【平和問題ゼミナール】2000年5月13日

特攻基地かごしま
〜11人の朝鮮出身具士たち〜
                                           高嶺歓一(県立短大)

◎大平洋戦争末期.鹿児島は軍事拠点になった
1.「沖縄決戦」および「本土防衛戦」の方針のもとに兵力を鹿児島に果中した

2.特攻隊(特別攻撃隊)の基地が集中的につくられた。
▽鹿児島の特攻墓地(配置図参照)
航空基地は戦前に建設された鹿屋笠野原(1921年=大正11年)・鹿屋(1936年)鹿屋(1938)を除いて大半が太平洋戦争中に、それも戦争末期に造られた。
出水(1940)、知覧(1941)、国分第1、岩川、揖宿(1942〜43)・串良・国分第2・万世・喜界島、中種子、徳之島北(1943〜44)。ほかにも徳之島南、潁娃・青戸。有明・野井倉、出水・小原など未完成の航空基地があった.(『鹿児島県史』)

▽特攻隊の出撃と戦死者・(資格によって数字が違う)
・出撃数海軍機1,298、陸軍1,185機、合計2,483機(『愛児島と特攻基地』の記述)
・戦死者数鹿屋基地約1,000人、串良約500人、出水約200人。国分256人、知覧1,015人(『鹿児島県史』の記述).
(伊藤正徳『特攻編』によれば,海軍2,535人、陸軍1,844人、計4,379人)。命中率 伊藤『特攻編』によれば,体当たり敢行機は海軍938機、陸軍932機・命中機は海軍132機、陸軍122機で、命中率はおよそ13%だった。

▽海上特別要事隊 航空機以外にも特攻機が存在した。豆潜水艇「蛟竜」・「海竜」,人間魚雷「伏竜」・「回天」,「震洋」が鹿児島県本土に500隻,奄美に200隻配置された。
作家・島尾敏雄は奄美大島・加計呂麻島の特攻隊長だった(「出発は遂に訪れず」)

◎鹿児島県のほとんどの地域が連合軍の攻撃にさらされた
▽1944年(昭和19年)10月10日に鹿児島市、名瀬、瀬戸内、徳之島が初の空襲を受けた、沖縄に近い奄美群島は頻繁に爆撃され、鹿屋は実に296回もの空襲にあった。(鹿児島市も7回)

▽当時122あった市町村で空襲の被害に遭わなかったのは11町村だけ(吉田、入来、佐志、鶴田、大口、西太良、菱刈、蒲生、秦野、吉松、福山)

▽宮山丸が徳之島近海で沈没〔兵3700人死亡〕、対馬丸がトカラ近海で沈没(沖縄からの疎開児童ら1500人死亡).馬来丸が坊津沖で沈没(兵1500人死亡)

 

◎特攻隊員として外国籍の若者も出撃した
▽知覚特攻基地がら出撃して戦死した特攻隊員の中に,少なくとも11人の朝鮮出身者11人の台湾出身者、2人のカラフト(現サハリン)出身者がいる。

資料・南日本放送制作の「11人の墓標」
      ・飯尾憲司書『開聞岳』1985年刊1989年集英社文庫版刊)