■基調講演(1999年7月3日、長崎県教育文化会館)

NATO空爆とコソボ難民問題を考える」 

                                                          木村 朗(鹿児島大学助教授)

 

 はじめに

 私は、ユーゴスラビアに15年くらい前に2年近く留学し、その後紛争中の94年10月、および紛争後の去年3月、と合計3度現地を訪れました。その後もユーゴとの関係は、九州大学法学部のチャスラヴさんなどを通じ、いろいろありました。そして、ボスニア紛争のとき以来、「難民を助ける会」(AAR)を通じて私も現地の支援活動にご協力する機会があり今日にいたっています。

「難民を助ける会」は、70年代後半にインドシナ難民支援のために発足した会で、ユーゴ問題ではボスニア紛争の最初の頃からベオグラード、ザグレブ、サラエボの3カ所に事務所を開き、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の3民族それぞれに公正な形での難民支援活動を続けてきた会です。昨年2月、コソボ紛争が表面化して以来、サラエボ事務所からマケドニアのスコピエに派遣して支援を行い、またベオグラード事務所では、ベオグラードに逃れてきたセルビア難民やアルバニア難民の支援を両方にわたって、公平に行っているということです。私は、「平和問題ゼミナール」というゼミのホームページを開いていますが、そこに「難民を助ける会」のメンバーで、現地に何度も行かれている横田暢之国際部長などの報告を寄せていただいており、それらもぜひ見ていただきたいと思います。また、昨日、7月2日の朝日新聞の「天声人語」に、事務局次長の長有紀枝さんの活動を通しての難民を助ける会の紹介記事がありましたので、ぜひご参照ください。

 

    NATOのユーゴ空爆の結果は何だったのか

 NATO(北大西洋条約機構軍)の空爆が3月24日に始まり、78日間続きました。5月20日にユーゴ軍が撤退、多くのアルバニア系難民が帰還し、その中で、新たな問題がいろいろ生じております。現時点で、このNATOの空爆とは一体何であったのか、またコソボ紛争の背景はどんなものであるのか、考え直してみたいと思います。

 まず、NATOの空爆の結果だけをざっと押さえてみます。NATO側の死傷者について、戦死者は0です。訓練中の事故死が2名、捕虜は3名ありましたけれども、途中で無事解放されております。

 それに対し、ユーゴ側の被害は、500億ドルから1500億ドルとも言われる物的な損害があり、今後10年〜15年かかっても完全に復旧するのは難しい、と言われています。セルビア当局の発表によりますと、民間人の被害は1200名〜2000名、軍人の被害は約600名としています。NATO側の報告では、5000名としています。これらの確定した数字は非常に難しいところです。また、誤爆により、セルビアの民間人ばかりでなく、アルバニア人の住民や難民に、300人以上の死者が出ているということです。

 難民に関しては、昨年の2月来のコソボ解放軍とセルビア治安当局との衝突その他により、空爆以前にも約2000名の死者と約20万人の難民が出ている状況がありました。そして、その後の空爆の最中のさまざまな衝突の結果、空爆終了直前には、100万人以上の難民が隣接諸国に溢れ出ていたという状況です。その難民の1/3から1/2に近いアルバニア系難民が、すでにコソボ中心に帰還を始めているということは、皆さんご存じのことだと思います。

 また、NATO空爆を契機に始められた、セルビア側の大規模な「民族浄化」と言われる作戦によって、アルバニア系の人々の犠牲者は、当初、NATO側は10万名としていましたが、いまは1万名といわれています。これについてもいま調査団が入って、場所の確定その他をしている最中ですが、確定した数字はいまだハッキリしないところです。

 このような結果を見て、私は人命の重さの違いのようなものを感じます。攻撃をしかけたNATO側の戦死者は0で、ユーゴ側にはこれだけの死傷者があり、アルバニア系の難民については、NATOの空爆とセルビア側の作戦によって、これだけの犠牲者が出ている現実があります。

 戦争が終わり、NATO側もミロシェビッチ大統領も、双方が勝利宣言を行っています。その勝利宣言は、それぞれに言い分があり、とりわけミロシェビッチ大統領側の言い分が通ったという側面があるため、このように双方に主張ができるというところが、この戦争の「勝利なき戦争」という言い方をされる、象徴的な出来事ではないだろうか、と思います。

