沖縄・名護市民投票の捉え方

−憲法学から斬ってみる−

 

河 野  克 純(憲法学)

(鹿児島大学大学院法学研究科)

 

はじめに

 沖縄県の名護市で、昨年(1997年)12月21日に、全国で5例目の住民投票付託条例に基づく住民投票が行われた。沖縄では、前年(1996年9月)にも県民による住民投票(「県民投票」)が行われた関係で、今回の住民投票は「名護市民投票」と呼ばれる。

 今回の「市民投票」は、正式名称「名護市における米軍のヘリポート基地建設の是非を問う市民投票」が示すとおり、名護市東海岸側のキャンプ・シュワブ沖に普天間飛行場の代替基地として建設が予定されている海上ヘリポート建設(新設)の是非をダイレクトに問うもので、県民投票の一般的な問い方と比べても、国の安全保障政策とからみで、かなり注目されるものであった。また、この市民投票に対する国の露骨な介入など、今までの住民投票には見られなかった現象もあった。このように、今回の市民投票は、いろいろな論点や問題点を持っており、これから様々な分析がなされなければならないが、本稿では今回の市民投票の持つ意味について、簡単であるが法的に考察してきたいと思う。また、今回の法的考察から、この市民投票の結果と、その直後の市長選挙の結果に民意の「ねじれ」が見られ、複雑化してしまった海上ヘリポート問題をとらえる際の1つのヒントになればと思っている。

 

海上ヘリポート問題の現在までの状況

 ここでは、まず、現在までの状況を簡単に整理しておきたい。

 1995年9月の米兵による少女暴行事件以降、沖縄における米軍基地問題が再び活発化した流れを受け、1996年4月に日米両政府が普天間飛行場の全面返還を合意し、いったんは解決の方向へ動き出したかにみえた。しかし、後に県内移設の条件付きであることがわかり、沖縄の人たちを落胆させた。同年9月には、沖縄の米軍基地の整理・縮小を問う県民投票が行われ、有権者の過半数が賛成した。この流れの中でも、日本政府は海上ヘリポート案を打ち出し、11月には、名護市・キャンプ・シュワブ沖が有力とし、SACO最終報告にも本島東海岸に海上基地を建設すると明記するなど、沖縄県民の意思とは裏腹に「押しつけ政策」を展開していった。こうして、名護の海上ヘリポート問題へ続くのである。

 はじめ、比嘉前名護市長も、海上ヘリポート受け入れ反対の立場をとっていたが、次第に受け入れ容認へと傾いていった。そのため、名護の市民団体が海上ヘリポート建設の是非を問うための住民投票を行おうと、条例制定に向けて署名活動を展開し、1997年9月16日に有権者の過半数の署名を添えて条例制定の直接請求を行った。そして同年10月2日、名護市議会は、当初の「賛成」「反対」の二者択一から、「環境対策や経済効果が期待できるので賛成」「環境対策や経済効果が期待できないので反対」を加えた四者択一にするなどの修正を加え、市民投票条例を可決した。この後、条件付き賛成派と反対派が激しく対立しながら、選挙戦が進んでいった。政府も、「条件付き賛成」票を増やそうと経済振興策を振りかざし、要人や防衛施設庁の職員による戸別訪問など、いくら公職選挙法の適用がないとはいえ、あまりにも露骨な介入を展開していった。

 のような状況の中で、市民投票が同年12月21日に行われ、「反対」が有効投票数の51.63%を獲得し、様々な圧力・誘惑を跳ね返して反対派が勝利した。しかし、比嘉市長は、「市長は…有効投票の過半数の意思を尊重して行う」という条例の規定にも関わらず、24日、ヘリポート建設受け入れ表明をし、その直後、市の混乱の責任をとり辞職した。これを受けて行われた市長選挙では、逆に条件付き賛成派がおした岸本市長が、海上基地受け入れ反対を最大の争点に戦った反対派が推す候補を破って当選した。

 ただ、投票直前には、大田沖縄県知事が、受け入れを反対することを決定・表明している。なお、大田知事は、海上基地建設に関わる「公有水面使用許可」の権限を機関委任事務(国の事務)としてもっている。また、当選した岸本市長も知事の判断に従うと表明していることを付言しておく。

