・ねらい
戦後50年を経た今日、戦争責任・犯罪を未だにあいまいにし、戦後補償問題について、「国家と国家の間で既に解決済みである」として、個人賠償を拒み続けている日本、また、そのことについて徹底的に追求し、今日でも個人補償等を含む補償を行うドイツ、同じ敗戦国でありながた戦後処理において、なぜ、このようなギャップの差がでたのだろうか。
これらについて、様々な角度から二つの国を比較しながら、歴史的経緯を見ていくことにする。
1、 日本とドイツが敗戦まで歩んで来た道
日本 | ドイツ |
1931年 満州事変 | |
1933年 ヒトラー首相に就任 | |
1937年 日中戦争 | |
1939年 独軍ポーランド侵攻 第二次世界大戦 | |
1941年 太平洋戦争 | 1941年 独軍、ソ連に宣戦布告 |
1945年 ポツダム宣言受諾による降伏 | 1945年 ソ連軍ベルリン突入 独の無条件降伏 |
2、追求の相違
極東軍事裁判 →連合国軍中心 |
ニュルンベルク国際軍事裁判 →米・英・仏・ソ連 |
マッカーサー公布の極東国際裁判所設置 に関する命令 |
ロンドン協定 |
米ソの冷戦の激化により、反共政策に取りこまれ る。 |
戦勝国やヨーロッパを中心に、ナチスが行った行 為の追求 |
1 戦争の法規慣習違反 2 平和に対する罪 3 人道に対する罪 |
左記参照 |
アメリカ主導の中、天皇と一部の戦犯が免責とな り、一部の軍人、外交官らが、裁判にかけられた に過ぎなかったため、不徹底なものに終わった。 |
ニュルンベルク裁判後、ヨーロッパ諸国との友好 関係をいち早く解決するため、「ナチス追求セン ターが設けられ、訴追のための証人探し、諸外 国からの文書の調査分類が行われている。 現在でも戦犯の追求は続いている。 |
3、 日本とドイツの戦後処理問題の違い
日本 | ドイツ | |
国内補償 | 1952年の戦傷病者・戦没者援護法を はじめとして、次々と制定される。恩給 ・年金・忌慰金の総額は、約35兆円に 及ぶ(年間2兆円の支出)。 但し、旧植民地の人々へは、国籍条項 を理由に支給されていない。 |
戦争犠牲者扶助法、戦争捕虜補償法、負担 調整法などが制定されており、国民の生活再 建のための社会的補償を目的として、1980年 末までに約1000マルク(約8000億円)が支給 されている。 |
外国に対 する補償 |
1951年のサンフランシスコ平和条約 に基づき、補償交渉が開始されたが、 当時、補償金を支払う能力のなかった 日本は、南ヴェトナムとフィリピンを除く 当事国への支払いを免除された。その 後、ミャンマーとインドネシアとの間で 賠償協定が結ばれた。 その他の国々とは経済協力の形で賠 償を行うこととし、これを以って国家間 の補償を解決済みとしている。 日本が行った補償支出は約1兆円に 過ぎない。) |
600万人にも及ぶユダヤ人虐殺等のナチスの 犯した罪を償うためにイスラエルとユダヤ人組 織に賠償金を支払っており、ヨーロッパ諸国に 対しても、賠償協定を結び補償を行っている。 その他、様々な対外補償を行っており、21世紀 まで続く見込みとなっており、その総額は約12 23億マルク(9兆7840億円)に上る)。 |
企業の対 応 |
朝鮮人・中国人の強制連行、労働を行 っていた。大部分の企業は日本国政府 の主張や時効を理由に補償を拒否し続 けている。 しかし、一部の企業は和解に応じたり、 謝罪を行っている。 |
ユダヤ人に対し企業は、「営業上の配慮」から 補償を行ったが、法的責任については認めな かった。 |
補償につ いての今 後の問題 |
1、従軍慰安婦の問題 2、捕虜虐待 3、軍事郵便貯金・軍票問題 4、 その他 |
ロンドン債務協定 |
4、 日本とドイツにおける歴史教育の違いについて
日本 | ドイツ |
日本の歴史教育では、現代に関する記述が他の 時代に比べ、極めて少ないものとなっており、そ の内容も、日本人の被害を中心に取り上げられ ている。 |
学校の歴史教育において、古代、中世と近代、 現代の比率をほぼ1:1にするなど現代史に重 点を置くものとなっている。 |
5、 まとめ
日本とドイツを比較し、「過去の克服」のもと、現在まで補償を支払い国民を挙げて過去への反省を行うドイツ、「過去を水に流す」という国民性を持ち、現在に至るまで、過去をあいまいにしてきた日本、この戦後処理の行い方は、現在の両国の政治のあり方に通じるところがあるのではないだろうか。これからの日本がアジアでの強調を考える上で、戦争責任を明確にし、個人への補償を行っていくことが必要ではないだろうか。