 人命の重さの違いという点では、軍事力によってこういった複雑な民族問題を根本的に解決することはできない、軍事力の限界というものを改めて確認した出来事ではなかったかと思います。NATO側は、今回の勝利に自信を得て、新たな民族紛争への介入の敷居を低くしたという、逆の教訓を得ているようなきらいもあるが、それはまるっきりの思い違いではないか、という気もします。

 

 1)コソボ紛争の歴史的背景と対立の構図

 コソボの問題、ボスニアの問題もそうなのですが、バルカン地域の民族紛争の根源をたどれば、かならず、かなり古い時代にさかのぼって、800年とかという宿命的、歴史的対決が強調されます。それは一面事実であり、それ自体は否定できない重みを持っていますが、それが決して乗り越えられないものだとは思いません。それでは、歴史的背景から入っていきたいと思います。

 このユーゴ、コソボ、アルバニアを含むバルカン半島の歴史は、日本から見ると、非常に複雑で、想像を絶するような歴史を経ております。東西の十字路といわれるように、この地におきましては、古くは西ローマ帝国(カトリック)、ビザンチン帝国=東ローマ帝国(ギリシア正教)の対立、あるいはその後のハプスブルグ帝国(キリスト教)、オスマントルコ帝国(イスラム教)の対立、さらには第二次大戦後には、東西冷戦の最前線の地域であり、資本主義と社会主義のイデオロギー対立の最前線の地域でもありました。東西対立、宗教、文化、イデオロギー対立の発火点となる地域であったということが、大きな原因を持っていると思います。そうした中で、これらの地域では、支配者と被支配者が何度も入れ替わりました。ベオグラードだけでも100回か150回か支配者が入れ替わったともいわれる関係があります。

 コソボ問題もその領有権をめぐり、ユーゴ国内でもセルビア側とアルバニア側の言い分はかなり違っているので、双方の主張をご紹介します。

 アルバニア側は、アルバニア人はこの地域、バルカン半島の先住民と言われるイリュリア人の子孫、末裔であるという主張です。また、セルビア側からすれば、コソボは中世セルビア王国の中心地であり、セルビア正教の聖地でもあるという主張です。アルバニア人が、バルカン半島の先住民の血をひいているであろうというのは、大方の見方が一致がしております。バルカン半島にスラブ人が南下してきたのは、6〜7世紀以降のことであり、そこにはもともとはアルバニア人が住んでいたと思われます。

 12世紀の末にセルビア人が入ってきて、この地域を中心とした中世セルビア王国を築きます。そして、よく言及される1389年の「コソボの戦い」で、オスマン・トルコにセルビアなどのスラブ連合軍が敗れ、その後500年、この地域はオスマン・トルコの支配下におかれる、という経緯になります。

 アルバニア人が、イスラム教に改宗して、コソボに戻って定着するのが、17〜18世紀以降だと言われております。それ以後、この地ではアルバニア人の支配の長い時代が続きました。それが逆転することになったのが、第一次世界大戦直後におきた第一次バルカン戦争、1912年の出来事です。そして、アルバニアという国が西欧列強の思惑で独立しますが、一方、コソボ地域も西欧列強の思惑でセルビア側に属することになります。セルビア王国そのものは、1878年のベルリン会議ですでに独立していました。そのセルビア王国とモンテネグロ王国が中心となってできたのが、第一次大戦後の「第一(次)のユーゴスラビア」という国です。

 この「第一(次)のユーゴスラビア」は、セルビア人が優位に立つセルビア至上主義と言っていい国家でした。それに対する反発は、少数民族、とりわけ2番目の多数派を占めていたクロアチア人問題となって現れます。「第一(次)のユーゴスラビア」の民族問題が、一番悲劇的な問題として現れたのは、第二次大戦中の「兄弟殺し」と言われるような内戦による犠牲です。ユーゴスラビアは、ドイツやイタリア、ブルガリア、ハンガリーその他の枢軸諸国に占領されたわけです。現在のクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナを合わせたぐらいの地域を、ドイツが占領しました。そしてこの地域で、ドイツの 国家と言われている「クロアチア独立国家」がつくられ、「ウスタシャ」というファシスト団体が政権を継ぐことになります。このウスタシャ支配下のクロアチア独立国家において、人種(民族差別)政策が進められ、多くはセルビア人、あるいはユダヤ人、ジプシー、社会主義者、反戦・平和主義者、民主主義者も含めて犠牲となりました。そして、これに対抗したセルビア人の民族主義組織(チェトニク)によって、クロアチア人にも犠牲者が出て、この政権下では多くの犠牲者が出ました。セルビアから見れば、この時の記憶が非常に生々しく残っており、クロアチア人とそれに協力したムスリムに対する不信が残った事件であっただろうと思われます。

