<南京から日中戦争考える>

平成9年9月6日  報告者 橋口 由香

1 十五年戦争の開始から南京大虐殺までの経経

1931.9.18  柳条湖事件(満州事変)を引き起こし、東北三省を占領する。

          (十五年戦争のはじまり)

1932.3     「満州国」成立 

1933.3     世界からの非難が集まり、国際連盟を脱退

1937.7.7   盧溝橋事件

     8.13  陸海空軍の大部隊で上海に進攻

          (ここで、日本軍は3か月で中国を制すると豪語する) 

     11.12 上海陥落

          (中支那方面軍司令官松井石根の指揮下、すみやかに南京に向けて進攻を開始

     11.22 日本空軍、南京を爆撃、12月3日までにその数はのべ111回及ぶ

     11月下旬 「南京安全区国際委員会」を設立、「難民区」の設置

     12.5  3ルートに分かれ、南京進攻開始

     12.8  南京に対する包囲網完成

     12.10 南京城壁近くの陣地に総攻撃開始

     12.13 午前9時、日本軍城内に侵入、虐殺を開始

          (日本軍第16師団歩兵第30旅団の歩兵第38連隊が城北に達し、中国郡の退路を遮断)

 

    以後、1938年1月まで虐殺が続けられ、その遭難者は30万人(中国側発表)におよぶ

 

2 「南京大虐殺」とは?

「南京事件」:日本の戦争の最高指導機関である大本営が12月1日、南京攻略を命じてから12月13日の南京占領を経て、翌年2月までに引き起こされた残虐行為

「南京大虐殺(アトロシティーズ)」:「便衣兵狩り」と称し、中国人捕虜に対する組織的虐殺行為、中国人敗残兵を一方的に殺害、戦闘意識のない一般市民をも虐殺した行為

 

3 「南京大虐殺」についての報道

アメリカでは即報道される……世界的に知られる

日本では……初めてその全容が知らされたのは「極東国際軍事裁判」で(陥落は知らされていたが・・・)

(極東国際軍事裁判提出資料では被虐殺者数は20万人、指揮者だった松井石根大将の責任が問われる)

 

4 なぜ「南京大虐殺」はおこったのか

@ 天皇が統帥する日本の軍隊では上官の命令には絶対服従 →兵士一人一人の人間性が無視された(兵士の心がすさんでゆく)

A 上海での3か月あまりにおよぶ苦戦の末、南京進撃を命じられた兵士らがやけくそ状態になっていた

B 急進撃のため、戦闘部隊に兵たん部隊が追いつけず、現地(南京)での徴発、自活が命ぜられた

C 日清戦争からの中国人差別視

 

5 「南京大虐殺記念館」を訪れて

記念館の名称について

「侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館」

 

・侵華:「侵略中華民国」ということで、日本の行為は侵略とされている

・入口の文字:ケ小平が書いたもの

(改革・解放路線の強まるなかで、国民の国家離れを抑制するため)

       ↓

記念館自体が近年つくられたもの

国家指定の教育施設(全国青少年教育基地)

 

・設立費用:日本の大手企業と沖縄の教職員組合

記念館までの道程(写真参照)

 一ドイツ人の存在

 「遭難と遭遇」で30万人とする中国側(見渡すかぎりの敷き詰められた白い石は30万個)

 石碑に刻まれる事件の概要

 壁面に彫られた虐殺の悲惨な様子

虐殺現場であったといわれる敷地内で発見された人骨の納骨堂(人骨が山積み)

展示館の内容

 新旧二つの展示館

 (旧館)

  前言分析

   「 日本の武装侵入の開始は1874年」:台湾

   「1945年の無条件降伏までの半世紀強の日本の侵略は他国と比べものにならない」

  展示品は殆どが写真で、日本刀、サーベル、ライターなど一部実物の展示もあり

  →写真の合成が捏ち上げ論のもとになっている

 結語

 「過去のことは忘れず、後世の師とすること」

 「日本は日本帝国主義の残行を行なった事実を視ることもなく、ただ戦後の経済復興の情景しか知らない。彼らは日本帝国主義侵華の歴史を学習し、それに重きを置き温め直さなくてはならない。」

*旧館で気付いたこと

 「中国領土台湾」という表現を繰り返し利用している→政治的意図のあらわれ

  写真による展示の多さ

 (新館)

  上海進攻から南京陥落、大虐殺までの詳細な説明

  「国際安全区」(3.86平方キロメートル)内に25万人が逃げ込む

  →しかしここでも身の安全は保障されなかった

  婦女暴行→「禽獣の群れ」(当時南京に滞在していた外国人の証言)

 新館は戦犯の裁判についての展示あり 

  1946.2 「国防部戦犯裁判軍事法廷」、南京に成立

         「首斬り競争の下手人」……向井敏明、野田岩、田中軍吉、雨花台で銃殺処刑(写真展示)

  1948.11.12 「極東軍事裁判」で松井石根を含む、東条英機等六名のA級戦犯に絞首刑の判決

 

判決書   1937.11下旬、南京進攻を命令

「南京は中国の首都であり、その首都を占領することは一つの国最上の事件である。だからここを研究することは必須の作業である。そして日本の武威で中国を畏怖させるのである。」

 

6 感想

 実際に日中戦争の現場に足を踏み入れてみて、あらためて戦争の悲惨さを知った。こんなにはっきりとした資料、証言が残されているにもかかわらず、「南京大虐殺は捏ち上げだ。」などという人の気が知れない。資料、とくに写真については、合成などの疑いがあり、「捏造論」の根拠とされているらしいが、捏ち上げではないと思った。そんなことを言う人たちは、実際にこの場に足を運んで、この場に立って彼らの考えを述べるくらいの覚悟はあるものなのだろうか。現在論議を呼んでいるのは、虐殺による遭難者(死者)の数である。なぜ、そこまで数にこだわらなくてはならないのか、というのが私の実感である。「捏造論者」がこだわっているところでもあり、また、日中両政府もこだわっているところでもある。数をどうこう言うのではなく、事実は事実として認め、まずは国家として謝罪の意だけでも述べるべきであると思った。そうすると、政治上の問題もまた絡んでくるので、とにかくこの問題は難しい、と思った。

 今回はただ、自分が南京へ行ってそこで感じたことなどの報告だけにとどまってしまったので、今後は主に中国東北部で繰り広げられた「細菌戦」などについての報告もしてみたいと思う。

 


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