「原爆神話」からの解放ー「正義の戦争」とは何かー

木村 朗(鹿児島大学法文学部)

はじめにーなぜこのテーマを選んだのか

今日、八月一五日は戦後五十五回目で、かつ二〇世紀最後の「敗戦記念日」であるということで、このテーマを選ばせていただきました。まず、なぜ今日このテーマでお話しすることになったのか、ということを最初に述べさせていただきます。

わたしは北九州市の小倉出身でありまして、原爆との関係でいえば長崎に落とされた二発目の原爆は、もしあのとき天候さえよければ小倉に落とされるはずでありました。わたしは子どもの頃、小倉の勝山公園でよく遊んでいたのですが、そこに「長崎の鐘」というものがおかれていまして、その由来を大人からあとで聞かされて、子どもながらに長崎の原爆との浅からぬ縁を強く感じていたということがあります。

 また、わたしの専門が旧ユーゴの民族問題も含めた平和研究であるということで、スロヴェニア・クロアチアからボスニア・コソヴォまで旧ユーゴの解体から続く、かの地の悲劇をずっと見てきたわけです。そして、NATOが行ったコソヴォ空爆では、「正義の戦争」、「人道のための戦争」という考えが新たに登場し、それが「二一世紀型の新しい戦争」として定着しそうな動きも出てきました。ということで、今回このようなテーマにしたのは、この「原爆投下」と「NATO空爆」という二つの出来事の共通点を考えてみようというねらいからです。両者とも、当時は日本の敵国であり現在は日本の同盟国である「世界最強の軍事国家」アメリカが深く関わっている出来事です。また、それぞれが現代の戦争の特徴をよくあらわしている出来事だと思います。

「敗戦記念日」のあり方をめぐってー「被害」と「加害」の二重構造

今日は八月一五日の「敗戦記念日」ということで、全国各地においてさまざまな集会や催しが開かれているようです。わたしは日本で「敗戦記念日」に先の戦争に関わる問題が話されること自体はいいことだと思っています。ただ、こうした形で催される集会で扱われるテーマは、「原爆投下」や「沖縄戦」、そして東京大空襲に代表されるような本土への「大空襲」といった、どちらかというと「被害者」の観点から戦争が振り返られるという傾向が強いようです。しかし、わたしは、そういった視点で戦争が語られるだけではたして本当にいいのだろうか、という疑問を持っています。本来、この「敗戦記念日」は、台湾・朝鮮半島の植民地支配から、「満州事変」、「日中戦争」、「アジア・太平洋戦争」(とくに「真珠湾攻撃」、「重慶爆撃」、「南京大虐殺」、「七三一細菌部隊」、「従軍慰安婦」、「強制連行」など)へと続く日本の「加害者」としての対外膨張の歴史を正しくとらえなおすとともに、「国家神道」による「天皇の神聖化」、「国家総動員」、「報道統制」、「人権弾圧」、「大東亜共栄圏(東亜新秩序)」などといった特徴をもつ戦前の軍国主義的な強権政治体制をもたらした根本原因は何であるのかをあらためて考える機会とすべきであると思っています。

さて、今日はこれから日本への原爆投下に関わる問題をお話するわけですが、誤解が生じないように最初に断っておきたいことがあります。それは、わたしの本意は、先の戦争を相対化しようとするものではなく、ましてや日本の行動を正当化することではありません。「満州事変」にはじまり「十五年戦争」ともいわれる先の戦争の本質的な性格は日本側の植民地支配の維持・拡大から発生した明らかな「侵略戦争」であり、連合国側のとりわけアジアの植民地や民衆にとっては、「民主主義」対「ファシズム」の戦いという意味で総体的には「正義の戦争」であったといえます。しかし、その「正義の戦争」の中で行われた「原爆投下」や「東京大空襲」などの行為がはたしてそれに値するものであったか、ということには大きな疑問があると思っています。また、コソヴォ紛争を契機にNATOによって行われたユーゴ空爆(「対ユーゴ戦争」)は、総合的にみてもNATO側が打ち出したような「人道のための戦争」、「正義の戦争」といえるものでは決してなく、逆に「主権国家に対する侵略行為」ともみなしうるというのがわたしの結論です。

今日はわたしに与えられました時間というものが三〇分ちょっとということでかぎられていて両方の問題を深くお話することはできませんので、ここでは原爆投下の問題を中心にお話させていただきたいと思います。