 コソボの地に目を転じますと、アルバニア本国もイタリアの支配下におかれます。そのイタリア軍がコソボ地域も支配し、アルバニア人を使い、その地域のセルビア人に対して虐殺も行ったという経緯がありました。

 その後、第二次大戦後に、チトーの率いるパルチザンが国土を解放するといった、(中国と同じような)民族解放戦争と社会革命が重なりあう形ですすんだのが、ユーゴ革命の特徴です。そして大戦後の社会主義ユーゴスラビアでは、諸民族の平等と団結というスローガンの下、少数民族を含めた諸民族の平等と平和的な共存がまがりなりにも実現されていきました。当初は、まだ「第一(次)のユーゴスラビア」のセルビア人優位の影響が、色濃く残っていたと思います。しかし、1960年代末のさまざまな民族からの異議申し立て、すなわち1968年のコソボ、ボスニアのムスリムの反乱、1971〜72年のクロアチアの異議申し立てなどがありました。その結果、1974年の新しい憲法体制の下で、より少数民族の権利が強まり、尊重されるようになりました。6つの共和国と2つの自治州で構成されるユーゴは、「74年憲法体制」の下、2つの自治州が6つの共和国とほとんど同等の経済主権、その他を行使できる非常に分権的な連邦体制でありました。非常に民主的とも言えるのですが、さまざまな問題をはらんでいたということもあります。

 この「74年憲法体制」下で、コソボのアルバニア化は一挙に進みます。ユーゴスラビア連邦の全体の危機とも連動しまして、1970年代末〜1980年代、ユーゴ全体で経済危機が深刻化する中で、コソボが最貧地域であったこともあり、その矛盾が集中的に表れることになります。

 チトーが1980年に亡くなり、1981年に生じたコソボ事件も、1968年同様、コソボに住むアルバニア人からの申し立てによるものでした。具体的には、自治権の強化、すなわち自治州ではなく、自治共和国への昇格を求めるような動きでした。それは、いったん連邦の力によって沈静化されますが、その後さらにコソボのアルバニア化が進みます。これは、言語政策におけるアルバニア語の徹底もそうですし、少数派になっていたセルビア人やモンテネグロ人に対するさまざまな圧力、いやがらせ、といったさまざまな話が伝えられています。かなり誇張された部分もあるでしょうが、その時期にこの地域からかなりのセルビア人が脱出を余儀なくされた、という状況があったと伝えられています。

 ところが、このアルバニア人優位の時代はまもなく終止符を打つことになりました。その契機となったのが86〜87年に表面化しましたコソボ危機です。この3番目のコソボ危機では、コソボ自治州の少数派のセルビア人側が、ベオグラードまで来て、自分たちの同胞に異議を申し立てるという、初めての形態をとります。コソボで自分たちは、こんなにひどい目にあっているのでどうにかしてほしい、という訴えかけをするわけです。それに呼応したのが、ミロシェビッチでした。

 1986〜87年に、私はちょうどユーゴスラビアに留学しており、私がベオグラード大学で知り合ったあるアルバニア人が、私が帰国する直前に渡してくれたのが、セルビア・アカデミーが出した「メモランダム」(覚書)でした。それはコソボ問題における、セルビア民族主義を最初に体系的にまとめたもので、いまから見ても非常に歴史的な文書というべきものです。ミロシェビッチは最初から民族主義者であったわけでありませんし、最終的にも本当の民族主義者であるとは言えないと思います。日本では、彼が自分の権力掌握あるいはその維持のために民族主義を利用した、という見方が一部ありますが、これがふさわしい評価かもしれません。コソボにおけるアルバニア人とセルビア人、双方の民族主義が高まるなか、ミロシェビッチがセルビア権力の中枢を握り、コソボに対する自治権の剥奪が具体的な動きとなって現れます。これが1989年、1990年の出来事です。

