平和問題ゼミナール                                2000.7.22

「1945.8.10−終戦が決まった日

鹿児島大学大学院修士課程人文社会科学研究科法学専攻(政治学・日本政治史)

久保栄比幸

 

※この発表は、これまでの諸研究を網羅したものでもなければ、今後このテーマでの研究を企図したものでもない。畑違いの一院生による学習ノートとして見ていただき、きたる55回目の終戦記念日の話のタネにしていただければ幸いです。

 

1. はじめに

 帝国日本は事実上45.8.15に解体した。そして、実際には45.8.10の最高戦争指導会議にて決定された。満州事変にはじまりアジア太平洋戦争へとつらなるいわゆる15年戦争は天皇の「聖断」の名の下で終戦が決定し、戦後処理が始まった。ここでの論点は、開戦から終戦に至る帝国政府の終戦構想を概観し、最終的な帝国政府の終戦が何を契機に、いかなる過程を経てなしとげられたかを明らかにすることによって、今の日本のありかたを考える一助になればと考えています。

 

2.開戦時における日本の終戦構想

a.戦争目的を巡る相克

政府:「自存自衛」と「大東亜新秩序」建設の間で揺れ動く…

東條:自存自衛のための大東亜共栄圏の構築(東京裁判研究会『東條英機宣誓供述書』1948,洋々社)

内閣情報局:「大東亜戦争と称するのは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあらず」(1941.12.12閣議)

陸軍:「大東亜新秩序建設」「自存自衛」(大陸令第564号)…長期持久戦を意図

海軍:「自存自営」(大海令第1号)…短期決戦を意図

 

b.終戦構想

陸軍:「蒋政権の屈服を促進し独伊と提携して英国を屈服せしめ米国の継戦意志を喪失せしむること」(対米英蘭戦争指導要綱)…重慶政権とイギリスの「屈服」が戦争終結の直接的契機に求める…しかし「対支方策」は対米英蘭戦争の遂行に従属→独伊だのみの終戦構想

外務省:「早期和平」を意図し「先ず個別的に講和の機運をつくり、然る後に一般講和に導く」として、対ソアプローチと「支那問題」解決を目指す。…独ソ和平斡旋と南京・重慶政権の講和を目指すグループ(東郷ら)と大東亜新秩序構築を目指すグループが対立。

 

c.占領地施策と戦争終結構想

フィリピン・ビルマ…フィリピンは、対米講和如何によって返還され(当初から46年に独立予定)、ビルマは、インド独立運動を刺激するための戦略として独立。

インドネシア…対日協力に応じた自治・独立付与。

マレー・ボルネオ…要地は原則軍政

インドシナ…終戦後フランスへの返還を意図

中国…既に問題解決(汪兆銘政権)

 

3.東條打倒と「宮中グループ」の形成

a.東條政権打倒

東條政権は、憲政上例を見ない現役陸軍将官による内閣であり、「純陸軍内閣」であった。また、東條体制の強化のため、種々の弾圧法規を成立させた。戦時東条政権打倒へ動いたのは以下のようなグループであった。また東条政権打倒というキーワードは、日本を終戦に導くことも意図された。それは、東條政権打倒運動が戦局の悪化に対応した形で行われたこととも関係がある。このような東條打倒工作は43年頃始まり、44年に本格化する。

 

a.海軍出身宮中重臣…岡田啓介(大将、元首相・海相)、鈴木貫太郎(大将、)

このグループが最も倒閣に影響力を行使した。木戸内府や高松宮など宮中の有力者を倒閣側に向けることに成功したからである。彼らの当面の目標は東條の「副官」といわれた島田繁太郎海相・軍令部総長の更迭であった。

海軍の反島田派…豊田副武、井上成美

 

b.近衛・真崎グループ…近衛文麿(元首相)、真崎甚三郎(陸軍大将、元教育総監)

このグループは、後の終戦工作における近衛グループ形成に発展するが、近衛は天皇の信任を失っており、直接的な影響力は行使できなかった。真崎に代表されるようにかつての皇道派と近い。また、このグループは戦時動員体制そのものに批判的であり、これらの動員体制が赤色革命につながることを極度に恐れた。

 

この二つのグループは東條政権打倒という目的では一致していたが、今後の展望において対立していた。近衛グループは海軍内閣を目指しており、海軍グループは海軍内閣回避を目指していた。それはいずれも戦争責任を担う意志がないということを示すものでもあった。

 

c.東條内閣打倒に反対もしくは消極的立場

天皇、伏見宮(元帥、元軍令部総長)、高松宮(弟君)、木戸幸一(内大臣)

そもそも、天皇は東條を親任していた。伏見宮は海相としての島田を親任し、(反東條的な)米内(光政:大将、元首相・海相)の現役復帰に否定的態度をとった。木戸は当初東條倒閣運動を海軍の内紛として認識し、海軍内部で解決すべき問題と突き放していた。

消極的なグループの基本スタンスは、東條はよく国内をまとめている点と東條に変わる強力な内閣の成立を望むことが不可能な点を挙げ、反対した。

 

最終的には、伏見宮・高松宮が東條倒閣に同意し、木戸内府が引導を渡すという形で、44年7月にサイパン陥落を期に東條内閣は総辞職し、小磯・米内内閣が成立する(この時天皇は二人に大命降下、米内大将現役復帰問題で海軍は内紛を起こす。)

→終戦工作の担い手として宮中グループの形成が図られる。

 

4.東條内閣以後の終戦工作

1944.7 東條内閣総辞職(18)

  小磯(国昭:首相)・米内(光政:海相)内閣成立(22)

1945.1 近衛文麿、退位問題につき米内光政、岡田啓介らと協議(25)

.2 近衛、戦争の即時終結を上奏(14)

.4 米軍、沖縄本島に上陸(1)

  小磯内閣総辞職(5)、同日ソ連より、日ソ中立条約不延長を通告。

  鈴木貫太郎内閣成立(7)

  大東亜大使会議開催→大東亜大使会議宣言(23)→同時期に行われていたサンフランシスコ会議(国際連合)に対抗…アメリカ側「来るべき戦争法廷でその言い分を歴史に弁明させようとの計算」と判断。

