統一ドイツの政治経済と外交政策
T ドイツ統一への経緯 旧東ドイツ国民の西側への流出の増加。 □ 1989年11月9日 ベルリンの壁が崩壊。 → この時点に至ってドイツ連邦共和国首相コールはドイツ再統一を目標に掲げる。 □ 1990年3月18日 東ドイツ国民議会選挙 → CDU党首デメジエールが首班に指名され、超党派連合政権が 成立。ドイツ再統一を決定する。 4月2日 5月 経済・通貨・社会同盟結成。 7月1日 経済的再統一の実現。 7月22日 東ドイツ国民議会が州制度復活法を採択。 チューリンゲン、ザクセン=アンハルト、ザクセン、ブランデ ンブルグ、メクレンブルク=フォアポンメルン → 西ドイツと同じ連邦国家へ ボン基本法第23条を意識。 8月25日 31日 ドイツ統一条約締結。 9月12日 ドイツ条約調印。 10月3日 ドイツ統一 12月2日 全ドイツ統一選挙 →CDU/CSU………得票率43.8%、議席数319 SPD………得票率33.5%、議席数239 FDP………得票率11.0%、議席数79 PDS………得票率 2.4%、議席数17 緑の党………得票率 1.2%、議席数 8 U 統一ドイツの政治経済 1、 統一ドイツの政治状況 (1) 政治統合 ボン基本法第23条による統一と、新憲法の下での統一。 → ボン基本法第23条に基づいて統一が実現する。 連邦議会議員数 662名(旧西ドイツ502に160が追加される ) 連邦参議院は16州から構成(旧西ドイツ11州と旧東ドイツ5州) (2)統一前後の主要政党 @ キリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU) キリスト教的超宗派的集合政党(渡辺重範) 50年代アデナウアー首相の下、西側への統合を推進。 主な支持基盤………経営者、高所得者、自営業者、営農家等 1989年の旧東ドイツにおける国民議会選挙の結果、CDUは多数党となる。 1990年10月、ハングルクにおいて旧東ドイツCDUと旧西ドイツのCDUが統一大会を 開催し合同する。 旧東ドイツ5州のうち4州がCDUの州首相を選出。 ○ 外交に関するコールの認識・見解………ドイツの統一と欧州の統一は不可分であり、 ドイツは東欧諸国とEC(当時)とが密接な関係を結べるよう努力すべきである(ドイ ツ統一の日におけるメッセージ)。 NATOへの帰属と統一ドイツの国際的役割 A ドイツ自由民主党(FDP) 統合により支持を拡大。 主な支持基盤………営農家、小企業者、高級職員等。 ○ ゲンシャー外交(1974年 〜 1992年)の評価 → SPDのシュミット首相(1974年 〜 1982年)とCDUのコール首相(1982年 〜 1998年)との連立政権の中で、東方政策の成果を継承しつつ、積極的なヨーロッパ統 合政策を推進。 CSCE首脳会議を前にした1990年11月6日の講演におけるゲンシャー外相の外交・ 安全保障政策に関する認識・見解 ・ EC(当時)は、大西洋を横断する協力体制と欧州平和秩序のための最も重要な土台 であり、域内市場統合、経済・通貨同盟、政治連合が欧州連合に向けた柱となる。 ・ ソ連(当時)・東欧地域における民主主義と改革は、国際的協力により不可逆のも のにされるべきである。 ・ 全欧安全保障協力会議(当時CSCE)の制度化の重要性。 ・ 「ヨーロッパ化したドイツ」は、欧州と世界における平和、自由、福祉、生命の保 護、更に公正に寄与することを任務とする。 B ドイツ社会民主党(SPD) 12月2日の総選挙では、支持は低下(得票率36% → 33%)。 主な支持基盤………労働者、職員、会社従業員、年金生活者等。 1990年9月に東ベルリンで統一大会が開かれ、旧東ドイツと旧西ドイツのSPDは統合。 C 緑の党(DIE GRUEN) D民主社会党(PDS) ・ 社会主義統一党(SED)をめぐる問題 2、統一ドイツの経済状況 (1)旧東ドイツ経済 @SED政権の経済政策 ・ 自給自足、可能な限り輸入を抑制 ・ エネルギー、資源獲得のための輸出政策 A統一後の旧東ドイツ経済 ・輸出競争力の喪失 コメコン(経済相互援助会議)諸国への輸出は、諸国のハードカレンシー(交換可能通貨) 不足により期待程は拡大しなかった。 ・ 進むインフラ整備 1993年夏季に不況は底を打つ。 旧東ドイツ地域の経済成長率………1993年 5.8% 1994年 9.0% 失業率………1993年 14.8% 1994年 15.7% (2)経済統合 ドイツ統一が西ドイツによる東ドイツの合併吸収という形をとったことから、経済再 建のモデル及び主体が必然的に西ドイツ企業となった。 