鹿大「平和ゼミナール」

『R.シュタイナーの社会三層化運動の思想』

 

                                                  発表者:高橋 明男(NOA企画)

 

《ルドルフ・シュタイナーの生涯》

1861年、当時のオーストリア・ハンガリー帝国領クラリエヴェクKraljevec(現在クロアチア領)に生まれ、1925年スイスのドルナッハに没する。

◇父親はオーストリア南部鉄道の小さな駅の駅長兼電信技師。電信技術は当時発明されたばかりで、幼いシュタイナーは当時としては最新の技術文明を身近に経験した。

◇11歳、将来は鉄道技師にという父親の期待もあり、古典語中心のギムナジウムではなく、科学と技術訓練の実業学校に入学。18歳でウィーン工科大学に進み、生物学・化学・数学などを専攻。しかし哲学や文学への関心が強く、ウィーン大学でも聴講。

◇21歳から36歳まで、キュルシュナー版「ドイツ国民文庫」のゲーテ自然科学論文集の編纂に携わる。ゲーテ研究の基盤のうえに『ゲーテ的世界観の認識論』や『自由の哲学』などの著作を次々に発表。30歳のとき論文『認識論の根本問題−フィヒテの知識学を中心に』によってロストック大学で哲学博士号を取得。

◇40歳までのシュタイナーは、ゲーテ研究者、哲学者、評論家として活動。その他、『文芸雑誌』の編集人(1897)、マルクス主義の「ベルリン労働者教養学校」の講師(1899-1904)も務めていた。

◇40歳の頃から、ブラバツキー夫人によって創設された神智学協会に関わるようになり、神秘主義やキリスト教についての講演を行なうようになる。41歳、神智学協会ドイツ支部の事務局長に就任。その後、『神智学』『いかにしてより高次の認識を獲得するか』『神秘学概論』などの本を出版。

◇51歳(1912/1913)、神智学協会と決別し、アントロポゾフィー協会(人智学協会)を設立。バーゼル近郊のドルナッハに第一ゲーテアヌムの建造が始まる。

◇53歳−56歳(1914-1917)、第一次世界大戦。

◇57歳(1918)、終戦後の混乱の中で、「社会三層化運動」を精力的に展開。その中から最初のシュタイナー学校(自由ヴァルドルフ学校)がシュトゥットガルトに創立。

◇1922年(61歳)頃がアントロポゾフィー運動の頂点と言われる。教育、障害者/障害児教育、自然科学、芸術、農業、医療、建築、オイリュトミー、社会運動など、さまざまな分野での成果が一般社会から注目されるようになり、シュタイナーの講演会には常に数千人の聴衆が詰めかけた。

◇62歳(1922/1923)、第一ゲーテアヌムが放火によって焼失。

◇63歳(1924)、それまでのアントロポゾフィー協会を「普遍的アントロポゾフィー協会」として再出発。この新しい「協会」の構想の中に、シュタイナー自身の社会論、組織論が大胆に打ち出された。同時に第二ゲーテアヌムの建造に着手。

◇63歳−64歳(1924-1925)、医学、治療教育、農業、演劇論などに関する講演を集中的に行ない、1924年9月に病床につく。

◇65歳(1925年3月)、逝去。

 

《シュタイナー思想の基本》

◇若きシュタイナーは「個人主義的アナキスト」を自認し、バクーニンの「神の代わりに自由なる人間を!」をモットーにしていた。

◇「自由の基盤」としての知ること、考えること。

◇それゆえに、カント以来の「人間の認識には限界がある」という考え方に徹底抗戦を挑んだ。

◇カント:「神は存在するか」「霊魂は不滅か」「宇宙は有限か無限か」は人間には知り得ない。

◇シュタイナーは「目に見えない世界」を信仰の対象とするのではなく、個々人の思考の対象としようとした。

◇したがって、シュタイナー思想について先ず言うべきことは、それは「鵜呑み」にされることを望んでいないということ。

◇「人類の知恵」としてのアントロポゾフィー。特定の集団の思想(イデオロギー)としてではなく、個々人が自分の人生の中で、目の前の現実と格闘し考えていく中で、人類全体の知恵が構築されていくという考え方。シュタイナーにとっての哲学史とは、人類の精神作業の歴史であった。どのような社会的身分の人間でも、その「人類の精神作業」に対等に参加できる。