.5 ドイツ無条件降伏(7)

 

  最高戦争指導会議…対ソ外交開始(11)(14日にソ連仲介の終戦方針申合)

.6 廣田よりマリク(駐日大使)に日ソ関係改善を申し入れ(4)

  木戸内府終戦試案起草(8)→9日に天皇に説明。…同日(8)最高戦争指導会議で継戦を決定。

  佐藤(尚武駐ソ大使)より、日ソ関係改善困難の意見到着(10)

  天皇が、6相に終戦措置推進を指示(22)

  廣田・マリク会談(24)日本側に具体案要求

  廣田・マリク会談(29)日本側から具体案提示

 

.7 木戸内府ソ連仲介和平促進を首相に進言(3)→7日に天皇が鈴木に督促。

  最高戦争指導会議で、対ソ特使派遣を決定(10)

  近衛を特使に任命(12)同日佐藤大使降伏を外相に進言。

  ソ連政府に近衛使節の使命を申し入れる(25)。

  ポツダム宣言発表(26)→翌日沈黙を守ることを政府決定。

  ポツダム宣言を「黙殺」と首相発言(28)…連合国側にneglectの意図ががrejectに誤解される。

.8 加瀬駐スイス大使よりポツダム宣言受諾意見提出(1)

  内閣でポツダム宣言受諾の意見出る。(3)

  佐藤大使よりポツダム宣言受諾を進言(4)

  広島に原爆投下(6)

  ソ連、対日宣戦布告(8)同日、天皇外相を通じ首相に終戦の意を伝える。

  長崎に原爆投下(9)

  御前会議でポツダム宣言の条件つき受諾を決定(10)

  御前会議、ポツダム宣言受諾を最終決定(14)

  玉音放送、鈴木内閣総辞職(15)

 

 

 

5.1945.8.10 −終戦が決まった日

ここから、広島の「新型爆弾」投下から終戦決定に関する最高戦争指導会議に至るまでの宮中グループ各氏の動きを日記などから観察したい。(資料参照のこと)

 

私見−終戦過程から見る、「戦争責任論」

 ここでは、終戦過程をある程度おいかけてみたが、終戦過程はある種「当事者間の責任回避工作」としての側面が強く、最終的に「天皇による聖断」という形での終戦が実現された。これは、開戦時における「天皇による聖断」と同様、開戦責任、終戦責任をそれまで政治的責任を負うことがほとんどなかった天皇に依存する形でなされた。ここでは取りあげることは無かったが、開戦に至る過程において、「下克上」の気風が日本をずるずると開戦に導いたといえる。すなわち、いわゆる「田中上奏文」に代表されるように、日本が「計画的に」アジア諸国を侵略したわけでも、ある種の覇権国家を目指したわけでもないということである。まさしく自身の栄達と「保身」のためだけの「無意味」な軍事活動に多くの日本人は動員され、そして戦死し、戦地となったアジア諸国では虐殺され、略奪され、破壊されたのである。当然自身の栄達と「保身」を行ったのは軍人に限らない。政治家・官僚・財界・議会人・研究者・労働運動家に至るまでこのような姿を伺うことができる。当然概観したように終戦過程の当事者自身も該当し、その代表者とも言うべき近衛はその最たるものであろう。この問題は、現在の「僕は今日寝てないんだ」と発言した某乳業会社社長にも当てはまる傾向であり、決して過去の問題ではない。

 

 さて、このテーマの本題とも言える、終戦に至る聖断の根拠は、結論が出なかった。それは、木戸日記の記述に依拠すれば、ソ連参戦説を容易に採りうるが、彼自身の12月の談話では、どちらでもないと述べており、双方が存在しなくても11月までには終戦になったと述べていること。続いて24年、25年の談話では次第に原子爆弾説を取るような形で評価が変化している点を上げることが出来る。また、7月末頃より天皇は三種の神器を維持することができるか否かに非常に腐心し、点在する神器を失うことを極度に恐れていた。原爆説を取る論者は、8月8日の東郷の拝謁と、この木戸日記を挙げているが、同じ史料を挙げながらソ連説を取る論者も存在している。また、9日の最高戦争指導会議の開催を根拠として原爆説を取ることがあるが、この会議は冒頭より対ソ問題が前提の情報として織り込まれた上での会議であったことは否定しがたい。また10日の天皇による聖断には日本の防備の不備を指摘する文言はあっても、原爆投下・ソ連参戦を宣言受諾の根拠としては挙げていない。ゆえにはっきりとした形での終戦に決定的な影響をもたらしたものが何であったのか、根拠を挙げることはできない。

 

 

 

 

資料1.関係者日記・手記など抜粋

近衛文麿(『細川日記』)…公爵・貴族院議員(元首相)

8月8日

6日、7日は空しくソ聯よりの回答を待つ。実に先週の想ひ。

(水谷川)男は「去る六日、敵が広島に新型爆弾を投下し、一切の通信−内務省得意の無電も−途絶し居り、六里離れたる処の者が負傷したることが、漸く判明したのみである」と内務河原田氏の報告をもたらす。然もその時西部軍司令部は、殆ど全滅したらしいとのことで、公と二人、是こそポツダム宣言に独乙以上に徹底且つ完全に日本を破壊すると、彼等が称した根拠であつたらうと語り、或いは是の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。…直ちに木戸内府を訪問せらる。内府も一日の速かに終結すべきを述べ、御上も非常の御決心なる由を伝ふと。又、内府の話によれば、広島は人口四十七万人中、十二三万が死傷、大塚総監は一家死亡、西部軍司令部は畑元帥を除き全滅、午前八時B29一機にて一個を投下せりと。敵側では、トルーマンが新爆弾につき演説し、「対独戦の際、英国にて発明、1940年チャーチル、ローズヴェルトの話にて、予算二十九億ドル、十二万人の労働者を使用して、メキシコ近くにて製作に着手、現在六万人を使用せり」と。

