に再考を迫った。猿投窯系須恵器の編年案と,その1段階が実年代30年に相当するという主張を古墳時代にまで遡らせるため,武寧王陵や艇止山遺跡などの韓国の出土資料,さらに韓国の研究の一部を利用して,自己の暦年代観を割り込ませようとしたのである。しかし,その内実は,近年の資料や研究成果を数多く等閑視したばかりか,矢部良明の著作を断片的に引用して通説支持の意見を自説に有利なものに摩り替えたり,自説を利するために名を挙げた金斗喆や洪潽植の見解を歪曲していたり,酒井清治の須恵器系譜論を中途半端に引きつつも同じ論文で紹介された韓国出土須恵器を並行関係の根拠に含ませないなど,恣意的で不適切な引用が多い〔白井克也2002a〕。

結論の当否は別としても,学史の歪曲は研究の倫理に反するものであり,容認できない。あまりにも基本的な無知・誤謬の多い尾野論文に対し,古墳研究者の多くは無視に近い冷たい対応をしたが,無理からぬところである。

その一方,より大きな問題は,尾野説を検証できるほどには,韓国の新出資料や研究成果が日本に紹介されていないという事実である。そのため,尾野の不充分な記述や,一部の不勉強な評者による皮相的な評論が,韓国考古学への不当な過小評価につながっている。韓国の考古学者の本来の主張が周知されないまま,尾野の誤謬と韓国考古学の現状が混同されてしまっているのである。

この問題に気づいた利根川章彦は,土曜考古学研究会における筆者の研究報告に際し,韓国の編年研究の成果を紹介するよう促した。残念ながら,実際の研究報告〔2002a〕は尾野論文の誤謬を解説するだけで時間を費やしてしまい,利根川の勧めに応えることができなかったが,研究報告を踏まえて後日発表した論文〔2003a・b〕では,できるだけ既存の研究成果に触れるよう努めた。利根川の助言を重く受け止めたためである。

本稿は,そうした問題意識のもとに展開してきた筆者の編年論の一環として,新羅土器編年を基軸に,これまでの編年研究の成果を総合して日韓の並行関係,さらに暦年代を論ずる。

まず,第2章では型式学と器種組成によって新羅土器の編年を論じ,地域性にも言及する。

第3章では共伴例により,韓国内における新羅・百済・加耶の土器・馬具の並行関係,さらに日本の古墳編年との並行関係を整理する。

第4章では,暦年代比定の方法について整理した後,並行案をもとに暦年代を論ずる。


2.新羅土器の編年

慶尚北道慶州市を王都とする新羅については,早くから古墳編年が行われ,土器資料も豊富で研究も蓄積されている。早くから藤井和夫〔1979〕が詳細な編年を発表していたが,さらに月城路古墳群や芳内里古墳群などの詳細な報告に基づき,李盛周〔1993〕,李煕濬〔1997〕,洪潽植〔2000;2001〕,尹相悳〔2001〕らの編年が発表された。それらは暦年代に見解差があるものの,相対編年はほぼ共通する。新羅土器の成立過程については申敬澈〔1986〕や安在晧〔2000〕の見解も参考になる。また,印花紋土器については,紋様モチーフと施紋手法の変化に着目した崔秉鉉〔1987〕や宮川禎一〔2000〕の研究がある。さらに,慶州以外の地域性ある土器群にもそれぞれ地域編年がなされている。

筆者〔1996;1998;1999;2000;2002a・b〕も編年案に言及したことがあるが,本章で改めて図を示しつつ,新羅土器の顕在化以降,群集墳衰退までの編年を詳述し,あわせて旧稿の誤りも補訂する。結論は先学の諸説と共通するが,論点の違いにより時期区分がいくぶん異なる。

なお,王都・慶州の新羅土器を「典型新羅土器」とするが,一部で釜山・梁山などの資料も参考とし,さらに地域性の強い昌寧と金海について,地域ごとの型式変化を整理し,典型新羅土器の編年に対比する。

新羅土器・加耶土器の分立以前のいわゆる「古式陶質土器」については,金海・釜山地域を中心にこれを再構成した申敬澈〔2000〕の金官加耶土器編年がもっとも充実しているが,当面問題とする金官加耶V段階・VI段階は基本的に宋桂鉉・安在晧〔1986〕の古式陶質土器IIIa段階・IIIb段階にそれぞれ対応している。本稿では,広域対比を考慮した後者の段階設定をひとまず利用して「古式IIIa段階」などとし,再検討は将来に譲る。

1) 方法と用語

土器編年について,筆者は,供膳器種のような不可欠かつ大量生産される器種の基本成形技法が,生産組織の状況を反映すると考え,供膳器種の成形技法の変化と主要器種の消長によってI・II・IIIのように大別し,これを細部の形態変化や各器種の器形によってA・B・Cのように細別する。個体では細分しにくいが土器群としては器種・属性間の比率・組成に時期差が反映される場合,細別時期をさらに古段階・新段階のように区分する。

器種の名称のうち,有蓋とは口径より径の大きな受部をもつ形態とし,無蓋とは有蓋に対比される細別器種に用いる。スカシの名称のうち,器面を切開する技法によるものを透窓,器面を刺突する技法によるものを透孔と呼び分ける〔趙栄済1988:255〕。

2) 典型新羅土器の編年

まず,供膳器種(高杯・蓋)の基本成形技法と,工程上での高杯と蓋の関係が,生産組織の状況を反映すると考え,これによって大別する。群集墳衰退以前には新羅I期から新羅III期までが該当する。

新羅I期は最初の円板巻上成形の時期であり,高杯杯部と同形の蓋は未発達である。

新羅II期は慶州にミズビキ成形が登場し,高杯と蓋を同形に作る時期である。

新羅III期はミズビキ成形で,高杯と蓋を異形に作る時期である。高杯にはミズビキしないものも現れる。

新羅I期の上限は,古式IIIb段階の土器様相(Fig.1-1~7)から定型化した新羅土器が成立する時点,新羅III期の下限は外反口縁にかえりをもつ蓋が登場する時点である。

各時期は,器形の細部変化やほかの器種の型式変化によって細分できる(Fig.1~4)。

新羅I期 高杯杯部が円板巻上成形で,同形の蓋が未発達な時期である。杯の体部には平坦部と傾斜部の区別が明瞭で,口縁部は厚く長い。高杯脚部は3段構成2段透窓のものが多い。口縁部が直線的に延びる丸底長頸壺も新羅I期から定型化する。

新羅I期は,高杯口縁部が外傾し,高杯に同形の蓋を持たない新羅IA期と,型式変化して高杯口縁部が直立または内傾し,一部に同形の蓋を伴うようになる新羅IB期に分けられる。

新羅IA期の典型例は,慶州では皇南洞109号墳第3・4槨,味鄒王陵地区第5区域1号墳(Fig.1-8~12),釜山では福泉洞21・22号墳(Fig.1-13,14;Fig.8-25~34)である。古式IIIb段階の慶州月城路カ-13号墳(Fig.1-1~7)と対比すると,器種が減り,定型化しているが,存続している器種については変化が小さい。

新羅IB期の典型例は,味鄒王陵地区第5区域6号墳,慶州月城路ナ-13号墳(Fig.1-15~20),釜山福泉洞10・11号墳(Fig.1-21~23;Fig.8-38~40),53号墳である。

新羅II期 ミズビキ成形が登場し,高杯杯部と蓋天井部を同形に作る時期である。蓋には,高杯脚部を小型化した形態の「倒脚つまみ」が登場し,主流となる。台付長頸壺が安定して存在するようになる。全般に回転技法を駆使した薄手の土器が多くなる。

新羅II期は,同形の高杯・蓋が確立し,口縁部が新羅I期を踏襲して高く伸びる新羅IIA期,口縁部は短くなるが高杯脚部は高い新羅IIB期,高杯脚部や蓋のつまみの基部が細く,端部が外折・外反するようになり,小型化・曲線化が進む新羅IIC期に細分できる。新羅IIC期には,高杯と蓋の口縁部に作出法の違いが生じ,台付長頸壺に付加口縁といわれる盤口状の口縁部を持つものが登場するなど,新羅III期の傾向が準備される。

新羅IIA期は,主に脚部の形態によってさらに3分される。3段構成2段透窓の脚が主流で,台付長頸壺が確立する新羅IIA期古段階,脚3段構成の最下段が衰退し,蓋のつまみが直線的に外傾する新羅IIA期中段階,高杯脚部や蓋のつまみが曲線気味に開くようになり,台付長頸壺に2段透窓の脚部が多くなる新羅IIA期新段階である。

新羅IIA期古段階の典型例は皇南洞110号墳(Fig.2-1~10),福泉洞東亜大調査1号墳である。慶州皇吾洞14号墳もこの段階であろう。

新羅IIA期中段階の典型例は月城路ナ-9号墳(Fig.2-11~21),ナ-7号墳,タ-3号墳である。慶州皇南大塚南墳,味鄒王陵地区第1区域E号墓もこの段階に比定される。

新羅IIA期新段階の典型例は月城路カ-11-1号墳(Fig.2-22~33),皇吾洞381番地廃古墳ナ号墳,味鄒王陵地区第1区域B号墓である。このほか,月城路ナ-12号墳は,新羅IIA期新段階から新羅IIB期にかけての過渡的な様相を示す。新羅IIA期新段階には櫛歯状工具による幾何学紋が盛行する。また,有蓋高杯よりも無蓋高杯の方が脚高が低く,これは新羅IIB期・IIC期にも同様に確認される現象である。

新羅IIB期の典型例は月城路タ-6号墳(Fig.3-4,5,10,11),カ-4号墳(Fig.3-1~3,6~9,12),タ-12号墳である。中でも月城路タ-6号墳が古く,カ-4号墳が新しい様相を示す。皇吾洞1号墳南槨や金冠塚などもこの時期であろう。高杯は口縁部が短く傾斜し,脚は新羅IIA期新段階よりも短めになる。蓋のつまみもさらに曲線的で透窓の狭いものが生ずる。歯数の少ない櫛歯紋や,鋸歯紋,格子紋が好まれる。台付長頸壺は頸部が高く伸び,口縁端部は内傾凹面をなし,脚部は開いて玉縁状のものが目立つ。

新羅IIC期は,高杯脚部や蓋の倒脚つまみが細い基部から曲線的に開き,端部で外折したり玉縁となる時期である。高杯杯部と蓋天井部の形態は同一であるが,口縁部の作出法を異にする場合が多くみられるようになる。台付長頸壺では口縁部を区切る2条突帯の部分で径を広げて盤口状とするいわゆる「付加口縁」への変化がこの時期に始まる。高杯の細部器形と付加口縁の発達の度合いによってさらに3分される。2段透窓有蓋高杯の器高が高く,つまみや脚の端部がほとんど反転しない新羅IIC期古段階,2段透窓有蓋高杯の器高はやや低く,つまみや脚の端部が反転するものを多く含むようになる新羅IIC期中段階,2段透窓有蓋高杯に器高が低いものを含み,台付長頸壺の付加口縁が明確な傾斜部をもつ新羅IIC期新段階である。新羅IIC期にはヘラ描き・櫛描き・コンパス使用の幾何学紋が盛んだが,特に新羅IIC期新段階に三角形紋+円弧紋の紋様構成が成立する。なお,本稿の新羅IIC期古段階・中段階は,旧稿で「新羅IIC期古段階」としたものである〔白井克也2003a:97〕。

