「1960年代の沖縄振興策と軍雇用者問題              −−69年二・四ゼネストをめぐって−−」  森 健一   はじめに 戦後50年間、日米安保条約と日本国憲法の体系とは、対立的かつ相互補完的であっ たといわれる。今日にいたるまで両者の矛盾が先鋭な形をとってきたのが、基地を もつ沖縄である。1950年代後半、沖縄側は、土地取上げ反対の「島ぐるみ闘争」に よって、米国の沖縄統治政策を転換させた。しかし、1961年に始まったケネディ・ 新政策もまた、狙いは、「極東と太平洋地域での〔米国の〕安全保障の確証性の向 上」のための基地機能の存続であった。新政策のいう「〔琉球諸島の〕長期の経済 開発を十分可能とする援助」も「新たな復帰運動の基礎が拡大すること」を防ぐこ とに主眼があり、外部依存の経済構造が形づくられた。今日、この基地の存続を前 提とした沖縄振興策に対しては、住民の間から再検証の声が高まっている。 本稿では、第一章で、戦後沖縄の農業・土地問題とケネディ・新政策を取り上げる 。1960年代の日米両国の対沖縄振興策は、「長期の経済開発」を掲げてはいても、 農業構造の複合的な改善や土地・労働の「内発的発展」をめざすものではなかった 。結果、那覇近郊から基地周辺の町村、過疎地域まで、幾重もの外部依存的な経済 構造を生じさせた。地域政治にも分岐・分裂がひろがった。第二章では、1960年代 の基地労働と「二・四ゼネスト」問題を取り上げる。軍雇用者の内部と基地周辺町 村での雇用条件との間に生じた、賃金や身分格差そのものが、1960年代の日米両国 の対沖縄振興策がもたらした結果であった。そうであるがゆえに、雇用形態での第1 種から第4種まで、日米安保条約下の「準公務労働者」となった軍雇用者と不安定な 未組織の軍雇用者との両側面を併せ持った基地労働運動が、1960年代後半の「島ぐ るみ闘争」にとってのカナメとなった。  したがって、2万数千名を擁する全沖縄軍労働組合(全軍労)もきわめて脆い構造 の上にその組織力を保っていたのである。この二面性に米国民政府(USCAR) は早くから着眼していたのである。1968年11月、嘉手納でB52爆撃機が爆発炎上した 。69年2月にかけてB52撤去闘争がおこされた。琉球政府の行政主席、立法院議員、 那覇市長の「三大選挙」での革新勝利に続いて、B52撤去要求は「島ぐるみ闘争」 の政治条件を備えたものとなったが、一方で軍当局を使用者とする基地労働の特異 性をも浮かび上がらせた。  本土政府との折衝にあった屋良朝苗主席の要請や県労協指導部の政治判断からゼ ネストは中止された。背景には、基地労働者が「本土復帰」を目前に大量解雇、整 理問題に直面しており、復帰後の地域振興、雇用対策を導くことが、沖縄側にとっ て住民間の分裂を回避するために焦眉の課題であったことがあげられる。別の見方 をすれば、「二・四ゼネスト」が行われれば、米軍の強権発動の前に、沖縄の革新 の「一枚岩」が崩れて、住民間の対立・分岐が噴き出すことへのおそれが共闘会議 側にあった。  第一章、第二章を通じて、主な検討対象としたのは、本島中部の嘉手納基地に隣 接する北谷村〔町〕と海兵隊(マリン)のキャンプのある北部に近い具志川市であ る。  第一章 戦後沖縄における地域振興問題 戦後沖縄の地域振興問題を考える際に、まず戦前・戦後の土地・農業問題について 概観する。第二次大戦後、米軍の軍政下にあった沖縄と奄美では、本土のような農 地改革が行われなかった(1)。結果、戦前の土地所有関係が、1950年代以降も引き継 がれかた。朝鮮戦争の後、50年代後半から沖縄本島では軍用地の接収によって耕作 地がいっそう狭隘となった。5万名に近い基地関係の雇用が生じたが、高い失業状態 はなお解消されなかった。60年代まで本土への移動には制限があった。  第1節 戦前、戦後の沖縄の土地・農業問題 沖縄経済を論じた分析が指摘するのは、戦前では「地域経済内の好循環がまったく 望めない沖縄経済の特質」(富山一郎)や戦後では「正常な経済の再生産構造の崩 壊こそ基地経済のもたらした最大の社会的損失である」(宮本憲一)とする見地で あり、「生産的技術者や経済人の欠如をも生み出した」(同)とも言われた(1)。 A 土地問題  まず、沖縄本島の中部♀zに暴落した。軍需景気とともに糖価は回復し、同村は糖 業統制下の品質検査においても成績優良農会となった(1938年)。総じて、本稿で対象とす る市町村が、離島をふくむ沖縄全県から比較した時、南部の島尻郡とともに恵まれ た農村地帯であったことがわかる。 1945年の沖縄戦と米軍占領を境として本島中部では、良好で平坦な耕作地は、軍用 地として接収された。土地の形状は激変した。1950年代からの地籍確認作業では、 耕作者が登記される例と土地所有者が登記される例とが錯綜し、不統一のままに作 業は継続された(3)。当時、売買地価が成立しないほどに低い限り、土地問題は表面 化しなかった。