なぜ日本に原爆が投下されたのかー「原爆神話」からの解放を求めて

それでは、なぜ日本に原爆が投下されたのか、また日本に原爆を投下する必要がはたしてあったのか、そして日本の広島・長崎への二発の原爆投下は本当に正当化することが出来るのかという問題、さらには原爆投下とソ連参戦および日本の降伏との関係はどうであったのか、そこら辺の問題を少しいまの時点で新たな視点から振り返ってみようと思います。これまでのアメリカ側の公式見解というものは、あの時点で日本を降伏に追いやるためには原爆投下以外の方法はなかったのであり、それによってアメリカ兵ばかりでなく多くの日本人やアジアの人々の生命が救われることになったのだ、だから原爆投下は必要かつ正当であったのだ、というものです。このいわゆる「原爆神話」というものは、米国の多くの国民によって今もなお根強く支持されています。そればかりでなく、こうした見方は、日本政府がこれまで黙認してきたという事情もあって多くの日本国民も何となく受け入れているという状況があります。

また、このことに関連して、最近、アメリカ、日本、ドイツ、韓国などの原爆投下に対する世論調査を見る機会がありました。その中で、原爆投下を正当化する主張が一番強かったのはもちろんアメリカです。その次が韓国で、そして日本、ドイツと続きます。この世論調査からわかることは、植民地支配を受けていた韓国の人々が原爆投下をアメリカと同じ側にたって正当化していることです。これは、あの戦争で日本軍が行った行為がどんなに強い憎しみと反感をアジアの人々にもたらしたかを象徴的にあらわしており、そのことの意味合いは非常に大きいと思います。また、もうひとつ注目すべきことは、日本と同じ敗戦国であるドイツのかなりの人々が、日本への原爆投下は明らかな国際法違反であり大きな誤りであったと認識しているという事実です。このことは、原爆投下を受けた側の日本人の多くが、原爆投下は不当であり絶対に許されない非人道的な行為である、という共通認識を必ずしも持っているとはいえない現状とくらべて興味深い結果だと思います。

そこで本題に入る前にお話ししておきたいのは、すでに述べた「原爆神話」は、原爆が投下されて日本が降伏した後に、米国・占領軍や、当時の日本の戦争指導者、その後の日本政府関係者などによって暗黙のうちに是認されて作り出されてきたものだということです。そういった独特の由来を持っている「原爆神話」というものは、本当にその通りで正しいといえるのか。これから、その問題を検討したいと思います。その最初の基本的な出発点ですが、アメリカ側の公式見解は、米兵の犠牲をそれ以上出さないために原爆投下がなされたのであり、またそれによって日本は降伏に追いやられ、結果的に多くの日本人やアジアの人々の生命をも救うことになったのだという、いわゆる「早期終戦・人命救済」説ともいえる主張です。しかし、原爆投下を目的と結果の両面で正当化するこうした主張は当時の事実関係からすれば必ずしも説得力を持つものではありません。それどころか、実際には、原爆開発あるいは原爆投下の必要性があったがために戦争終結が逆に引き延ばされたのであり、アメリカ側が原爆を投下した動機というのは本当は表に出ていた理由とは別のところにあったのではないか。それがこれまで隠されてきた真実ではないか、というのがわたしがこれからご説明したいことであります。

原爆開発とハイドパーク協定ー日本への原爆投下は早くから決定されていた■

みなさんもご存じの通り、原爆開発は一九三九年八月二日に物理学者のアインシュタインやL.シラードがルーズヴェルト米大統領に進言をし、一九四二年八月一三日から「マンハッタン計画」という形で、レスリー・グローブズ陸軍少将を最高指揮官にオッペンハイマー博士を原爆の設計・製造の総責任者として行われました。また、この計画には、最盛期には一二万五千人にものぼる人々(第一級の科学者、研究者、数千人にのぼる軍人・軍属・その他の公務員、六万五千人の労働者を含む)が参加していました。ドイツやハンガリーなどから米国に亡命した科学者を中心に、ドイツが先に原爆開発に成功してナチズムが勝利するなどという「悪夢」を実現させてはならないということがこうした人々の原爆開発の最大の動機付けとなっていたわけであります。確かに、当時はアメリカやイギリスなど連合国側だけでなくドイツや日本なども原爆開発に着手しておりましたので、こうした形で原爆開発が着手されたことは正当化される一面をもっているかもしれません。しかし、ドイツはスターリングラード攻防戦(一九四二年七月から翌四三年一月)後のソ連側の大攻勢によってすでに一九四三年には敗勢が決定的になっていまして、連合国(主にアメリカ)側の原爆投下の基本的な対象というのは、もうそのぐらいの段階でドイツから日本に移りつつありました。

この点で注目されるのが、一九四四年の九月一八日にルーズヴェルト米大統領とチャーチル英首相が、ハイドパークというアメリカのニューヨーク州郊外にある小さな田舎町で結んだ一つの協定です。そして、そのハイドパーク協定はつぎのような二つの重要な内容を含んでいました。そのひとつは、当時「(米英ソ)反ファシズム大連合」という形で連合国側の一員でありましたソ連に対して原爆開発関連の情報・機密を絶対に漏らしてはならないという決定です。それは、米英などがソ連を戦後の主要な仮想敵として意識した対応が大戦中にすでになされていたということを示しています。もうひとつは、ナチス・ドイツを打倒するために開発に着手していた原爆を、開発が成功した後には目標を当初のドイツから日本に変えて原爆投下を実施するという内容です。そして、日本への原爆投下の実施という基本方針を定めたこのハイドパーク協定が、その後に実際に起こった出来事にとって重要な意味をもってくるわけであります。