(6日に、細川が近衛に対して、対ソ交渉の危険性の指摘と、直接アメリカとポツダム宣言受諾の交渉をすべきだと提案したことを記述)

 

8月9日

午前九時、軍令部なる高松宮殿下にお電話申し上ぐ。殿下は電話に御出まし遊ばさるるや「ソ聯が宣戦を布告したのを知っているか」と仰せあり、すぐ来る様にとの仰せであつたので、十時軍令部に到着、拝謁。余は「是又実に絶好の機会なるを以て、要すれば殿下御躬ら内閣の首班となられ、急速に英米と和を講ぜらるるの途あり。何卒参内遊ばして、御上に或いは内大臣にお打合せ遊ばしては」と言上、殿下は「近衛にやらせろやらせろ」と仰せあつて、「僕の自動車を貸してやるから駆け廻つて来い」とて、自。。ら高輪御邸に自動車を御命じ遊ばされた。余は此の車にて、十一時半荻窪に公を訪ねたる所、夫人と昼食中なりしも、ソ聯参戦のことを聞き(陸軍を抑へるには)「天佑であるかもしれん」とて、直に用意し、余も同乗して木戸内大臣を訪問す。時に十三時。恰も宮中にては最高六人会議の開催せらるるあり、その時会議を終へた鈴木総理が内府の処に来り、今の会議にて決定せる意見を伝へて、ポツダム宣言に四箇条を附して受諾することに決したと語つた。即ち…公はこのことを車中にて余に語り、「木戸も仕方がないと云つてゐる」とのことであつたが、余が「是ではとても受けないでせう」と述べたに対し「僕も心配してゐる」とて、憂慮の色幣ふべくもなかつた。余は…再び高松宮殿下に拝謁、此の由を言上、(高松宮から、内府に4条件では敵が受けないと云ってくれと頼み、高松宮が内府に電話で要請)。

 此の間、公は…重光氏と約束を二時間早めて、三時会見し、4つの条件の話をした処、重光も公と全然同感で、すぐ公の自動車を馳つて、木戸内府に面会、内府を説得し、帰りに内府の名を伝へて、東郷外相と会見、是亦同意見のことゆゑ、大いに努力する由を述べたとのことであつた。…

 六時からの閣議に於ては、東郷外相の提議により、条件を撤廃すべきことを中心に議論した由だが、閣議中、総理に対し内大臣は、陛下の御内意を伝へて「条件を附せず、速やかに事を運ぶ」べきことを伝へた。かくて閣議は、非常の緊張裡に、総理大臣の指名によりて、個々に意見を述べ、阿南陸相は四条件の附加を主張、安倍内務、松坂司法等是に賛し、東郷は条件を附加せざることを主張、米内、左近司、石黒等是に賛し、豊田、岡田等はあいまいのことを述べたと。九時一応散会。…即夜御前会議ある由。

 

8月10日

 前夜、首相は閣議の対立のまま、午前一時、最高六人会議を午前に開催、論議は再び条件を附加するや否やを廻つて展開され、…此処に御聖断を仰ぎ、左の了解事項を附して、ポツダム宣言を受諾することに決した。…(国体護持の一条件)…而して此の電報は、米支に対しては瑞西国を通じ、英ソに対しては瑞典を通じてなされた。

 此の日午後一時、重臣会議開催せられ、引続き宮中に重臣、牧野前内府等を召されて、御前会議あり。重臣一人一人に意見開陳を命ぜられ、平沼枢相は、国体さへ護持せらるれば、異存なきむねを述べ、大体皆同意見なりしも、東条は自分には意見もあるが、聖断ありたる以上、やむを得ずとのことを述べたりと。而して我陸軍をサザエの殻にたとへ、殻を失ひたるサザエは、遂にその中味も死に至ることを述べて、武装解除が結局我国体の護持を、不可能ならしむる由を述ぶ。嗚呼然れども殻は既に大破せられ居らずや!!

 (東久邇宮等との会食後)帰途、ラジオにて阿南陸相は全軍への訓示を述べて、恰もソヴィエットに対し宣戦を為せるが如きことを口にするを聞いて、急に木戸邸に到り、右の事情を述べて、何等かの策を講ずべきことを公より依頼せらる。公の感想にては、内府は連日の疲労に志気揚らず、陸相に注意する位に止まるであらうと。

 

8月12日

(松本)次官は敵の返事を渡し、此の中で「降伏の時より、天皇及日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施の為、其の必要と認むる措置を執る聯合軍最高司令官の制限の下に置かるるものとす」とある処が、端なくも平沼枢相の国体論に触れ、初め首相は是にて満足し居りしも、平沼氏の法理論を聞くに及び、心境の変化を来したる模様なりと。又、外相は此の電報を上奏せる処、陛下は「是でよし」と仰せありたりと。よつて次官は公が上京して首相、枢相を説かんことを依頼せるを以て、余は再び十四時四十四分、新橋発にて湯河原に向ふ。

 

8月14日

 首相官邸に松谷秘書官を訪問、公の鈴木首相宛書簡を手交す。その内容は「此の際形式と文字に拘泥せず、対局より国家を救ふ」べき由。松谷氏は「此の朝閣議中なりし全閣僚を、御前に御召遊ばされたる由」伝ふ。帰途、霞山会館にて公と邂逅、公の話によれば、陛下は全閣僚を御召しありて極めて強く、「朕が身は如何にならうとも、是以上戦争を継続して、国民を苦しむを見るに忍びず」との御さとしあり。並居る閣僚声を挙げて泣く。かくてポツダム宣言受諾の電報は発せらるることに決定、閣議は引続き詔勅に就いて開かれたりと。…(近衛が松本次官を訪問したとき)次官はすこぶる憤激の面持にて、「どうしても陸軍が打たせないのです」「十時間待つてくれと云つてゐる、何とか公爵から内大臣へでも、此の由を御話頂くわけに行きますまいか」とのことであつた。(近衛を通じて内大臣に伝える)陸軍が是を妨害する理由は、「直に是を伝ふれば、軍が動揺するから」とのことなり。…遂に電報は発せられた。

 

8月15日

 