新羅IIC期古段階の典型例は月城路タ-2号墳(Fig.3-13~26)である。慶州金鈴塚がこの時期に属す。地域を異にするが,梁山夫婦塚,金鳥塚はほぼこの段階に属すであろう。

新羅IIC期中段階の典型例は月城路カ-15号墳(Fig.3-27~39),慶州天馬塚(Fig.12-1~10)である。

新羅IIC期新段階の典型例は月城路カ-1号墳(Fig.3-40~45,48,49,51,53~55),カ-13-1号墳(Fig.3-46,47,50),タ-5号墳(Fig.3-52)である。慶州壺杅塚・銀鈴塚,味鄒王陵地区第5区域8・15・16・17号墓もこの段階であろう。旧来の1段透窓高杯は見られなくなり,小型台付長頸壺や平底の外反口縁壺などはこの時期から目立つ。

新羅III期 ミズビキ成形が主で,高杯と蓋を異形に作る時期である。特に,蓋天井部の外端が突出せず,沈線で稜を作り出すものが多くなり,次第に高杯杯部と蓋天井部の形態差が大きくなる。高杯脚端は玉縁状となり,蓋のつまみは透窓が退化する。新羅IIC期新段階における器種分化をうけ,生産組織の細分化,工程の簡略化が進んだのであろう。

新羅III期は,新羅IIC期新段階の土器様相を受け継ぐが,器高の高い2段透窓高杯が消滅した新羅IIIA期,高杯の脚基部が太く,2段構成の脚部でも透窓を1段しか設けない場合が多く含まれ,印花紋1a式が登場する新羅IIIB期,蓋に環状つまみが採用され,高杯は口縁部の折り込みが強く,2段構成脚部の中央突帯が衰退して新たに直線的な1段構成脚部が主体をなす新羅IIIC期に分けられる。付加口縁長頸壺は新羅IIIA期に水平に延びる面を獲得するが2条突帯部分を傾斜面として残し,新羅IIIB期に2条突帯も口縁部外面と同一面をなすようになるとともに,2段構成脚部が衰退し始める。

新羅IIIA期の典型例は月城路カ-18号墳(Fig.4-1~5,9),ナ-6号墳,慶州芳内里27-2号墳(Fig.4-6~8)である。皇南洞151号墳もこの時期に属す。この時期に高杯杯部と蓋天井部の形態差が生じていく。慶州市内でも横穴式石室が採用され,まもなく慶州市中心部での古墳造営が行われなくなる。

新羅IIIB期の典型例は慶州新院里2号墳(Fig.4-15~18),6号墳(Fig.4-10,13,21),芳内里21-1号墳主槨,23号墳,26号墳(Fig.4-11,12,14,19,20,22)である。蓋の倒脚形つまみは小型化の極に達する。台付長頸壺の付加口縁が完成する。台付長頸壺の交互2段透窓がしっかりした芳内里23号墳,26号墳は古い様相である。

新羅IIIC期は供膳器種の器種構成でさらに2分される。高杯の1段構成脚が比較的長く玉縁のものが主体となる新羅IIIC期古段階と,きわめて短く端部で肥厚しない脚が主体となり,蓋の口縁部が内方に折れることの多い新羅IIIC期新段階である。

新羅IIIC期古段階の典型例は芳内里44号墳(Fig.4-23,28),50号墳(Fig.4-24~27,29~31)である。新院里3号墳もこの段階であろう。短脚化した高杯を含まず,付加口縁台付長頸壺は頸部を曲線化し,水平部分を伸ばして口径を大きくしている。

新羅IIIC期新段階の典型例は新院里7号墳(Fig.4-32~35,42),8号墳である。梁山下北亭7号墳2次屍床,8号墳2次屍床(Fig.4-36~41)にも例がある。短脚化した高杯を半ば程度含む新院里7号墳,8号墳が古く,短脚化した高杯が大半を占める下北亭8号墳2次屍床が新しい様相であろう。付加口縁台付長頸壺は口径が極大となり,頸部は曲線的に開く。また,屈折部で垂れ下がるものがある。脚の突帯の退化も著しい。新羅IIIC期新段階までで,地方の新羅古墳の多くは造営や追葬を終える。

3) 昌寧地域新羅土器の編年

慶尚南道昌寧郡は,三国時代に「比斯伐」などと呼ばれる政治集団が所在した。中でも校洞古墳群は首長墓として戦前から知られていた。昌寧地域の古墳出土土器も,大局的には新羅土器に属すが,独特の地域性を帯びている。これを「昌寧地域新羅土器」と呼ぶことにする。

しかし,多くの古墳が発掘されながらも,充分な報告がされなかったために研究は遅れた。

桂城地域古墳群の報告書が刊行されると,定森秀夫と藤井和夫〔1981〕がそれぞれの所見を明らかにした。特に定森は,自身の資料調査の成果も提示しつつ,大まかな変遷を捉え,その中で,蓋のつまみの特徴を捉えて「昌寧型つまみ」と命名し〔1981:23〕,また,昌寧地域の高杯の脚が遅くまで3段構成であることも指摘した。さらに朴天秀〔1993〕も重要資料の実見を通じて製作技法や形態・紋様の特徴を捉え,編年案を提示し,分布とその意義を論じた。

その後,桂南里1号墳,4号墳と校洞1号墳~5号墳が報告され,昌寧地域新羅土器の編年資料は増加した。本節では先学の成果を参考にしつつ,主に桂南里1号墳,4号墳と校洞1号墳~5号墳について,昌寧型つまみの発達と,高杯の形態変化や器種組成によって,昌寧地域新羅土器の簡単な編年を試みる。

変化が明瞭な昌寧型つまみは,突帯より上に伸びる端部の発達によって,突帯が端部直下のもの,突帯より上が垂直に伸びるが,つまみの高さの半分に及ばないもの,さらに端部が伸びてつまみの高さの半ば程度となったものに区分できる。それぞれに伴う高杯などには形態差が認められるので,これによって3期に区分する。成形技法の差を見出したわけではないので,I・II・IIIの大別は用いず,昌寧A期,昌寧B期,昌寧C期と命名する。

昌寧A期の典型例は桂南里1号墳(Fig.5-1~5),4号墳である。つまみ端部直下に突帯をめぐらす。高杯の底部は平坦で口縁部は短く内傾する。脚部は直線的に開き,3段構成2段透窓である。このほか,つまみが外反して端部に凹面をなし,刺突による透孔を有する蓋(Fig.5-3)も存在する。すでに指摘されているように,皇南洞110号墳(Fig.2-1~10)や福泉洞東亜大調査1号墳に対比され〔定森秀夫1981:11;藤井和夫1981:169〕,新羅IA期古段階並行であろう。

昌寧B期の典型例は校洞3号墳(Fig.5-6~13)である。校洞4号墳もほぼ同時期であろう。

蓋のつまみ端部が上方に伸びるが,つまみ高の半ばには及ばない(Fig.5-6,9,12)。伴う高杯は体部が豊かになり,口縁部は長くなる(Fig.5-7)。つまみに刺突による透孔をもつ蓋も存続している(Fig.5-8)。「緊縛頸部」長頸壺(Fig.5-13)も伴うが,高霊地域加耶土器のそれ(Fig.9-28;Fig.10-19など)とは形態が異なる。直線的な頸部で最上段のみ2条突帯で区画する特徴は新羅の長頸壺に類例を見出せる(Fig.2-21など)。昌寧地域の地域性と捉えておこう。

校洞3号墳では,蓋杯を高杯に載せたセットを多数副葬している(Fig.5-9~11)。同様の副葬行為は慶州の皇南大塚でもみられるが,校洞3号墳では昌寧地域加耶土器でこの副葬行為を再現している。

校洞3号墳は帯金具や馬具(後述)なども皇南大塚に近い様相を示す。昌寧B期は新羅IIA期中段階ころに並行する可能性が高い

昌寧C期の典型例は校洞1号墳(Fig.5-14~25)である。校洞2号墳がこれに後続する。蓋のつまみ端部はつまみ高の半ば程度を占める。刺突による透孔をもつつまみは衰退し,一方,新たな形態の蓋(Fig.5-16)もみられる。これらの蓋に伴う高杯(Fig.5-15)は,やはり3段構成2段透窓脚部をもつが,脚部最下段が短くなり,全体に曲線的な脚となっている。

校洞1号墳でも蓋杯と高杯を組み合わせた副葬セットはやはり見られる(Fig.5-17~22)が,いずれも昌寧地域新羅土器の伝統から逸脱しており,蓋は昌寧型つまみをもたず,高杯は2段構成2段透窓脚部をもつ。新羅IIA期新段階の典型新羅土器に該当しよう。

また,緊縛頸部の長頸壺は見られなくなり,典型新羅土器に近い様相の長頸壺や器台(Fig.5-24,25)が副葬される。

ここでは昌寧C期までを設定したが,朴天秀はこれらの土器群の後,校洞11号墳において製作技法や紋様の「画期的な変化」があったと指摘した〔1993:176〕。確かに,校洞11号墳の高杯(Fig.5-26,27)は集線紋の採用や脚端の外反など,昌寧C期より新しい様相が看取されるが,本稿では共伴土器群の充分な検討ができていないので,時期設定を保留する。校洞11号墳は,馬具などからみて新羅IIB期を中心とする時期に並行すると思われる。

さらに校洞11号墳の後に,校洞31号墳の土器が位置づけられる。校洞31号墳では昌寧地域新羅土器と典型新羅土器が副葬されており,追葬が行われたと考えられている。そのうち昌寧地域新羅土器が校洞11号墳の土器に後続し,典型新羅土器は新羅IIC期中段階以降と思われる。校洞31号墳の昌寧地域新羅土器は新羅IIC期古段階を中心とする時期に位置づけられようが,やはり時期設定は保留する。

以上の検討により,旧稿〔白井克也2003a〕の年代観には訂正の必要が生じる。旧稿では桂南里1号墳を新羅IIA期中段階としていた〔2003a:96〕が,昌寧A期・新羅IIA期古段階である。校洞3号墳は新羅IIA期古段階としていた〔2003a:96,101〕が,昌寧B期・新羅IIA期中段階である。校洞2号墳は新羅IIA期中段階としていた〔2003a:96〕が,昌寧C期・新羅IIA期新段階である。釜山加達4号墳については次節で述べる。ただし,論旨には影響がない。

4) 金海地域新羅土器の編年

慶尚南道金海市は三国時代「金官国」の故地である。金官国は「金官加耶」と呼ばれる場合もあるが,「金官加耶」は史料に現れない用語なので,本稿では用いない。

金官国の首長墓と考えられる大成洞古墳群が古式IIIb段階までで衰退すると,その後の首長墓は明確でない。一方,中小首長墓と思われる礼安里古墳群は,長期にわたって造営され,古墳群の内容も報告されている。古墳群の編年は申敬澈〔1985〕や安在晧〔1993〕によって試みられており,特に安在晧は,「金海式土器」と呼ばれる地域性の強い土器が一時的に隆盛となることを指摘した。

一方,李煕濬〔1998〕は礼安里古墳群で金海地域を代表させる発想を批判し,洛東江西岸における新羅の橋頭堡として礼安里古墳群を評価すべきと主張し,年代観にも異論を唱えた。

本節では,李煕濬の指摘も考慮しつつ,礼安里古墳群の造営過程を再検討した後,地域性の強い土器群(安在晧の「金海式土器」)を「金海地域新羅土器」と位置づけ,編年を試みる。

