九平研学習交流会(鹿児島、2001.9.23)での記念講演

「最近の内外情勢と平和教育(平和研究)・平和運動の課題」

                     

はじめに−自己紹介をかねて−

今日のテ−マは、「平和教育・平和運動の課題」ということですが、わたしは、平和教育という意味では、5年前から共通教育で平和学を担当することになり、それと同時に「平和問題ゼミナ−ル」という自主ゼミも毎月1〜2回のペ−スで開講してやってきています。この自主ゼミには、鹿児島大学の学生・院生ばかりでなく、留学生や他大学の学生、それに一般の社会人の方なども参加していますし、取り上げてきたテ−マも、ユーゴなどの民族・地域紛争や国連PK0、戦争責任・戦後補償や沖縄・安保問題など幅広いものとなっています。また、平和運動の分野では、特にここ4、5年、「かごしま平和ネットワ−ク」や「21活憲ネット・かごしま」、「STOP報復攻撃かごしまの集い」などの市民グル−プなどにも積極的に参加してきました。NAT0の空爆から今回のテロ、その後の動きの中で、今まで自分がやってきたものが何だか全て繋がってきたような気がしています。そこで、今日は、こうした自分の鹿児島での経験もふまえてお話しさせていただこうと思っています。

 

1.最近の世界情勢について

今、世界はアメリカに一極集中しているかのようにみえます。社会主義が敗北して資本主義が勝利したといわれる中で、湾岸戦争以後は国連さえも味方に付けたアメリカはまさに「唯一の超大国」になりました。しかし、アメリカ主導のいわゆる「世界新秩序」が容易に出現するかにみえましたが、その後の成り行きは必ずしもそうはならず、いったんはアメリカへの一極集中は弱まったかに思われました。ところが、その後のIT革命やグロ−バリゼ−ションの波にのって、経済的にもアメリカの一人勝ちという雰囲気が生まれ、再びアメリカへの一極集中という傾向が出てきました。そういう中で行われた大統領選挙では、共和党のブッシュ氏が激戦の末大統領に選出されました。ブッシュ共和党政権の権力基盤は、選挙結果の不透明性もあって脆弱なものでしたが、そのことがあったために逆に、クリントン前民主党政権との違いをきわだたせるような強硬な政策、すなわち「ユニラテラリズム」(単独行動主義、あるいは一方的外交)を実施していくようになりました。その結果、アメリカは国際社会の中で孤立するという状況を自らまねくことになりました。

ブッシュ政権の外交戦略の基本的性格は、国益至上主義の内向き・孤立主義なものでありながら、その一方で、国益の確保とその拡大・強化のためならすすんで外に強引に向かっていくという、なりふり構わぬ「21世紀への生き残り戦略」をとっているといえます。

 具体的には、ミサイル防衛(MD)構想の推進や、温暖化防止問題での京都議定書の批准拒否、敵対的な中国・北朝鮮政策への転換、イスラエルに一方的に肩入れする中東・パレスチナ政策などで、冷戦後におけるアメリカのこれまでの政権以上に、露骨な形で国益中心主義を押し出しています。

とくに、ミサイル防衛(MD)構想の性格は、1941年の日本による真珠湾攻撃、1957年のソ連によるスプートニク・ショック以来、アメリカが持っていた、本土が脅威に晒されるという恐怖感を一挙に取り除こうとするものです。これは、冷戦時代の核による「恐怖の均衡」、「相互抑止」を克服して、アメリカの「一方的抑止(あるいは絶対的抑止)」状態を確立して、21世紀をさらなる「アメリカの世紀」にすることを目的とするものです。また、付け加えるならば、当初提起されていた戦域ミサイル(TMD)構想は友好国・同盟国を守ると宣伝されましたが、それは実は友好国・同盟国にある米軍基地を守るというのが最大の目的であったと思われますので、ミサイル防衛(MD)構想となった今もその本質的性格が変わったのではないということです。