 

「住民投票」の動向

 ここ数年、地方自治において、住民が直接に意思表明を行うため、住民投票付託条例を制定し、住民投票を行おうとする動きが各地で見られる。そのなかでも、実際に投票まで行われたのは、原発建設の是非をめぐる新潟県巻町、産業廃棄物処理場の建設をめぐる岐阜県御嵩町、宮崎県小林市、それと先述している沖縄県民投票があり、今回の名護市民投票で5例目である。ただ、これらの住民投票については、様々な問題点が指摘されている。

 まず、基本的に「間接民主制」を採用している日本で、憲法にも法律にも規定のない一般的な「住民投票」が認められるのかということである。憲法には、95条で一定の地域のみに適用する法律を定める場合、当該地域住民の住民投票を行うと定めているが、これ以外には、法律上も、住民が特定の政策上の争点について直接意思を表明する住民投票制度は定められていない。その上、憲法では、前文や43条など、代表民主制を定める条文があり、日本は「間接民主制」を採るというのが学説上一般の考え方である。

 ということは、「住民投票」は違憲、違法なのかというと、そうとは言えないであろう。実際に、先に触れた憲法95条は地方自治特別法における住民投票を定めているところからもわかるように、直接民主制を部分的に導入している。よって、このことからも、間接民主制を補完する形で、(手放しにではないが)「直接民主制」の住民投票を採用しうると解することはできる。では、どのような住民投票ならよいのであろうか。具体的には、法的拘束力のある住民投票が認められるのかという問題である。

 

「住民投票」の法的拘束力の有無

 先程から述べているように、憲法上や現行法律上には「住民投票」の規定はない。そこで、新たに法律を作って法的拘束力のある住民投票を行うことは、民主主義の観点から考えても可能であろう。だが、法律ではなく条例に基づく住民投票制度の場合はどうであろうか。

 まず、憲法上の大原則として、条例は法律の範囲内という枠があることを注意しなければならない。これは、厳密に考えれば、法律上の権限を条例で勝手に制限したり、法律より厳しい規制を条例で定めるのは違憲・違法であると考えられなくもない。しかし、たとえば公害防止条例の例を考えてみると、法律の規制では十分に公害に対処できないと判断された場合に、当該地方公共団体がその議会の議決を以て厳しい規制を条例で定めることは、逆に公害防止や地域住民の健康維持のためになり、憲法上も生存権などの人権保障のより現実的な具体化の観点から積極的に評価されるのである。同じように考えれば、住民投票条例を定めて住民投票を行うこともまた、憲法の定める「地方自治の本旨」の観点から、住民自治を強化するものとして積極的に評価することができる。そして、それに法的拘束力を持たせるか否かは、地方議会の判断に任せればよいと思われる。地方議会は、その地方の住民の代表が集まって審議・議決するわけで、地方議会が法的拘束力のある住民投票条例(「裁可型」と呼ばれる。)を制定した場合、よほど明白な違憲・違法でない限り、地方議会の意思を尊重すべきであると思われる。そして、住民投票の結果に首長や議会が拘束されるように条例で定めることは、自らの意思決定を主権者である住民に委ねたものであり、それは憲法と地方自治法によって明文で禁止されていない以上、法律上も何ら問題はないであろう。したがって、法的拘束力のある住民投票を行うことは、解釈上可能であるものと思われる。

 ただ、現実には、「裁可型」の条例が作られることは非常に少ないであろう。議会や首長が自らの権限を制限するような条例をそう簡単には作らないと思われるからである。実際、今までの住民投票条例は、すべて「諮問・助言型」と呼ばれる法的拘束力のない住民投票制度を定めるものであった。このように、一口に条例による「住民投票」制度といっても、制定する側の意思により法的拘束力のある「裁可型」と、法的拘束力のない「諮問型」の2つのタイプがあるのだが、とくに「諮問型」の場合、その投票結果にどのように拘束性を持たせるかが問題となってくる。そこで、この問題を考える前に、「諮問型」住民投票について少し見てみることにしたい。