まず,安在晧の編年〔1993〕を本稿の典型新羅土器の編年に対比しよう(Tab.1)。

安在晧III段階は古式IIIa段階に相当する。

安在晧IV段階は古式IIIb段階に相当する。

安在晧V段階は新羅IIA期古段階から新段階に相当する。

安在晧VI段階は新羅IIA期新段階から,一部新羅IIB期(21号墳)に相当する。

安在晧VII段階は新羅土器が少ないが,新羅IIB期に相当する。

安在晧VIII段階はさらに新羅土器が少ないが,新羅IIC期古段階を中心に,一部中段階以降(98号墳・152号墳)に相当する可能性がある。

安在晧IX段階は新羅IIIC期を中心とする時期に相当する。

安在晧X段階は新羅IIIC期以降,7世紀に及ぶ。

安在晧は礼安里古墳群を間断なく造営された古墳群と認識しているが,実際は新羅IA期・IB期・IIC期新段階・IIIA期・IIIB期がほぼ空白となり,空白の前後で墓制も変化している。

礼安里古墳群では古式IIIa段階から木槨墓に石槨墓が加わるが,古式IIIb段階までで墳墓の造営は途絶え,その後,新羅I期に当たるころは空白となる。

墳墓造営の一時停止を実証するのが,古墳群中に形成された貝層である。貝層は3枚が確認され,第1貝層は古墳群以後,第3貝層は古墳群以前に形成されたが,第2貝層は古墳群の造営途中に調査区東南部に形成されたものである。貝層形成前後の墳墓を見ると,形成以前の墳墓は古式IIIa段階以前,形成以後の墳墓は新羅IIA期古段階以降である〔釜山大学校博物館1985:288〕。これは造営期間の空白に対応しており,編年上の空白が墓域としての機能停止を意味することを示している。これを「第1空白期」とし,これ以前を「第1造営期」とする。

田中良之〔1996〕は,安在晧らの編年に依拠しつつ,人骨を分析して被葬者間の親族関係を推定したが,その興味深い結論にもかかわらず,墓壙の重複を手がかりに田中が設定した小支群のいずれも,新羅I期並行期に空白がある。各支群で空白期の前後にまたがって親族関係が認められるとは,奇妙な事態といえよう。

新羅IIA期古段階以降に造営される古墳群は細長方形の石槨墓で占められる。この時期は新羅で高句麗系の馬具秩序が確立する時期(鐙II期)であり,李煕濬の言うような,新羅の橋頭堡としての地位を期待された集団により新たな墳墓造営が始まったとも考えられよう。

この後,新羅IIA期新段階(安在晧VI段階)以降,金海地域新羅土器の占める割合を増しつつ新羅IIC期中段階ごろまで造営が続き,再び途絶える。これを「第2造営期」としよう。

さらに「第2空白期」を経て,新羅IIIB期以降に造営される古墳は,平面正方形で,中央に入口を設けた横口式石室である。出土遺物はすべて典型新羅土器であり,金海地域新羅土器は消滅している。第2造営期との違いは明確であり,これを「第3造営期」とする。

編年上の空白は政治的画期と一致するようであるが,解釈は後に譲る。

金海地域新羅土器が多く副葬される時期は,典型新羅土器との並行関係が不分明である。そこで,金海地域新羅土器の編年を試みる。

安在晧は,金海地域に特徴的な高杯と蓋の存在を指摘している。高杯は脚が1段構成で器高が低く,これに伴う蓋は,つまみの端部を上方と外方に拡張するものや,中央の凹んだボタン形つまみと言うべきものである。これらは慶州や昌寧にはほとんど存在しない。

これらの高杯・蓋には3種の形態があるので,蓋のつまみ形態と組み合わせて3期に大別する。

金海I期は体部が円錐形で,稜をなした後に口縁部が長く直立する。蓋のつまみは端部で上方と外方に拡張して凹面をなし,透窓を有する。

金海II期は体部が円錐形で回転痕が明瞭であり,稜をなした後,短い口縁部をもつ。蓋のつまみは中央のくぼんだボタン形つまみ,または環状つまみに近いものである。

金海III期は体部が丸くなり,稜をなした後,口縁部が長く伸びる。蓋のつまみは金海II期と同様である。

蓋のつまみと高杯脚部をみると,双方に透窓がある場合,高杯脚部のみ透窓がある場合,双方に透窓がない場合があり,形態差による上記の時期区分と矛盾しないので,透窓の有無と細部の形態差によって細分できる。

金海I期 口縁部が長く直立し,蓋のつまみに透窓を有する時期である。典型新羅土器に近い土器を多く伴い,金海地域新羅土器は少なく,独自性も希薄である。

金海I期は,金海地域新羅土器に特徴的な器高の低い高杯を伴わない金海IA期と,伴う金海IB期に分けられる。しかし,金海IB期に器高の低い高杯が登場しても,金海地域新羅土器の蓋との結びつきは弱く,ほかの形態の高杯も存続している。金海地域新羅土器が新羅土器を母体として派生したことを示していよう。

金海IA期の典型例は礼安里66号墳(Fig.6-1~8)である。新羅IIA期中段階ごろに当たるであろう。新羅IIA期新段階に当たる礼安里32号墳ではつまみが低くなり,次の金海IB期の様相に近い。

金海IB期の典型例は礼安里27号墳(Fig.6-9~19),21号墳(Fig.6-20~24),62号墳(Fig.6-25~31)である。このほか,64号墳,65号墳,21号墳,157号墳もこの時期であろう。蓋(Fig.6-9,11,12,16)のつまみは低めのものが多く,口縁部は外反気味であるが,金海IA期と大きな差はない。高杯(Fig.6-10,20,25~28)も登場するが,新羅IIA期新段階の高杯(Fig.6-22)も伴う。叩き目と波状紋を有する金海地域新羅土器の台付長頸壺も多く伴う(Fig.6-18,19)。

金海II期 口縁部が短くなり,蓋のつまみ形態が大きく変わる時期である。金海地域新羅土器の高杯と蓋の結びつきは強固となり,高杯・蓋の数セットと大小の軟質甕とが副葬品の基本をなし,典型新羅土器が減少する。金海地域の独自性を強く主張した土器群といえよう。

金海II期は,高杯脚部の多くがしっかり外折する金海IIA期,脚が曲線的に開く例が増すが脚部の透窓は失われていない金海IIB期,脚部がさらに退化して,一部の高杯脚部で透窓が失われる金海IIC期に細分できる。

金海IIA期の典型例は礼安里39号墳(Fig.6-32~54),57号墳,154号墳で,いずれも新羅IIB期の典型新羅土器(Fig.6-48)を伴う。このほか,44号墳,38号墳,7号墳,51号墳もこの時期であろう。39号墳では加耶土器(Fig.6-49,50)や馬具(Fig.6-51~54)も伴い,独自性の主張とともに,各地との交流も盛んであることが窺われる。

金海IIB期の典型例は礼安里54号墳(Fig.6-55~65),42号墳,13号墳,125号墳である。54号墳で新羅IIC期古段階の高杯(Fig.6-63)を伴う。曲線化,短脚化が進むが,いまだ透窓は省略しない。

金海IIC期の典型例は礼安里61号墳(Fig.6-66~76)である。55号墳も可能性がある。蓋や高杯の体部が丸みを帯びていることは,次の金海III期につながる様相といえる。

金海III期 蓋・高杯の口縁部が再び伸び,体部も丸くなる。脚部の透窓も失われている場合がある。礼安里152号墳(Fig.6-77~85),6号墳,24号墳が典型例であり,互いによく似た土器群を副葬する。礼安里46号墳(Fig.6-86~91)では,梁山夫婦塚にも見られるような台付長頸壺(Fig.6-91)を伴う。また,152号墳では新羅IIC期中段階ごろと思われる典型新羅土器の無蓋高杯(Fig.6-83)を伴う。

以上に触れた金海地域新羅土器と典型新羅土器との並行関係は,礼安里古墳群から洛東江を渡った対岸に位置する釜山杜邱洞林石古墳群で検証できる。同古墳群では,新羅IIB期の10号墳に金海IIA期の金海地域新羅土器,新羅IIC期中段階の7号墳,13号墳に金海III期の金海地域新羅土器が伴うが,新羅IIC期新段階の2号墳,6号墳,8号墳には金海地域新羅土器を伴わない。新羅IIIA期の5号墳,12号墳からは墓制も幅広長方形の石室となる。

金海地域新羅土器の終焉が新羅IIC期中段階と新段階の境界に近いことは確実であろう。

5) 地域間の新羅土器の並行関係

慶州を中心とした典型新羅土器に加え,昌寧・金海両地域の新羅土器の編年案を提示した。昌寧・金海と典型新羅土器の並行関係はそれぞれ概略を示したが,さらに昌寧地域新羅土器と金海地域新羅土器の並行関係を検討しよう。

昌寧地域新羅土器の標式資料とした桂南里古墳群・校洞古墳群では金海地域新羅土器は報告されておらず,金海地域新羅土器の標式資料とした礼安里古墳群でも昌寧地域新羅土器は出土していない。そこで,双方を出土し,さらに加耶土器や帯金式短甲をも出土する釜山加達古墳群での出土例を整理した。

加達古墳群は礼安里古墳群よりも洛東江河口に近い西岸にあり,石槨墓が調査されている。

このうち,加達6号墳(Fig.7-1~4)は昌寧A期であり,加耶土器と思われる高杯・器台(Fig.7-3,4)を伴う。

加達5号墳(Fig.7-5~9)は昌寧B期であり,やはり加耶土器と思われる高杯・器台(Fig.7-7~9)を伴う。

加達4号墳では石槨内と盗掘坑で出土土器の様相が異なる。盗掘坑からは昌寧C期の土器(Fig.7-10~12)と三角板鋲留短甲・頸甲が出土し,石槨内からは金海地域新羅土器(Fig.7-13,14)とともに加耶土器の高杯(Fig.7-15)が出土している。金海地域新羅土器の蓋(Fig.7-14)は金海IA期に相当する。なお,旧稿で加達4号墳を新羅IIA期古段階としていた〔2003a:101〕が,上記のように昌寧C期,金海IA期に当たり,新羅IIA期新段階に改める。

加達2号墳(Fig.7-16~20)と7号墳(Fig.7-21~25)では,昌寧C期の土器(Fig.7-16,21)に金海IB期ごろの土器(Fig.7-18~20,23~25)が伴い,加耶土器は伴わない。

加達10号墳では金海IIA期の土器(Fig.7-27~30)を出土している。透窓を設ける蓋(Fig.7-26)は,典型新羅土器か,あるいは金海IB期の要素が残存しているのかもしれない。

加達1号墳では新羅IIC期古段階の典型新羅土器(Fig.7-31~36)が出土している。

以上のように,加達古墳群の出土土器からみて,昌寧C期と金海IA期・IB期が一部重複し,さらに金海IIA期の後,新羅IIC期古段階に移行することがわかり,本章で検討してきた相対編年・並行関係に矛盾しない。また,洛東江河口に影響を行使した勢力が時期ごとに異なっていたことが読み取れたが,さらなる検討は別の機会に譲るとしよう。