日本の軍事的敗北と早期終戦の模索ー「近衛上奏文」の挫折

一方、日本の方ですが、軍事的な敗北が決定的になるのも実はそのころ(一九四四年六月のマリアナ沖海戦での大敗北とサイパン島の陥落以降)であると思います。そして、日本側の終戦工作の模索もそのころから徐々にはじまり、一九四五年春以降から本格化することになります。この点にかかわることですが、アメリカ側は日本側の暗号を傍受して解読するということは早い段階から行っており(実は開戦当時から実施されていたのであり、一九四二年六月のミッドウェー海戦での日本の敗北の一要因ともなったといわれています)、一九四五年春からの日本側の終戦工作についてもアメリカ側はすべて事前につかんでいました。また、当時日本が行っていた終戦工作の中心はソ連側を通じたものでしたが、このことについてアメリカは暗号解読を通じてばかりでなく、ソ連側からの直接的な連絡・報告という形でも知り得る立場にありました。そして、一九四五年七月にポッダム会談が開催されていた期間中に、ソ連のスターリンから日本からの終戦仲介の依頼を受けた事実を知らされたトルーマン米大統領はそれを無視するようにスターリンに伝えたともいわれております。

当時の日本側の体制の問題をいいますと、敗色濃厚ということが明らかになった一九四五年二月の段階で「近衛上奏文」というものが天皇に対してだされています。その内容は、「国体護持(すなわち天皇制の維持)」の立場からでしたが、戦況が不利でありこのままでは共産主義革のおそれがあることを認識した上で早期終戦を提案したものでした。また、一九四五年五月に日本の同盟国であったドイツが降伏し、同年三月からはじまっていた沖縄戦でも壊滅的打撃を受けたということで敗戦が必至の情勢になってきていました。そして、そのような状況の中でソ連側を通じた終戦工作が本格化していくわけです。

ヤルタからポッダムへーソ連の対日参戦の密約とその波紋

当時のアメリカは、日本の暗号傍受・解読によってこうした情報をいち早く正確につかむと同時に、自らが行ってきた無差別戦略爆撃(都市住民を主な攻撃目標とした夜間の焼夷弾爆撃という非常に問題の多いやり方)や圧倒的な戦力による徹底した海上封鎖などによって日本がほとんど継戦能力を失いつつあるという客観的認識をもっていました。その上で、ドイツの戦後処理と日本への最終的対応を決めるポツダム会談が七月に行われるのですが、アメリカ側はこのポツダム会談の開催を意図的に延ばそうとしました。それはなぜかといいますと、アメリカ側はその当時原爆開発の見通しがたっており、その原爆開発が成功し投下可能となるまでポツダム会談を先延ばしにする必要があったからにほかなりません。

さらにもうひとつの重要な問題が、ソ連との関係です。当時のソ連は、ヨーロッパを舞台にしたナチス・ドイツとの戦いでようやく勝利を手にしようとしていましたが、日本とは一九四一年四月に結ばれた日ソ中立条約があってまだ直接の交戦国ではありませんでした。そして、一九四五年二月四日から十一日までクリミヤ半島の保養地ヤルタで開かれた米英ソ三国首脳会談(アメリカ大統領ルーズヴェルト、ソ連首相スターリン、イギリス首相チャーチルほか、三国の外相および軍首脳が参加)に連合国の一員として参加します。このヤルタ会談では、アメリカ側がソ連の対日戦への参加を強く要望し、ソ連がそれに応えるという形で協定が作られることになりました。ソ連のスターリンは、独ソ戦で多大な被害をこうむった国民に新たな戦争を納得させるためには何らかの見返りが必要であるということで、満州における鉄道・港湾の権益や南樺太・千島列島などの領土の獲得を強く要求しました。それに対して、当時の満州にいた百万以上の日本の精鋭・関東軍を叩くためにはソ連の参戦がどうしても必要だというアメリカ側(関東軍の実力を過大視していた軍部からの強い要請があったといわれる)がソ連側の条件を無条件に受け入れる形で協定(満州における権益や南樺太・千島列島とひきかえにドイツ降伏後二、三ヵ月以内に対日参戦すること、また、蒋介石政府を正当な中国代表として承認することなどの内容)が成立したというわけであります。結局、ソ連は約三ヶ月後にその約束を実行に移すことになりますが、実はそのことこそが日本への原爆投下にとって深い意味をもつことになるわけです。

