〈第三回平和問題ゼミナール〉

ユーゴスラヴィアの崩壊

第一次世界大戦前後におけるバルカンの辿った経緯

 

T オスマン帝国の統治とハプスブルク帝国の統治

1、 オスマン帝国のバルカンにおける支配

(1) セルビア

14世紀末から400年以上にわたってオスマン帝国の支配を受ける。

□1804〜1813年 第一次セルビア蜂起

商人カラジョルジェを指導者として、当時オスマン帝国の統制からすでに離れていたイェニチェリ(常備軍団)に対して蜂起し、その後オスマン=トルコと衝突するが、ナポレオン戦争が一段落した後鎮圧

□ 1815年 第二次セルビア蜂起

商人ミロシュ・オブレノヴィチを指導者として蜂起。

□ 1830年 セルビア公国としての完全な自治を得る。

セルビアの外交政策の指針「ナチェルタニエ(覚え書き、の意)」

→セルビア近代史を貫く「大セルビア主義」の根拠となる。

□ベルリン条約により、近代的国家として独立を承認された。

(2) モンテネグロ

14世紀に中世セルビア王国と分裂後、15世紀末にオスマン=トルコの侵入を受ける。

@ ペテロヴィチ家は、オスマン=トルコに対して一定の税を治め続け、なんとか貢献国として独立を保持

A 小国(人口約12万人)としての絶えず周囲の驚異にさらされており、この環境の中で強力なモンテネグロ意識が育まれていく。

□ 1878年、ベルリン条約により、セルビアと同じく独立を承認される。

(3) マケドニア

肥沃な平野と豊富な鉱物資源を求めて、6世紀〜7世紀にかけて南スラブ族が移住(マケドニア人)

@ 民族意識の覚醒の遅れ

A マケドニアの領有をめぐる近隣諸国の対立

□ 1877〜1878年 露土戦争

サン・ステファノ条約により「大ブルガリア公国」の一部へ

イギリス、ハプスブルク帝国の反発の結果、オスマン=トルコへ返還(ベルリン条約)

□ 1913年、第二次バルカン戦争

戦争後、ギリシア、セルビア、ブルガリアによって分割

2、 ハプスブルク帝国のバルカンにおける支配

(1) クロアチア

6世紀から7世紀にクロアチア人が移住。中世クロアチア王国が自らのアイデンティティの拠り所となっている。

@ハンガリー帝国からハプスブルク帝国へ→1918年ハプスブルク帝国崩壊まで

A ダルマチア、スラヴォニアへのセルビア人の入植→1991年のクロアチア内戦原因

の起源

(2) スロヴェニア

6世紀後半に、サヴァ川上流及び周辺地域に定住。歴史上自らの国家を持つことが出来なかった。

@ フランク王国(8世紀中頃〜)、神聖ローマ王国(10世紀中頃〜)の支配による

ドイツ化

A 13世紀後半に、ハプスブルク家から神聖ローマ皇帝が選出された後はスロヴェニアに対するハプスブルク家の支配が確立、そのまま第一次世界大戦へ突入

(3) ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

6世紀末から7世紀初頭にかけて南スラブ族が定住。その後、10世紀から12世紀にかけて、セルビア、クロアチア、ハンガリー、ビザンツ帝国がボスニアの領域を交互に支配 この支配を通して、明確な自己意識を持つようになる

@ 14世紀コトマロニッチの治世に、フム地方(ヘルツエゴヴィナ)支配

A 15世紀後半に、オスマンによる支配→ムスリムへの大量進行化

□ 1875年 ネヴェシニェ村のキリスト教農民がムスリム地主に対して反乱

数週間でボスニア・ヘルツエゴヴィナ全土に拡大

露土戦争を誘発(セルビア公国、モンテネグロ公国も蜂起を支持)

□ 1878年 ベルリン条約により行政権がハプスブルク帝国に移行

□ 1908年 ハプスブルク帝国がボスニア・ヘルツエゴヴィナの併合を宣言

南スラブ統一を目指す批判的青年層との対立

サラエヴォ事件の発生(青年ボスニア党)

3、 バルカンのナショナリズムの特徴

(1) オスマン=トルコの解体に伴う諸列強の介入と密接に絡み合って発達

→国際的要因の作用が極めて直接的

(2) 民族運動が、相互間に、さらには運動の内部で複雑な分裂と対立を経験

@ 民族の歴史的体験の差

A 社会構造の違い(各民族内部の階級対立、社会的分裂)