以上の編年案を先学の諸説と対比した(Tab.2)。細部に違いはあるが,全体の変遷観は一致している。

ただ,洪潽植の編年〔2000〕との対比には,若干の解説が必要である。洪潽植は,多くの論者がそうするように,高杯脚部の透窓の段数によって「上下交互透窓高杯」,「1段透窓高杯」,「無透窓高杯」に分類し,それぞれを細分している〔2000:145〕。これに対し筆者は,省略のありうる透窓よりも,形態上の段構成に配慮したので,型式変化の把握にかなりの相違が生じている。そのため,同一墳墓の評価を対比した場合,洪潽植の編年と本稿の編年は極めて複雑な対応関係を示すこととなる。表では,そうした違いを単純化して示したが,新要素の出現などの画期はかなり共通している。


3.各地の土器・馬具との並行関係

前章の新羅土器編年を,ほかの地域の編年に対比する。まず1節では,共伴関係を根拠に,高霊地域加耶土器〔白井克也2003b〕,ソウル地域百済土器〔白井克也1992〕,天安地域百済古墳(未発表),錦江下流域百済古墳・土器〔吉井秀夫1991・1993〕に対比する。地域間の比較は馬具〔白井克也2003a〕によっても媒介させる。2節では日本の古墳編年に対比する。

1) 韓国各地の土器・馬具との並行関係

古式IIIa段階・古式IIIb段階 加耶土器・新羅土器の分化以前であり,古式IIIa段階の福泉洞48号墳(Fig.8-1~9)や古式IIIb段階の大成洞1号墳(Fig.8-10~24)で木心鉄板張輪鐙IA式b1類(Fig.8-9,24)や心葉形1式杏葉(Fig.8-23)など鐙I期の馬具を出土している。

新羅IA期 皇南洞109号墳3・4槨や福泉洞21・22号墳(Fig.8-25~37)では木心鉄板張輪鐙IA式a1類(Fig.8-37)など鐙I期の馬具を伴う。

新羅IB期 陜川玉田23号墳では高霊IA期の加耶土器(Fig.8-46~52)に新羅IB期の新羅土器(Fig.8-45)が伴う。同墳で出土した木心鉄板張輪鐙IA式a2類(Fig.8-54)や福泉洞10・11号墳の木心鉄板張輪鐙IA式b2類(Fig.8-43,44)は鐙I期に相当する。

このように,新羅IB期までの馬具はいずれも鐙I期に該当する。したがって,鐙I期の木心鉄板張輪鐙IA式a1類を媒介に,天安II期の天安龍院里9号石槨墓も新羅IB期以前に並行するであろう。なお,旧稿で「龍院里9号墳」と表記した〔白井克也2003a:96〕が,龍院里9号石槨墓の誤りである。

新羅IIA期古段階 皇吾洞14号墳第1副槨と桂南里1号墳副槨では,鐙II期に登場する木心鉄板張輪鐙IB式a1類が出土している(Fig.9-1,2)。鐙II期への移行は馬具のみならず装身具などの画期でもあるが,このころ長頸鏃(Fig.9-4)が出現し始めることも興味深い。

新羅土器と直接の共伴関係はないが,鐙II期の初頭にあたる木心鉄板張輪鐙IB式b2類は,高霊IB期の玉田8号墳(Fig.9-32),天安III期の龍院里12号石槨墓(Fig.9-30,31)で出土している。これより新しい様相の木心鉄板張輪鐙IB式b3類は原州法泉里1号墳から出土しており(Fig.9-33),いずれも新羅と百済・加耶の並行関係の手がかりとなる。なお,旧稿で「龍院里12号墳」と表記した〔白井克也2003a:87,90,96〕が,龍院里12号石槨墓の誤りである。

新羅IIA期中段階 皇南大塚南墳(Fig.9-7~9)と校洞3号墳(Fig.9-10,11)では,いずれもIB式a1類(Fig.9-7,10)とIB式c1類(Fig.9-8,9,11)の鐙が共伴しており,帯金具にも類似性が認められる。校洞3号墳では扁円魚尾形杏葉(Fig.9-12)や心葉形2式杏葉(Fig.9-13)も出土し,鐙II期の様相を示している。鉄鏃も長頸鏃(Fig.9-14)が増加する傾向にある。

同時期と考えられる木心鉄板張輪鐙IB式a1類は高霊IB期の玉田28号墳からも出土している(Fig.9-17)。同墳の鉄鏃は長頸鏃(Fig.9-18,19)が大半となり,独立片逆刺を持つもの(Fig.9-20)も登場する。このように,鐙II期は長頸鏃が登場・普及する時期でもある。

一方,加耶地域では鐙IIIA期の様相が登場している。玉田M1号墳では新羅IIA期中段階に並行すると思われる昌寧B期の土器(Fig.10-1,2,6)と在地土器(Fig.10-3,4)とともに,鐙IIIA期の木心鉄板張輪鐙IIB式c1類(Fig.12-7)とIB式c2類(Fig.10-8,9)が出土している。

新羅IIA期新段階 「大加耶」の王陵とみなされる高霊池山洞32号墳では新羅IIA期新段階の高杯(Fig.10-11,13),高霊IC期の加耶土器(Fig.10-14~20),鑣轡(Fig.10-21),鐙IIIA期に特徴的な木心鉄板張輪鐙IB式c2類(Fig10-22),日本製の可能性のある横矧板鋲留衝角付冑・横矧板鋲留短甲が出土している。

新羅土器は伴わないが,鐙IIIA期の馬具を出土する百済の龍院里1号石槨墓は天安III期である。なお,旧稿で「龍院里1号墳」と表記した〔白井克也2003a:90,95,96〕が,龍院里1号石槨墓の誤りである。

また,鐙IIIA期までを主な存続期間とする鑣轡は,百済で石村洞III式以降に登場する三足土器がソウル夢村土城85-3号貯蔵穴と清州新鳳洞1990年B-1号墳でわずかに伴出しており,鐙IIIA期が石村洞III式と並行すると考えられる。

玉田M2号墳では昌寧C期の蓋(Fig.10-23,25)とともに在地土器の高杯・蓋(Fig.10-28,29),高霊地域加耶土器の長頸壺・器台(Fig.10-30,31)などが出土している。緊縛頸部をもつ長頸壺(Fig.10-26)は高霊地域加耶土器ではなく,校洞3号墳の類例(Fig.5-13)に見るように,昌寧地域新羅土器であろう。しかし,昌寧C期の標式資料である校洞1号墳にこの種の長頸壺はすでに存在しないので,玉田M2号墳は昌寧C期の古い部分に属すかもしれない。

新羅IIA期新段階のうちに,釜山地域では鐙IIIB期の様相が現れる。福泉洞23号墳(Fig.11-1~14)は新羅IIA期に位置づけられ,昌寧C期の様相を帯びた土器(Fig.11-4,10)を伴う。馬具は韓国で最古に属するf字形鏡板付轡(Fig.11-12)を含み,鐙IIIB期であろう。なお,旧稿で同墳を新羅IIB期としていた〔2003a:97〕が,これは地域性のある高杯(Fig.11-3)を新しい様相と誤認したためである。新羅IIA期新段階に訂正する。また,同様の土器様相をもつ福泉洞4号墳も新羅IIB期としていた〔2003a:101〕が,やはり新羅IIA期新段階に改める。

新羅IIB期 金冠塚,月城路タ-6号墳(Fig.11-15~20)はいずれも鐙IIIB期の馬具を伴う。新羅IIB期の典型的な土器様相(Fig.3-4,5,10,11)を示す月城路タ-6号墳では,心葉形2式杏葉(Fig.11-19)と木心鉄板張輪鐙IIB式d類と思われる破片(Fig.11-20)が出土しており,百済を発信源とする鐙IIIB期の馬具情報が慶州に到達したことを示している。一方,金冠塚では心葉形3式杏葉が登場している。

新羅IIB期の新しい部分に並行する金海IIA期の礼安里39号墳でも高霊II期並行と思われる加耶土器高杯(Fig.6-49,50)とともに,鐙IIIB期の木心鉄板張輪鐙IIB式d類(Fig.6-54)が出土している。

すでに指摘されているように,百済の公州宋山里4号墳(旧1号墳)と金冠塚の帯金具が類似しており〔穴沢咊光1972:73;毛利光俊彦1983:1007〕,宋山里I段階・錦江IIa段階と新羅IIB期が並行すると考えられる。李煕濬の反論〔1995:38〕があるとおり,475年を必ずしも金冠塚の「上限」とはできないが,そのほかの条件を考慮しても,結論はほぼ動くまい。

以上より,新羅IIB期は鐙IIIB期,宋山里I段階などと並行し,これを介して高霊IIA期・IIB期古段階ころに並行すると考えられる。

新羅IIC期古段階 金鈴塚で心葉形3式杏葉が出土している(Fig.11-23,24)。3式と4式の心葉形杏葉に似る十字紋心葉形鏡板付轡(図11-21,22)も伴い,鐙IIIB期の最終末に当たる。高霊IIB期新段階に並行するであろう。

新羅IIC期中段階 天馬塚で心葉形4式杏葉が確認され(Fig.12-11),鐙IV期に並行する。鐙IIIB期から鐙IV期に移行する時期の馬具は,池山洞45号墳や玉田M4号墳,M6号墳のような高霊IIC期の加耶古墳に副葬されるので,新羅IIC期中段階と高霊IIC期がほぼ並行する。

このうち,玉田M6号墳は鐙IV期初頭における加耶と新羅の関係を示唆する好資料である。同墳の副葬土器(Fig.12-15~25)は高霊IIC期の典型例な内容を示しつつも,池山洞45号墳よりも新しい。大加耶の地方勢力としての地位は維持しているといえよう。しかし,副葬された杏葉(Fig12-26)は縁金に鋲を密に配する心葉形4式で,忍冬楕円紋が変容したものである。心葉形4式も忍冬楕円紋も,鐙IV期の画期に慶州を中心に興ると考えられるが,天馬塚など新羅の杏葉は長方形立聞孔に帯状の鉤金具を通すのに対し,玉田M6号墳の杏葉は方形立聞孔に棒状鉤金具を通しており,金斗喆の指摘する新羅と加耶の馬具の特徴〔1993:91〕に対応している。玉田M6号墳の杏葉は,新羅からの馬具情報を受容して加耶で製作されたのであろう。

また,玉田M6号墳では,新羅に特徴的な「山字形冠」と呼ばれる金銅冠(Fig.12-28)が出土しており,やはり天馬塚の金銅冠(Fig.12-14)に似たものである。ただし,天馬塚では華麗な金冠(Fig.12-13)も副葬されており,玉田M6号墳は天馬塚の被葬者より下位に位置づけられる。新羅IIC期古段階の梁山夫婦塚や金鳥塚に副葬された金銅冠にも通じる特徴であり,新羅と各地の政治集団の関係を示している。

このような新羅と加耶の関係の延長上で理解できそうなのが,栄山江流域の羅州伏岩里3号墳'96石室の馬具(Fig.12-29~31)である。ここでも,鐙IV期の新羅に由来する馬具様相を示しているが,鏡板や杏葉の立聞孔が方形であるのは加耶の様相であり,壺鐙(Fig.12-30)はこの時期の新羅には見られない。須恵器(Fig.12-32)を伴うことも勘案すると,伏岩里の被葬者は直接には加耶や倭との交渉が深く,主に加耶を媒介にして新羅の馬具情報を得たのであろう。

