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タカの載った雑誌の記事を拾ってみました。

過去のTOPICS

     2003年 10/1  BRUTUS サッカー選手だけのファッション特集2  

   「もはやモードはサッカーを無視できない!」 

   サッカー選手とモード!!

   欧州の一流選手がモデルとして活躍することも多いのですが、それは単にカッコいいというだけでなくスポーツ選手はエレガントさも兼ね備えたスタイルであることも理由なのではないでしょうか。

   ということで、フィーゴ、サンタクルス、フランチェスコ・ココ、コッラーディ、エムボマなどそうそうたる人々と並んでタカの登場です。

   タカの衣装はイヴ・サン・ローラン。カッコ良いです。

   日本人選手としては、雄一郎、鈴木啓太、大久保、松井、石川直宏選手なども登場。山本昌邦監督もスーツ姿で決めてます(^^)

   中々必見の一冊。


     2003年 9/9  サッカーダイジェスト NO、694   

    ジーコジャパン 7つのどうなる? PART3 フロントライン

    高原+○○? 

   代表FWの組み合わせはいつも複雑な選択に迫られます。その中でもタカを中心に組み合わせを探っている記事。

   『高原の場合、技術的なものは問題ない。決定力の高さは磐田時代に実証済み。クロスへの反応、中央突破、スペースへの動き出しなど、FWとしての能力に疑いの余地はない。また、誰と組んでも順応性があり、周りの選手によってプレーレベルが低下するということもない。そしてなにより、自ら局面を打開できるという、ストライカーにとって必須の条件を備えている点で高原が日本のエースであることは明白である。』

  ダイジェストのタカ評です。
  
  タカのパートナー候補として一番に挙げているのは柳沢。また大久保、久保、鈴木と代表選手の名前があがっています。

  私としてはまだまだ中山隊長に頑張って貰いたいと思っているのですが・・・。

   


     2003年 9/5  Number Plus 目覚めよ蹴球力 2003   

    高原直泰 「相手は関係ない。ゴール前はピンポイントで合わせるんです」 

   文は風間八宏氏、猪狩真一氏。

   雑誌自体は代表選手の特集なのですが、各選手ごとにアメリカンコミック調のイラストがあるのが中々面白いです(^^)

   ブンデスサッカーの話を風間氏と対談しているのですが、猪狩氏の記事はタカの生い立ちで、タカが清水東高校に入学することになったいきさつが詳しく書かれています。(Uー15時代に1学年年上の山崎光太郎選手と出会い、「ウチで一緒にやろう」と清水東に誘われたことがきっかけ)

   山崎選手が西澤明訓選手と比べて語っているのが興味深いです。(タカは西澤選手とは3学年違うので学校では共にプレーしていません)西澤選手は高校時代は1.5列目の選手だったんですね。


     2003年 7/24  Number NO、580    

   

    高原直泰 「この屈辱を忘れない」 

   文は佐藤俊氏。

   コンフェデレーションズカップ。FW勢が得点を取れなかったことに対して、タカは厳しく自分をコメントしています。

   「いくらいいシュートを撃っても結果がすべてなのだから。結局、点が取れないのは自分のシュートの精度の問題だと思う」「いや、以前よりもセンタリングは良くなってきたし、少ない中でも決定的なボールが入ってきてましたよ。そういうチャンスが何回かあったら1本は確実に決めないといけない。それがパスを受けている側の使命でしょう」
  
   悔しさを噛み締めて闘い続けるタカの言葉が重く響きます。


     2003年 6/26  Number NO、578    

    日本代表総力特集T 「経験」という名の武器

    「得点、然らずんば死」高原直泰 

  文は佐藤俊氏。

  ブンデスリーガに移籍し、サッカースタイルの違い、コミュニケーションの難しさ、フィジカルの闘い、コンディション調整。タカはいろんなものと戦っています。前回、ボカに移籍した時にも同様の苦しさと厳しさを体験しています。

  そんな全ての苦労が報われる唯一の手段。それはFWにとってはゴール。ただそれだけ。
   
  「俺はFWなんでね。好機を演出するとか点を取るとか、分かりやすい結果を出さないと試合に出られなくなる。その一方で戦術や選手のクセを覚えて、自分をフィットさせないといけない。」
   
  タカはサッカー選手である限り、ゴールという最大の力と闘い続けていかなければならない、そういう宿命なのですね。

        


     2003年 5/13  サッカ−マガジン NO、924   

    高原直泰 「自分を磨くために」 

  文はKicker誌編集長、Rainer Holzschu氏。

  日本との違いについて。

  タカ「大きな違いはこちらはアジア人よりも体格が大きく、それに力強いということです。そしてまた、自分たちが考えていることをハッキリと口にすること。これは僕はいいことだと思います」

  HSVでのベストプレーヤーは?