 

「諮問型」住民投票

 今回の名護市民投票を始め、過去に条例によって行われた住民投票の5つの例のどれをとっても、「諮問型」住民投票といわれるもので、その投票結果に法的拘束力はないものであるとされる。

 最初の事例として注目された新潟県巻町の住民投票の場合、その条例3条で、「町長は巻原発敷地予定地内町有地の売却その他巻原発の建設に関係する事務の執行に当たり、地方自治の本旨に基づき住民投票における有効投票の賛否いずれかの過半数の意思を尊重しなければならない」と定める。また、今回の名護住民投票条例でも「市長はヘリポート建設に関係する事務の執行にあたり、地方自治の本旨に基づき投票における有効投票の過半数の意思を尊重して行う」と規定している。いずれを見ても、地方行政において、市長や町長(以下「首長」という)に住民の多数の意向に添った行動を取らせるため、投票結果の尊重義務を課すものとは解されるが(名護の場合、それすらも弱い。)、条文上、法的拘束力があるとはとうてい解することはできない。

 たとえば、「投票結果に従わなければならない」と条文で規定し、違反の罰則等があれば、法的拘束力もあるといえるだろう。しかし、実際の条文上は、尊重義務を課しているだけであってそれ以上のものではなく、首長が熟慮の結果、投票結果に反する判断を下すことは可能であろう。なぜなら、法的拘束力のない「諮問型」条例は、首長の地方自治法上の権限を左右するものではなく、よって投票結果に従わないにしても、それはせいぜい住民投票条例違反にとどまる。しかし、条例違反といってもその場合の効果を定めていないため、違反の効果は政治的なものに過ぎず、尊重義務は法的なものとは言えない。よって投票結果に反する首長の事務執行は住民訴訟上の違法をもたらすものではないのである。

 このように、今回の名護市民投票をはじめとする「諮問型」住民投票は法的拘束力を持ちえないものであるが、それでは、この住民投票は無意味なものであったのだろうか。法的には無理にしても、投票結果に「拘束力」を持たせる方法はないのだろうか。次にその点を考えてみよう。

 

事実上の拘束力

 ここは「諮問型」住民投票の効力の問題であるが、これは先ほどから述べてきたように、結果についての法的拘束力はないので、本来それは助言的な問題提起にとどまらざるを得ないとも言える。しかし、そんな単純に割り切れるものではない。なぜなら、住民投票は住民の意思(民意)を明らかにしたものであり、民主主義社会では、民意に添った行政がなされるべきであるからだ。よって、投票結果に何らかの拘束力を持たせるべきであろう。

 この点について、次のように考える。住民投票を実施するというのは、大変重みのあることである(そう簡単に実施されるものではない)。したがって、首長や議会が、諸条件を考慮し住民投票条例を制定し、実施に踏み切った以上、その投票結果が地方行政上全く反映されないのは、「住民自治(憲法93条)」の趣旨に反することになる。そして、「地方自治の本旨(憲法92条)」にそうものであれば、行政執行権を有する首長の意思は、「事実上」、住民の意思に拘束されることになると考えるべきであろう。

 それから、この「事実上の拘束力」というのは、現行法制上、地方自治法で首長の「リコール」や議会の「解散請求」手続き等が設けられていることから説明できる。すなわち、これらの手続きは、まさに住民の意思に反する地方政治を排するためであり、行政執行に住民投票の結果が尊重されない場合には、これらの手続きに移行することが可能である。よって事実上の拘束力というのは、このような政治責任追及手段を伴って、そこから首長や議会が民意にしたがった行政を行うよう政治的な縛りをかけることであるといえよう。

 