地球温暖化問題へのアメリカの対応は、もしゴア氏が大統領になっていたならば今の(危機的)状況は少しは変わっていたと思われます。ブッシュ大統領による政策転換は、アメリカ経済に陰りがみえてきた今日の段階では、地球全体の環境問題よりも自国の景気浮揚・経済発展を優先するという姿勢を鮮明に示したものといえます。また、この問題に対する日本の対応は、非常に煮えきれないもので、本来は議長国として積極的なイニシアチブをとるべきところなのに、アメリカに遠慮してあいまいな立場を終始一貫とっていることも皆さんご存じの通りです。

さらに、中東・パレスチナ問題では、クリントン前民主党政権もイスラエル寄りであったとはいえ、中東和平の仲介者としての役割を果たそうという姿勢はみせていたように思われますが、ブッシュ政権は、湾岸戦争後の中東和平の枠組みの基礎となる93年のオスロ合意を反古にしようとするイスラエル・シャロン政権の強引な政策に歯止めをかけるという仲介者としての当然の役割を放棄しているばかりか、間接的にはそれを支持さえもしています。

これらはあの悲劇的な同時多発テロの重要な背景の一つになったともいえます。また、より大きな背景としては、アメリカ流資本主義の押し付けであるグローバリズムの矛盾があのような形で現れたという見方もできます。9・11テロからすべてがはじまったと考えるのは、あまりにも皮相的な見方であるといわざるをえません。なぜならば、9・11テロがアメリカのそれまでの政策のつけであると同時に、アメリカ主導のグロ−バリズムにおける負の側面、すなわち世界的規模での貧富の差の拡大などの反映と考えられるからです。冷戦後にアメリカの描いた「世界新秩序」はすでに破綻しましたが、それをもう一度形を変えてアメリカ流に再構成しようというのが今の動きだろうと思われます。しかし、そうした動きに対する強い抵抗や反対も当然出てきます。9・11テロ後の世界は、ある意味で、二つの異なる世界秩序の分裂と衝突といった方向にすすみつつあるようにみえます。その一つは、アメリカや北側先進大国あるいは軍需・石油・情報など様々な産業分野での各種の多国籍企業などからなる「新しい帝国」の構築につながる道であり、もう一つは「アメリカ帝国の崩壊」、すなわちこれまでのアメリカへの一極集中を否定しそれに変わる新たな民主的秩序を求める道です。前者における「ならず者国家」がアフガニスタンやイラク、ソマリア、ス−ダン、イエメン、北朝鮮などならば、後者におけるそれはアメリカやイスラエル、イギリス(そしてやがては、日本)などがあげられることになるでしょう。いずれにしても、現時点では両者が衝突しており、その帰趨がどちらになるかは不確かです。わたしたちとしては、現在すすんでいるかにみえる「新しい帝国」の構築を拒否するばかりでなく、「アメリカ帝国の崩壊」後の無秩序状態もふせぐための努力と新しい民主的かつ平和な秩序を確立する具体的構想の提起が最も重要な課題となっているということだけは確かなようです。

 