 それに対して、コソボのアルバニア系住民は「コソボ共和国」樹立の宣言を行い、独自の選挙を行って、ルゴヴァ氏を大統領に選出するという形で抵抗を続けます。教育もアルバニア語教育の禁止に対抗する形で、自らが場所を設けて、日本の寺子屋ではありませんが、独自の教育を続け、その後も10年近くセルビア側の抑圧・弾圧に耐えて、基本的には非暴力的に対抗してきました。しかし、何年経っても状況が改善されない。国際社会が何ら関心を持たない、という状況の中で、一部のアルバニア人が武装し、武力による独立路線を目指しだしました。その中核となった組織が、「コソボ解放軍」です。

 コソボ解放軍の結成は、1980年代の後半と見られています。ちょうどスロベニア、クロアチア、ボスニア内戦という3つの内戦が起こるのにあわせて、コソボ解放軍も最初は規模・装備とも非常に貧弱なもので始まった。それが飛躍的な強化をするのには、1996年〜97年のアルバニアの混乱状況の中でのアルバニアからの武器流入ということが、非常に大きかったということです。

 「ねずみ講」の破綻に端を発したアルバニアの危機について詳しくは言及しませんが、その時期に大量の武器が、アルバニアを通じてコソボに流れたことだけは間違いないようです。昨年の2月以降、コソボ解放軍の解放作戦、これを「テロ」と見るかどうかは、立場によってぜんぜん違うところですが、それに対するセルビア当局の掃討作戦が大規模になされるなかで、20万人の難民と2000人の犠牲者がでたということです。

 昨年の10月、NATOの軍事的圧力により、ミロシェビッチ側の一定の譲歩が得られ、治安部隊の一部撤退とOSCE(欧州安保協力機構)の停戦監視団約1400名が駐留することになりました。そのなかで、今年1月、再びセルビア側の掃討作戦が激しさを極め、ある村でのアルバニア系住民の虐殺事件が暴露されました。この事件の真偽についても評価が非常に難しいのですが、OSCE監視団はセルビア当局の責任である、と評価を下したようです。そうしたなか、旧ユーゴ問題連絡調整会議、欧米ロの6カ国による交渉に、セルビア、ユーゴ、そしてユーゴのアルバニア側の代表団を呼びつける形で、ランブイエでの交渉が行われたわけです。それが結局、決裂してユーゴ空爆に至ったということです。

 

 2)民族対立の構図をどう見るか

 民族対立の基本構図をどういうふうに見るか、次に述べたいと思います。ユーゴスラビアのさまざまな紛争は、すべて民族紛争という形で一般的に報道されています。それは、一面その通りだと思いますが、押さえておかなければならないことは、始めから民族対立ありきではない、ということです。チトー時代のユーゴスラビアは、民族問題が基本的に解決されたという言い方がされていました。私はそれは旧社会主義諸国が一様に言っていたことであって、他の国についてはそれが現実とかなりかけ離れたものであった、という評価が当たっていると思います。しかし、ユーゴスラビアの場合は、それなりの定着も見せていたので、諸民族の共存が偽りのものでもなかった、と評価しています。もちろん、矛盾やいろいろな問題はあったわけですが、それが原因で、そのまま今日につながるような対立につながったわけではない、というふうに評価できると思っています。「人は民族として生まれるのではなく、民族として生まれ変わるのである」という表現がありますように、民族意識というのは、非常に後天的かつ人為的に作り出されるものであり、とりわけ敵対的な民族意識はそうであるということは、押さえておく必要があると思います。ユーゴスラビアの場合も、さまざまな危機が結合する形で、民族対立、宗教対立につながっていった、というふうに言うことができると思います。