正午、聖上御躬らマイクの前に立たせ給ひ、勅語を給ふ。文字通り一億泣く。

 

 去る九日の四条件を附加せんとする陸軍の主張は、正に危機一髪の処で喰ひ止められた。附加された皇室に関する了解事項でさへ、重慶は反対を唱へ、ソ聯は条件を認めざることを主張し、英国又「何等かの指示ある迄は、大権を認めざる由」を主張し、米国が是等を押へて、漸くかの返答となりたることが、後に明らかにされるに到つた。若し彼の時四つの条件を附したならば、結果は知る可きである。正に最大の危機であつたであろう。…然し陛下は戦争終結の強き聖慮を示し給ひ、国体と国家と而して民生とを案じ綏んじ給うたのであつた。

 

木戸幸一(『木戸幸一日記・下』)…内大臣

8月6日

午前九時半、中岡中将来邸、対ソ策等を聴く。

 

8月7日

十時二十分、平沼枢相来室、時局収拾につき懇談、枢相は国体護持につき頻に心配し居りたり。

正午 例の通り宮相室にて会食、昨朝、広島市に対し原子爆弾を米国は使用、被害甚大、死傷十三万余との報告を受く。

一時半より二時五分迄、御文庫にて拝謁、時局収拾につき御宸念あり、種々御下問ありたり。

二時半、池田秀雄氏来室、此亦時局収拾なり。

 

8月8日

十時二十分、重光葵氏来室、時局収拾につき懇談す。

五時半、東郷外相と面談。

七時、近衛公来邸、時局収拾につき懇談す。

 

8月9日

 午前九時、大島□氏、齋藤貢氏来訪、対ソ策等につき話を聞く。

九時五十五分より十時迄、御文庫にて拝謁す。ソ聯が我国に対し戦線し、本日より交戦状態に入れり。就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思う故、首相と充分懇談する様にとの仰せあり。幸いに今朝首相と面会の約あるを以て直に協議すべき旨奉答す。 十時十分、鈴木首相来室、依って聖旨を伝え、此の際速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説、尚其際、事重大なれば重臣の意見も徴したき思召あり、就ては予め重臣に事態を説明し置かるる様依頼す。首相は十時半より最高戦争会議を開催、態度を決定したしとのことにて辞去せらる。

 十時五十五分より十一時四十五分迄、御文庫にて拝謁、鈴木首相と会見の顛末を言上す。

 

 一時、近衛公来室、時局につき懇談す。

 一時半、鈴木首相来室、最高戦争指導会議に於ては、一、皇室の確認、二、自主的撤兵、三、戦争責任者の自国に於ての処理、四、保障占領をせざることの条件を以てポツダム宣言を受諾することに決定せりとのことなりき。

 二時、武官長来室、ソ満国境戦の状況等を聴く。

 二時四十五分、高松宮殿下より御直の電話にて、条件附にては聯合国は拒絶と見るの虞れありとの御心配にて、右の善後策につき御意見ありたり。

 三時十分より三時二十五分迄、御文庫にて拝謁、右の懸念等につき言上す。

 

 李□(金禺)公、先日の広島爆撃の際戦死せられたるを以て、本日同邸を吊問す。

 四時、重光氏来室、四の条件を出せば決裂は必死なりとの論にて、説に善後処方を希望せらる。

 四時三十五分より五時十分迄、御文庫にて拝謁。

 十時五十分より十時五十三分迄、拝謁、内閣の対策案変更せられたる件につき言上す。

 鈴木首相拝謁、御前会議開催並に右会議に平沼枢相と参列を御許し願ふ。

 十一時二十五分より十一時三十七分迄、拝謁。

 十一時五十分より翌二時二十分迄、御文庫附属室にて御前会議開催せられ、聖断により外務大臣案たる皇室、天皇統治大権の確認のみを条件とし、ポツダム宣言受諾の旨決定す。

 

8月10日

 御前会議終了後、御召により二時三十分より同三十八分迄、拝謁す。其際、聖断の要旨を御話あり、恐懼感激の中に拝承す。

右要旨左の如し。

 本土決戦本土決戦と云ふけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、又決戦師団の武装すら不充分にて、之が充実は九月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴わない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等、其等の者は忠誠を尽した人々で、それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲び奉り、自分は涙をのんで原案に賛成する。

 九時五十分より十時十分迄、御文庫附属室にて拝謁す。

 一時、牧野伯来室、余より今日に至りたる事態を詳細説明す。御文庫に至り拝謁、意見を言上せらる。

 重臣を御召あり、平沼、若槻、岡田、近衛、廣田、東條、小磯の七氏参内、午後三時三十五分より四時半の間、御文庫附属室にて拝謁、余も参内す。各人より意見を言上す。

 四時三十五分より四時四十五分迄、拝謁(御文庫)

 八時半、御召により三笠宮邸に伺候、殿下に拝謁、今日に至る事情につき言上す。

 九時過近衛公来邸。陸軍大臣の全軍に対する布告につき心配して来られしなり。種々懇談す。

 

8月11日

 九時五十五分より十時十分迄、御文庫にて拝謁。

 十一時、東郷外相参内、面談。

 十一時四十五分、佐治謙譲氏、徳川義親候の手紙を持参す。錦旗革命云々なり。

 正午、鈴木首相来室、面談。其後の経過を聴く。

 十二時半、下村〔宏〕国務大臣来室、面談。

 一時三十五分より二時半迄、御文庫にて拝謁。

 二時半、安部内相来室、面談。

 三時半、石渡宮相を其室に訪ひ、直後をラヂオにて御放送遊ては如何との意見につき、懇談す。

 三時五十五分より四時五十分迄、拝謁、ラヂオの件其他を言上す。

 五時、宮相を訪ひ、ラヂオ放送に対する聖上の思召は何時にても実行すべしとの御考なる旨を伝ふ。

 五時十五分、武官長を訪ひ、ラヂオ云々を伝ふ。

 五時半、町村総監来室、世間の状況等を聴く。

 六時、鈴木首相来室、面談。

 