1960年の時点で、琉球政府下の総戸数16万4000戸のうち、55%の9万 戸が農家であったが、その72%が5反未満にすぎず、戦前よりも零細化していた(4) 。また統計上では「農業」としてカウントされても、実態は職や収入のない状態で あることが多かった。これを補ったのが、後述する「軍作業」である。1964年の農 業センサスでは、具志川村の総世帯数、7413戸のうち農家戸数は48%の3534戸、う ち軍雇用を兼ねる農家が約3分の一の1194戸であった。 1955年に始まったアメリカの土地算定方式(=資本財とみなして年利6%で算出)に よる軍用地料の一括支払いは、土地取り上げを目論むものだとして、全島をあげた 反対闘争、反プライス闘争がおこされた(プライス勧告:下院議員メルヴァン・プ ライスを代表とした調査団の勧告)。基地周辺での民間地料は、55B円/坪にもか かわらず、軍用地料は5.41B円/坪であった(越来村、コザ市を経、現沖縄市)。19 58年末、沖縄側は一括支払い方式を阻止、軍用地料の大幅アップと5年毎更新をかち とった。この軍用地問題で緊張が高まっていた、58年1月末、琉球列島米国民政府( 軍政府に代えて50年に発足、USCAR:United States Civil Adminstration of the Rikyu Islands)は、国務省あてに次のように報告している(5)。 「地料の支払いを得たとしても、土地の返還を求め、日本復帰を叫ぶことに変わ りはない。農民は土地と地料を併せて得ることになるからだ。」(原文に下線あり )「沖縄人は実際的な(practical)住民であり、軍用地料が適当なものであれば、 ただちに土地への愛着(worship)は小さな問題に転ずる。外国権力として、政治対 立を回避するには、厳密な算定方式以上の補償措置を土地に行う必要がある」(欄 外に「Good Point」の書き込み)  1958年9月、外相、藤山愛一郎とジョン・F・ダレス国務長官との会談がなる。米 国民政府より軍用地の地権者に3500万ドルが、60、61年の2年間に支払われた(6)。51 年から10カ年の基地料が6400万ドルであったからその大きさがわかる。以降、軍用 地料は地主団体が交渉の当事者となって、日・琉・米間で決定されてゆく。50年代 半ば、宜野湾村・伊佐浜の土地闘争の指導者であった桑江朝幸は、軍用地主の財産 権を守るため、土地連(市町村軍用土地委員会連合会)を結成した。60年代以降、 土地連は、沖縄自民党の支持団体となった(現、社団法人・沖縄県軍用地等地主会 連合会)。  60年代を通じて、軍用地料は「農作物の収穫高×38%」とされ、軍用地主の90% が契約に応じた。後述するように沖縄の砂糖キビとパインは、本土政府の価格支持 政策に依っていたから地料もこれにスライドして高騰した。また、立法院選挙や主 席公選が行われた、64年には16%、69年には、44.4%もの大幅引き上げがあった。 地料は、大半の地主にとっては、面積が狭隘ゆえに、家計補助的なものにすぎず、 その後もながく消費分に当てられた。一方、長期前払い(一括支払い)の場合もこ れを米軍人向け住宅の建設資金に投じた例が多かった(7)。本島北部では、農業後継 者そのものが本土の2倍もの速さで減少していた。加えて、沖縄では農地改革が行わ れなかったことから、那覇周辺に移住した「在外の地主」による土地改良事業への 不参加や妨げにより、地域の農業振興策は、本土以上に困難であった。基地周辺町 村の土地生産性は、1960年代を通じて低いままに推移した。  ところが、72年の復帰を前後として、軍用地料は、平均で5.77倍、一部では地レ 変更で百倍にもなった。中部では、軍用地が地料の10年〜20年分相当の高額で売買 されはじめた。基地被害は、周辺住民に強いられるにも関わらず、軍用地料のみは 、基地内に名義をもつ個人の所得となった。北部のキャンプ・ハンセンのある金武 町でも「どこが軍用地料をえているかは絶対にタブー」(聞き取り)であり、読谷 村でも軍用地料については地主会長しか知り得ないしくみになっている。地域住民 の間で何が収入源であるかを互いが隠さなければならなくなったのである。 B 農業問題 戦後沖縄農業の問題を見る。本島中部は、甘蔗、甘藷、水稲、役馬、養蚕、製茶な ど他品種にわたる農業経営が営まれていた地域である。本稿でみる北谷村では、戦 前は水田(ターブックワー)が広がっていたが、極東最大の空軍基地である嘉手納 基地が建設され、50年代以降、就業人口の4割もが基地労働者となった。農業協同組 合ができてもすぐに消滅した(8)。  沖縄本島では、1950年代後半よりパイナップルを中心として本土向け加工輸出が 急速に拡大した。60年代半ばには、サトウキビ・ブーム(糖価高騰)がおこり、精 糖工場が本土の商社系の糖業資本により作られた。64年には、10アール当たり60ト ン、1トン=24ドルという暴騰となった。買い付け糖価はきわめて世界商品的で、キ ューバ゙危機などの政治変動に影響されやすい。