アメリカは一九四五年二月のヤルタ会談の時点では、ソ連による領土・権益の獲得を大西洋憲章(一九四一年八月一四日、イギリスのチャーチル首相とアメリカのルーズヴェルト大統領とが発表した共同宣言)に盛り込まれた領土不拡大の原則や連合国の一員である中国の蒋介石政府の意思に反してまで、ソ連の対日戦への参加を求めていました。しかし、こうしたアメリカの姿勢は、日本側の終戦工作についての情報と同年七月に原爆実験が可能になったとの報告が一九四五年春のほぼ同時期にトルーマン米大統領(一九四五年四月にルーズヴェルトの急死により副大統領より昇格)のもとに届くことによって大きく変化することになります。アメリカにとっては、日本への原爆投下によって日本が降伏すれば、それによってソ連参戦を防ぎ(あるいはたとえソ連が参戦したとしても)、戦後の極東や日本の占領政策においてソ連の発言権・影響力の拡大を封じ込める可能性がでてきたわけです。

アメリカによる戦争の引き延ばしー基本方針は「はじめに原爆投下ありき」

アメリカ側の姿勢の変化は、次の二つの動きに端的にあらわれてきます。

そのひとつは、七月に開催される予定であったポツダム会談を先延ばしにしようとしたことです。結局、ポツダム会談直前の一九四五年七月一六日に原爆実験が成功し、翌一七日から開催されたポツダム会談において、トルーマン米大統領は強硬姿勢に終始することができました。

もうひとつは、同じ頃に交渉が行われておりました、中国の蒋介石政府とソ連政府との間の協定成立を遅らせようとしたことです。この交渉は、中国が満州におけるソ連の権益を承認すると同時に、ソ連も中国の蒋介石政府の正当性を承認するという内容で、アメリカ自身の斡旋によってすすめられていたものでした。アメリカ側はその交渉を原爆開発の目途が立った段階で、原爆実験が成功した後にその協定を結ぶ時期を遅らせるように中国側に働きかけていました。このようにアメリカ側が、ポツダム会談の開催時期を先延ばしにし、中ソ間の協定成立を遅らせようとしたという動きの背景には、ソ連参戦をあわよくば防ぐか(またソ連が参戦した場合はその影響を最小限にとどめ)、日本への原爆投下の時期をできるだけ早めて何としてでもそれを実行に移すというねらいがあったと思われます。

当初ポツダム会談では、日本側が求めていた「国体護持(天皇制の維持)」を何らかの形で容認する文言が宣言文案のなかに入れられていました。しかし、最後の段階でバーンズ米国務長官などの強い要求によりトルーマン大統領がその削除を最終的に決定し、ポツダム宣言は日本に対する「無条件降伏」を求めるという形でだされました。これは、当時の日本の戦争指導部にとっては到底受け入れがたい厳しすぎる降伏条件であり、日本の終戦工作を知っているアメリカ側からすれば、日本側の拒否を見通した上でなされたものと考えられます。そのことは、トルーマン大統領が日本側の拒否を確信して、七月二六日にポツダム宣言が出される前日の二五日に日本への原爆投下を命令する文書にすでに署名していたという事実が物語っています。

ポツダム会談の最後の段階でトルーマンは原爆実験が成功したことをスターリンに知らせますが、それによってソ連の対日参戦が不必要になりヤルタでの公約が無効になったとは伝えてはいません。逆に、これに対してスターリンは、ドイツ降伏(一九四五年五月八日)後三ヶ月前後で対日参戦するというヤルタでの取り決めに従って八月一五日までには対日参戦することになるだろう、ということをトルーマンに表明しています。なぜならば、八月一四日にはソ連政府と中国の蒋介石政府との間での協定が結ばれることになっていたからです。そこでトルーマンは、すでに原爆実験が成功した場合にはできるだけ早い段階で日本に投下することを決定していましたが、ポツダム会談以後、日本への原爆投下の準備を急ぐようにとの命令を下します。そして、七月一六日に実験に成功したばかりの原爆をそれから三週間もたってない八月六日に広島、九日に長崎と立て続けに落とすことになるわけです。ここで、なぜこの時期にあのように急いで原爆投下を行ったのか、という問題が当然浮上してきます。その理由は、これまでお話ししてきたように、アメリカ側としては、ソ連参戦が不要になるように、あるいはソ連が参戦したとしてもその影響が最小限になるようにということで、ソ連が参戦するはずであった八月一五日以前にどうしても日本に原爆を投下する必要があったということであります。