B 民族の目覚めの時期のズレ

(3) 西欧に見られるような安定した中産階級による市民革命の理念の成熟がない

→バルカンの変革を担っていったのは、自給自足的で、停滞した貧しい農民だった。

U 南スラヴ解放への動き(バルカン全体としての歴史的経過のまとめ)

□ 1877年 露土戦争

□ 1878年 ベルリン条約

□ 1903年 セルビアで近代憲法制定

マケドニアで、VMRO(内部マケドニア革命組織)によるイリンデン蜂起。

一時的に臨時政府を樹立して共和国宣言を発表

□ 1908年 ハプスブルク帝国がボスニア・ヘルツエコヴィナの併合を宣言(詳細は上記)

□ 1912年 ・バルカン連盟結成

セルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロ間に二国間条約が次々と締結(ロシアの仲介による)

・第一次バルカン戦争

□ 1913年6月 第二次バルカン戦争

→セルビアの、南スラヴ解放の旗手としての地位を不動のものにする。

□ 1914年6月28日 サラエヴォ事件

□ 1914年12月 「ニシュ宣言」

□ 1917年7月 「コルフ宣言」→セルビア公国のもとで、すべての領域からなる立憲

君主国の建設を目指した趣旨

→南スラブ統一国家の基礎として据えられる。

 

V 第一のユーゴスラヴィアの形成

1、第一次世界大戦後の経過

□ 1918.11.6〜9 「ジュネーブ宣言」

ハプスブルク帝国の崩壊により、南スラブ地域では社会的混乱が続く

11. 19 ボスニア・ヘルツエゴヴィナで結成された民族会議がセルビアを中心とし

た国家統一への交渉を要請

25 ヴォイヴォディナ議会がセルビアとの統一を宣言

26 モンテネグロ議会もセルビアとの統一を採択

12.1 セルビア王国摂政アレクサンダル公は、セルビア人、クロアチア人、スロヴエニア人王国の成立を宣言(「第一のユーゴ」)

→ブルガリアを除く南スラブの統一国家が初めて建国

□1929年 国名がユーゴスラヴィア王国となる

2、第一のユーゴスラヴィアの特徴

(1) セルビアの政治エリートを中心とした統一(!列強の征服に基づく統一ではない)

(2) 国民統合が思うように進まない、擬制の国民国家

@ 民族自決主義とデモクラシー

a, 王政のもと、国王が政治を左右

b, 独裁的、民族主義的指導者を許す社会的体質の温存

A「単一国家」として認められた民族自決権

正教徒47%、カトリック39%、ムスリム11%

B地域政党、民族政党が主流(支持基盤の限定)

(3) クロアチアとセルビアの対立

@ 連邦国家を目指したクロアチア農民党

A 「ヴィドヴダン憲法」の成立による急進党の勝利

Bモンテネグロ系議員による、ラディッチ狙撃事件

B アレクサンダル王暗殺事件(←クロアチアのファシスト団体「ウスタシャ」の手

引き)

 

(4)列強の思惑

@ドイツ民族のバルカン進出に備えたフランスの戦略

A イタリアのアルバニア併合

B ナチス・ドイツとユーゴスラヴィアの接近

 

W ドレス・リハーサル セルビア人同士の骨肉の争い(テキストより)

1、 ミローシェビッチ大統領

(1) コソヴォ自治州のセルビア人とモンテネグロ人のおかれた状況をアピール

(2) 自治州ヴォイヴォディナでのデモを組織(「反官僚主義革命」運動)

→デモ運動のクライマックスとしての、1989年6月28日の「コソヴォの戦い」六百

周年記念祝典

「六百年の時を経て、我々は再び闘争と対立の中に身を置くことになった。これは武力

闘争ではないが、避けて通ることはできない。」

→スロヴァニア人、クロアチア人、ムスリム人、アルバニア人、マケドニア人に対する

る彼のメッセージ

(3) 報道機関に対する徹底的粛清

@ 『ポリティカ』

A ラジオ・テレビ(RTV)・ベオグラード

2、セルビア人によるセルビア人抑圧

(1) マスコミを利用したSPO(セルビア再生運動)、DS(民主党)叩き

@ 巨人ゴリアテとダビデ

A 「セルボスラヴィア」

(2) デモ隊との衝突

□ 1991年.2月.16日 『ドウネーヴニク2』が、SPOやドウラーシュコヴィッチを非難す

る内容の放送を行う。

2月20日 ドウラーシュコヴィッチが、3月10日に「TV界のバスティーユ襲

撃」を通告、支持派がドウラーシュコヴィッチとの連帯を表明

3月10日〜 デモ隊との衝突

→セルビアによる、セルビア人に対しての暴力


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