当時の沖縄糖業の反当たり収量や労 働生産性は、台湾や奄美より劣っていた(9)。50年代後半、沖縄本島の中南部では、 世帯につき一人は、軍作業に出ていた。基地労働は、夏期は7時に始業、午後の4時 には勤務を終える。サトウキビ作は、他品目に比し粗放的で、収穫時の集中した春 期の労働のみである。62年頃より砂糖買い上げ価格が引き上げられると各地で水田 をキビ畑に替える例が続いた。沖縄の島産米は、本土の食糧管理=米価維持政策に 沿った「米穀需給調整臨時措置法」(59年)により保護されていたが、台風の常襲 地帯でもあり、兼業農家にとって管理の難しい水田経営は遠ざけられた。作付面積 は最盛期の2〜3割に激減した。  戦後の沖縄農業からは「農業技術への関心や亜熱帯気候を活かした多種多品目の 有畜農業への関心」(10)などが絶たれた。1960年頃には「地理気候的条件が備わり ながらも少なくとも島内需要の野菜、果物や魚がとれない、作れないはずはない」 と商工団体からも批判が生じていた(11)。また、戦後沖縄では本土と異なって農地 売買は自由であったが、「自立経営」の中堅農家や農業法人(協同組合など)によ る企業的経営が現れなかった。むしろ、ベトナム戦争の際の規格の厳しい「軍納野 菜」(キャベツ、トマトなどの清浄野菜)に技術集積があった。結果、豊見城村が 南部で「考える農業の草分け」となった。同村周辺では協業化がすすみ、技術は都 市近郊型の農業経営に継承された(12)。 以上、戦後沖縄の土地・農業問題を概観するなら、反プライス闘争の高揚を転機と した「長期の経済開発」政策に見合った土地や労働の生産性向上は少なかったと言 える。1960年代の所得向上が、50年代後半に始まった本土政府の拠出による諸年金 (恩給・遺族給付など)の受取りや砂糖やパインへの農業補助金によって賄われて いたことである。これに立法院選挙ごとに増額された軍用地料やベトナム戦争によ る米国からドル受け取りが加わる。1960年代はじめに日米間で合意された対沖縄政 策がどのような政治構造をもたらしたのであろうか。  第2節 60年の立法院選挙とケイセン調査団報告書  1960年6月11日、国家安全保障会議(NSC)は、政策文書「米国の対日政策(600 8/1)」のなかで「沖縄の政治的安定、経済成長、米国統治への満足感、統治の高さ への瞠目を地方住民やアジア人に与えること」を掲げ、そのために「長期の経済開 発を可能とする十分な援助」を提案している(1)。7月、毎年600万ドルの対沖縄援助 が大統領令(86-629)で定められた。その目的は「極東と太平洋地域での安全保障 の確証性の向上」であると述べられていた。61年6月、池田勇人とジョン・F・ケネ ディとの日米首脳会談で「基地の維持、存続のためには、一、日本が沖縄における 潜在主権を有していること」「二、日本が沖縄住民の福祉に関心をもつこと」が確 認された。いわゆるケネディ・新政策の始まりである。 A 60年11月の立法院選挙  1956年末、土地取上げ反対闘争(反プライス闘争)の高揚から沖縄人民党、瀬長 亀次郎が那覇市長となった。米国民政府(USCAR)は瀬長の追放を画策し、琉球銀行 による那覇市復興事業への融資を停止した。民政府の意を受けた議会保守派が瀬長 を解任に陥れた。57年10月、l民党?ニ無所属、社会大衆党那覇支部からなる「民主 主義擁護連絡協議会」(民連)が兼次(かねし)佐一を瀬長の後継者として擁立、 当選させた。さらに58年3月の立法院総選挙では、無所属が増え、与党である民主党 は17議席から7議席に激減、民連は全島で5議席を獲得した(2)。  アイゼンハワー政権は、この「民連ブーム」への対応を余儀なくされた。58年5月 、ウイルソン国防長官は、「プライス勧告」の混乱から初代(1957年就任)のジェ ームス・E・ムーアを解任し、工学出身のドナルド・P・ブースを2代〔琉球列島〕 高等弁務官に任命した。翌59年1月、ブースは「新土地計画」を発表、軍用地問題で 沖縄側の主張に譲歩した。国務省をはじめとして沖縄には14もの調査団が送られ た(3)。59年11月、上院外交委員会に出された「コンロン報告(東北アジアにおける 米国の外交政策)」は、@将来の基地機能を残した沖縄の施政権返還、A当面の施 策としての主席公選、B台湾・韓国よりも低い対沖縄援助の大幅増額などを提言し た。60年6月14日、ブースは行政主席の選任に「第一党方式」を打ち出した。以降、 沖縄自民党(59年10月に発足)は「長期安定政権」を明確な目標に掲げた。  さきの民連ブームも59年には、兼次の「民連離脱」でおわった。60年11月の立法 院総選挙では、発足して間もない自民党が、定数29議席のうち22議席を得て圧勝し た。これは本土における、安保闘争の直後、60年7月の群馬県知事選での「民主主義 擁護群馬県民連合(民擁連)」の敗北や11月の総選挙での自民党の圧勝(297/定数4 67議席)と背景や原因において見合うものであった。