4月26日(土) 報告者 千知岩 正継
『ユーゴスラヴィアの崩壊』ミーシャ・グレニー[著]
1 第一のユーゴスラヴィア
(1)第一のユーゴスラヴィアの建国と崩壊
・1918年12月「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人の王国」
として成立
・中央集権制を前提としたセルビア人中心の政治体制
・29年10月「ユーゴスラヴィア王国」と国名改称
・41年に枢軸軍がユーゴを分割、占領
(2)パルチザン戦争の展開
・ウスタシャ…クロアチア人のファシスト集団
・チェトニック…セルビア人民族主義者の集団
・パルチザン…愛国主義的で進歩的な反ファシスト勢力
・1943年ボスニアのヤイツェで第2回ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)
→AVNOJの決議が第二のユーゴの基礎に据えられた
・45年3月ユーゴスラヴィア人民連邦共和国が独立を宣言
2 第二のユーゴスラヴィア
(1)自主管理社会主義と非同盟政策
・独自の社会主義:労働者自主管理
→労働者による職場、地域における自治
→全勤労者による領土防衛(全人民防衛ドクトリン)
・積極的平和共存を方針とする非同盟政策
(2)民族政策
・民族主義の抑制
→民族主義を煽る者には重い罪が科された
・最大の共和国セルビアの力を抑えることに配慮
→コソヴォ、ヴォイヴォディナを自治州に指定
・マケドニア人、モンテネグロ人の民族自決権を承認
→両共和国の成立
・ボスニア・ヘルツェゴヴィナが地域としての一体性を認められる
→共和国の成立
→ムスリム人(イスラム教徒)が74年の連邦憲法で連邦構成民族として認められる
(3)74年憲法体制
・各共和国、自治州の権限の徹底した平等化
→連邦幹部会における共和国と自治州の平等
・各共和国、自治州への大幅な分権
→完全な経済主権が認められる
・チトーが終身大統領とされた
(4)ポスト・チトーのユーゴ〜ユーゴ崩壊への序曲
@経済危機
・二度にわたる石油危機と世界的な不況
→ユーゴ経済の悪化
→連邦の権限強化とユーゴ統一市場の要求が高まる
A民族主義の台頭
・ミロシェヴィッチの登場
→セルビア人の民族主義に訴えるその政治姿勢
→セルビア人の民族主義を煽るためコソヴォ問題を利用する
・コソヴォ問題の深刻化
→81年コソヴォ事件
→89年コソヴォにおける大規模なデモ
・スロヴェニア民族主義の表面化
→経済主権が制限されるのではないか、という危機感の高まり
B74年憲法の修正
・88年11月、74年憲法の改正が行われる
→自治州は共和国の権限下におかれる
C第三のユーゴを目指して
・ユーゴ共産主義者同盟の分裂、解体(90年1月)
・連邦の再編か国家連合か
・90年を通じて各共和国で自由選挙が行われる
3 クニン、1990年8月/10月―1992年1月
(1)クニンの位置づけ
・歴史的にも戦略的意義が高い
・かつての軍政国境地帯(ヴォイナ・クライナ)の一部
・第二次世界大戦当時のクロアチアにおけるチェトニックの砦
・交通の主要連結点
→クロアチアの経済はクニンなくしては機能停止してしまう
(2)クロアチア内のセルビア人
@地方のセルビア人
・経済力に乏しく、土地と家にまつわる前近代的概念がその発想や防衛意識の中核を占めている。
・武器に慣れ親しんでいる
・キリル文字ではなくラテン文字を使用(クニン)
・クロアチア内で最も強固なセルビア人(クニン)
A都市部のセルビア人
・穏健
・クロアチア社会にうまく溶け込んでいる
(3)クロアチア内戦
1990.4 クロアチアの民主選挙でトゥジマンの率いるクロアチア民主連盟(HDZ)が勝利
→ラテン文字の強要、セルビア人の公職からの追放といった抑圧的政策が行われる
8〜9 ラシュコヴィッチ(セルビア民主党=SDS)がクライナ地方のセルビア人に政治的独立を諮る住民投票を挙行
→クロアチア人とセルビア人の間に武力衝突がおこる
9 「クライナ・セルビア人自治区」の創設が宣言される
1991.6.25 クロアチア、スロヴェニア両共和国が独立を宣言
スロヴェニア十日間戦争が勃発→7月初には停戦協定が結ばれる
9 クロアチア人勢力とセルビア人勢力間の武力衝突に連邦軍が介入
12 「クライナ・セルビア人共和国」が独立を宣言
1992.1 セルビア、クロアチア両共和国と連邦軍が国連PKFのユーゴ派遣を骨子とした国連提案を受諾
4 ユーゴスラヴィア内戦の展開
(1)ボスニアへの拡大
・ボスニア内戦
あくまで分離独立に反対するセルビア人勢力と、独立に賛成するムスリム人、クロアチア人勢力との対立
→少数者となることを嫌ったセルビア人の動向が、今回の内戦(クロアチア、ボスニア)の基本的な要因
(2)作られたボスニア内戦
・民族主義に基礎を置く各勢力指導者の政治戦略
・マスメディアのプロパガンダ
・国際社会の対応のまずさ
→三者の対立は歴史的所産だけではなく、政治状況の中で作られた側面が強い
(3)国際社会の対応
ユーゴ内戦と欧米諸国
・EC内の見解の相違
特に独立承認をめぐるイギリスとドイツの対立
→欧米諸国は、それぞれの利害関心からなかなか足並みがそろわず、内戦に対して和平案にせよ軍事行動にせよ、効果的な手段を講ずることができなかった
(4)政治的解決か軍事的解決か
・欧州諸国と米国の見解の相違
・NATOと国連の見解の相違
(5)和平協定の成立
・NATO軍によるセルビア人勢力空爆を契機として、ボスニア和平問題に対する米国の影響力がいっそう増大し、米国を中心とする和平の方向が明確になる
→95年11月、オハイオ州デイトンで米国主導のユーゴ和平協議が開かれる→同年12月にパリで和平協定が正式調印される
5 その他、感想
(1)旧ユーゴで展開された紛争は何だったのか
・複数の民族が互いに憎しみ合う「民族紛争」だったのか
・(セルビアによる他共和国への)「侵略戦争」だったのか、それとも「内戦」 だったのか
(2)民族自決は正義か
・混住地域における「民族自決権」の問題
・連邦からの独立には「民族自決」が認められているのに、独立した共和国からの分離に「民族自決」がなぜ認められないのか
・「国民国家」と結び付いた「民族自決」という思考の再考
(3)旧ユーゴ紛争におけるメディアの役割とその問題点
・民族主義的なスローガンやプロパガンダの流布に利用されたメディア
ex, セルビア・クニン・ラジオ放送局
・西側諸国のメディアにおいて顕著だった「セルビア悪玉観」
(4)国際社会の対応は適切だったか
・スロヴェニア、クロアチア、ボスニアの国家承認の問題
・ムスリム人勢力に対する武器禁輸措置の解除に妥当性はあるのか
・国連保護隊(UNPROFOR)が行った平和維持活動についての評価