 一番大きかったのは、やはり経済的な危機です。対外債務200億ドルという債務を抱えるなかで、ユーゴスラビア国内の南北間の地域格差も非常に拡がります。また、自主管理経済体制の非効率な側面、機能不全も1970年代末から1980年代にかけて顕在化します。それに人口問題が重なるところが、とりわけコソボの問題では深刻です。コソボにおけるアルバニア人は、宗教的な問題もあると思いますが、出生率が非常に高く、セルビア人の約3倍とも言われています。第二次大戦直後のコソボの人口構成は、アルバニア人が6割足らずでした。それが50年経つか経たないかで、9割にもなった要因は、出生率の大きな差も一つです。この地域から(最近はセルビア人だけでなくアルバニア人もかなり脱出しているのですが)、「74年憲法体制」以降の経済危機のなか、コソボのアルバニア化政策が急速にすすむ中で、少数派であるセルビア人が脱出して、さらに少数になっていくという悪循環があった、ということも押さえておく必要があります。

 そうしたなかで、社会的な危機が言語・教育問題として、象徴的に現れます。コソボのアルバニア化の象徴は、コソボにおける教育の場におけるアルバニア語の徹底です。このためコソボのアルバニア人は、アルバニア語しかできないという人々が増え、その結果、コソボ以外の地域で経済的に就職、その他において非常に困難な状況になるという悪循環に陥ることになりました。コソボのアルバニア化のなかで、本国アルバニアと経済その他、教育的なつながりが非常に強まり、コソボ地域においてアルバニア国旗・国歌が、平時においても見られるような状況も1980年代に至って現れていました。それに対し、セルビア共和国は直接にコソボ自治州をコントロールするすべがなかった、という状況がありました。

 政治的な危機としては、社会主義の脱イデオロギー、「脱社会主義」の広がりという形で1980年代後半に明確になります。そして、それがもう一つの政治的危機、すなわち連邦体制の危機、とりわけ経済的南北間格差を背景として、共和国間の力関係にも反映されてきました。セルビアを中心とした南側諸共和国が、連邦権限の強化を求めるのに対して、スロベニア、クロアチアなどは連邦権限の縮小、自主権の強化を主張するという形で、政治危機が二つの側面から現れてきました。そうしたなかで、世界的危機として、ソ連・東欧圏の崩壊とヨーロッパ統合の影響をユーゴが受けるということです。民族対立の構図は、多数派少数派の違いも明確に出ています。また、権力側からの煽動と民衆の突き上げが結合した場合に、民族主義が異常に台頭することになりました。とりわけ恐ろしいのは、権力によるメディア支配と教育支配の恐ろしさです。

 

 3)ボスニア紛争に対する国際社会の対応

 次に、国際社会の対応の問題に移らせていただきます。ランブイエでの交渉がなぜ決裂したのか。これはいろいろな要因があり、『世界』6月号にも特集がでておりましたが、一言でいえば、「アルバニア側には飴を、セルビア側には鞭を」という形で、アルバニア側寄りの和平案をセルビア側が拒否したからだ、と評価できると思います。「ランブイエ協定案」を詳しく見ていただくと、欧米諸国側が基本原則としたのは、コソボには高度の自治権の復活は認めるが、独立は認めないということで、その点では、セルビア側と合意はしていたのです。しかし、セルビア側が一番抵抗したのは、NATO軍主体の国際部隊の駐留という問題でした。これはNATO空爆の結果、部分的には実現することになったわけですが、その問題だけをとって、NATO空爆に踏み切る必要があったのか、今からでも非常に疑問が残るところです。コソボ解放軍の武装解除その他の問題で(独立の保障がないということを含めて)、ランブイエ協定案に本質的に最後まで反対していたのは実はアルバニア側なのです。これはボスニアの紛争の場合などにもありましたが、セルビア側の拒否を見越して、一応アルバニア側に先に合意支持を取りつけた上で、セルビア、ユーゴ空爆の理由とするために交渉が行われた、と今からでもそのような構図が見てとれる部分があるのではないか思います。

 

 4)「人道的介入」の正当性をめぐって

 では、なぜNATOは空爆に踏み切ったのか。これは「人道的介入」、つまりコソボにおける反人道的な破局がこれ以上広がるのを防ぐという、人道的な責務、義務という形で打ち出されています。また、バルカン半島の安定化ということも掲げられていました。こうした理由、それも世論に押されてという部分もあったことは事実であり、すべてが嘘ではなかったと思います。