当時、沖縄社会大衆党は次の ように述べた(4)。  「選挙の裏面分析 (1)...市町村当局やボスにより地方民を糾合し懇談会の名目 による供応がなされ或いは台風災害救援物資の支給と結びつけてあくどい党組織の 手を拡げた。...一旦飲み食いをともにしたり、印を押させられたりしたら義理堅い 民族性から不本意でも同調していかなければならない状態においこまれた。..(2)利 益誘導...政府許可事業...道路工事、護岸工事...土地改良事業...生活保護世帯、 在宅治療結核患者...政府職員の地方出張での事前運動...(3)高等弁務官資金...(4) 莫大な政治資金..」(沖縄社会大衆党『立法院選挙に関する報告書』1960年11月) ここに列挙された地方政治のありようは、コンロン報告が述べた「直接の票買いが まだ普通」(5)という「沖縄政治の特徴」そのものを基礎として、各種の補助金が住 民間に撒布されたことを意味している。沖縄自民党は、10万人党員獲得の選挙運動 をひろげ、宮古、八重山では「千人単位の集団入党」が行われた。党組織は「自治 体の首長を頂点に全琉的にくまなくはりめぐされていた」(6)。 B ケイセン調査団報告書 61年10月、アメリカは、国家安全保障担当大統領特別補佐官、カール・ケイセンを 代表とする調査団(「戦後十六年間にわたる米国の施政のきびしい再評価のための 調査団」)を沖縄に派遣した。琉球政府は『民政五ヶ年計画』を作成、財政援助の 増額を訴えた。62年3月19日、「沖縄問題に関する大統領声明」が出された。同声明 は、プライス法により年額600万ドルとされた対沖縄援助予算の引き上げ、高等弁務 官の文民化、一部の行政権限の琉球政府への移譲、日本施政下への復帰に備えた措 置等からなっていた(7)。  ケイセン報告は、共産中国の脅威と沖縄での政治対立の深さについて述べ、対沖 縄援助を年額2500万ドルまで引き上げることを提言していた。しかし、同報告に沿 ったプライス法の再改定に対しては、議会・上院と国防総省・陸軍省から反対意見 が出された。議会・上院は、対沖縄援助拡大の政治効果に疑問を呈し、63会計年度 の同援助額を1200万ドルに減額させた。国防総省・陸軍省は、日本の援助で「計画 」の全体を補完する場合も「日本政府の援助増大によって米国の地位が揺らぎ、結 果、基地の存続を危うくさせる」(8)との懸念を表明した。  また、国務省は、沖縄における復帰運動の拡大を危惧していた。日本政府が「五 ヶ年計画」を措置するなら、米国がこれに倍する援助を拒むことはできない(援助 額を2対1〔two-to-one US-Japan aid ratio〕で合意していた)。62年11月の立法院選挙を控えた微妙な時期ゆえ、同選挙 では「アメリカが日本の援助額を50%以内に規制している」との批判が予想される 。プライス法の再改定、対沖縄援助増額の目的は「新たな復帰運動の拡大の基礎を つくらせない」ことであると繰り返し述べた(9)。最終的には「日本政府の援冗、共産主義者 に導かれた「守る会」は減少するに違いないと述べていた(13)。奄美群島復サ事業 計画は10カ年で1963年に終了、64年より奄美振興開発計画(奄振)が始まった。沖 縄にあっても島嶼部では、社会大衆党が宮古島・平良市で強いことを措いては、保 守系への対抗勢力は現れなかった。これは60年代の奄美の長い政治状況と同一であ る。島嶼部などの後進地域においては、「長期の経済開発」政策の結果、遅れた地 域の政治構造に復原力を与えたのである。 第二章 戦後沖縄の軍雇用と労働運動      1961年11月24日、ケイセン調査団の帰国の後、国務省内では次のような提言が交 わされていた(1)。 「1...1250万ドルの一時支出によって、琉球政府職員と軍雇用者の退職基金を設け る。次の項目への政府支出を援助する。 1)教職員と琉球政府職員の給与引き上げ と退職制度 2)健康保険制度 3)貧困者への公的援助制度 4)災害復興政策 5)インフラ整備へ の援助...」「米国政府雇用者の賃金と手当を本土における、MLC契約の雇用者と 同等に引き上げること」「組合活動の事前許可を規定した布令145号の廃止」。 ここで注目するのは、公務員と軍雇用者の雇用条件の向上と布令145号の廃止があげ られている点である。当時、本土においては、米軍施設の返還、自衛隊移管に伴う 人員削減に際して、全駐留軍労働組合(全駐労)は、雇用確保をめざして、ストラ イキ闘争を繰り返した。1960年10月24日「海外基地年次報告」(2)は次のように述べ る。 「1960年より在日米軍がMLC〔基本労務契約−沖縄の第1種に相当、後述〕から 民間請負業者の下での雇用〔第4種に相当〕に移すにあたっては、日本政府との協議 に付すことに合意した」「その他の支出金による雇用者も、日本政府の間接雇用(in direct hire)に移行させ、米国の非政府支出金による人員調達〔第2種に相当〕と同等の扱 いを受けさせる」「第5空軍の再編による人員削減問題からストライキが続いてい たが、今後、在日米軍(USFJ)は安定した労働関係を確保できるに相違ない」。