市長選挙との関係

 今回の名護の事例では、冒頭で触れたように、市民投票では反対派が勝利したものの、市長が投票結果に反し受け入れ表明を行い辞職し、それを受けた市長選挙では条件付き賛成派の推した候補が当選することになった。新市長は、現在のところ知事の判断に従うとし、条件付き賛成派としての目立った動きは見られないが、この新市長に対しても、今回の市民投票結果の拘束力は及ぶのだろうか。これは、及ばないと考えるのが妥当であろう。なぜなら、最新の民意が、市長選挙で示されたと考えられるからだ。たとえ及ぶとしても、法的拘束力のない「諮問型」である限り、尊重しても熟慮の結果それに反する判断を下すことは容易に考えられ、市民投票の結果に従えと言うのははじめから無理があるのである。

 そもそも、通常の市長選挙や議会の選挙など基本的に4年に1度しか民意を示すことができないのに対して、今回の市民投票は、重要な施策の決定に関し、タイムリーに住民の民意を表明するという、現行法上の制度の「補完的」な機能を持つものであって、決して「万能」なものではないのである。そして、やはり条例上の「住民投票」より、地方自治法上の選挙の方が上である。確かに、住民投票(市民投票)は個別の政策決定について民意を問うためのものであり、純粋に1つの政策についての判断であるが、一方の市長選挙は総合的なものであって、そのその選挙の性格が違うから、住民投票の結果を尊重すべきという意見もある。しかし、市長選挙でも、候補者を選ぶ際、この政策判断についても1つの争点になっており、また本来、市長選挙は法律によって認められた民意表明の手段であって、住民投票は補完的なものに過ぎないから、あとに行われた市長選挙の方が、最新の民意を示しているものとして考えるのが妥当であろう。したがって、この「諮問型」住民投票である名護市民投票だけでは、すべてを解決できるものではないことを押さえておく必要がある。この点を勘違いしたのか、名護では直後の市長選挙で、反対派が敗れてしまった。他にも様々な要因があると思うが、一度、市民投票で勝利したため、安心してしまい、市長選挙をおろそかに考えた市民が多くいたような観がある。これには、市民運動の側にも問題があったのではないだろうか。

 名護の市民投票にはそもそも法的拘束力がないことを忘れてはならない。その上で、それでも政治的な拘束力を考えるなら先述した「事実上の拘束力」しかない。これによって、住民投票の結果に反した判断をした場合には、政治的な違反と考え、住民は市長の「リコール」手続きを踏むことになる。そして、リコール後の市長選挙で自分たちの意向(民意)に添った市長を選べばいいわけである。しかし、今回は、この制度を使う前に、市長自らが辞任した。だが、これはリコール請求をして市長のリコールを勝ち得たのと効果が同じであって、次の「市長選挙」こそ、真剣に戦い、最終的な勝利をおさめるべきであった。

 法的拘束力のない「諮問型」住民投票をおこなう場合、首長や議会をその民意に従わせるためには、目先の住民投票だけでなく、もし従わなかった場合のリコール・次期市長選挙等までをも射程に入れて運動を展開しなければ、今回のようにぬか喜びで終わってしまうことを忘れてはならない。今回の事例は、これからも増えるであろう「諮問型」住民投票を行う上での良い「教訓」になったであろう。

 

終わりに

 くどいようだが、今回の名護市民投票は、法的拘束力はない。学説の中には、国民主権や住民自治などから無理矢理根拠づけて、市民投票を尊重すべきとしたり、法的拘束力があると言い切るものもあるが、それらは少数であり、実際上、通用しない議論である。「…すべき」というだけでは、実際の問題解決にはならない。これでは、単なる「水掛け論」に陥ってしまうだけである。

 一見、自分たちの立場に近い「…すべき」論を見てしまうと、それが万能のように見えてしまうかもしれない。しかし、法律というのはクールなものであり、現状をシビアに受け止め、実際上どうやれば解決できるかを相手の主張も考慮しながら真剣に考えなければ、本当の解決策を見つけることはできないだろう。いくら立派な主張でも、現実の問題を解決できなければ意味がないわけで、法学も政治学も、この観点を大事にすることを忘れてはいけない。

 

参考文献(主なもの)

 

他に、インターネットから数多くの情報を収集した。主なサイトを紹介すると。

 

※この原稿は、本年の『国際平和論集』(平和問題ゼミナール論文集)に掲載されたものです。

i平和問題ゼミナール論文集)に掲載されたものです。

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