8月12日

 午前八時半、徳川侍従を経て御召の電話あり、九時十五分より同三十五分迄、御文庫にて拝謁す。皇族御会同の際、朝鮮処分問題の出たる場合、李王以下の処遇を如何に答ふべきやとの御尋ねあり。余は右は今回御会同の問題にあらず、依って他日に譲る様御指導相成度旨を奉答す。

 十一時、東郷外相参内、面談。敵側回答につき奏上、第四項人民の自由意志云々が国体論者の為め問題とせらるるならんかとの心配を話居らる。外務省の解釈としては差支なしとのことなりき。

 十一時四十五分より正午迄、御文庫にて拝謁。

 十二時十五分、宮相を室に訪ひ、朝鮮云々を相談す。余と全然同意見なりし故、其旨侍従を以て奉答す。

 一時四十分、平沼枢相来室、今回の回答につき国体論より反対の意見を述べらる。

 二時三十五分より二時五十分迄、御文庫にて拝謁。

 三時より五時二十分迄、皇族の御会同を御文庫附属室にて行わせらる。陛下より今回の御決意につき其趣旨を述べられ、皇族一致協力、陛下を助けらるる様望ませられ、右に対し皇族一同一致協力御助け申し上ぐべき旨奉答せらる。此の御集りは非常に好結果なりし様、拝察す。

 六時十分、高松宮に拝謁、今回の件を大宮様に申上ぐることにつき考へ置く様にとの仰せありたり。

 六時半、東郷外相来室、面談。首相、平沼男の意見に賛成したる様子にて、今回の見透につき聊か不安を感じ居る様子、頗る心配なり。

 九時半、鈴木首相来室、今日種々の協議の経緯につき話あり。余は今日となりては仮令国内に動乱等の起る心配ありとも断行の要を力説、首相も全然同感なる旨答へられ、大いに意を強ふしたり。

 今夕より役所に宿泊す。

 

8月13日

 午前七時十分、阿南陸相来室、今回の聯合国回答につき意見の開陳あり、結局は此儘にては認め難しと云ふにあり。余も亦意見を述ぶ。何れも国体護持の一点に於ては一致せるも、見透と手段を異にせるなり。

 八時、重光葵氏来室、聯合国回答についての意見を聴く。

 八時五十分より九時二十分迄、拝謁。

 十時、宮相室にて三笠宮に拝謁、時局収拾につき御懇談す。

 十一時より十一時三十五分迄、御文庫にて拝謁。

 正午、松平恒雄氏と面談。

 松村警視総監来室。町の情況等を聴く。

 二時十分、東郷外相、三時半、近衛公何れも来室、面談。

 

8月14日

 敵飛行機は聯合国の回答をビラにして撒布しつつあり。此の情況にて日を経るときは全国混乱に陥る虞ありと考へたるを以て、八時半より同三十五分迄拝謁、右の趣を言上す。御決意の極めて固きを拝し、恐懼感激す。

 八時四十分より同五十二分迄、鈴木首相と共に拝謁す。十時半より閣僚、最高戦争指導会議議員聯合の御前会議召集を仰出さる。

 九時十五分より同三十七分迄、拝謁。

 九時五十分及同十時四十分に首相と面談、御詔勅につき打合す。

 十時五十分より同五十二分迄、拝謁。

 十一時、三笠宮に皇族休所にて拝謁。

 正午、御前会議終了後、御召により拝謁、御涙を浮かばせられての御話に真に頭を上げ得ざりき。

 一時半、侍従長、一時五十分、武官長と面談、軍に親しく御示論云々につき相談す。

 二時より三時五分迄、拝謁す。

 三時二十分、三笠宮御来室、時局収拾につき御打合す。

 三時四十分、武官長と打合す。軍に御示論云々は陸海軍共必要を認めずとの結論なり。 四時二十分、町村総監来室、治安の実状を聴く。

 五時、高松宮御来室、近衛公同断。

 五時半、東郷外相、鈴木首相参内、拝謁、面談。

 八時より八時十分迄、拝謁。

8月15日

 午前三時二十分、戸田〔康英〕侍従来室、今暁一時半頃より近衛師団の一部反乱せるものの如く、行動を起し、本性の通信施設を占領遮断し、御文庫も包囲せられ居り、連絡とれずと云ふ。容易ならぬ事態故、直に起床、一度は皆の勧により侍医宿直室に入りしが、再び部屋に戻り、機密重要書類を破り、便所に流し、それより四時二十分頃、石渡宮相と共に金庫室に入りて事件の進行をひそかに観察す。八時頃、三井侍従来り解決せりとのこと故、直に御文庫に至り、八時二十分より同二十五分頃迄、宮相と共に拝謁、天機を奉伺す。

 今暁四時半頃、憲兵特高隊と称せる者七八名、赤坂宅焼跡に来り、余を捜索せりと。警官一名負傷せり。

 九時二十分安部内相来室、面談。

 十時十分より十時半迄御文庫にて拝謁。

 正午、陛下御自ら詔書を御放送被遊。感慨無量、只涙あるのみ。

 

(『同・東京裁判期』)

(米国戦略爆撃調査班に対する談話 2945.22.20)

問 ソ聯の参戦と原子爆弾の何れが戦争に影響せしや。

答 軍部は当初原子爆弾の効果をなるべく過小に宣伝せり。而し国民の受けたる影響は甚大なりき。何れが強く影響せしかは答へ難し。

 

問 原子爆弾実現せずソ聯参戦なかりしとせば、此戦争は何時頃迄継続せられたりと見るや。

答 前にも述べたる通り既に終戦の必要は6月に考へられ居りたるものにて、原子爆弾やソ聯参戦はなかりし時期なり。終戦は我が方にては決定せる事実なり。

 

問 原子爆弾とソ聯参戦は軍部の同意を得るに役立ちしか。

答 方針は既に決定せられ居り故之には影響なからしも、只戦争継続論者を反省させ事の進行を円滑ならしめたる利益ありたると思ふ。

 

問 然からば11月1日以前に戦争は終結せりと考えて差支なきや。

答 予一箇の考へとしては終結せりと信ず。

 