( 第5空軍は、東京・府中に司令部を置き、極東地域の空軍を統括)  在日米軍は基地労働者のストライキに直面すると労務関係費を日本政府に肩代わ りさせ、その賃金、身分保障により反対闘争を弱めようとした。当時、沖縄の軍雇 用者の意識においても「本土基地労働者と同様な身分保障を受け、日本国家の保護 下に入ることが完全復帰、日本国憲法下への復帰である」(全軍労・牧港支部)(3) として、本土の全駐労と同一の労働条件(日本政府の間接雇用)確保を第一の目標 としていた。1960年代、アメリカに基地撤去を求めることと雇用保障を本土政府に 求めることとは、矛盾しながらも同一の要求とならざるを得なかった。つまりは、 日米安保条約を実効たらしめる日米行政協定の「第12条の4」の適用拡大に他なら なかったのである(4)。戦後沖縄の基地労働のもつ特異性は一つにはこの点にあった 。 第1節 戦後沖縄の軍雇用問題−−支部での聞き取りから  全沖縄軍労働組合(全軍労)は、1960年代末には、沖縄の組織労働者の約半数に あたる、2万1千名の組合員を擁した。戦後沖縄の政治社会史を考察する際に全軍労 の役割を見落とすことはできない。(この全軍労の4支部OBの方から、96年の3月 と8月の2回、聞き取りに応じていただいた)    牧港、O氏(1934年生)     瑞慶覧、T氏(1933年生)   空軍、T氏(1934年生)・H氏  マリン、T・H・Oの3氏 以下、60年代の沖縄の基地労働運動を本稿での観点別に、@経済闘争、A日常闘 争と政治課題、B給与の支出根拠による格差是正の3点に大別し、時繰を求める投書 を載せた。7月にズケラン・モータープールで労組が結成さ れたが不認可となった。8月に民政府内で労組が設立された。9月、アンドリック民 政官名で「政治活動を軍事基地内に介入させない」との条件付きで労組容認の声明 が出された(1)。上原らのポスト・エンジニア(営繕部門、陸軍が主)で1610名で労 組が発足したのが9月25日である。AFL−CIO(米労働総同盟産別会議)を支援 母体とする、国際自由労連・沖縄事務所、ハワード・T・ロビンソンの援助を受け ながら、軍職場から60年中に8組合、2303名が組織された。1960年代にも厳しい履歴 書、身上書がとられた。62年にも人民党関係であるとして解雇事件が起きている。 軍職場への就業に際しては、反共の忠誠義務がとられた。 @ 経済闘争 ・各支部ともフォーマン〔職長〕が組合役員であり、スポーツ委員会が良きオルグ となった。米軍人からの個人的な不当対応には職場から反発がおき、サボや報復で 作業は遅滞したから現場での譲歩引き出しが可能であった(那覇軍港)。ビ?奄ナ不 当をたたけば、司令官が支持して、調整に入った。米人との対応では萎縮しないこ とが必要、「いつでも食える」という気持ちで満ちていた。とくに軍港湾労組の荷 揚げの沖仲仕らがそうだった(当時の組織率は100%であった)。(牧港) ・1960年代には、各種の建設や荷役等があり、労働市場はかなり売手有利となって いた。これに砂糖景気が加わる。具志川市議会では、70年前後にもキビ作の刈取り のため休会続きとなるほどであった(牧港)。この時期の成長率は20%にも達する 勢いであったから労働市場としては、いつでも食える状態にあった。この頃は「公 務員や全逓の方が軍職場よりもよくなったから追いつけ」と経済闘争への意欲は高 まった(2)。 ・米軍当局の対応では、陸軍は民政についての知識・訓練もゆき届いており、司令 官には知識人が多かった。かれらの労働組合への理解は高かった。団体交渉では激 高しても休憩では対等で紳士的であった。空軍や海兵隊は異なった。加えて、組合 結成と拡大にとって好都合であったのは、当局側からの「職制」をつうじた不当労 働行為が皆無であったことである。また「先任者優先原則」(逆年功序列)が厳守 され、この原則を無視した解雇はなかった。そのため第二組合は米軍当局がつくら せなかったといえる。こうした民主性については、今もOBらは感嘆している。( 牧港・空軍)  ベトナム戦争の激化により、慢性的な超過労働が続いた。経済闘争では米軍当局 の譲歩をひきだしていった。68年4月には10割年休闘争を実現し、団体交渉権、スト 権も獲得する。(ただし第1種はスト権は不可)当時の記事からは、基地内の鉢巻 きやデモも行われ、「政治活動を軍事基地内に介入させない」というアンドリック 声明の障壁が低められたかにみえる。 A 日常闘争と政治課題 ・当時の青年部もデモの先頭で機動隊と衝突はしたが、本体は壮年(戦場世代)の われわれだった。警察も手を出さなかった。〔72年〕35日闘争や私鉄ストのピケで 右翼、暴力団と対決したのも「戦場で刃の下をくぐってきた(イクサのミーからイ チテチチャドウ)」おじさん達だった。防衛隊や護郷隊を体験していて団結心があ る。