  タカ「僕の考えでは、バルバレスは非常にいい選手だと思います。すごくいいテクニックを持っているし、またよく働きます。」

  日本のサッカーはヨーロッパと同じように強くなれると思いますか?

  タカ「いつの日にか、日本のサッカーもまた、ヨーロッパの国々と同じように強くなれるはずです。考えていただきたいのは、日本のサッカーの歴史はまだ浅く、たった11年前にプロリーグができたという点です。僕らには、もっともっと学ぶべきものがあります。たとえば日本の選手が外国のリーグへ挑戦していって、経験を積み、そしてそれを日本に持ち帰って、さらに伝えていくことなどが必要になってくることでしょう。それは。すべてにわたってのことです。もちろん、それには時間がかかります。」

  今の代表チームに必要なことは?

  タカ「僕らにとって必要なことは、ただただ経験だけで、それ以外のものはありません」

  あなたが今、恋しいと感じていることは?

  タカ「一番懐かしいと感じるのは友人と家族です。そう簡単には彼らには合えないことが、僕がいま最も残念に思っていることです」

  

  タカの言葉はどれもしっかりとした日本と海外で戦うことの経験からきた考えだと思います。

  タカが成長していると感じるのはこうした経験をどう活かし、どう繋げていくか、その考えを垣間見る時です。

  一歩一歩、タカは大人として、そしてプロのプレーヤーとして成長しているのだなと思います。

 

     2003年 5/13  サッカーダイジェスト NO、677   

    高原直泰 「オレはここにいる!」 

    「うぬぼれた欧州人の鼻を日本選手にあかしてほしいと思っているんだ」 クルト・ヤラ 

  文は木崎伸也氏。

  ニュルンベルク戦でタカが奪取した3点目の記事。

  クルト・ヤラ監督の言葉はとても真実を述べていると思います。

  それは日本人選手に対する期待と日本人選手に対する不信。

  期待と不信、両方を持って監督はタカを見ているのだと。

  でも、それをもって監督を納得させるだけの働きをタカはし続けなければなりません。それはどの国のクラブにいても同じこと。

  この試合の3得点目はタカの意地の結晶だと思います。

 

     2003年 3/5  サッカーマガジン NO、911   

    高原直泰 「僕らのタカハラ!」 

  文はSebastian Wolff氏、Gregor Derichs氏

  ”Uns UWE TAKAHARA”

  ドイツ最大の発行部数を誇る全国紙「ビルト」がバイエルン戦の記事についてこんな見だしを出したそうです。

  「UWE」は60年代から70年代にHSVで活躍した伝説の名手、ウーベ・ゼーラーのこと。彼は現役時代、尊敬と親しみを込めて「ウンス・ウーベ」と呼ばれていたそうです。

  ゴールをすること。=チームやサポーターに認められること。

  バイエルン戦のゴールはそれほど貴重なものだったのですね。FWにとってゴールはやはり命なんだと実感させられた記事でした。

 

     2003年 3/4  サッカーダイジェスト NO、667   

    高原直泰 「邂逅」 ホッとしたのが一番。ゴールして初めて認められるから

  文は前号に引き続き川原崇氏。

  2月9日。オリンピア・シュターディオン。vsミュンヘン戦。

  絶対絶命のロスタイム。マハダビキアからのクロスにタカのヘディングが応え突き刺したゴールはGKカーンの連続無失点記録を止めた記念すべき初ゴールでした。

  『ご存知のとおり高原は、ユース年代から各代表カテゴリーでトップとして君臨し、エリート街道を突き進んできた。20歳で日本代表にも名を連ね、憧れであるマルコ・ファン・バステンの影を追いつつ、いつか海外のトップレベルで活躍する日を夢見ていた。