ドイツ全体の経済成長率…………1993年 −1.1% 1994年 3.0% 失業率…………1993年 8.8% 1994年 9.6% ・失業・移民問題 V 統一ドイツの外交・安全保障政策 1 ドイツの軍事的安全保障政策 ドイツの外交方針………NATOとEUの相互補完的な維持・発展(ゲンシャー) 旧ソビエト、旧東欧地域に対する東方政策 ソ連・東ヨーロッパでの政治的変化、ワルシャワ条約機構の解体、ソ連の融和政策 → ドイツの軍事的安全保障政策の基本的枠組みの変化をもたらす。 ・旧ユーゴ紛争 □ 1991年6月25日 クロアチアとスロヴェニア両共和国を先駆けて承認する方針を打 ち出す。 12月23日 クロアチアとスロヴェニア両共和国を承認。 □1992年1月15日 ドイツ以外のEU各国が両共和国を承認。 ・ 論点………ドイツの早期承認政策の是非 H-D・ゲンシャー外相の見解………ユーゴ問題の国際化による紛争の早期解決。 → 当時、ドイツ国内ではNATO海外派兵に関する憲法論争が決着しておらず、積極的な コミットメントは実現しにくい状況にあった。 → 一貫性の問題 2 冷戦後の「ミドル・パワー」、「小国」、「超大国」とドイツとの関わり 独米関係………「リーダーシップにおけるパートナー」(ブッシュ大統領) □1996年12月 ドイツ下院は、3,000の兵士のボスニア派遣を承認。 → 第二次世界大戦後初めて海外への派遣。 3 ドイツ脅威論 旧ユーゴ問題におけるクロアチア、スロヴェニア両共和国の早期単独承認 難民に対する受入規制強化のための基本法改正 NATO域外軍事力行使への方向転換 ・ NATOへの帰属を表明。 ・ ドイツ中立化構想を否定。 ・ 大量殺戮兵器(核兵器、細菌兵器、化学兵器)の生産と所有の放棄を繰り返し表明 (ドイツ条約)。 ・ 将来の平時戦力を最大限37万人とする(ドイツ条約)。 ・ オーデル=ナイセ川をドイツの東の国境とする(ドイツ条約)。 その他ポーランドに対しては、1990年11月14日の国境確定条約によりオーデル・ナイ セ川をポーランドの西の国境とした。また1991年6月17日、善隣友好協力条約を締結 し、領土・国境の相互不可侵、武力不行使、また両国の少数民族保護を明文化した。 W ドイツと統合ヨーロッパ 軍事的安全保障 → NATO 経済的安全保障 → EU ドイツの貿易の半分はEU域内。 1 各地域的機構とドイツとの関わり (1) NATO ・「平和と協力に関するローマ宣言」(1991年11月8日NATO首脳会議で採択) →「連携する諸機構」構想( framework of interlocking institutions )の提示。 ・冷戦後のNATOの変質 → NATOを中核とした欧州安全保障協力体制の実現とNATO域外における危機管理 ・NATOの拡大とドイツの国益の合致(中・東欧地域の安定確保、ドイツ覇権拡大の嫌 疑を回避、米国の長期的関与)。 ・NATOの機構改革………NATOの指揮・部隊構造の適合、北大西洋協力会議(NACC)、 平和のための協力協定(PfP)、共同統合任務部隊構造、同盟域外危機管理・紛争処理 → ロシアとの対立要因となる可能性。 (2) EU □ 1992年2月7日 欧州連合条約(マーストリヒト条約)署名。 →1993年11月1日発効 独仏のバランス □1999年1月1日 欧州通貨統合 (3) WEU 1948年3月に締結されたブリュッセル条約を修正して1955年に設立。 1992年のペータースブルク宣言により、共同防衛から集団安全保障機構の下での平和維 持・回復のための軍事介入を認める(政策調整機関から軍事機能をもつ機関へ)。 (4) OSCE □ 1975年8月1日 ヘルシンキ最終合意文書の採択により全欧安全保障協力会議 (CSCE)設立。 現在53ヶ国が参加。 ・ 実際の紛争の平和的処理、平和維持活動における限界(法的拘束力の欠如、財政的・ 軍事的資源不足)。 ・論点………EU、WEU、NATOにおけるドイツの立場 EU極大化論(仏)と極小化論(英)、NATO極大化論(米)と極小化論(仏) 外交・安全保障政策のヨーロッパ化 「一つのヨーロッパ的ドイツ」(トーマス・マン)
ニ極小化論(英)、NATO極大化論(米)と極小化論(仏) 外交・安全保障政策のヨーロッパ化 「一つのヨーロッパ的ドイツ」(トーマス・マン)