2.日本の動向をめぐって

 小泉首相は、成立の経緯そのものから正統性を疑われた国民的不人気の森前首相のあとを引き継ぐ形で、派閥政治の打破と「聖域なき改革」を掲げてさっそうと登場しました。国民は長引く不況とあまりにも永田町の論理だけで行動する政治家とエリ−ト意識に凝り固まった官僚(の腐敗と傲慢さ)に飽き飽きして、旧来の自民党政治を変えてくれるのではないかという、淡い期待を小泉首相によせた結果があの高い支持率となって今日まで続いていると思われます。しかし、小泉氏が森前政権を支えた重要人物の一人であり、これまでの小泉氏が郵政3事業の民営化以外の具体的政策の提起やさしたる目に見える成果を上げたともいえないことを考えれば、国民のストレスが頂点にまで高まっていたとはいえ、やはり今のカリスマ的な人気はあまりにも「異常」です。小泉首相の危険な落とし穴は、とくに、外交問題において顕著であるといわなくてはなりません。教科書問題で揉めている最中に靖国神社参拝を断行するというセンスの無さにはアメリカさえも眉をひそめたともいわれています。まさに、国際問題については無知・無定見であり、アジア近隣諸国への思いやりなどないに等しく、あるのはアメリカへの無条件の礼賛のみといったところです。このような人物が、今のような危機に日本の最高指導者としてあるというのは、日本ばかりでなく世界にとっても大きなマイナスであると思います。そういう中で、小泉政権の中では唯一といってもよいほどのハト派の政治姿勢を持っているかに思われた田中外相も、外務官僚との亀裂を修復する役割を首相官邸が放棄したために、孤立無援となって、歯止めになる期待もなくなってしまいました。今や、日本の政界で小泉首相の「暴走」を止める可能性があると思わせるのは、「抵抗勢力」の中心人物の一人といわれ、森前首相に官房長官として仕えた野中氏ではないかといわれているのは大変皮肉です。

 憲法改正問題は今のところ足踏み状態で、明文改正は当面無理だということを前提に、日米合同演習などで実質的に行使されてきた集団自衛権を既成事実化しようとする動きが表面化しています。とくに、9・11テロ以後の日本の対応では、米艦隊出動の際の「護衛」活動を海上自衛隊独自の判断で行ったという事実は記憶に新しいことです。また、「対テロ特措法」(実質的には「米軍等支援法」)を制定して中東地域での米軍への「後方支援」(これは明らかな集団的自衛権の行使です)を行うばかりでなく、自衛隊法改正で米軍基地を守る新しい役目を自衛隊に負わせようとしています。日本は先進民主主義国家で法治国家であると名乗りながら、最高法規である憲法を無視して超法規的政治判断で突っ走る危険な国であるということを自ら世界に示したことになるのではないでしょうか。さらに、「国際貢献」の名の下に、国連PK0への参加5原則の見直しやPKF本隊への凍結解除、武器使用原則の緩和などの動きも明確になっています。

 また、これに関連して、9・11テロ事件の波及効果として、有事法制の整備を一気に進める動きが出てきています。新ガイドライン策定以後、日米安保体制の軍事協力レベルを上げるためには日本側の軍事情報管理を一層強化する必要があるとアメリカからたびたび指摘されていました。そのために、すでに盗聴法がつくられ、また「個人情報保護法」という名目で新たな情報統制法が追加されそうな動きも出ています。そして、今回の自衛隊法改正では「防衛機密」の保護が新たに盛り込まれそうだということです。アメリカで9・11テロ以後、テロ撲滅の手段として、暗殺容認、容疑者の長期拘留、盗聴強化など、テロには報復でという考えに基づく人権侵害が横行する気配がありますが、それが日本にも波及しつつあるという恐ろしさが出てきているとも指摘しておく必要があります。

 

3.平和教育(平和研究)

A.平和研究の課題

 冷戦後の平和研究の分野ではテーマの多様化がみられ、冷戦自体や核問題に関する研究ばかりでなく、地域紛争や環境問題についても研究が進められています。「現実主義」と「理想主義」との融合が必要といわれていますが、それを本当に効果的なものにするのは有る意味で永遠の課題かもしれません。「核の傘」に基づく「恐怖の均衡」という核抑止論、あるいは「力による平和」、「国家(あるいは軍事力)中心の安全保障」を見直そうという動きもあらわれています。そのような動きの一つとして、世界的規模での貧困、飢餓、抑圧、差別などといった「構造的暴力」の解消をめざす「人間の安全保障」という対抗軸・考え方も出てきています。しかし、それを本当に実現化するためには、これからいかに具体的なものを構築していくかが問われているといえます。平和研究機関については、長崎平和研究所、広島平和研究所、沖縄国際平和研究所などができて、平和研究・平和教育・平和運動などに寄与する機関の活動がしだいに活発になっています。今後は、こうした公的あるいは民間の平和研究機関やその他の市民グループなどが相互の協力して新たなネットワーク・拠点づくりを行うことが求められており、すでにそうした動きも広がりつつあります。

