素晴らしきバルカン半島の思い出
    
  ベオグラード留学記(1985・9 〜1987・3)        『九州大学法学部石川ゼミ10周年論文集』への寄稿
 
                              木村 朗
 
  はじめに
 石川ゼミ10周年記念ということで何を書こうかいろいろと思案した挙句、やはりユーゴスラビアでの留学体験記が一番自分にピッタリとくると考え、取り留めもないものになってしまうかもしれないが、ここで自分の研究生活の区切りという意味も含めて書かせてもらうことにする。ベオグラードでの日々については、ユーゴの人々の心暖かさや自然の美しさとともに、今でも昨日のことのように懐かしさ一杯で胸の中に蘇ってくる。この留学体験記を読んで、少しでもユーゴや社会主義について興味を持っていただけたら幸いである。
 
 
 (1)到着、そして出会い。
 1985年9月2日に神戸を船で出発して、中国(上海・蘇州・済南・天津・北京)、ソ連(イルクーツク・レニングラード・モスクワ)を一ヶ月かけて回った後、モスクワから汽車でベオグラードに到着したのは10月1日の朝8時のことであった。海外旅行はもちろんのこと、生まれて一度も飛行機に乗ったこともなかった自分であったが、この間の旅行の経験(中国やソ連では、多くの日本人留学生と知り合った)で留学生活に対する不安はやや取り除かれ、なにやら自信めいたものも生まれていた。とはいえ、服装も言葉や顔つきも様々な旅行客でごった返すベオグラード駅に着いたときには、これからが本番だという意味での違った緊張を覚えたこともまた事実である。ベオグラード駅からは、ドアが半分壊れたタクシーに乗って大学本部まで行き、それからまた重い荷物を抱えながらようやく学生寮にたどり着いたことを思い出す。私のベオグラードでの留学生活はともかくこうして始まった。
 10月初旬のベオグラードは、まだかなり暖かく、つい一週間前にモスクワで寒さに震えながらレーニン廟前に並んだことがまるで嘘のようだった。ベオグラードはユーゴ及びセルビア共和国の首都で人口約180万。街並みはけしてこぎれいとは言えなかったが、外に張り出したカフェーで飲んだ、何ともうまいトルコ・コーヒーと、夕方になると大通りをのんびりと散策する、素朴で人なつっこい人々を知るに及んで、すぐにこの街が好きになった(特に、もとのトルコの城塞があってドナウ川が見渡せるカレメグダン公園や、「花の家」といわれるチトーのお墓には、それから何度も足を運ぶことになった)。
 
 学生寮での生活も、同室になったグンナール(スウェーデン人・経済学専攻)と同じ日本からの留学生堀君(金沢出身で彫刻を専攻。最初彼が“Are You Japanese?”と聞いてきたときには、笑ってしまった)と早速意気投合し、寮食堂の食事も意外に自分の口にあったおかげでスムーズに慣れることが出来た。
 だが、すべてが順調に進んだ訳ではなかった。正直言って一番困ったのは言葉の問題であった。何しろ、ユーゴに来る前はセルボ=クロアチア語(ユーゴ言語の一つで公用語となっている)についての知識もほとんどなく、英会話にしても自信のある方ではなかったからである。しかしこの問題も、セルボ=クロアチア語の会話学校に半年間通い、寮でも何人かのユーゴ人と親しくなることによって、徐々にそれほど負担とならなくなった。
 ユーゴ人の中で特に親しくなったのは、ベイトラー(アルバニア人で政治学専攻、研究者志望)とラットコ(マケドニア人で同じく政治学専攻、ジャーナリスト志望)、そしてスネジャナ(セルビア人、英文学専攻で女優志望)とマリーナ(セルビア人で歯学部、アメリカでの生活経験あり)らであった。
 彼ら(彼女たち)とは、最初は英語、後にはセルボ=クロアチア語で、ユーゴや日本の歴史・経済から文化・教育・生活一般まで、それこそ様々な問題を語り合い、ときには激しい議論(!?)を交わすことによって、多くの新しい発見をすることが出来た。また一緒にスポーツ・映画・チェス・ディスコ・パーティー・ドライブを楽しんだり、家に招かれて食事をごちそうになったりして、本当の友情を暖めることが出来た。彼ら(彼女たち)との出会いは、自分にとってベオグラード留学のもっとも楽しい思い出の一つとなっている。
 ユーゴの生活でもう一つ印象に残っているのは、各地を車や汽車やバスで旅行して、素晴らしい風景といろんな人々に出会えたことである。ユーゴを旅行すると、この国が言語も宗教、文化、歴史も異なる様々な民族から構成される複雑な多民族国家であることを実感する。
 ここで、この国について若干の説明をしておこう。ユーゴスラビアは、国土が日本の3分の2ぐらいで人口は約2300万。バルカン半島に位置しており、アドリア海と7つの国家(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、アルバニア)に囲まれており、6つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア=ヘルツエゴビナ、モンテネグロ、マケドニア)から成っている。大雑把に言えば、その北部地方とアドリア海沿岸はヨーロッパ、中央部と南部はトルコとロシアの影響が強い。ユーゴにきて最初の頃は、共和国が変われば、人々の顔つきや言葉ばかりでなく、バスや電車の乗り方や切符の値段までもが変わるので、まるであちこち外国を旅行しているような気分を味わったものである。ユーゴのこのような複雑性・多様性には最初はとまどったものの、慣れてくるにつれ、そのことを逆にじっくりと観察して味わうくらいの余裕も出てきた。自分の印象では、スロベニアやクロアチアの人々は都会的で洗練されているがややとっつきにくく、セルビアやモンテネグロの人々は人なつっこいがややがさつであり、マケドニアとボスニア=ヘルツエゴヴィナの人々は穏やかで暖かいがやや覇気が足りない、といった感じであった。自分の気質から言って、やはりセルビアやモンテネグロの人々と何となく馬が合うという気が今でもしている。 また、この国で最も気に入った場所を強いて挙げるならば(1年半の滞在で主要な都市・名所はほとんど訪ねた)、アドリア海沿岸の開放的な都市スプリット(ローマ時代の遺跡が多く残っている)トヴロヴニク(「アドリア海の真珠」と呼ばれ、ヴェニスと並ぶ有名な観光都市。街全体が城壁に囲まれたたたずまいを今でも偲ばせている)、ボスニアの首都サラエヴォ「サラエヴォ事件」と84年の冬季オリンピックで有名。トルコ本国よりもトルコ色が濃厚であると言われる)、そしてスロヴェニアの美しい森と山々に囲まれた神秘的なブレッド湖などである。特に、夏、スプリット近くのアドリア海の島々(ヌーディリスト・ビーチあり!!)にて、青々とした海と照りつける太陽の下でゆったりと過ごした日々のことはいまでも鮮明に瞼に焼き付いて忘れることが出来ない。
 