(牧港) ・那覇軍港は、職場と居住は近接しており、勤務明け(4:30)の支部事務所は労働 者のクラブのようであった。他支部でも居住ごとでの「同郷のよしみ」が大きい。 内部からの裏切りはよほどのこと。皆、手弁当で集会にいった。兄弟の意識が沖縄 は強い。68年ごろ上京して、動員手当のことを全駐労・座間支部(キャンプ座間) で聞かれて意味が判らなかった。(牧港)   基地周辺の?    321 97.07% 計 37481  20436   54.52% 第3種  7154 (第3種は1967年末)(5)  1960年、上原康助により結成された労組は、モータープールに働く第1種の労働者 からなっていた。第2種では、第1種雇用者と退職金制度に関して最大12ヶ年の格差 が生じていた。資金源が違うことを理由とした待遇(退職金)格差の是正を求めて 、64年からREX(PX関係)職場での組織化が始まり、全軍労の支部組織は倍加し た。しかし、第2種は、職場や勤務時間なども異なり組織化は第1種よりも困難であ った。さらに第3種の組織化は不可能であった。第3種は、不安定な雇用契約のまま 、保険、退職金等もなく、基地内での米兵による犯罪、人権侵害を最も受けていた(6 )。メイドやハウス・ボーイとし雇用される者は、復帰の時点で7000人と推計され、 基地労働の最底辺にあった。第4種は、退職軍人の経営や沖縄の民間請負業者の雇用 者でしめられ、バック・サービス、沖縄園芸、沖水興業、国際ビルディング・メイ ンテナンス(桑江陸軍病院)、宮平組(嘉手納基地)などに全軍労の支部組合員が いた。67年より年末手当や退職金制度の第1種、第2種との格差是正を求めてスト 権を行使した(7)。 以上から、理解できるのは、ベトナム戦争の激化のなかで、全軍労の組織化が「同 一労働同一賃金」の原則性を求めて、第1種から第4種へと支部組織を拡大していっ たことである。しかし、ドル防衛策と基地機能の整理統合による大量解雇は、第1種 の組合員よりも第2種、第4種の組合員に苛酷なものとなった。また米国流の「先任 者優先の原則」により、勤務年数の少ない層から解雇がはじまっていた。 第2節 69年の「二・四ゼネスト」時の各支部の組織状況  1968年の三大選挙の直後、11月19日未明、嘉手納基地で戦略爆撃機、B52の墜落事 故が起きた。核兵器の貯蔵ありとされる知花弾薬庫近くナ爆発炎上した?B11月22日 、県労協幹事会は、B52撤去闘争を決め、12月18日、県労協臨時大会で「全県民的な ゼネスト」計画が取り組まれた。このゼネスト計画は、アメリカのベトナム戦争遂 行体制と真っ向から対立するものであった。グアムからの出撃では、関係部隊のロ ーテーションが行えなくなり、沖縄からのB52撤去には応じられないとしていた(1) 。軍側は、69年1月11日、高等弁務官の名で「総合労働布令」を公布、第4種の雇用 者の賃金改善と引替えにストとピケ行為の禁止を規定してきた。ゼネストは直前に 回避されたがその政治経過についての関係者の証言は少ない(2)。  68年に入って、テト攻勢によりジョンソンは、大統領選不出馬と段階的な米軍撤 退を表明するが、同時にB52による南ベトナム民族解放戦線の補給路への爆撃を強化 、この時期、「革命軍の命綱である北から南への補給ライン、ホーチミン・ルート への爆撃は想像を絶するもの」となった。68年から69年にかけて、B52の絨毯爆撃 が連日続き、北ベトナムと解放戦線側にとって「非常に苦しかった時期」であった(3 )。  ストライキ中止への経過 69. 1.12 全軍労、第13回臨時大会にてゼネスト参加を決定。  1.31 上京中の屋良主席、「生命を守る県民共闘」にスト回避を要請 2. 1 全軍労、スト回避を決定。上原康助、全軍労中央執行委員会にて説明 「@県労協は、全軍労の組織事情もあり、最終的にゼネストを回避したい意向…  A共闘会議では、特に政党(社会、人民)と学生会が絶対に回避すべきでないこ とを主 張……B教職員会は共闘会議の決定に従う態度……」(4)   のちに当時、運動の中心にあった県労協議長・亀甲康吉の出身単産である沖縄全 逓労組は、組合史の中で次のように述べる。(監修者は同氏) 「....アメリカ軍の弾圧は企画当初、予想したよりもはるかに規模も、大きく、そ の内容も強烈なものであるして、@基地内に5万のベッドを準備し、基地労働者を 二・四ゼネ・ストが終了するまで、基地外にださない。Aゼネスト突入の場合には 全軍労組合員に対し、全員解雇の通知を行い、B同時に全軍労を脱退すればただち に解雇を取り消し、雇用を継続する、という弾圧方針であることを明らかにした。 上原全軍労委員長は、この弾圧が強行されれば、全軍労は潰滅するであろうことを 、血をはく思いで明らかにした。県労協、四万六千名の中、二万一千名を占め、ゼ ネ・ストの効果も決定的威力をもつ、この全軍労の組織的悩みは決定的であった。 これにひきくらべ、革新屋良主席や平良那覇市長のもとにある、官公労、自治労、 教職員会はどのような立場にあるかは明らかである」(5)。  