(談話 1949.5.17)

問 それでは第七問に移ります。爆撃調査団の出版物によれば、東郷外務大臣と総理大臣から原子爆弾の状況によつて速かに戦争を終らなければならぬと云ふことを陛下に申上たと云ふことになつて居ますが、それについて説明してください。

答 内閣ももはや戦争継続不可能と考へたでせう。陛下は私が東郷外相等の奏上の後で私が拝謁した時に、私に対して之と同じお考へを述べられた。ですから皆一致して居た訳です。

 

問 8月6日に爆撃されたのに7日には未だはつきり分からなくて、8日の夕方になつて原子爆弾と云ふことが始めて分つたと云ふことになつて居ります。そうしますと、陛下がこの惨劇を繰り返さないやうに早く戦争をやめねばならぬと申されたのは何日のことでせうか。

答 何日頃でしたか空で憶えて居ませんが、兎に角原子爆弾ではないかと云ふ見当はもう少し早くついていた様に思ひます。

 

問 7日の朝にトルーマン大統領が原子爆弾であると発表した旨の放送を日本時受信しております。

答 8日ではなくつてもう少し前だ。非常な損害だ、一瞬にして広島がなくなつたと云ふのは8日よりもずつと早く報告を受けていますから、こんな莫大な惨害が数機の攻撃で生じたのだからこれは大変だと云ふことは早く判つた。だからある意味から云へば、原子爆弾であらうが何んであらうが一発で何十万人と云ふ人をつぶすやうなものを敵に使はれたんではと云ふ意味で十分な衝撃を皆受けたのです。ですから陛下から広島の惨害に関連してご感想を承つたのは8日より前のことです。

 

(終戦に関する談話 第三回 1950.4.17)

問5 原子爆弾の出現が皇族方を非常に怯えさせ、それが天皇を刺激した為、天皇があれから終戦の即時実現に特に熱心に動かれたのだと云ふ説があるが、之に対し貴下は如何思ひますか。

答 それは全くの臆説です。第一原子爆弾攻撃のことに関して皇族方で陛下に何か話に来られた方は一人もありません。勿論私のところにも、原子爆弾がこわいから戦争を早くやめてくれ、と言つて来たものは皇族方からも知人からもなかつた。

陛下や私があの原子爆弾に依つて得た感じは、待ちに待つた終戦断行の好機を茲に与へられたと云ふのであつた。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たから早く戦争をやめようと云うのではない。国民ひとしく原子爆弾に依って戦争の恐怖を強くしたし、又軍部指導者も敵の科学力に圧倒された感じを受けたことは争はれまい。それらの心理的衝撃を利用して此の際断行すれば終戦はどうやら出来るではないかと考えたのだ。

(中略)

原子爆弾は日本全体、国民にも指導者にも全般に脅威を与へて、無理矢理に戦争断念に駆り込まうとする意図の下に投下されたものと推察する。そしてその効果は確かにあつた。併し私共和平派は既に終戦を企図して居たのであつて、あれによつて無理矢理に終戦に駆り込まれたわけではない。寧ろ私共和平派はあれに依つて終戦運動を奨励して貰つた格好である。

(以下略)

 

問 ソ連の参戦がなくとも原子爆弾だけで終戦断行の機は充分に熟したと思つたか。

答 和平論、継戦論が天秤にかかつて丁度釣合うところ迄和平論が強くなつたところに、原子爆弾によって継戦論の方の目方がぐつと減つて和平論が勝つようになつた。それにソ連参戦があつたので、更に継戦論の重量が減つて和平論を有力ならしめたと云う感じだと思ふ。従つて原子爆弾だけでも終戦は断行出来たと思ふ。併しソ連の参戦があつたので、更にそれが用意になつた。原子爆弾とソ連の参戦と何れがより多く終戦を容易ならしめたかと云うことは一寸比較出来ない。

 

高松宮宣仁親王(『高松宮日記・8』)

8月6日

広島空襲ニテ李□(金禺)公戦傷サレ翌七日薨去

 

8月9日

 700有馬大佐より、400桑港放送ニテ「モスクワ」デ「ソ」が対日宣戦ヲシタ旨ノ電話通知アリ。

8月10日

 1400三笠宮(ヤハリ情勢ヲキキ、皇族ノ集マルコトナキヤト等、東久邇宮ニ伺ツテミヨト云フ)。

8月11日

 910-1230。明日1500御所ニ各皇族オ召すノ由。

夜中ノ警報ニ原子爆弾ヲモツテクルトノ予報アリシモ来ナカツタ。

山本大将(戦争ヲ早クヤメル要アリト云フ意見書ノ写ヲ持参)

昨夜御前会議決定、御親裁アリシ旨、軍令部一部長告グ。之ガ初耳ダツタ。

 1300皇族集リ、外務大臣カラ系か一般ヲ聴ク。1600散会(三笠宮幹事役ヲシテ各方トノ連絡ヲナス)(朝香、東久邇、盛様、よし様、春仁様、三笠宮)。

 1600殖田俊吉氏(吉田茂等憲兵隊ニアゲラレタ話、コレハ陸軍ノ「クーデター」ノ一部ナリ。近衛一派ト称シテ之ヲ全部アゲヨウトシタノヲ阿南大将ノ決断デヤメニナツタ。戦後財政ニ関スル話ヲキク)。

8月12日

 梨本宮、三笠宮、賀陽宮二方、久邇宮、朝香宮、東久邇宮二方、竹田宮、閑院宮、李王、李鍵公、私、参集ス

媾和ニ関スル解答文ノ放送アリ、軍令部長、陸軍総長ト同列拝謁ヲナス。ドウモ外見コトサラニ複雑意味アリ気ニスル日本語ノ訳語ニツイテハ、十分注意スベキナリ。

 1500吹上大本営防空壕ニテ皇族集合(御召アリ)。陛下ヨリ今回ノ御決心ヲ御示シアリ。皆国体護持ニ御思召ニソツテツトメル旨、梨本宮ヨリ御答ヘシ、各自ノ意見等夫々申上ゲ、1700頃散会。