(2)「ポラーコ」と社会主義
 社会主義国としてのユーゴの印象は、まさにユニークという言葉がピッタリである。この国では第二次大戦中に、チトーとユーゴ共産党を中心とするパルチザン闘争が大きな犠牲(人口比約11%)を出しながら大規模に展開され、ほとんど自力で祖国を解放すると同時に社会主義革命をも達成するという過程をたどった。
 その後、1948年にスターリンと衝突して「社会主義陣営」を離れ、ソ連型社会主義の批判を通じて今日の「自主管理」と「非同盟」に象徴される独自の社会主義を樹立することになった(ついでながら、私が今取り組んでいる研究テーマは、このユーゴ=ソ連紛争の問題である)。ユーゴは、社会主義国で最初に「スターリン主義」に挑戦した国であるばかりでなく、終戦直後の「人民民主主義」と呼ばれた「社会主義への新しい道」への探求を継承・発展された唯一の国でもある。その意味でユーゴは、今日ソ連で行われつつある「ペレストロイカ」を先取りするような実験を最初に行った国でもあると言える。
 他の社会主義国(私が訪問した中国,ソ連,チェコ,ポーランド,ハンガリー,ブルガリア)と比較してのユーゴの特徴としては、開放的で自由な雰囲気と、商品・情報の豊かさを指摘できる。具体的には国境を自由に出入りすることが出来(ビザなしで三ヶ月滞在可能),西側の新聞,雑誌,映画や商品がどんどん入っており、ユーゴのジャーナリズムや一般の人々も、政治や政府に対する不満・批判を開けっぴろげに口にすると言う実体である。 また、ユーゴ国民の気質について一般的に言えば、バルカン半島の住民に特有の、何事も焦らず「ポラーコ(ゆっくり、の意)」という生活感覚と「ヨーロッパの火薬庫」と言われたような何世紀にもわたる厳しい対立・抗争の歴史から生まれた強い独立心を言うことが出来る。そしてチトー(1892ー1980)は、そのような特質をもった典型的なユーゴ人であり、いまでも自分たちの身近な指導者として多くの国民から深い敬愛を受けている。
 しかし、すべての面でうまくいっているわけではないことは言うまでもない。最近の新聞報道で伝えられているように、現在のユーゴは深刻な経済的危機と民族的危機の渦中にあり、チトー以後最大の危機に直面している。これを克服するための真剣な努力がここまで続けられているとはいえ、状況は今のところ楽観を許さない。我々としては、これまで幾度か重大な危機を克服してきたユーゴの人々が、その持ち前の団結力と創造力を発揮してこの試練を乗り切ることを心から願うばかりだ。
 さてここで、私自身がユーゴやソ連,中国,その他の社会主義国を実際に見て感じたこと、そして今、社会主義に対して考えていることを、少し述べてみたいと思う。
 第一に、「社会主義とは何か」を考える際に、生産手段の社会的所有という従来の基準ではなく、「国家の死滅」すなわち社会主義的民主主義の強化・拡大を基準とすること。 第二に、現存する社会主義国を評価し位置づける場合に、一国史的枠組みではなく、世界史的枠国からとらえなければならないこと。
 第三に、社会主義国の現状を認識する場合に、否定的現象ばかりでなく肯定的現象をも含めて総合的にとらえる必要があること。
 第四に、同じく社会主義国を考えるときには、客観的条件ばかりでなく、主体的条件(個々人と各集団の能力及び意思)をこれまで以上に重視すること。
 第五に、社会主義体制を政治・経済体制としてばかりでなく、社会体制としてとらえる必要があること。
 第六に、社会主義外交および社会主義的国際関係の持つ新しい積極的な内容・特質を、現実の社会主義国の具体的政策の中から明らかにすること。
 