  そして旧友である小野と稲本が、ヨーロッパでのチャレンジをスタートさせた2001年夏、1ヶ月遅れで高原はアルゼンチンの地を踏んだ。』

  『ヒジ打ちが横行する凄まじいピッチ。すべからくスペイン語が飛び交い、おまけにブエノスアイレスの治安は悪いときている。それでも「口では言い表せないほど貴重な経験になった」と高原は振りかえる。だが、約半年間の在籍期間のなかで、公式戦出場は数える程度で、ゴールはひとつしか記録していない。ストライカーとして結果を残せなかったことへの悔しさは想像を絶するものだったはずだ』

  『肺血栓からの回復が間に合わずワールドカップへの出場はならなかったが、プレーの質、動き、メンタリティとどれを取っても一級品。磐田の完全優勝に、MVPと得点王の個人ダブルタイトルを添え、華々しくシーズンを終える。もはや日本に高原に比肩するストライカーは存在しなくなっていた。』

  『ヨーロッパでの第一歩をどう記していくのか。J得点王としての誇り、枯渇しているとされる日本人ストライカーの威信をかけ、どの国でスタートするのがベストなのか。オファーがあったのはフランス、オランダ、そしてドイツのクラブから。高原は総じて守備力が高く、ヨーロッパえでも屈指のフィジカルが必要とされるドイツを、敢えて選んだのである。』

  『バイエルン戦は、ひょっとしたら確実のスタメンの保証がある、ラストチャンスだったのかもしれない。だからこそ、初ゴールは最高のシュチュエーションであったに違いない。カーンは、2年前に自身が打ち立てたブンデスリーガ無失点記録を、試合開始語の24分に危なげなく更新してしまっていた。その記録を802分でストップさせたのが高原である。』

  『思えば、高原はいつも大事な局面でゴールを奪ってきたように感じる。磐田でのプロデビュー戦、ワールドユースでの開幕ゴール、シドニーオリンピックでも初戦の南アフリカ戦でゴールを奪い、大一番での集中力の高さを誇示してきた。』

  高原は言う。

  「やっとゴールを決めることができて、これからもっと落ちついてプレーすることができる。チームにとっても大きな勝ち点になったし、貢献できたことも大きかったと思う。ただ、これで決まるわけじゃない。ここからの積み重ねが大事だと思うし、自分のプレーの中でだして、自分の地位みたいなものを気付いていければいい」

  川原氏の記事を全部ここに載せてしまいたい!と思う程、熱い良い記事です。

  本当にタカ、ブンデス初ゴールおめでとう!  

 

     2003年 2/25  サッカーダイジェスト NO、666   

    高原直泰 「タカとハンブルク」

  文は川原崇氏。

  この号は伸二の特集もあり、その記事も川原氏です(^^)ユース時代から追い続けていた選手を海外クラブで取材するのは有る意味嬉しいだろうなと思ってしまう。よっ、川原さん記者冥利!(^^)

  地元新聞に大々的に付けられた「スシボンバー」というタカのあだ名をHSVのサポーターは使わなかった。HSVのサポーターは親しみを込めて「タカ」と呼ぶ。という現地のエピソードなど、タカがどのように受け入れられているかと丁寧に書いてあります。

  『ドイツに来て、慌しく1ヶ月が過ぎた。チームメイトと戦術を理解し、極寒の大地でいかにリズムを作っていくのか、自己との戦いは過酷なものだったに違いない』

  『自ら敷いた滑走路を駆け抜け、あとは飛び立つだけだ。きっとゴールは遠くない。そう確信させるほどの凄みが、高原からビンビンと伝わってくる』

  海外移籍することで避けることの出来ない問題と向かい合うタカの戦いの今をじっくりと考えさせられた記事でした。

 

     2003年 2/6  Sports Yeah! NO、059    

    高原直泰 「ブンデスリーガの魂」 Hamburger SV「我々は高原のようなFWを探していた」

  文はクリスティアン・テュービンゲナー氏

  大雪の積もった森の木々の中をランニングする選手たちの見開きの写真が良いです。

  バイヤーズドルファー氏のタカを獲得することになった1つのエピソードにドイツ人を理解する一端があるかも!?舌平目をナイフとフォークできれいに食べたというタカを「食事の仕方がエレガントな選手はサッカーもエレガントなものなのです。」