ここでは公務員と軍職場の落差がありのままに記されている。つぎに聞き取りで もストライキに対する軍職場内での意識の差異がうかがわれる。 ・軍職場では「二・四ゼネスト」の直前、なじみの米軍人から「あなた達の問題で はないね」といった敵意が明らかだった。1968年4月の10割年休ストに対して、参加 しにくかったのは、警備・消防を除いた部分では、メスホール(兵員食堂)関係、 なぜか組合アレルギーが強かった。第4種は、クラブ関係や夜勤も多く取り組みにく い。勤務時間が異なり、オルグに入れない。(空軍・T氏)  ここで各支部ごとの闘争態勢や前述の第2種や第4種での「組合アレルギー」の内 容を吟味する必要がある(6)。【表−1】は、北部からキャンプ・ハンセンから中部 の那覇基地までの支部と市町村を対応させたものである。69年9月の時点で、海兵 隊のある具志川市のマリン支部の組織率は、59.3%と空軍支部の64.9%とともに他 支部に比べて低い。海兵隊(マリン)の職場は、メスホールが主であり、那覇、浦 添、宜野湾などの第1種の多い職場に比べて組織化が難しかった。また、保守的な 地域を後背地としている。     【表−1】 つぎの【表−2】は、65年の立法院選挙から72年の県議選までの基地周辺市町村 のうち、金武村(80年より町制)、具志川村(68年11月より市制)、北谷村(80年 より町制)における保革の得票数を見たものである。北部から中部、那覇市近郊に かけて、保守系の金武村(@)、保革対立の具志川市(A)、革新系の北谷村(B )の3市町村に類型化が可能である。これは【表−3】にみる市町村長の保革の動 向とも一致する。その特徴は次のようである。     【表−2】        【表−3】 @..北部の金武村では、総世帯の3割が軍雇用で、かつ、第1種は2割で少ない。金武 村は、1957年にキャンプ・ハンセンを恒常的な海兵隊基地として受け容れた。収入 の糧を「特需景気」にわくコザに倣おうとした。70年代、全軍労のストに軍当局は 「オフ・リミット」(米軍人らの禁足令)を出した。政治的には、宮古、八重山や 奄美と同じく強固な保守基盤である。70年1月、全軍労の闘争支部にデモをかけた「 生活を守る会」は、ストに反発したコザのAサイン業者と従業員からなっていた。70 年前後からは金武やコザの歓楽街は、経営困難となっていた。 A..具志川市は、総世帯の4割が軍雇用で、第1種が5割強である。政治的には、なが く保守の首長でありながら、立法院選挙(第8選挙区)に久高将憲(民連−革新系− 人民党)を送っている。キャンプ・コートニー(昆布・天願区)は、1957年に土地 収用がされ、1960年からは「第3海兵師団の司令部大隊のキャンプ」となった。60年 代、本部地区(司令部)と南部(家族住宅)とREX(PX関係、倉庫群)の3地区 が整備された。本部地区には、士官クラブやメスホール、コミュニティ施設がある 。ここは第2種、第4種の従業員で構成される。  加えて、具志川市で久高将憲(人民党)が当選した理由も「表むきでは侵略戦争 反対などの反米イデオロギーで対決しながらも、実際の集票作戦ではイデオロギー ではなくいわゆる”久高節”といわれた農民への語りかけにあったようだ」「キビ 問題を中心とする政策で農民の心をうまくとらえ〔た〕」(7)との観察が見える。革 新系には農民票が多く含まれる。当時、マリン支部では「半数がキビ作農家」であ った。当時、軍雇用に代わる職場としては、養豚、養鶏業と若干の誘致企業のほか は見いだし得ない雇用状況であった。 B..北谷村は、総世帯の5割強が軍雇用で、第1種が5割である。政治的には、@と対 照的である。1958年、民連ブームのなかで、軍作業出身の34才の青年会長、崎浜盛 栄が出て、最年少の革新の村長となった。立法院選挙(第12選挙区)では、倍の有 権者をもつコザ市と合区であるが、全軍労選出の社会党議員の強固な地盤である。 北谷村や嘉手納村〔76年より町制〕では、居住地までも軍用地にとられ、軍雇用者 が圧倒的に多い。ここでは全軍労は「地域政治」に大きなウェイトをもち、上原康 助や全軍労幹部を議会に出している。この北谷村や那覇近郊の市町村長では、教育 委員会や行政管理者にも「二・四ゼネスト」への共通理解があった(8)。  ここで再度、「二・四ゼネスト」の直前の各支部の状況を考える。1月29日(水) の各支部代表者会議では、12支部より現状報告があった。特徴は、@軍側のスト不 参加の署名の強要(ズケラン)Aスト前夜の泊り込みの強要(エクスチェンジ、牧 港、海軍航空隊、マリン、普天間マリン)B懲戒措置をおそれ、組合員に相当の動 揺(全支部)Cピケ要員の確保困難(CSG、マリン)であった(9)。  ここからは、支部ごとのゼネストへの対応の違いは見えにくいが、1月30日(木) にも委員長、上原康助は、嘉手納村教育委員会をスト当日の会場の貸し出し問題で 訪ね、折衝に入っている。