※ここでいう「人間の安全保障」は、国連開発計画の報告書で初めて用いられ、日本政府などにも歓迎されたが、それは本来の意味とは違って、ODAと同じような、きわめて狭い意味で使われています。「人間の安全保障」という言葉自体は美しいものですが、実態としては何を表しているのかなどを整理した上で今後使われなければならないと考えます。また、「市民による安全保障」「民衆による安全保障」と言葉を置き換えた場合、それがどう違ってくるのかも検討する必要があるように思われます。そして、「人間の安全保障」と並んでもう一つ「構造的暴力」という言葉もよく出てくるようになっていますが、これが示しているものは具体的には何であり、「直接的暴力」との関連はどうなっているのか、などももう少し検討しなければならないと思います。なぜならば、それが問題の根源に迫るという力がある一方で、逆に問題を拡散させ、認識の曖昧さや運動の分裂さえもたらしかねないという問題も含んでいると思われるからです。

B.平和教育の課題

 「平和学」講座は、大学・短大など高等教育機関で近年増えつつあり、そのこと自体は歓迎すべきことであるといえます。しかし、中学・高校の教研集会などで実感することですが、とりわけ自分が共同研究者として関わっている鹿児島の高教組においても平和教育部会への参加や各教室現場での取組みは明らかに数も機会も減ってきているというのが現状です。

 平和教育の具体的課題としては、戦争責任・戦後補償や靖国神社への公式参拝、「新しい歴史教科書をつくる会」などの動きや国旗国歌の問題など多くありますが、最近痛切に感じるのは、先の戦争や被爆の体験者が次第に少なくなっているという中で、直接本人から語り継いてもらうことがますます困難になっているということです。核廃絶・核先制使用禁止の実現や戦争責任・戦後補償問題のなどとともに、本来ならば20世紀中に解決しておかなければならないことが21世紀に持ち越されてしまいました。こうした問題を真に解決するためにも、今の時点で、体験者から直接話を聞いて記録の残しておくことが重要な課題となっていると思います。

 最近、冷戦後の地域紛争との関連で注目されている「民族対立」・「民族問題」も平和研究の大きな課題となっていますが、それらをどのように考えて、どうように教えていくのかも平和教育の重要な課題です。安易に「文明の衝突」論に陥らないためにも、この問題を総合的かつ客観的に認識することが必要です。ここで指摘しておきたいのは、民族問題は民族自決や国家承認など政治・経済・歴史・宗教・社会など複雑なものを含んでおり、それだけで問題をとらえるのは不可能であるということです。これは、部落問題や障害者問題、女性問題をそれだけでは解決できないということと重なると思います。ユーゴ紛争の場合も、最初からあのような民族対立があったのではなく、それ以前にすでに生じていた政治・経済・社会レベルでの対立・矛盾が重要な鍵をにぎっていたということも指摘しておかなくてはなりません。今回の9・11テロも同様で、「イスラム教文明」対「キリスト教文明」、あるいは「文明」対「野蛮」といったような単純な視点で原因を求めるようなことをすれば、問題の本質を見誤るばかりでなく、問題解決からも遠ざかることになると思います。

 また、「テロをどう教えるか」ということは、大学を含む学校現場ばかりでなく、家庭や社会においても重要かつ緊急の課題となっていると思われます。民間グル−プによる組織テロばかりでなく国家によるテロも含めて、全てのテロに反対するということは基本です。しかし同時に、なぜテロが起こるのかも、根本から考える必要があります。国境や民族を越えたテロもあれば、国内レベルのテロもありますし、民族自決権に基づく抵抗闘争や独立運動などをどのように評価するのか、という問題とも当然関わってきます。そこら辺の区別や関連をどう考えるかも今後に残された重要な課題だと思います。

 