新羅IIC期新段階 皇吾洞33号墳西槨,壺杅塚・銀鈴塚ではいずれも鐙IV期の馬具を出土している。皇吾洞33号墳西槨で出土した忍冬楕円紋の心葉形4式杏葉(Fig.13-1)は前時期以来のものであるが,壺杅塚では鐘形杏葉(Fig.13-2)が副葬されている。鐘形杏葉は,鐙IV期が始まってしばらくして登場するものである。主たるモチーフに,前時期の心葉形杏葉に登場した忍冬楕円紋が用いられており,心葉形杏葉の型式変化の果てに,心葉形杏葉よりも上位の杏葉として鐘形杏葉が採用されたと考えられる〔白井克也2003a:93〕。

また,固城栗垈里2号墳第2石槨では在地の固城地域加耶土器(Fig.14-4~9)とともに高霊地域加耶土器(Fig.14-10~14),新羅IIC期中段階~新段階の高杯(図14-2,3)が出土しており,馬具は加耶において鐙IV期に特徴的な鉄製輪鐙(Fig.14-17)を含んでいる。高霊地域加耶土器は,蓋の天井部が傾斜を残し,つまみが「山高帽状」で(Fig.14-10,13),台付長頸壺の脚部に筒形器台の名残を残す(Fig.14-11)など,高霊IIIA期の特徴を示している。固城地域加耶土器は,高杯の口縁部が短く尖り(Fig.14-4),脚部は2段交互透窓を設けて端部が下に折れた後に外反する(Fig.14-5,7)など,高霊III期並行の固城地域加耶土器の特徴をよくあらわしている。高霊IIIA期が新羅IIC期中段階~新段階のある時期と並行することがわかる。

高霊IIIA期の蓋は夢村土城87-2号住居跡で出土しており,夢村III式と高霊IIIA期の並行関係が想定できる。

新羅IIIA期 皇南洞151号墳(Fig.13-3~5)や林石5号墳(Fig.13-6~18)で鐙IV期の馬具を伴う。前後の時期と比較すれば,高霊IIIA期や夢村III式と並行することが推定できる。

新羅IIIB期 池山洞古墳群,陜川倉里古墳群,陜川三嘉古墳群などは,造営期間中に加耶土器の最終段階である高霊IIIB期を経て,加耶の古墳・土器から新羅の古墳・土器に転換する。これらの古墳群で新羅IIIB期の土器が出土している。

倉里A80号墳は複数の竪穴式石槨からなる多槨墳である。a遺構(Fig.15-9~11)とd遺構(Fig.15-12~14)で高霊地域の長頸壺と新羅の台付長頸壺が共伴している。高霊地域加耶土器の長頸壺(Fig.15-11,14,16)は口縁下の突出が弱くなり,胴部はなで肩で,また台付長頸壺(Fig.15-11)の脚部は筒形器台の名残をとどめていない。e遺構の蓋(Fig.15-15,17)は平坦で,いずれも高霊IIIB期の特徴である。短頸壺も,a遺構とe遺構に陜川地域の在地の壺(Fig.15-10,19),d遺構に新羅土器と思われる壺(Fig.15-13)が出土している。さらに,e遺構で百済の三足土器(Fig.15-18)が出土するなど,加耶滅亡直前の地域間交渉を物語っている。

三嘉古墳群でも高霊IIIB期までの高霊地域加耶土器が出土しているが,新羅土器との共伴例はない。三嘉9号墳A遺構で出土した新羅土器(Fig.15-1~7)が型式学的に最も遡る。9号墳もまた多槨墳で,A遺構を初めとして,新羅土器を副葬する埋葬施設が次々に追加されている。三嘉古墳群は加耶古墳から新羅古墳への転換後も古墳造営が続き,葬送儀礼にも継続性があることはすでに高正龍〔1996〕が指摘している。

大加耶の中心地である池山洞古墳群でも,池山洞36号石槨墓で新羅IIIB期の土器が確認され,高霊地域加耶土器の終焉時点の新羅土器が新羅IIIB期であった可能性を強く示唆している。

さらに,東海岸の東海湫岩洞B古墳群は,新羅土器が主体をなす古墳群であるが,新羅IIIB期に新羅土器が減少し,一時的に高霊IIIB期の高霊地域加耶土器が出土する。

以上より,新羅IIIB期は高霊地域加耶土器の最終段階である高霊IIIB期に並行する。

ソウル地域では夢村III式までで百済土器が消滅し,新羅土器が登場するが,最古のものは石村洞86-石槨墓にみる新羅IIIB期である。

新羅IIIC期古段階 先の池山洞古墳群,倉里古墳群,三嘉古墳群は,完全に新羅化すると新羅IIIC期古段階以降の新羅土器が副葬されるようになる。南海岸でも泗川月城里古墳群など,墓制・土器が完全に新羅化した古墳群があり,最古の新羅土器は月城里8号墳に見る新羅IIIC期古段階である(Fig.15-20~29)。

したがって,新羅IIIC期は高霊IIIB期より新しいと考えられる。しかし,新羅IIIC期古段階と高霊IIIB期の興味深い共伴例も知られている。

固城蓮塘里18号墳は周溝をもつ円墳である。中心主体は横穴式石室であり,竪穴式石槨を伴う。従属的埋葬と思われる竪穴式石槨では固城地域に特徴的な水平口縁壺(Fig.15-35,36)が出土しており,口縁部が水平またはやや垂下する状況はこの器種の最終段階を示している。周溝では祭祀に用いられたと考えられる大量の固城地域加耶土器(Fig.15-37~46)が出土しており,水平口縁壺(Fig.15-41~44)に加えて高杯(Fig.15-38,39)や器台(Fig.15-46)も固城地域加耶土器の最終段階を示している。

これに対し,中心主体である横穴式石室では,固城地域加耶土器も少量出土している(Fig.15-32)ものの,新羅IIIC期の新羅土器(Fig.15-30,31)と高霊IIIB期の高霊地域加耶土器(Fig.15-33,34)が副葬されている。中心主体と従属的埋葬・周構内祭祀の土器様相の差は,加耶滅亡時点における固城地域政治集団の置かれた政治的立場を象徴するのであろう。

以上より,新羅IIIC期古段階が加耶地域で高霊IIIB期に後続すると考えて大過なかろう。

本節で検討した並行関係を表にまとめた(Tab.3)。

2) 日本との並行関係

これまで筆者は,日韓の編年対比に当たって須恵器によって日本の古墳編年を代表させてきたが,直接の共伴例が必ずしも多くないまま須恵器編年を用いることは,実のところ適当ではない。特に日本の中期古墳の副葬品にはいまだ須恵器が一般的ではなく,むしろ武器・武具・馬具のような副葬品の型式変化や組成こそが,編年指標としてふさわしかろう。しかしそれらの研究も,独自の分期を推進するよりも,わずかな共伴例を頼りに須恵器の型式名で時期を表現しているのが実情であり,そのために須恵器の型式名は多義性にまみれている。

中期古墳の編年を須恵器型式で表現することには限界があるが,とはいえ,諸分野を通じて時期を表示するのに須恵器型式が便利であることは否定できず,また,大まかには妥当な指標となっていると思われるし,筆者には日本の古墳編年までも再構成する能力はない。

ここでは,ひとまず土師器や須恵器の型式名を利用しつつ,新羅土器など韓国の土器・馬具に見出した並行関係に,日本の考古資料を対比する。

布留式期IV 土師器の河内編年〔米田敏幸1990〕で布留式期IVとされる時期,西日本各地に多くの陶質土器がもたらされる。主に古式IIIb段階に相当する。

また,持ノ木古墳(久米田方墳)周溝出土の須恵器のうち,高杯形器台は古式IIIb段階の福泉洞31・32号墳で出土した器台と同工品である〔定森秀夫1997:171〕。持ノ木古墳の須恵器も古式IIIb段階ごろに位置づけられる。

TG232号窯 持ノ木古墳とTK73型式の間に位置づけられる大庭寺遺跡TG232号窯を,福泉洞10・11号墳と同時期とする見解〔申敬澈2000:41-42〕もあるが,酒井清治が指摘するように,福泉洞21・22号墳と10・11号墳の中間的な様相とみなすべきである〔2001:81-82,101〕。これを裏付けるのが奈具岡北1号墳第1主体墓上祭祀の土器群である。TG232号窯製品に近い須恵器とともに,福泉洞21・22号墳の様相(Fig.1-13,14;Fig.8-25~34)に近い陶質土器の器台が出土している。したがって,TG232号窯は新羅IA期か,それよりやや新しい時期に並行する。TG232号窯製品に似た高杯が新羅IB期の福泉洞53号墳で出土しているが,同様の形態は釜山地域の伝統から生じたと思えず,ほかの地域に祖型があると考えられる。

TK73型式 馬具や甲冑で対比が可能である。

TK73型式期に比定される新開1号墳南槨では,鐙I期の馬具様相が登場し,新羅IB期の福泉洞10・11号墳の馬具様相(Fig.8-41~44)と対比されている。また,日本における鋲留技法の登場時期を示す新開1号墳南槨の馬具・甲冑副葬様相は,高霊IA期の玉田68号墳の馬具・甲冑副葬様相にも近い〔白井克也2003a:101-104〕。すでに述べたように,高霊IA期は新羅IB期とも並行する。

以上より,TK73型式は鐙I期末,高霊IA期を媒介に新羅IB期と並行する。

TK216型式 馬具によって対比が可能である。

瑞王寺古墳では,鐙II期の古い様相である木心鉄板張輪鐙IB式b2類に加え,鑣轡やTK216型式の須恵器が副葬されていた。前後の時期と対比しても,TK216型式は鐙II期,新羅IIA期古段階・中段階,高霊IB期と並行するであろう。

TK208型式 この型式の須恵器は,韓国の考古資料との共伴例が多いが,新羅土器との直接の共伴例には乏しい。高霊地域加耶土器,百済土器,馬具によって対比する。

陜川鳳渓里20号墳ではTK208型式の須恵器高杯が出土している〔酒井清治1993:907〕。同墳は高霊IC期に位置づけられる。

唐子台No.80古墳では高霊IC期の高杯がTK208型式の𤭯とともに出土している。高杯は同一器形の2点が伴出しており,舶載後に2次移動した可能性は小さい。

百済では新鳳洞1990年B-1号墳でTK208型式の須恵器に酷似した蓋杯が出土している〔酒井清治1993:899-900〕。鑣轡に木心鉄板張輪鐙IIB式d類を伴い,鐙IIIA期に並行すると思われる。

夢村土城85-3号貯蔵穴でTK208型式ころの須恵器蓋杯が鑣轡と三足土器に伴出しており,石村洞III式・鐙IIIA期と考えられる。

恵比須山7号石棺出土の短頸壺は,肩部の沈線区画の間に単線波状紋をめぐらし,石村洞III式の百済土器と考えられる。石棺で出土した須恵器はTK208型式からTK23型式ごろに該当する。

TK208型式期には韓国から新たな馬具様相が伝えられるが,これは加耶の馬具が新羅の馬具秩序から独自性を示す鐙IIIA期に当たる。

以上より,TK208型式は高霊IC期・石村洞III式・鐙IIIA期を媒介に新羅IIA期新段階に並行する。

TK23型式 この型式期には,百済との関係が強く窺われる出土例がある。百済の土器・石室により並行関係を推定する。

野田遺跡の古墳時代大溝SD102から出土した三足杯はソウル地域百済土器の夢村I式に属し,溝の埋没はTK23型式期ごろである。西森田遺跡3号溝に祭祀のためTK23型式の須恵器高杯とともに廃棄されていた百済土器高杯も夢村I式に属す〔白井克也2001:79〕。