  これはバイヤーズドルファー氏自身がブレーメンへ移籍した際の実際にあった話だそうです。 

  マハダビキアのコメントでHSVには12の国々から選手が集まっている分、外国人選手は苦労なく打ち解けあい、ドイツという国にも早く慣れることができると思うというのがあるのですが、その通りだと思います。

  他、この号はハンブルクの街の特集はリトバルスキーのインタビューなどブンデスリーガを知る情報満載です。必読。

 

     2003年 1/28  サッカーダイジェスト NO、662    

    HSVと高原直泰 いかに移籍は成立したのか 

  この記事を読むと日本選手を獲得するエージェントの目や以前よりかなり幅広く日本とのネットワークを持っていると感じました。

  日本でプレーする外国籍選手も今はとても多いですし、そういった自国選手からも積極的に情報を得ているのですね。

 

     2003年 1/27  AERA NO、4    

    高原直泰 「体は一回り、大きくなりました」 

  『 昨年の4月に一度表紙の写真を撮影していた。だが、「代表落ち」で幻の表紙に。久しぶりに会って、前回の写真と見比べる坂田さんにこの一言(「体は一回り、大きくなりました」)。「これからだね」という問いかけに、力強く「はい!」と答えた。 』

  カメラマンの坂田栄一郎氏とタカとのこんなエピソードがとても良いなと思いました。こんなことを思いながら表紙のタカを見ると、なんだか笑みが零れます。

  記事はスポーツ部 平井隆介氏。 

 

     2003年 1/23  Number NO、567    

    必然の果実、’79年組。

  1979年生まれを黄金世代と呼ぶ理由。戸塚啓氏の記事です。

  私的にはタカたちのあの世代を「79年組」と呼ぶのはあまり好きではありません。それは単純に79年生まれじゃない選手もいるから(笑)ヤットやイチは80年だしね。

  それはさておき、伸二、イナ、タカ、浩二、満男、ソガ、モトを象徴とするこの年代の選手の活躍の理由を謎解くこの特集はとても興味深いです。

  U−16時代の松田監督の話は初めて読むことが出来ました!(嬉)タカや伸二、イナを召集する経緯が分かって嬉しかったです。

  私が彼らを実際に目にしたのはU−19からですが、本当に魅力溢れるチームでした。

  清雲監督の「たとえば小野と高原は、目と目で意思の疎通ができていた。小野はノールックでパスを出したりするけれど、カッコつけてるんじゃなく相手を欺くためで、高原はその意図をちゃんと分かっていた」と語っていますが、私はこんなシーンを本当に何度も目にしました。

  『ただ、黄金と言うへきは成功と挫折を繰り返してきたサイクルではないだろうか。アジアと世界で勝利と敗北を味わってきたからこそ、’79年組は若さに似合わぬ勝負強さやしたたかさ、臨機応変さや冷静さを身につけることができた。そのうえで彼らは、幸福や偶然を見過ごすことなく、最大限に活用することができたのだ。’79年組は単に時代が生み出した偶然ではなく、必然的に育った果実なのである。』

  戸塚氏の力強い締めくくりの言葉が良いです。この号には他に山本コーチのインタビューもあります。    

 

     2003年 1/22  TARZAN NO、388    

    カラダデザイン自由自在

  上半身全裸!!のタカの表紙です!(インパクトあった〜!(笑))

  サッカー雑誌ではないですが、スポーツアスリート的な要素でタカを起用して下さった目の付け所がいいですね(笑)

  この号の特集は「鍛える」ということで、タカのあの素晴らしいボディバランスの身につけ方やトレーニングの方法を伺えます。

 

     2003年 1/22 サッカーマガジン NO、905   

     「高原直泰 和製ボンバーついに始動」 

  雪のハンブルクに渡ったタカの記事です。飛行場では多くのファンと報道陣に迎えられたタカ。

  記者会見や練習風景の写真が満載です。到着早々に大忙しで大変そうですね。タカの愛称となった「スシボンバー」はドイツで大流行の「お寿司」と、ゲルト・ミュラーのニックネーム「ボンバー」になぞらえて付けられたそうです(笑)

  風間八宏氏「自分を主張し、簡単に謝るな!」、奥寺康彦氏「彼は『初』のストライカー、いいボールは必ず出てくる!」二人の大先輩からのエールです。  

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