 
                        
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 社会主義国の現状に接して肌で感じたことは、「新しい社会」・「革命後の社会」にも「古い社会」であるはずの資本主義社会と共通の問題があること、そしてある場合には、資本主義社会がすでに解決したような問題、さらに社会主義社会固有の問題さえも存在するということであった。このことは、特に「新しい人間」の問題に最もよく当てはまる。ここで指摘しておかなければならないのは、社会主義者会が抱える問題が、資本主義社会の持つ問題と歴史的にも、世界的にも密接に結びついているということである。それは、軍事問題を考えればすぐにわかるであろう。
 私は、ここで社会主義社会には新しい積極的なものが何一つ生まれていないなどといいたいのではない。むしろその逆で、現存する社会主義国の多くが「経済的・文化的後進性」と「軍事的圧制」に苦しみながらそれぞれの国が、革命前の信じられないような「奴隷的状態」を克服したことに最大限の賞賛を惜しまないし、「豊かで自由な社会」といわれる資本主義社会が、国内ばかりでなく世界中ではかり知れないほど多くの犠牲,浪費,堕落,腐敗を生み出していることに対して、強い憤りを覚えている。私がここで言いたいのは、現存する社会主義国をもっと総合的かつ相対的にとらえる必要がある,ということである。
 現在、ソ連,中国ばかりでなく他の多くの社会主義国が、それぞれの「ペレストロイカ」に取り組みつつある。私は、こうした事態をむろん歓迎しているが、こうした動きが既存の社会主義像を前提とするなら単なる「上からの改革」にとどまらずに、社会主義本来の理想,価値を実現する本当の「再生」につながることを期待しつつ、じっくりと見守りたいと思う。
 
(3) 別れ、そして出発
 ベオグラードでの一年半の留学生活は、今から考えると本当にアッと言う間にすぎてしまったという感じがする。帰国した当初は日本にいることが嘘のようであったが、今はベオグラードでの生活が夢であったような感じがしている。
 しかし、ユーゴにいる多くの友人(日本人を含む)から便りをもらうごとに、自分がベオグラードに住んでいたことが事実であり、一緒に語り遊んだ仲間たちが今現在こうして文章を書いているときもあちらで元気にやっていることを改めて感じさせてくれる。ユーゴでの体験が今の自分にどのような形で残っているかは自分でもあまり明確でないが、ユーゴばかりでなく社会主義や日本・世界のことについて、また言語や宗教,文化,そして人間や民族や国家についてなど、多くの問題を改めて考える機会を与えてくれたことだけは確かである。
 日本に帰る日が近づくにつれて私の心境は、早く日本に帰りたいという思いと、まだもっと長くユーゴにいたいという思いが交錯して、非常に複雑であった。心を込めたお別れパーティーを何度か開いてくれたばかりでなく、出発当日わざわざベオグラード駅まで見送りにきてくれたユーゴの仲間たち、長い間つきあってくれて本当にありがとう!
             再会を楽しみに、ドヴィジェーニア(さようなら)!!
 
 
 
  おわりに
 早いもので、学部の3年生のときにゼミに入ってからもう8年が過ぎようとしている。石川先生には、それ以来ずっと公私ともにお世話になりっぱなしであり、本当にお礼の言葉もないくらいである。先生も最初にあった頃に比べると、あの童顔は変わらないとは言え、酒量も減り白髪もやや増えて少しだけ年をとられたように見える。
 だが、まだ43歳の若さである。老け込むにはまだまだ早い。先生が九大にこられてから早や10年、ご専門の研究の方でも一つの節目を迎えられたようであるが、これを機に今後とも、ますます持ち前のバイタリティーで九大政治学の発展にご活躍されるよう、また未熟な我々をさらに厳しくご指導してくださるよう、ここで改めてお願いしたいと思う。
                           1988年2月10日