TK23型式の須恵器を出土した高井田山古墳の横穴式石室は,宋山里I段階の表井里型石室に類例が求められる。高井田山古墳の石室や熨斗を武寧王陵以後とする意見もある〔洪潽植1993〕が,石室変遷観には異論〔吉井秀夫1999:77-78,92-93〕があり,また,類似の熨斗は皇南大塚北墳(新羅IIA期新段階・TK208型式並行)でも出土しているので,宋山里I段階以前の百済に同様の熨斗が存在してもおかしくない。高井田山古墳で出土した木心鉄板張輪鐙IIB式c1類は韓国では鐙III期に当たり,武寧王陵より新しいとは考えにくい。

以上より,TK23型式は百済の夢村I式・宋山里I段階に並行し,これを媒介に鐙IIIB期,新羅IIB期などとの並行関係が推定できる。

TK47型式 この型式の須恵器を韓国の考古資料に直接対比するのは難しい。鐙IV期初頭の伏岩里3号墳'96石室の須恵器出土例(TK47型式とMT15型式)はあるが,朴天秀〔2002〕が試みるように,1号甕棺と4号甕棺の副葬品を弁別して時期差と認定できるか,若干疑問が残り,並行関係の微細な検討に利用しかねる。ひとまず,鐙IV期初頭からさほど遠くなかろう。

埼玉稲荷山古墳の礫槨出土の馬具は鐙IIIB期の様相に近く,高霊IIB期古段階の玉田M3号墳に対比され,さほど遠い時期には置けまい。

以上より,TK47型式は高霊IIB期新段階を中心とする鐙IIIB期の新しい部分に並行し,新羅IIC期古段階を中心とする時期に対応する。

MT15型式 新羅土器と須恵器の直接対比は難しいが,新羅の馬具様相が日本列島に及んでおり,加耶・栄山江流域に鐙IV期の様相が現れる時期に一致すると考えられる。MT15型式以降の日本の馬具〔岡安光彦1988;内山敏行1996〕と韓国の鐙IV期の馬具は変化に対応する部分があり,日本の馬具に大きな遅延は認められない。

MT15型式期に造営された物見櫓古墳では高霊地域加耶土器の把手付有蓋鉢や無蓋高杯口縁部の破片と,加耶系の金製垂飾付耳飾が出土している。中原幹彦・今田治代は無蓋高杯を高霊IIC期の玉田M6号墳に対比した〔2001:123〕。高霊IIC期は加耶地域に鐙IV期の様相が登場する時期に当たっており,傍証となる。

以上より,MT15型式は高霊IIC期,鐙IV期初頭を媒介に新羅IIC期中段階に並行する。

TK10型式 金武古墳群吉武L-8号墳,権現塚古墳で新羅IIIA期の蓋が出土しており,いずれも共伴須恵器はTK10型式を上限とする。

鴨稲荷山古墳の須恵器はTK10型式の良好な一括資料であるが,副葬品のうち三葉紋楕円形杏葉は心葉形4式杏葉を受け継いだものであり,鐙IV期以降に位置づけられる。また,垂飾付耳飾が李漢祥〔2001〕によって,双鳳紋環頭大刀が穴沢咊光・馬目順一〔1976〕によって,それぞれ武寧王陵と近い時期とみなされている。

さらに,TK10型式は鐘形・棘葉形杏葉が日本列島に伝えられる時期である〔桃崎祐輔2001〕が,これは新羅では新羅IIC期新段階から新羅IIIA期にかけて普及し始める。

以上より,TK10型式は新羅IIC期新段階から新羅IIIA期に並行する。

なお,井ノ内稲荷塚古墳前方部の木棺内東区画からTK10型式の須恵器とともに新羅IIC期古段階に多い形態の高杯が出土しているが,前後の時期に対比すると整合性がない。また,この高杯は地方的な様相を持っている。新羅土器が日本に搬入された後,時を経て副葬されたか,あるいは新羅IIC期新段階ごろまで地方に古い形態が残っていたのであろう。

MT85型式 鬼の枕古墳はTK10型式期に造営が始まり,MT85型式期以降に埋葬が行われた前方後円墳である。墳丘周辺の祭祀に用いられた高霊IIIB期の高杯・蓋が出土しており〔白井克也2003c〕,MT85型式が高霊IIIB期に並行すると考えられる。高霊IIIB段階は新羅IIIB期に並行するので,MT85型式と新羅IIIB期が並行する。

TK43型式 良好な共伴例に乏しい。TK43型式以降の山崎古墳群C-1号墳で新羅IIIC期の蓋が出土しており,TK43型式は新羅IIIC期と並行する可能性がある。なお,筆者はかつてこの土器に新羅IV期,あるいはそれに相当する年代観を与えたことがある〔白井克也1998・1999・2000〕が,その後,新羅IIIC期に改めた〔白井克也2002b・2003b〕。

TK209型式 西日本各地で朝鮮半島産遺物が再び出土し始めたとき,それらは新羅と百済の遺物であり,加耶の遺物はもはや含まない。心光寺2号墳や大枝山14号墳で新羅IIIC期新段階の土器が出土しているが,新羅IIIC期からかなり型式を隔てた新羅土器が,大覚寺3号墳や金武古墳群吉武G-4号墳で出土しており,TK209型式の存続期間の大部分は新羅IIIC期新段階より新しいと考えられる。遡って,新羅IIIC期の大部分はTK43型式に並行するであろう。


4.暦年代の推定

各地の並行関係を踏まえ,本章で暦年代を論ずるが,ここで留意すべきは,“一国暦年代論”に成立の余地はないということである。ある地域の暦年代を論ずれば,相対編年によって結び付けられた他地域の暦年代にたちどころに影響を与える。近年の尾野善裕の暦年代観は,一方で外国資料を重視するかに見えて,実際には韓国の考古資料の意義を等閑視したため,“一国暦年代論”の誤りを含んでいる。

『三国史記』『日本書紀』や金石文資料などの文字史料を,史料批判の上で利用できる三国時代・古墳時代については,文字史料と考古資料との整合性により暦年代を比定することができ,従来も行われてきているが,韓国の暦年代論が日本に紹介される場合,断片的な情報として伝わったため,信頼性が疑われてしまう場合もあった。本章での年代比定は,従来の研究から大きく外れるものではないが,改めて方法の整理や根拠の提示に努めることとしよう。

1) 史料対比年代の3方法

文字史料と考古資料との整合性により比定された暦年代を,仮に「史料対比年代」と呼ぶことにする。史料対比年代の最大の問題点は,2つの研究分野にまたがっているため,双方とも独自の史料批判・資料批判を要し,これを疎かにすれば恣意的な解釈に陥る危険があると言うことである。

また,考古学者が定めた年代を文献史学者が利用する場合,結論のみならず根拠となった文字史料が何であるかを知らなければ,期せずして矛盾や循環論法に陥る危険もあろう。

したがって,史料対比年代には,方法と論拠の明示が欠かせない。また,史料操作・資料操作の手間が少ないほど,解釈に依存する部分が少ないほど,検証性が高く,信頼性も高かろう。そこで,史料・資料の性格などにより有効性の異なる3つの方法を分離すべきである。

第1の方法は紀年資料によるものである。武寧王陵は,買地券によって墳墓自体の年代が知られ,墳墓と副葬品という膨大な考古資料群に暦年代が与えられる。紀年資料のなかでも紀年墓は特に雄弁であるが,日韓の古墳では残念ながら例が少なすぎる。また,紀年墓を暦年代論に利用する際には,当該紀年墓の遺物複合体としての考古学的意義を充分に吟味する必要がある。属性を恣意的に取り出して比較するのであれば,もはや考古学とはいえない。

紀年資料でも,遺物には伝世の可能性がある。また,年号や干支には複数の候補がある。稲荷山鉄剣などがそれである。この場合,まず相対編年で候補を絞り込む必要がある。本稿では,稲荷山鉄剣の辛亥年銘に先験的に暦年代を付与することは慎む。

このように,第1の方法では,限られた数の紀年墓がもっとも有用な資料であり,紀年遺物の一部がそれに次ぐ価値をもっている。

第2の方法は,遷都・領域論によるものである。これも古くから用いられてきた。

高句麗は427年に集安から平壌に遷都し,百済は475年にソウルから公州へ,538年に公州から扶余へ遷都した。王都が移れば,王陵などの古墳群が造営され,城郭の機能も変化するので,考古資料の画期となる。

また,新羅の領域拡大も,文献と金石文から確認できる。532年の金官国併合,550年ごろの百済地域進出,556年の東北海岸進出,562年の大加耶併合である。これらは新羅古墳・土器の分布変化と対比できるし,地域ごとに加耶・百済土器から新羅土器への転換過程を跡づけることもできる。高句麗が400年ごろソウルの漢江北岸を,475年に漢江南岸をそれぞれ征服することも,ここに挙げられる。

一方,百済の栄山江流域進出のように,文字史料・考古資料の双方の解釈に大きな問題を残している分野もある。

第2の方法は,第1の方法の紀年墓に次いで有効であり,本稿でも主に活用する。

第3の方法は,情勢論によるものであり,もっとも解釈が介在しやすい。ある時期に馬具が増加したり石槨墓が登場することを高句麗勢力の南下に起因すると捉えたり,北部九州の首長墓系列の変動を筑紫君磐井の興亡と関連付けることなどである。紀年墓以外の王墓の王名比定も,これに属するであろう。うまく整合すれば,興味深い歴史像を描くこともできようが,あくまでも歴史的解釈に基づくものであることは肝に銘じなければならない。新資料の発見や史料解釈の変更によって,まったく異なる対比が可能になる場合すらある。第3の方法は,第1・第2の方法を駆使した後,次善の策として用いるべきであり,本末顛倒は許されない。

本稿では,第1の方法,特に武寧王陵と,第2の方法,すなわち遷都・領域論によって大まかな年代を比定する。第3の方法については,以前簡単に触れたことがある〔白井克也2003a:105-106〕ので,一部のみ言及する。

2) 紀年墓による暦年代比定

最も有力な紀年資料である武寧王陵は,宋山里II段階に属す。百済が熊津に都を置いた475年から538年のうち,武寧王陵のような磚室墓を王陵の墓室とする段階である。では,宋山里II段階はいつからであろうか。宋山里古墳群で最初の磚室墓は明確でないが,武寧王陵で所用の磚に記された「壬辰年」(512年)からみて,510年ころの百済では,王陵は磚室墓であると認識され,宋山里型石室がもはや王陵の墓室型式ではないと知っていたであろう。したがって,ひとまず,宋山里I段階は475年から510年,宋山里II段階は510年から538年と考えられる。

穴沢咊光・馬目順一〔1976〕による龍鳳紋環頭大刀の研究によれば,武寧王陵と新村里9号墳乙棺,鴨稲荷山古墳(TK10型式・鐙IV期並行)の柄頭は近い時期に置かれる。新村里9号墳乙棺の柄頭の類例は玉田M4号墳(高霊IIC期・鐙IV期)からも出土している。したがって宋山里II段階・高霊IIC期・鐙IV期やTK10型式が520年代に近いことがわかり,これを介して新羅IIC期中段階が520年代を含むといえよう。

武寧王陵で出土した金製耳飾は,李漢祥〔2001〕によって江田船山古墳の「新しい共伴遺物群」〔岡安光彦ほか1986〕の耳飾や,鴨稲荷山古墳の耳飾に対比されている。前者はMT15~TK10型式,後者はTK10型式に当たる。