当時、町長は自民党であったが、1月に改選されたばかり の議会は、自民4、社会3、社会大衆3、無所属10で革新系の優位となっていた。また 、那覇支部では「支部としては百パーセント自信をもっていたのに」(吉田勇支部 長)との記事がある(10)。嘉手納空軍支部では、オルグの際、「2種関係の職場がゼ ネストに対して非常に抵抗が強くて..」との回顧がある(11)。 むすび 97年7月に公開されたワシントンの公文書館の資料のなかに68年12月と「二・四ゼネ スト」直前の69年1月7日の米軍合同労働委員会(JSLC)の討議資料があった(co nfidentialと15年間非公開の押印あり)(1)。そこでは、@68年12月14日に県労協 が主催する、B52の撤去要求の集会に構成団体である全軍労が参加した場合の懲戒 措置、A第4種雇用員のいる陸軍桑江病院のストライキを交渉議題に認めるか否か、 を協議している。結論では、68年8月1日に全軍労と合同労働委員会の間で合意した メモランダム(MOU)(2)を基準とすることが繰り返し述べられていた。  8月のメモランダムは、68年4月の10割年休闘争への懲戒処分の撤回とともに労使 協定締結までの間、第1種、第2種の雇用者の争議行為を停止することが骨子となっ ていた。JSLCにとって、軍労組が発足した際の「政治活動を軍事基地内に介入 させない」というアンドリック声明こそが最優先事項であった。そこから、@政治 的理由によるストライキへの懲戒規定と、A軍との直接の契約関係にない第4種の雇 用者問題を交渉議題としないことが再確認され、その上で、B12月14日の県労協主 催、B52撤去要求集会に第4種の組合員が参加した場合、軍はどう対応すべきかを協 議していス(3)。  そこからJSLCとして対応に苦慮しているのが、@第4種の組合員の参加を認め ている、B52撤去要求集会に第1種、第2種の組合員が(組織的にか、個人的にか) サボタージュや年次休暇等で支援するケースをどう懲戒の対象とするか、A第1種、 第2種の組合員が同集会に呼応してサボタージュ等に入り、JSLCがメモランダム (MOU)を失効にした場合、参加者を4月の10割年休闘争に遡って懲戒の対象にでき るのか、Bサボタージュには加わっていないとする組合員を所属故に懲戒対象とす るのかなどであった。 ジャコブソン議長は、@第4種の雇用者の問題を全軍労との交渉議題としない、A1 月中旬に140組織の加わる共闘組織〔いのちを守る県民共闘会議〕がゼネストを計画 中と報じられているが「我々にはいかなる選択肢も与えられている」と結んでいる 。  ここからは米軍当局が、B52撤去要求のゼネストに際してどのような闘争形態、 戦術が全軍労側から採られた時に不利になるかが逆に示されている。当時、第4種の 雇用者からなる軍職場が焦点であった。雇用条件の格差を越えて、経済闘争と政治 課題とを同一の方針のもとで、組織的にも個人的にも闘うことが切実な問題となっ ていたのである。まさに「底辺労働者の諸問題に力を入れることこそ、労働運動の 基本でなければならない」(上原)という原則性がここにきて問われていた。  ゼネスト回避への経緯は、証言も少なくなお判然とはしなかったが、背景には、 沖縄での地域間格差や職場の雇用条件格差を含んだ、きわめて構造的な要因がある 。第一章で述べたように「長期の経済開発を可能とする十分な援助」により住民間 に分裂・分岐が拡大されたのだと言える。「二・四ゼネスト」が取り組まれたのは 、三大選挙で勝利し、B52の墜落爆発という、地域、職場の格差を越えるだけの「政 治条件」が生じたと共闘組織が判断したからである。 しかし、当時のベトナム戦争の遂行体制(日米安保条約)とこれを支える自民党長 期政権の支配の状況からして、政治ストを理由とした参加者全員の解雇と全軍労脱 退者の再雇用という米軍の強権発動に対しては、当時の本土はいかに動きえたであ ろうか。のちの屋良朝苗知事の回想に「沖縄の革新は一枚岩ではないんです。累卵 のあつまり(こわれやすい卵がだんご状になる)なんです。...私が知事時代、累卵 が崩れないことに半分以上の神経・体力を費やしました」(4)との箇所があるが、屋 良知事と県労協の幹部周辺は、一つには、こうした本土を含めた組織事情から「不 測の事態」−−沖縄人どうしが分裂する−−を回避せざるをえなかったのだと考え る。この言葉は、現在に続く沖縄の地域政治の状況を示している。 1997.11.8 脱稿ちの屋良朝苗知事の回想に「沖縄の革新は一枚岩ではないんです。累卵 のあつまり(こわれやすい卵がだんご状になる)なんです。...私が知事時代、累卵 が崩れないことに半分以上の神経・体力を費やしました」(4)との箇所があるが、屋 良知事と県労協の幹部周辺は、一つには、こうした本土を含めた組織事情から「不 測の事態」−−沖縄人どうしが分裂する−−を回避せざるをえなかったのだと考え る。この言葉は、現在に続く沖縄の地域政治の状況を示している。 1997.11.8 脱稿 脱稿