 しかし、それ以上に優先した要因として、冷戦後、その存在意義を問われているNATOの信頼性、存在価値を確認するということがあったと思います。

 また、「世界の警察官」を自負するアメリカの威信、さらには軍部や軍需産業の圧力、中東イスラム諸国への配慮、クリントン大統領の個人的なスキャンダルのもみ消し、といったさまざまな要因があったと思われます。この人道的介入権というのは、国際法上はいまだ未確立の権利です。私は将来的な積極的な意義については、これを否定するものではありません。第二次大戦後のポルポトやルワンダにおける虐殺事件などを考えたとき、国際社会が無関心、無介入であることの重大性という問題も一方であるわけです。しかし、ボスニア紛争やコソボ紛争にそれがそのまま当てはまるかどうか、それにはその地域の実態を正確に把握する必要があり、簡単には言える問題ではないと考えます。

 同じような民族紛争を抱えている地域は、現在でも23カ所ぐらいあると言われています。具体的に言えば、イラク・イランのクルド問題、あるいはロシアのチェチェン問題、中国のチベット問題、北アイルランド問題やパレスチナ問題などさまざまな紛争が起こっているわけで、そちらには一切、何ら対応することなく、コソボ、ボスニアにだけ強く介入することの問題性、いまアメリカの「ダブル・スタンダート」(二重基準)という言い方で批判されていますが、そこらへんをどう考えるかということだと思います。「主権と人権の衝突」という形で議論がされています。一方で、主権国家に対する許し難い侵略行為である、内政干渉である、というような評価がされ、また一方で、主権を盾にとった人権抑圧は許されない、現在は国家主権の時代ではなく、人道、人権の時代である、という主張も出ています。そのバランスをいかに考えるかということが、われわれに突きつけられている大きな課題だと思います。

 

 5)NATO新戦略と「周辺事態法」

 それに関連して触れておきたいのは、NATOの新戦略の問題です。先ほど鎌田先生のお話にもありましたが、コソボ紛争は明らかにヨーロッパの「周辺事態」であります。そのなかで、ドイツ、イタリアなどが対応に苦悩した姿というのは、明日の日本にダブって見えると思われます。NATOの新戦略を、ごく簡単に言いますと、域外の地域民族紛争に国連決議なしでも介入することができる、あるいはしなければならない、という方向性です。これは、新ガイドラインの下での「周辺事態法」などにも通じる発想であろうと思います。

 

 6)「正義の戦争」の特徴と問題点

 今回の戦争は「正義のための戦争」、「人道的な戦争」ということで打ち出されたわけですが、そこには6つの特徴があったと思います。

 1つは、出口戦略なしの戦争、誤算につぐ誤算、読み違えにつぐ読み違えの戦争、であったことだけは確かです。そもそも交渉が決裂するということも、欧米諸国は予想していませんでした。最後にはミロシェビッチは受け入れるであろう、という楽観的な見通しであったと思いますし、空爆に踏み切らざるを得なくなり、踏み切った後も1週間あるいは短期間で屈服するであろう、という甘い見通しでしたが、それらがすべてはずれたわけです。

 また、戦争目的にしても、最初はミロシェビッチ政権を叩いて、その政治基盤を弱体化させ、コソボのアルバニア系難民の保護、救済を実現する、ということでしたが、セルビア側の思いもかけぬ大規模な「民族浄化」作戦の展開や、ミロシェビッチを支える政権基盤の強化という形で、その両方とも裏切られることになりました。

 そうしたなかで、2つめの特徴としては、さらに戦争目的がエスカレートし、それに対応した手段もエスカレートしていきました。軍事拠点から民間施設へ爆撃対象を拡げるとともに、劣化ウラン弾、その他の新兵器が使用がされ、人道的介入という名目のもとで非人道的な行為がくり返され、アルバニア系の住民・難民、セルビアの一般人にも大きな犠牲者が出る結果に終わりました。残されたものは、巨大な破壊と殺戮と憎しみだけであったと言わざるを得ないと思います。そして、今後人体や環境に対する非常に大きな悪影響も明らかになってこようかと思います。