日本側の対応ー「国体護持」と「遅すぎた聖断」■

一方、日本側のこの間の動きはどうであったでしょうか。日本は、一九四四年七月に東条英機内閣に代わって成立した小磯国昭内閣が中国との和平工作をすすめますが、それもうまくいきませんでした。アメリカはB29による日本本土爆撃を同年六月の北九州爆撃から本格的に開始します。翌四五年に入ると新任のC.E.ル・メイ少将司令官のもとで大都市への夜間焼夷弾絨毯(じゅうたん)爆撃が開始され、三月一〇日には東京大空襲が行われて死者は約一〇万人にも達しました。こうした敗色濃厚な状況下において早期終戦を進言した「近衛上奏文」も、「国体護持(天皇制の維持)」などの条件を連合国側に受け入れさせるためには再度の戦果を挙げる必要があるとの天皇の判断で先送りとなりました。その後、四月に宮中グループに推される形でできた鈴木貫太郎内閣も、五月八日のドイツ降伏や六月の沖縄戦での凄惨な敗北にもかかわらず、依然として「国体護持(天皇制の維持)」の条件で対ソ交渉による終戦工作を行う一方で、本土決戦体制への強化を図るなどあくまでも継戦の意思をつらぬこうとしていました。そして、七月二六日にだされたポツダム宣言に対して、鈴木内閣はいわゆる「黙殺」声明を発表しましたが、その時点でもソ連を通じた終戦工作に一縷(いちる)の望みを託していたのでした。

結局、鈴木内閣は、八月六日広島、八月九日長崎への二回にわたる原爆投下と八月八日深夜から九日早朝にかけてのソ連参戦によって多くの国民が犠牲となるなかで、ようやくポツダム宣言を受諾するにいたったわけです。

日本降伏の実情ー「原爆投下」を上回る「ソ連参戦」衝撃

ここで、「原爆投下」および「ソ連参戦」と「日本降伏」との関係を少し考えてみることにします。当時の日本の戦争指導者は、八月六日に米軍のB29によって広島に最初の原爆が投下された後にも、何らかの新たな対応を、すなわちポツダム宣言を受諾するシグナルをだすといった特別な動きをしたわけではありませんでした。日本の戦争指導者が降伏に向けてあわただしく動き出すのは、八月八日深夜から翌九日早朝にかけてのソ連参戦の衝撃を受けた後のことでした。

ソ連参戦の報告を受けた日本の戦争指導者は、直ちに最高戦争指導会議の開催を決定し、八月九日にその会議が開かれている最中に長崎への二発目の原爆投下の情報に接したわけです。しかし、この最高戦争指導会議においても降伏条件などで主戦(本土決戦)派と和平派の間で容易に結論がでませんでした。結局、同日深夜から翌一〇日にかけての御前会議において、天皇の「聖断」によってポツダム宣言の受諾が「国体護持(天皇制の維持)」の一条件を付ける形でようやく決定されたのです。

このように、ポツダム宣言を日本側が受諾する経緯をみれば、「日本降伏」にとって決定的であったのは、広島・長崎への二度にわたる「原爆投下」というよりも、最後まで和平仲介の役割を期待していたソ連からの最悪の回答、すなわち「ソ連参戦」の方であったということが理解できると思います。例えば、八月九日の『木戸幸一日記』および『細川日記』にもそのことが記述されています。

長崎への二発目の原爆投下が意味するものー「早期終戦・人命救済」説の虚構性

また、アメリカが八月九日にあえて長崎に再び原爆を投下したというのは、次のような二つの理由があると考えられます。

第一の理由は、ソ連との関係を考慮した結果であったということです。アメリカにとって、戦後の日本の占領政策を独占的に行うためには、日本を降伏に追い込んだのは原爆投下であったという普遍的な解釈が確立される必要があったわけです。ソ連が対日参戦を予定を早めて実施した影響(戦後の極東および日本での発言権・影響力の拡大)を最小限にするためにも、ソ連参戦後に長崎への二発目の原爆投下を行って、日本降伏を決定づけたのはやはり広島・長崎への二度にわたる「原爆投下」であったという既成事実を作る必要があったためともいえます。

第二の理由は、新型兵器の実験という側面をもっていたということです。アメリカが広島に最初に落とした原爆(「リトル・ボーイ」)はウラン型と呼ばれる爆弾でありました。それに対して、長崎に投下された原爆(「ファット・マン」)は、ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠での実験で使用されたものと同じプルトニウム型で、ウラン型原爆よりも爆発力のあるものでした。アメリカにしてみれば、異なるタイプの新型兵器の本当の威力を知るためには、相手(日本)側の侵略・攻撃によってはじまったこの「正義の戦争」が続いている今こそが千載一遇の機会である(広島から長崎への原爆投下までにはたった三日間の猶予しかなかった!)、という認識があったのではないかということです。

トルーマン米大統領は、原爆投下によって壊滅的な打撃を受けた後の広島の惨状について、原子雲やその他の障害のとれた八月八日の段階で詳細な報告を受けてかなりのショックを受けていたといわれます。しかし、それでもなおかつ長崎への二発目の原爆投下の命令(当初から連続して落とせという決定がなされていた)を撤回することはありませんでした。