 夜、三笠宮来り、阿南大将ノ考ヘ方、オ上ノオ考ヘト大イニ異ナルカラ鈴木総理ノ意見ヲキカントノコト。明朝来ルコトニ約束ス。

 

8月13日

 740、三笠宮、鈴木総理来リ、阿南大将ノ考ヘニツキ語ル(総理大臣ハ最後は思召ニヨツテスベテヲスル点ニツキテハ阿南ヲ疑ヘズト)。

 午後、三笠宮、竹田宮来省(昨日ノ陛下ノ御言葉ヲ記憶ニヨリ記録、御殿場ニ明日トドクルコトトス)。

 夜、警保局長ニキク。中途デ大西次長、ゼヒ戦争継続ノ様ニ取リハカツテクレトノ話ニ来邸。信念ノ問題ニテ私如キ戦ハザルモノハ取ツグ資格ナシ。総長ナリ次長自身申上ゲラレタラト云フ。

 

入江相政…『入江相政日記第一巻』侍従

8月9日

この頃日ソ国交断絶、満ソ国境で交戦が始まった由、この頃容易な事では驚かなくなてつて来てゐるものの、これには驚いた。前途の光明も一時にけし飛んで了つた。御宸念如何ばかりであらう、拝するだけでも畏き極みである。…十時頃まで掛長。神戸両氏と国の前途を憂へて寝る。

 

8月10日

 日ソ関係はモロトフが佐藤大使を呼んで国交断絶を通告して満ソ国境で発表してきたといふのだ。事態をここまで持つて来て了つた事がそれ事態失敗で今となつては如何とも仕様がない。結局は五、一五、二、二六以来の一聯の動きが祖国の犠牲に於て終末に近づきつつあるといふ外ない。一億特攻を強ふるはよいが国民に果してそれだけの気力ありや、いかんともし得ずしてただ荏苒日を過ごしてゐるだけであらう。実に深憂に堪へない。社稷もいよいよ本当の危局に陥つた。全くいやになつて了ふ。公私共に全く前途の楽しみを失つて了つた。…新聞にも日ソ関係についてはまだ詳しいことは出てゐない。

 

8月14日

午后十一時二十五分、明日渙発の詔書御放送の為二期庁舎に成らせらる、二回試みさせられ、零時五分に御文庫に還御。…永積さんと二人御文庫に当直、どうもまるで気持が違つて了つてまるで落着かない。

8月15日

徳川、戸田両君に起される、近衛兵の動きが怪しいとの事、すぐ起きて御文庫の各所の鉄扉を厳重にお閉めする。侍従長、大夫、三井さん等も詰められる。御警衛内舎人の武装を解除しろと近衛兵がせまった由。間もなく田中静壱大将が来て総てを取静めて事は終る。馬鹿馬鹿しいことだ。久々で二、二六の時の事を思出す。午前十一時二十分枢密院本会議、於附属室、途中正午の御放送を拝聴、涙が殺され、それを聴いた阿南陸相は責任を痛感して自刃した由。

 

芦田均『芦田均日記』(手帳日記)衆議院議員(元外交官・政友会)

8月6日

2B29 dorroped over 広島 3 atomic bombs.

(編者注:芦田はこのときすでに原爆であるとの情報を手にしていた。)

 

8月8日

午後三時のニュースを聞くと「蘇満国境に於てロシアは攻撃を加へて来た。今朝の零時から」と放送した。愈日蘇開戦である!!昨日来富士行の用意をして今夜出発の筈であつたのを一時見合わせることにした。これで万事は清算だ。これ以上戦争がやれるとは思はない。五時と七時のニューズはSovietが昨日Ultimatumを佐藤大使に渡したことを報じた。

 

8月10日

五時頃に眼がさめるとNewsが気になって眠れぬ。今日も引続き閣議を開くのだらうが、行く途は判っているゐる。

 

8月11日

四時頃軽井沢へつく。鳩山邸を訪問。…石橋邸にて夕食。休戦に関する噂話をした。

 

8月14日

The cabinet discussed the Note to be sent to Four Enemy countries.

大本営会議 decided this morning the final note and sent it out immediately.

 

8月15日

 今日は正午に大詔渙発せられるとの前触に東京へ出た。交詢社に行つて正午に大詔を拝聴した。集るもの三十余人尽く涙にくれた。

 今日は一日中、頭が興奮してゐる。午後安藤、植原、矢野君等と話をした。安藤君と二人で朝日社に行つて、昨夜来の陸軍士官の首相官邸打入り、平沼邸打入のNewsをきいた。

 

鳩山一郎『鳩山一郎・薫日記(上)』…在軽井沢:衆議院議員(元文相・内閣書記官長・政友会)

8月3日

午前中近衛君訪問。午後石橋氏来訪。犬養、坂本両君来訪の約なりしも自分の方で坂本君宅に出かけた。

8月8日

畑に伊東君来たり、広島の新型爆弾は原子の破壊にて被害は驚異的なりと。

8月9日

ソ聯と交戦状態に入れりとラヂオ報ず。其の報道前栗栖君より電話あり。諒解し難きも、如何に落ち着くか?…夜十一時頃天野君より電話あり帰京を促す。

8月10日

昼頃伊東君より最高戦争指導会議にて戦争中止の決議せりとの報告あり。

8月11日

夕方芦田君来訪、一泊。夕食石橋氏宅。夕食後坂本君を加へて芦田君の話をきく。

8月12日

芦田君六時半軽井沢発で富山に行く。

8月13日

今日は度々空襲警報出づ。休戦の交渉始まりて後此事あるは諒解に苦しむ。

8月14日

夕食後坂本君よりソ聯の横車の話をきく。日本の将来全く暗礁。

8月15日

正午陛下の御放送を謹聴、涕泣するもの多し。…阿南陸相昨日自刃すとの放送あり。

 