 各国のコソボ難民問題に対する対応については、いま一言では言えませんが、政府と一般国民の意識・姿勢はかなり違っていました。スラブ系諸国の政府側は、NATOよりの対応で終始したところはあるが、国民レベルでは、空爆に反対する勢いは非常に強いものでした。ギリシャが象徴的ですし、イタリア、ドイツなどもそういった動きが出ています。また、ハンガリー、チェコ、ブルガリア、ルーマニアといった国々でもこのような動きが明確に見られました。

 その他の4つの特徴としては、国連不在のNATOの戦争であり、メディア戦争であったこと、新兵器の実験も見られ、この戦争のために莫大な戦費が費やされたことなどが挙げられますが、詳しい説明は省かせていただきます。

 

    コソボ問題の今後の課題と展望

 最後に、現在コソボに関わる大きな課題と今後の展望について、5つの点を触れさせていただきたいと思います。

 第1点は、アルバニア系難民の安全な帰還と、それを保障するための地雷や不発弾の処理の問題です。それと同時に、第2番目に出てきているのは、セルビア系住民の保護と、コソボ解放軍の武装解除の実現です。NATO主体の国際部隊進駐後に起こっているいまのコソボの混乱状況、とりわけセルビア系住民、少数民族であるロマ人などに対するアルバニア系住民あるいはコソボ解放軍の報復によるセルビア系住民の大量流出、という事態です。50万人ぐらいのアルバニア系難民は、予想のペースを上回って帰還しています。そうしたなかで、地雷などの被害があり、一方ではそのような報復により、セルビア系の人々を中心に多くの犠牲者が出たり、難民が出ている。こういう状況を見ていて非常にやりきれない思いを感じるのは私だけではないと思います。

 第3番目は、行政や警察機能の回復、また復興援助の早期の実施であります。

 第4番目は、バルカン半島の長期安定化の実現です。コソボに連動していま深刻な状況になりつつあるのは、セルビアと連邦を組んでいるモンテネグロの状況です。これは後からチャスラヴさんの方から詳しい報告もあろうかと思いますが、いま連邦存立の危機だけでなく、内戦の危機と言ってもいいような状況が、モンテネグロで進みつつあります。また、セルビア共和国の中のコソボと並ぶもう1つの自治州、ヴォイヴォディナでも、ハンガリア系住人を中心に新たな自治の要求が出ており、それに対して連邦軍が出動の準備をしている、という情報も流れております。

 また、アルバニア系難民を20何万人も引き受けていたマケドニアにおいては、当初から3割近くのアルバニア系住民がいましたので、そこの民族問題が深刻化し、コソボの分離主義の動きと連動するような形で、マケドニアにおけるアルバニア系住民地区の自治や独立の動きも出てきそうです。いま国際部隊の駐留で、表面的には安定しているように見えるボスニア・ヘルツェゴビナにおいても、クロアチアやセルビアの分離・独立、本国との統合の問題も起きかねないという状況です。これをいかに長期的に安定化をさせるか、という非常に大きな政治的課題となってきています。

 最後の課題としては、コソボの将来的な地位の確定です。現時点では、共和国並みの高度の自治権を持った自治州といった位置づけで、国際部隊の駐留によってそれを果たそうという枠組みはできていますが、セルビア側、アルバニア側双方がそれに満足しているような状況ではありません。空爆以前よりも、相互間の憎しみは非常に強まっており、民族的共存をこのコソボの地でこれから定着させることは、非常に困難です。真の住民和解、民族共存の実現をいかにして行うかは、単にセルビアの民主化だけでなくて、国際社会の明確な基準に基づく公平な対応が必要となってくる、ということです。

 これに関連して、日本政府やわれわれが、難民支援も含めたこのコソボ問題に対して、何ができるのか、をこれから考えていく必要があるのではないかと思います。単に、同情するだけでなくて、さまざまな形での貢献を求められていると思います。政府レベルだけでなく、「難民を助ける会」、AMDA(アジア医師連絡協議会)、あるいは「ピースウィユズ・ジャパンズ」といった日本のNGOもあの地で非常に大きな活動をしています。そういった活動に対して、われわれは支援をする必要があるのではないか、そして今日の集会もその助けになるのではないか、と思っています。以上で私の報告を終わらせていただきます。