このように歴史的な事実関係をみてきますと、アメリカ側の公式見解である「早期終戦・人命救済」説というものが、いかに原爆投下を正当化するためにあとから作られた「神話」、すなわち「虚構の論理」であったかということが明らかになるのではないかと思います。今の時点で指摘できることは、「はじめに原爆投下ありき」であり、原爆投下によって早期終戦に結びついたのではなく、戦争終結は逆に原爆開発・投下のために意図的に延ばされた(その結果、止められたかもしれないソ連参戦さえも早められた)というのが事実だと思います。当時の日本の状況は、すでにアメリカによる徹底した戦略爆撃や海上封鎖によって継戦能力をほぼ失っており、日々の食料にも事欠くという有様でした。また、戦後の米軍による調査によっても四五年中には確実に日本は降伏していたであろうことが明らかになっています。また、もし原爆投下が行われなくても八月一五日に予定通りにソ連が参戦していれば、アメリカ側が九州上陸作戦(オリンピック作戦)を計画していた一一月一日までには確実に降伏したであろうと思われます。さらに、これは議論が分れるところとは思いますけれども、もしポツダム宣言でアメリカ側が国体護持を許容するような文言を当初のまま入れ、原爆投下についても(原爆開発に協力したL.シラードなどの科学者達が進言したように)東京湾その他の無人の地で「事前警告」のための投下をしていれば、ソ連参戦以前に日本が降伏した可能性は非常に強いといえるのではないかと思います。ところが、実際には二発の原爆が日本の二つの都市に相次いで投下された結果、広島で約一六万人、長崎で約七万四〇〇〇人、合計で約二三万人以上の人々が直接の犠牲となったわけであります。また、これらの犠牲者のなかには、約四万人(広島で約三万人、長崎で約一万人)の朝鮮人や数十人の連合軍捕虜など多くの外国人が含まれていました。アメリカ側はこうした人々の存在を事前に知ったうえであえて原爆投下を実施したのであり、日本への原爆投下はアメリカ兵ばかりでなく、数百万人の日本人やアジア人々の生命をも救うことになったというふうな説明が、いかに事実に反した欺瞞的なものであるかが分かると思います。

対ソ抑止が原爆投下の最大の理由、軍事的には不必要であった

これまでのまとめとして、日本にアメリカが原爆を投下したのは結局のところ何のためであったのか、という問題をあらためて考えてみたいと思います。それは、短くまとめれば次のようにいえると思います。日本への原爆投下は、法的には明らかな非人道的な違法行為、すなわち「戦争犯罪」であり、軍事的には不必要であったといえます。また政治的には、それは、ソ連の参戦を早めただけでなく、核兵器開発競争の端緒となり本格的な冷戦に道を開いた、という意味合いにおいて最悪の結果をまねいたとしかいいようのないものでありました。何よりも押えておく必要があるのは、原爆・核兵器というのは、非戦闘員を瞬時・無差別に大量殺戮するばかりでなく、その後も放射能障害などによる地獄の苦しみを犠牲者に長年にわたって負わせて死にいたらしめるという究極の「悪魔の兵器」であり、どのような理由・状況においても決してその使用を正当化することはできないということであります。

アメリカが日本に原爆を投下した政治的な理由としては、先ほども言ったように、戦後の米ソ対立を中心とする「冷戦」を見通したうえでの対ソ「封じ込め」政策といいますか、対ソ抑止戦略が中心であったと思います。その他の要因としては、トルーマン大統領の八月七日の声明にもあるように、やはり日本による真珠湾への奇襲攻撃や連合軍の戦争捕虜への虐待などに対する報復・懲罰という側面が強くあったと思います。当時のアメリカ軍人のインタビューを最近のテレビ報道などで見る機会がありましたが、「あのとき原爆が十発あれば十発すべてをそのまま日本の都市に落とすべきだったし、落としたかった」という証言がまさにそのことを物語っていると思います。また、この点では、日本から最もひどい損害をこうむったアジアの多くの人々が、アメリカ人と同じかそれ以上の感情を日本に対してもっていたという事実も知っておく必要があると思われます。

これと関連して、アメリカが原爆投下を決定・実行するにあたって、黄色人種である日本人に対する人種的な差別・偏見といったものもあったのではないかと指摘せざるをえません。早い段階でドイツではなく日本に原爆投下の対象を変更し、降伏間際の日本にあえて投下するという選択を行ったというのも、そういった要因が強く働いたのではないかと思われます。最も、当時の日本も「鬼畜米英」という言葉に示されるような人種的な差別・偏見を持っていたことも事実ですが。