尾野善裕は,武寧王陵と江田船山古墳の垂飾付耳飾を対比するとともに,江田船山古墳で出土した百済土器をTK216~TK208型式の須恵器であると主張した〔1998:81-83〕が,鴨稲荷山古墳で武寧王陵と類似の垂飾付耳飾がTK10型式の須恵器に伴出していることは取り上げなかった。垂飾付耳飾の比較研究の蓄積を無視している上,著しく公平を欠く。

ところで,TK47型式期ごろと考えられる椿井宮山塚古墳のような宋山里型石室は,当該石室が百済王陵であった宋山里I段階には外部への伝播が許されなかったと考えられるので,磚室墓が登場して宋山里型石室が王陵の地位から転落して以後,すなわち宋山里II段階に並行する。したがって,TK47型式の終焉は宋山里II段階の開始よりも遅いはずである。

以上より,MT15型式期は武寧王陵を中心とする短い期間,つまり515年から535年までくらいに限定され,TK10型式はこれより遅いがさほど遠からぬ時期であろう。

3) 遷都・領域論による暦年代比定

百済の熊津遷都(475年) ソウル地域では,石村洞III式と夢村I式との間で,石村洞古墳群の廃絶,夢村土城の機能変化と土城内での高句麗土器の出土といった画期があり,しかも夢村I式は錦江流域の宋山里I段階の土器である錦江IIa段階に対比され,並行関係にある。すなわち,石村洞III式と夢村I式の境界を,高句麗によって百済漢城が陥落した475年に比定できる〔白井克也2002〕。

石村洞III式は新羅IIA期新段階,鐙IIIA期,TK208型式と並行し,夢村I式・宋山里I式は新羅IIB期,鐙IIIB期,TK23型式と並行するので,それぞれの境界が475年ごろであろう。これを媒介に,高霊IC期と高霊IIA期の境界も475年ごろと想定できる。

鐙IIIB期に百済からの馬具情報が加耶,さらに新羅や倭にももたらされ,またTK23型式期に百済土器が日本で出土するのも,漢城陥落の余波であろう。

新羅の金官国併合(532年) 古式IIIb期までで大成洞古墳群が衰退して以後,金官国の首長墓は明確でなく,532年に金官国が新羅に投降した時点での首長墓の動向を直接に知ることは困難である。しかし,礼安里古墳群の造営中断や,それに伴う金海地域新羅土器の終焉は,金官国投降との関連が想定できる。

礼安里古墳群では,前述のように3つの造営期が認められたが,そのうち第2造営期の終焉は金海地域新羅土器の終焉に重なり,第2空白期を経て造営された第3造営期の墳墓は新羅の影響の強いものである。

礼安里古墳群から洛東江を挟んだ対岸に位置する杜邱洞林石古墳群でも,新羅IIC期新段階の2号墳,6号墳,8号墳で金海III期の金海地域新羅土器を出土したのを最後に金海地域新羅土器が絶え,新羅IIIA期の5号墳,12号墳では墓制も幅広長方形の石室となる。

第2造営期の末(新羅IIC期中段階)までで金海地域新羅土器が終焉を迎える現象は,金官国併合(532年)に対応すると思われる。

先にみた固城栗垈里2号墳第2石槨(Fig.14)では,高霊IIIA期と新羅IIC期中段階または新段階の土器が出土していたが,慶尚南道西南部にまで新羅土器が到達するのは,新羅が金官国を併合して慶尚南道南海岸沿いに進出して以後であろう。これによって,金官国併合直後に新羅IIC期が存続していたこと,その時点で高霊地域加耶土器は高霊IIIA期であったこともわかる。

さらに,やや解釈に踏込むと,典型新羅土器が日本の北部九州や瀬戸内で確実に出土するようになるのは,既述の権現塚古墳などのほか,笠ケ塚西,岩橋千塚前山A46号墳以降であり,新羅土器では新羅IIIA期,須恵器ではTK10型式以降である。これは金官国の併合で慶尚南道南岸の積出港を新羅が確保したためであろう。

以上より,新羅IIC期新段階・高霊IIIA期・TK10型式は532年ごろ以降に年代の中心があるとわかる。

新羅の百済地域進出(550年ごろ) 丹陽赤城碑などの金石文により,新羅は550年ごろ忠清北道の南漢江上流に進出したことがわかる。

南漢江西岸に所在する忠州楼岩里古墳群は新羅IIIB期の楼岩里10号墳,18号墳から造営が始まるが,18号墳は護石と中央羨道横穴式石室を持ち,新羅の支配下での有力者の墳墓と考えられる。直前時期からの継続性はなく,以後,方形石室に屍床を備え墳丘に護石をめぐらす古墳群が新羅IIIC期新段階まで継続する。「軍主」のような派遣官の墳墓の可能性がある。忠州丹月洞古墳群でも,採集遺物から見て新羅IIIB期から造営が始まるようである。新羅IIIB期は550年直後の時期であろう。

ソウル地域は551年に百済が一時奪回し,552年には新羅の支配下に入る。ソウル地域では夢村III式の後,新羅土器が出土するようになるので,支配者の変動と関連すると思われる。

前述のように石村洞86-石槨墓は新羅IIIB期に遡る可能性があり,続く芳荑洞4号墳,5号墳は新羅IIIC期古段階,可楽洞3号墳は新羅IIIC期新段階である。富川古康洞4号石槨墓も新羅IIIC期の高杯・蓋が出土している。新羅がソウル地域進出後に築造したと考えられる河南二聖山城からは,新羅IIIC期から統一新羅時代に至る遺物が出土している。九里峨嵯山シル峰堡塁では,漢城陥落以前・以後の高句麗土器のほか,わずかに新羅IIIB期以降の新羅土器が出土している。

したがって,ソウル地域で夢村III式に後続するのは新羅IIIB期以降の新羅土器である。

夢村III式に高霊IIIA期の蓋が伴うことから,夢村III式と高霊IIIA期が550年直前ごろ,新羅IIIB期が550年直後ごろである。

新羅がソウルを奪ったことに怒った百済の聖王は新羅を討とうとして554年に敗死し,百済は新羅の圧迫を受けることになる。錦江上流の錦山場岱里古墳群がこの時期のものなら,同墳は新羅IIIB期以降なので,やはり新羅IIIB期は550年直後ごろに位置づけられる。

大加耶の併合(562年) 高霊地域加耶土器が高霊IIIB期で終了し,高霊IIIB期の終焉が新羅IIIB期と新羅IIIC期の境界にほぼ一致することはすでに述べた。墓制の変化も対応しており,地域支配の変革を示唆する。高霊地域加耶土器の終焉を大加耶滅亡と関連させ,共伴の新羅土器に562年の暦年代を与えるのが通例であり,本稿も同様の立場にたつ。

すでに例に挙げた古墳群のほか,苧浦里E古墳群でも新羅IIIC期古段階から新羅化した方形石室が数多く営まれ始めるが,前段階の加耶古墳群とは継続性がない。

新羅化後の石室型式は,古墳群によって若干の違いがあるが,地域社会の個性によって支配方式に違いがあったのであろう。

以上より,高霊IIIB期の終焉,新羅IIIB期と新羅IIIC期の境界が562年であることは確実である。また,高霊IIIB期の高杯・蓋が鬼の枕古墳の祭祀に用いられていることから考えて,同墳の埋葬が開始したMT85型式期は大加耶滅亡以前の時期を含んでいたはずである。

新羅の東北海岸進出(568年) 新羅は真興王のとき江原道の東海岸沿いに高句麗領を北進し,咸鏡南道に至った。真興王は568年にこの地を巡狩し,2つの管境巡狩碑,利原摩雲嶺碑と咸州黄草嶺碑を残している。同年に比列忽州(江原道安辺)を廃して達忽州(江原道高城)を設置していることからみて,支配体制は568年ごろ安定したのであろう。通川旧邑里古墳群,安辺龍城里古墳群,定平多湖里古墳群,五老圭華峰古墳群,洪原富民洞古墳群や,五老村山城で出土した新羅土器は新羅IIIC期を上限とする。新羅IIIC期が568年以後であることがわかる。

4) 情勢論による暦年代比定

旧加耶・百済領各地に普及した新羅古墳は,新羅IIIC期新段階までで大半が造営を終え,追葬も少なくなる。これらの古墳は,墓室形態や土器は新羅と同様であるが,古墳群自体は新羅化の以前から引き続いていたり,葬送行為に独自性を残していた〔高正龍1996〕。おそらく在地勢力が新羅治下で存続していたのであり,そのような在地支配は新羅IIIC期新段階までで再編されたのであろう。

ここでは南山新城碑が注目される。新羅の王都慶州に591年に造営された南山新城において,工事分担を記し,城壁が3年以内に崩壊しないと誓ったのが南山新城碑である。碑文の人名表記をみると,京位を有する中央豪族(王京人)が,外位を有する地方民を率いて工事に参画している。591年の時点で,王京人の上位者は王京における(おそらく擬制的な)同族支配と地方における地域支配の両面の性格を持ち,地方民はそのもとで王都における力役徴発の対象になっていたのであろう。

筆者は,このような地域支配方式が大規模な力役徴発を可能にするまでに進展したことが,各地における群集墳の終焉に反映されていると考える。ならば,新羅IIIC期新段階は591年を含むであろう。

新羅IIIC期新段階の終末は須恵器TK209型式の初頭に重なるので,日本,特に畿内における前方後円墳の終焉と時期が近く,さらには寺院の造営や,飛鳥における官僚制と都市的景観の形成などが,この時期の墓制変革と関連すると考えられる。新羅と日本における墓制の変革は,一致はしないにせよ,近い時期であろう。


5.おわりに

韓国考古学のめざましい成果は,日韓の並行関係を詳細に論じ,日韓交渉の痕跡を数多く析出させ,その背景の考察も可能にしている。しかし,国境と言語を隔てた両地域の考古学が協力して発展していくためには,新出資料や研究成果が相互に紹介され,事実を共有する努力が不可欠である。研究者の交流や重要文献の翻訳は盛んであり,多いに評価すべきであるが,情報量の爆発的な増加に対し,必ずしも追いついてはいない。学史を歪曲した珍説が,韓国考古学への過小評価に化けてしまった近年の暦年代論の混乱が,それを如実に示している。