4.平和運動の課題

 平和運動も現在は、その主体も運動スタイル・思考様式もきわめて多様になってきていると思います。そうした中で常に思うのは、「被爆国日本」という原点があるために、平和運動といえば全てが核兵器廃絶運動に繋がるという傾向があるということです。もちろん、これまでの平和運動のなかでも、とくに核兵器廃絶運動が重要な役割を果たしてきたことは事実です。しかし、ここでわたしが指摘しておきたいのは、その結果、現実の平和運動においては「通常戦争と核戦争との区別と関連」という視点がともすれば抜け落ちて、どちらかといえば核問題に重点を置きすぎた形で展開されてきたのが一つの弱点となってはいないか、という問題です。したがって、今後の平和運動のあり方を考える場合には、通常戦争と核戦争との関連をこれまで以上に意識した形ですすめる必要があるのではないかと思っています。それは、「被害者の視点・論理」ばかりでなく、「加害者の視点・論理」も踏まえた反核・平和運動運動のあり方にも通じる問題です。核戦争は、ある日突然に勃発するというわけではなく通常戦争の延長線上に起こるものです。日本への原爆投下も、第2次世界大戦の末期に見せしめ的に使用されたという経緯があります。冷戦以降には多くの新型戦術核兵器がつくられており、開戦当初から使われる可能性もないとはいえませんが、その場合でも通常戦争と別の切り離された形で行われるわけではありません。このように考えれば、核戦争を防ぐためには通常戦争をいかにして起こさせないかという問題がより重要になってくると思われます。この点で、小型武器の規制や地雷廃絶の実現、武器輸出禁止の強化などの課題が注目されます。

 核廃絶の課題と核抑止論の批判・克服についても、非核地帯設置の拡大やアジェンダ連合が中心となっている新しい動きなどがわらわれていることにも注目したいと思います。湾岸戦争およびそれ以降の地域紛争への対応では、アメリカなど欧米諸国の一部で戦術核兵器の使用を示唆する動きがみられることは憂慮すべき事態です。また、一種の核兵器といわれる「劣化ウラン弾」がイラク、ボスニア、コソヴォなどで使用されたという事実も見逃すことができません。このような動きは、冷戦以降、核保有大国が核兵器の使用に対する抑制を緩めていることを示しています。この点で、「核先制使用の禁止」の早期に実現することが最優先課題となっていると思います。とりわけ非核保有国や非核地帯への先制使用は絶対に正当化できないものであり、まずすべての核保有国に非核保有国や非核地帯に対する「核先制使用の禁止」を確約させることからはじめる必要があるのではないでしょうか。

最後に、「九州・沖縄」という地域の特殊性をとらえたうえで、新たな平和戦略を構築していくことを提起したいと思います。この「九州・沖縄」には、沖縄、佐世保という二つの(岩国を含めれば三つ)米軍基地があるばかりでなく、広島とならぶ被爆都市である長崎や最後の地上戦が行われた沖縄という、戦争とかかわるさまざまな特色を持った都市を抱えています。また、朝鮮戦争やベトナム戦争、さらには湾岸戦争・対ユ−ゴ戦争(NATO空爆)の時には米軍出撃の最前線基地になったばかりでなく、新ガイドライン以後の安全保障政策のなかで、今まで以上に危険な役割を負わせられる可能性が高まっています。わたしたちは、こうした九州・沖縄地域の最前線化と戦略的価値の高まりという現実を正しく認識するとともに、沖縄と佐世保・岩国の連携ばかりでなく、沖縄・韓国(アジア)間の連帯の動きを九州全体にも広げて、地域間の平和ネットワ−クを確立・強化して地域から平和戦略を提起していくことが求められていると思います。現在の危機的状況は、平和運動の側にとっては確かに厳しいものがありますが、ピンチはそれとは逆のチャンスにすることもできるということで粘り強い取り組みを今後とも展開していく必要があるのではないでしょうか。

                          (九州平和教育研究協議会『九平研通信』NO.61、2002年1月発行に掲載)