(資料2)研究者による終戦過程に関する記述−終戦の直接的原因をめぐって−

1.進藤榮一(国際政治学)『戦後の原像』1999,岩波書店

直接原因:ソ連参戦

根拠資料:木戸日記45.8.6-8.9及び、東郷外相口述筆記

前者について、ソ連参戦まで具体的な終戦に関する動きを木戸に対して示していない点。

後者について、東郷は拝謁の後、佐藤に対してソ連首脳部との接触を求める電報を打電している点。一方、9日のソ連参戦の情報を得た後は、終戦工作に向けて精力的に関係者が動いていた点。などを列挙。

根拠:原爆であると日本側が確信したのは10日であるとする点。

 

また、同書によると原爆投下は、ソ連参戦に拠らず日本を降伏にもたらすための政治的な決定として行われたと記述。

 

2.升味準之輔(日本政治史)『昭和天皇とその時代』1998,山川出版社

直接原因:原爆投下(とソ連参戦)

根拠資料:木戸日記東京裁判期p.443-444「原子爆弾だけでも終戦は断行出来たと思ふ。併しソ連の参戦があったので更にそれが用意になつた。原子爆弾とソ連の参戦と何れがより多く終戦を容易ならしめたかということは一寸比較できない。」

 

3秦郁彦(日本近代史)坂本多加雄(日本政治思想史)半藤一利(作家)保阪正康(作家)『昭和史の論点』1999,文春新書

直接原因:原爆投下

根拠1:45.8.13閣議での鈴木首相発言「もしこのまま戦えば、原子爆弾のできた今日、あまりに手遅れであるし、国土は壊滅する。それでは国体護持はできません。死中に活といわれるが、それはあまりに危険です」。

根拠2:8日午後に仁科芳雄博士による確認の結果、終戦に関する御前会議の開催が決定した点。

秦教授はソ連参戦が原因だったとすることは「風がふけば桶屋が儲かる式の軽薄な論理」と批判する発言あり。

 

4吉田裕(日本政治史)『昭和天皇の終戦史』1992,岩波新書

直接原因:??→本書の目的と直接的に関係ないため記述なし。

ただ、和平推進派は原爆の投下やソ連参戦を米内や高木のように「天佑」と理解したと記述

 

5波多野澄雄(日本政治外交史)1996年度「日本外交史1」講義ノートより

直接原因:原爆投下とソ連参戦

根拠:原爆→被害の重大さに気がついたのは45.10以降

ソ連参戦→中立条約不延長の通告は45.4になされており、8-9月には参戦すると予測されていた。

講義ノートによると、原爆投下不要派は冷戦の原因をアメリカに求めるための主張であると記述し、彼らはRevisionist(修正主義者)であり、また(Orthodoxy)正統的な(=民主党的な)理解として原爆投下はアメリカ兵の犠牲を減らしたとの記述あり。

 

また、原爆投下の原因の一つとして24億ドルもの費用を投入したことなどを指摘、国内政治的要因の存在などを指摘する記述あり。

 

6.信夫清三郎(日本政治史)『聖断の歴史学』1992,勁草書房

直接原因:当事者に相違があると理解…双方の要因と理解

東郷:原爆  鈴木:ソ連参戦  

事実関係:

45.8.7閣議で、原爆問題を討論するが、結論はでず。

東郷:アメリカ側は原爆を投下したと放送しており、継戦不可能としてポツダム宣言受諾を主張。

阿南:原爆かどうか判断できず、現在調査中

45.8.8東郷が天皇に直訴

天皇「ああゆう新しい武器が現れた以上、戦争を継続することは不可能である、すみやかに戦争の終末を努力せよ、なお総理にもその旨つたえよ」と指示

東郷:鈴木首相に直ちに最高戦争指導会議の開催を申し入れ

都合が悪い閣僚が存在→開催が翌日に延びる。

45.8.9-10最高戦争指導会議

鈴木首相:ソ連参戦問題を議題←(天皇の意を受けた)木戸からポツダム宣言受諾の指示を受ける。

東郷外相:原爆を理由にポツダム宣言受諾を主張(鈴木首相の発表までソ連参戦を知らず)

梅津参謀総長、阿南陸相、豊田軍令部総長らが(1.2.3.)条件付き降伏を主張・・・結論出ず。

その後、閣議を経て最高戦争指導会議(御前会議)にて、聖断が下りポツダム宣言受諾(外相案)を決定。

 

本書では、天皇による政治的決定を「聖断」とし、日中戦争当時から終戦まで合計8回の「聖断」があったと理解している。8.10の聖断は「聖断Y」として記述している。

 

※ 順不同※

※ 報告者は、このような終戦の直接的原因をあげることが必要であるとは理解していないが、議論されていることなので、あえて参考文献からそれに対応する部分を列挙した。討論の参考としていただければ幸いである。

 

 

 

 

参考文献(順不同)

信夫清三郎『聖断の歴史学』1992,勁草書房

波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』1996,東京大学出版会

升味準之輔『昭和天皇とその時代』1998,山川出版社

進藤榮一『戦後の原像』1999,岩波書店

進藤榮一『敗戦の逆説』1999,ちくま新書

綾瀬厚『日本海軍の終戦工作−アジア太平洋戦争の再評価』1996,中公新書

大江志乃夫『日本の参謀本部』1985,中公新書

吉田裕『昭和天皇の終戦史』,岩波新書

坂本多加雄,秦郁彦、半藤一利、保坂正康他『昭和史の論点』1999,文春新書

(波多野澄雄助教授1996年度筑波大学国際関係学類講義「日本外交史1」ノート?)

 

参考資料

木戸日記研究会編『木戸幸一日記・下』1966,東京大学出版会

 

木戸日記研究会編『木戸幸一日記・東京裁判期』1980,東京大学出版会

伊東隆編『鳩山一郎・薫日記(上)』1999,中央公論新社

進藤榮一編『芦田均日記・第一巻』1986,岩波書店

細川護貞『細川日記』1978,中央公論社

伊東隆編『重光葵手記』1986,中央公論社

若槻礼次郎『古風庵回顧録』

入江為年監修朝日新聞社編『入江相政日記』1990,朝日新聞社

高松宮宣仁親王『高松宮日記』1997,中央公論社

外務省編『終戦史録』1952(復刻1997),国会報道記者会