また、長崎への二発目の原爆投下に特に示されているように、アメリカ側にはやはり何としても従来のものとはまったく違った特別な新型兵器である原爆の威力を実戦で試す必要があった、千載一遇の人体実験の機会を逃してはならないという認識があったということです。これについては、日本の都市のなかでそれまで戦略爆撃の被害を比較的受けていない(というよりも、それまで爆撃禁止の措置がとられていた)、原爆の威力が最大限に発揮されてその効果が事後に確認しやすいような都市を選んだということでも明らかであります。また、原爆投下前後の状況を克明に記録を取り、日本降伏後も被爆者の治療のためではなく、原爆の威力を確認して新型核兵器の開発に結びつけるための調査を徹底的に行うとともに、それに関する情報の秘匿を検閲によって徹底化させたというようなやり方にも人体実験的な要素が明確にあらわれていると思います。

さらに、最近になって指摘されるようになった事実としては、マンハッタン計画に要した二〇億ドルという巨額な費用は何のためであったのかを米国民に納得させる必要があったということです。当時の二〇億ドルは、現在の価値でいえば、米国ドルではおよそ八倍の一六〇億ドル、日本のお金では約二兆円ともいわれています。トルーマン大統領は、これだけの巨大な費用をかけて作られた新兵器を使わなかったのは何事だと批判されるのをかわすために好むと好まざるにかかわらず使わざるをえなかったであろうということです。これは、当時それほど米国民や米議会の圧力というか、日本に対する怒りと憎しみが強かったということだと思います。

以上、これまで原爆投下にいたるまでの経緯や原爆投下の本当の理由などについて、わたしの考えをお話しさせていただきました。原爆投下によって日本が降伏を決定し早期終戦が実現できたのであり、それによってアメリカ兵ばかりでなく多くの日本人やアジアの人々の生命が救われることになったのだ、だから原爆投下は必要かつ正当であったのだ、という「原爆神話」は、原爆投下を正当化するために、あるいは第二次世界大戦における最大の「戦争犯罪」であることを覆い隠すために戦後になってアメリカによって作られた「虚構の論理」であることは明らかであると思います。原爆投下にいたった経緯や理由をアメリカ側に焦点をあわせれば、確かにそういったことがいえると思います。

しかし、ここで注意しておく必要があるのは、逆に日本側が先に原爆を開発していたとすれば、おそらく日本側は躊躇なく開発したばかりの原爆をアメリカのニューヨークやワシントンなどに真っ先に落としたであろうと思います。それは、敗戦必至という状況になってもあくまでも「国体護持」のためには国民の犠牲などをかえりみずに無謀な戦争を続けようとした当時の日本の戦争指導者たちの「狂気」といってもいいと思います。

四五年五月のドイツ降伏や六月の沖縄戦、七月のポッダム宣言などを戦争終結に結びつけようとしなかった彼らの戦争責任の大きさを指摘しなければなりません。そして、四五年二月の「近衛上奏文」を再度の戦果を挙げてからという理由で本気で取り上げようとしなかった昭和天皇自身が最後の最後に下したといわれる「遅すぎた聖断」の意味を、あらためて考える必要があると思います。

「無差別爆撃」の延長としての原爆投下ー原点としての「重慶爆撃」■

原爆投下との関連で、最後にふれておきたいことは、アメリカによる原爆投下は、ナチス・ドイツによる一九三七年四月のスペインのゲルニカに対する爆撃や一九三八年末の日本による中国の重慶に対する爆撃などを契機にはじまった「無差別爆撃」の延長で行われたという事実です。都市の住民・非戦闘員を対象とした「無差別爆撃」は、非戦闘員の殺傷を禁止する一九〇七年のハーグ条約などに照らしても明らかな国際法違反であり、戦争犯罪であるということです。アメリカを含む多くの連合国がこの条約に参加していましたが、その連合国側がナチス・ドイツや日本の「狂気」にあおられる形でとうとう自らの禁を犯したのが、ドイツのドレスデンや日本の東京などに対する情け容赦ない大空襲であったということです。そして、アメリカによる日本への原爆投下は、その「無差別爆撃」を究極的な形で実行してみせたものだといえます。

第二次世界大戦後も、一九〇七年のハーグ条約の流れをくんだ一九四九年八月のジュネーブ四条約など多くの国際人道法が成立していますが、それにもかかわらず朝鮮戦争やヴェトナム戦争などにみられたように、戦争における「無差別爆撃」は正義の有無をとわず行われてきているばかりでなく、アメリカをはじめとする核大国が「核の先制使用」をも前提にした「核抑止戦略」を保持し続けているというのが現実です。わたしたちはこうした現実を克服するためにも、「無差別爆撃」と「核抑止戦略」の原点ともいえる「原爆神話」から解放されることが求められているのではないでしょうか。