日本における韓国考古学研究者は,これまで以上に事実の共有に努める必要があろう。


【図表の目次】

Fig.1 典型新羅土器の編年(1)
1~7:月城路カ-13号墳
8~12:味鄒王陵地区第5区域1号墳
13,14:福泉洞21号墳
15~20:慶州月城路ナ-13号墳
21~23:福泉洞10号墳
Fig.2 典型新羅土器の編年(2)
1~10:皇南洞110号墳
11~21:月城路ナ-9号墳
22~33:月城路カ-11-1号墳
Fig.3 典型新羅土器の編年(3)
1~3,6~9,12:月城路カ-4号墳
4,5,10,11:月城路タ-6号墳
13~26:月城路タ-2号墳
27~39:月城路カ-15号墳
40~45,48,49,51,53~55:月城路カ-1号墳
46,47,50:月城路カ-13-1号墳
52:月城路タ-5号墳
Fig.4 典型新羅土器の編年(4)
1~5,9:月城路カ-18号墳
6~8:芳内里27-2号墳
10,13,21:新院里6号墳
11,12,14,19,20,22:芳内里26号墳
15~18:新院里2号墳
23,28:芳内里44号墳
24~27,29~31:芳内里50号墳
32~35,42:新院里7号墳
36~41:下北亭8号墳2次屍床
Fig.5 昌寧地域新羅土器の編年
1~4:桂南里1号墳主槨
5:桂南里1号墳副槨
6~13:校洞3号墳
14~25:校洞1号墳
26,27:校洞11号墳
Fig.6 金海地域新羅土器の編年
1~8:礼安里66号墳
9~19:礼安里27号墳
20~24:礼安里21号墳
25~31:礼安里62号墳
32~54:礼安里39号墳
55~65:礼安里54号墳
66~76:礼安里61号墳
77~85:礼安里152号墳
86~91:礼安里46号墳
Fig.7 加達古墳群における土器の変遷
1~4:加達6号墳
5~9:加達5号墳
10~12:加達4号墳盗掘坑
13~15:加達4号墳石槨内
16~20:加達2号墳
21~25:加達7号墳
26~30:加達10号墳
31~36:加達1号墳
Fig.8 鐙I期の並行関係
1~9:福泉洞48号墳
10~19,23,24:大成洞1号墳主槨
20~22:大成洞1号墳副槨
25,26,30,33~35:福泉洞21号墳
27~29,31,32,36,37:福泉洞22号墳
38~44:福泉洞10号墳
45~54:玉田23号墳
Fig.9 鐙II期の並行関係
1:皇吾洞14号墳第1副槨
2~3:桂南里1号墳副槨
4~6:桂南里1号墳主槨
7~9:皇南大塚南墳
10~16:校洞3号墳
17~29:玉田28号墳
30,31:龍院里12号石槨墓
32:玉田8号墳
33:法泉里1号墳
Fig.10 鐙IIIA期の並行関係
1~9:玉田M1号墳
10~22:池山洞32号墳
23~31:玉田M2号墳
Fig.11 鐙IIIB期の並行関係
1~14:福泉洞23号墳
15~20:月城路タ-6号墳
21~25:金鈴塚
Fig.12 鐙IV期の並行関係(1)
1~14:天馬塚
15~28:玉田M6号墳
29~32:伏岩里3号墳'96石室
Fig.13 鐙IV期の並行関係(2)
1:皇吾洞33号墳西槨
2:壺杅塚
3~5:皇南洞151号墳
6~18:林石5号墳
Fig.14 栗垈里2号墳出土遺物
Fig.15 高霊地域加耶土器終焉前後の並行関係
1~7:三嘉9号墳A遺構
8:倉里A80号墳b遺構
9~11:倉里A80号墳a遺構
12~14:倉里A80号墳d遺構
15~19:倉里A80号墳e遺構
20~29:月城里8号墳
30~34:蓮塘里18号墳横穴式石室
35,36:蓮塘里18号墳1号竪穴式石槨
37~46:蓮塘里18号墳周溝
Tab.1 金海礼安里古墳群の編年
Tab.2 編年対照表
Tab.3 日韓古墳編年の並行関係と暦年代

【本稿で取り上げた遺跡と出典】

咸鏡南道洪原郡
富民洞古墳群〔韓錫正1960〕
咸鏡南道五老郡
圭華峰古墳群,五老村山城〔韓錫正1960〕
咸鏡北道定平郡
多湖里古墳群〔韓錫正1960〕
江原道安辺郡
龍城里古墳群〔梁翼龍1958〕
江原道通川郡
旧邑里古墳群〔梁翼龍1962〕
ソウル特別市
可楽洞3号墳〔蚕室地区遺跡発掘調査団1977〕
石村洞86-石槨墓〔金元龍・林永珍1986〕
芳荑洞4号墳,5号墳〔金秉模1977〕
夢村土城85-3号貯蔵穴〔夢村土城発掘調査団1985;釜山広域市立博物館福泉分館調査保存室2001〕
夢村土城87-2号住居跡〔金元龍ほか1987〕
京畿道九里市
峨嵯山シル峰堡塁〔任孝宰ほか2002〕
京畿道河南市
二聖山城〔金秉模・沈光注1987・1988・1991;金秉模・尹善暎2000;金秉模ほか2000〕
京畿道富川市
古康洞4号石槨墓〔裵基同・李和種2002〕
忠清北道忠州市
丹月洞古墳群〔崔茂蔵1995〕
楼岩里古墳群〔車勇杰ほか1993〕
忠清北道清州市
新鳳洞1990年B-1号墳〔忠北大学校博物館1990〕
忠清南道天安市
龍院里古墳群〔李南奭2000〕
忠清南道公州市
宋山里古墳群〔野守健・神田惣蔵1935〕
武寧王陵〔大韓民国文化財管理局(編)1974〕
忠清南道錦山郡
場岱里古墳群〔崔秉鉉ほか1992〕
全羅南道羅州市
新村里9号墳〔穴沢咊光・馬目順一1973〕
伏岩里3号墳〔遺跡調査研究室2001〕
江原道原州市
法泉里1号墳〔宋義政・尹炯元2000〕
江原道東海市
湫岩洞B地区古墳群〔辛虎雄・李相洙1994〕
慶尚北道慶州市
金鈴塚,飾履塚〔梅原末治1932〕
壺杅塚,銀鈴塚〔金載元1948〕
天馬塚(皇南洞155号墳)〔文化公報部文化財管理局1974〕
皇南大塚(皇南洞98号墳)南墳〔国立中央博物館1975〕
皇南大塚(皇南洞98号墳)北墳〔文化財研究所美術工芸研究室(編)1985〕
皇南洞109号墳〔斎藤忠1937〕
皇南洞110号墳〔李殷昌1975〕
皇南洞151号墳〔文化公報部1969〕
皇吾洞1号墳〔文化公報部1969〕
皇吾洞14号墳〔斎藤忠1937〕
皇吾洞33号墳〔文化公報部1969〕
皇吾洞381番地廃古墳ナ号墳〔尹容鎮1975〕
味鄒王陵地区第1区域古墳群〔尹容鎮1975〕
味鄒王陵地区第5区域古墳群〔金廷鶴・鄭澄元1975〕
味鄒王陵地区第5区域1号墳〔金廷鶴・鄭澄元1975;申敬澈1986〕
月城路古墳群〔国立慶州博物館・慶北大学校博物館1990〕
芳内里古墳群〔国立慶州文化財研究所1996;姜仁求1997〕
新院里古墳群〔尹容鎮・朴淳発1991〕
慶尚北道高霊郡
池山洞32号墳〔金鍾徹1981〕
池山洞45号墳〔高霊郡1979〕
池山洞石槨墓・土壙墓・石室墓群〔慶尚北道文化財研究院2000〕
釜山広域市
福泉洞4号墳〔申敬澈・宋桂鉉1985〕
福泉洞10・11号墳〔釜山大学校博物館1983〕
福泉洞21・22号墳〔釜山大学校博物館1990a〕
福泉洞23号墳〔李尚律1990〕
福泉洞31・32号墳〔全玉年ほか1990〕
福泉洞48号墳〔釜山大学校博物館1990b;申敬澈1994〕
福泉洞53号墳〔釜山直轄市立博物館1993〕
福泉洞東亜大調査1号墳〔金東鎬1971〕
杜邱洞林石古墳群〔朴志明・宋桂鉉1990〕
加達古墳群〔宋桂鉉・洪潽植1993〕
加達4号墳(旧金海加達1号墳)〔金斗喆1986;宋桂鉉・洪潽植1993〕
慶尚南道梁山市
梁山夫婦塚〔馬場是一郎・小川敬吉1927;沈奉謹1991;中村浩1997〕
金鳥塚〔沈奉謹1991〕
下北亭古墳群〔沈奉謹・朴廣春1992〕
慶尚南道昌寧郡
校洞1号墳~4号墳〔沈奉謹ほか1992〕
校洞11号墳〔穴沢咊光・馬目順一1975;朴天秀1993〕
桂南里1号墳,4号墳〔李殷昌ほか1991〕
慶尚南道金海市
大成洞1号墳〔申敬澈・金宰佑2000〕
礼安里古墳群〔釜山大学校博物館1985・1993〕
慶尚南道陜川郡
玉田M1号墳,M2号墳〔趙栄済ほか1992〕
玉田M3号墳〔趙栄済・朴升圭1990〕
玉田M4号墳,M6号墳〔趙栄済ほか1993〕
玉田8号墳〔趙栄済1988〕
玉田23号墳,28号墳〔趙栄済ほか1997〕
玉田68号墳〔趙栄済ほか1995〕
鳳渓里古墳群〔東亜大学校博物館1986〕
倉里古墳群〔沈奉謹1987〕
三嘉古墳群〔沈奉謹1982〕
苧浦里E古墳群〔釜山大学校博物館1987〕
慶尚南道固城郡
栗垈里2号墳〔金正完ほか1990〕
蓮塘里18号墳〔朴淳発・李相吉1994〕
慶尚南道泗川市
月城里古墳群〔趙栄済ほか1998〕
埼玉県行田市
埼玉稲荷山古墳〔埼玉県立さきたま資料館1980〕
滋賀県栗東市
新開1号墳〔西田弘ほか1961;小野山節1966:10〕
滋賀県高島郡高島町
鴨稲荷山古墳〔森下章司ほか1995〕
京都市右京区
大覚寺3号墳〔安藤信策1976〕
京都市西京区
大枝山14号墳〔上村和直・丸川義広(編)1989〕
京都府長岡京市
井ノ内稲荷塚古墳〔清家章(編)1999〕
京都府竹野郡弥栄町
奈具岡北1号墳〔河野一隆1997〕
大阪府柏原市
高井田山古墳〔安村俊史・桑野和幸1996〕
大阪府堺市
大庭寺TG232号窯〔岡戸哲紀(編)1995a・b〕
大阪府岸和田市
持ノ木古墳(久米田方墳)〔虎間英喜1993・1994;三辻利一・虎間英喜1994〕
兵庫県芦屋市
笠ケ塚西出土品〔武藤誠(編)1976;森岡秀人1984:39〕
奈良県生駒郡平群町
椿井宮山塚古墳〔辰巳和弘ほか1993a・b〕
和歌山県和歌山市
岩橋千塚前山A46号墳〔河上邦彦・奥田豊1972:166;松下彰1988〕
山口県豊浦郡豊浦町
心光寺2号墳〔山内紀嗣1988〕
愛媛県今治市
唐子台No.80古墳〔正岡睦夫1991:77-78〕
福岡市早良区
山崎古墳群C-1号墳〔濱石哲也(編)1994〕
福岡市西区
金武古墳群吉武G-4号墳〔荒牧宏行(編)1998〕
金武古墳群吉武L-8号墳〔二宮忠司・渡辺和子(編)1980;白井克也2002b〕
福岡県甘木市
鬼の枕古墳〔小田和利(編)1987;白井克也2003c〕
福岡県久留米市
権現塚古墳〔立石雅文(編)1995〕
福岡県筑後市
瑞王寺古墳〔川述昭人(編)1984〕
福岡県三井郡大刀洗町
西森田遺跡〔西村智道(編)2000:48-49〕
佐賀県神埼郡神埼町
野田遺跡〔森田孝志(編)1985;蒲原宏行ほか1985;白井克也1993:187〕
長崎県上県郡(対馬)峰町
恵比須山7号石棺〔坂田邦洋・永留史彦1974〕
熊本県玉名郡菊水町
江田船山古墳〔本村豪章1991〕
熊本県八代郡竜北町
物見櫓古墳〔今田治代(編)1999〕

【文献】


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