NATO空爆」と「原爆投下」の本質的共通点ー「正義の戦争」と「戦争犯罪」■

それでは残り時間が少なくなってきましたので、最後にNATOによるユーゴ空爆といいますか、「正義の戦争」とのかかわりでこの原爆の問題をふれることにします。ここで、コソヴォ紛争の背景やNATO空爆の問題を詳しくお話しすることはできませんけれども、日本への原爆投下との共通点としては、第一に、NATOと連合国という違いはありますが、アメリカが中心となった側が行った武力行使の問題であるということ、両者ともにその武力行使(原爆投下と空爆)を「正義の戦争」、「人道のための戦争」という形で正当化しているということです。まず最初に注目すべきことは、両者の武力行使のきっかけとなる最後通告あるいは降伏の条件が一方的にアメリカ側によって高く設定されたということです。NATO空爆の場合は、パリ郊外ランブイエでアメリカなどが用意した協定案をユーゴ側が一方的に拒否したことが交渉決裂の原因となったといわれています。しかし、その真相は、ユーゴ全土へのNATO軍駐留とその特権的地位の享受という、主権国家であるならばとうてい受け入れがたい条件をユーゴが断固として拒否したということであります。この条件は、ランブイエからパリに舞台を移した最後の交渉で、アメリカのオルブライト国務長官によって突然持ち出されたものであり、ユーゴ側の拒否を当然見越したうえでの要求であったと思われます。ここら辺の問題は、ポツダム宣言で「国体護持」に関わる文言がトルーマン大統領とバーンズ国務長官の判断で最終的に削られた経緯とも重なります。

また、両者のもう一つの共通点は、「正義の戦争」、「人道のための戦争」という大義名分で武力行使が行われたことでありますが、その崇高な目的とそれを実現するために実際にとられた手段・方法のあいだに大きな乖離(かいり)・不均衡があったということです。「悪魔の兵器」といわれる原爆の使用が非人道的な行為であるのは明白であると思います。それに対して、NATOによるユーゴ空爆の場合は、トマホークなど高度な精密誘導弾をもちいた「限定的な空爆」であって「無差別爆撃」ではない、とNATO側は主張しました。しかし、はたしてそうであったでしょうか。実際には、民間施設や放送施設などへの攻撃や度重なる「誤爆」という形で、ユーゴ側の民間人ばかりでなく救済するはずのアルバニア系難民・住民のなかからも多くの犠牲者が出ています。一方、NATO側は、アルバニア系難民・住民を本当に救うためには絶対に必要であるといわれていた地上軍投入を最初から選択からはずして安全な高度からの戦闘機による空爆や精密誘導兵器による一方的攻撃に終始したため、自陣営からの戦死者ゼロという歴史上かってなかった結果を生んでいます。こうしたNATO側とユーゴ側の犠牲者の対照的な差には、「一方的な殺戮」というこの戦争の本質が象徴的にあらわれています。

さらに、NATO側が湾岸戦争でもその危険性が指摘されていた「劣化ウラン弾」(高い貫通性をもった放射性弾頭で、一種の「核兵器」)を大量に使用したという事実からもユーゴ空爆を正当化することは決してできないと思います。

「二一世紀型の新しい戦争」の克服に向けてー日本の役割とは何か■

クリントン大統領が一九九四年のスミソニアン展示論争に関連して「トルーマン大統領が下した原爆投下の決断は正しかった」と語ったように、現在でもアメリカでは原爆投下を正当化する世論が圧倒的に強いようです。また、核抑止論に基づく核の先制使用という選択も放棄されてはおりません。「無差別爆撃」と「核の先制使用」の禁止という、本来ならば二〇世紀のうちに解決されていなければならない課題が二一世紀に持ち越されようとしています。その意味で、今日お話しした「原爆投下」は決して過去の問題などではなく、現在から未来にわたる人類にとっての最も緊急かつ重要な問題の一つであり続けていると思います。そして、NATO空爆の問題でいえば、「正義の戦争」、「人道のための戦争」という大義名分を掲げて一方的な軍事介入・先制攻撃を圧倒的な戦力で行ってそれを正当化するというパターンがこれから先「二一世紀型の新しい戦争」として定着するおそれがあります。とくにNATO空爆の際には、国際社会の平和と安全に対して第一義的な責任を有する国連安保理が無視されたばかりでなく、ユーゴ空爆にあたって戦術核兵器の使用さえもが示唆・検討された経緯もあることを考えれば、この問題がいかに深刻な性格をもったものであるかが分かると思います。

こういった新たな戦争の動きは、日本にも決して無関係ではあり得ないということです。それどころか、アメリカと同盟関係を結んでいる日本は今後それによって大きな影響を受けることになると思います。なぜなら、新ガイドラインや周辺事態法などによって日米安保体制の性格・本質がここ数年で大きく変わり、日本自身もこれまでいわれてきた「自衛(あるいは防衛)のための戦争」だけではなく、アメリカなどが唱える「正義の戦争」、「人道のための戦争」に加担させられる可能性が急速に強まっているといえるからです。そういった動きを何とか二一世紀に持ち越さないように、早い段階でそれを克服するために力を尽くしていくことが今のわたしたちに求められているのではないかと思います。

(本稿は、昨年八月一五日の「平和サマーフェスタ」で行った講演内容を修正・加筆したものです。)