 

《社会三層化》の基本

◇生命の研究が基盤。「生きた」社会のあり方を、生命のあり方から探求する。

◇生体に「中心」はない。開放系としての人体。脳中心ではない身体論→最近の免疫学などの知見。多田富雄氏は「脳の自己とはべつに、身体の自己がある」という。

◇シュタイナーの三分説。頭部(神経=感覚系)、胸部(呼吸器=循環器系)、四肢(代謝=リズム系)。その三領域が独立して外界と関わっている。

◇社会三層化:

 頭部→経済(知識、能力の交換); その原理は「友愛」

 胸部→法律(個人の価値の絶対性); その原理は「平等」

 四肢→文化(精神生活[一人ひとりにとっての自然なあり方]); その原理は「自由」

◇社会の三領域は、相互に干渉せず、独立して全体を支える。

◇フランス革命のモットー「自由・平等・友愛」は一緒くたにされるのではなく、社会の三領域にそれぞれ適用されるべき。つまり「精神生活における自由」「法における平等」「経済における友愛」。

◇シュタイナー学校の「自由」は「精神生活の自由」を意味する。つまり教育(精神生活)は個々の教師の責任で行なわれ、そこに経済界や国家(法の領域)からの干渉があってはならないという考え方。

◇ベルリンの壁崩壊の一年前に出版された旧東独の弁護士ロルフ・ヘンリヒの著書『後見人国家』は、市民を成人と見なさず、その生活に後見人のように干渉する社会主義国家のあり方を批判するものだったが、その巻末に社会主義の未来への提案としてシュタイナーの「社会三層化」の思想を提案している。

◇現在のドイツの内務大臣を務めるオットー・シリー(社民党)は、緑の党にいた頃に連邦議会でやはりシュタイナーの社会三層化について演説した。

◇「社会三層化」理念の現在における有効性。その研究と実践を目指したい。

 

 

那須におけるシュタイナー学校設立運動に寄せて

 

《いまなぜ「シュタイナー学校」なのか?》

 私たちはなぜシュタイナー学校をつくろうとしているのでし上うか。たしかに、いまの

日本の子どもたちはとても辛い状況におかれています。いじめ、虐待、自殺、登校拒否。

そして残虐な少年犯罪のニュースが私たちを不安に駆り立てます。子どもたちのために、

何かをしなければならない、と誰もが感じています。しかし・その「何か」とは、果たし

て学校をつくることなのでしょうか。

 

 もし私たちが、一握りの子どもたちだけのために「理想の学校」をつくろうとしている

のであれば・それは何の解決にもならないでしょう。ルドルフ・シュタイナーが創設した

最初のシュタイナー学校(ヴァルドルフ学校)は、第一次世界犬戦後の混乱の中で、社会

に対する提言として始まりました。私たちが日本にシュタイナー学校をつくる場合、それ

は今の日本の社会に私たちが求めているものを、自分たちの足元に実現していく試みでな

ければなりません。

 

 いまの日本は依然として学歴や肩書がものをいう男性優位の社会です。そこに働いてい

るのは競争原理であり、強者の論理です。大人たちは平気で本音と建前を使い分け、国を

代表する政治家さえもが公然とウソをついてはばかりません。そして学校というシステム

は、あたかもそのような社会で「有能」と認められる人材をつくるために存在しているよ

うです。

 

 学校での「いじめ」を苦に自殺したり、登校拒否をする子どもに対して、「社会とはそ

もそも厳しいものだ」と開き直る大人たちがいます。しかし、そういう大人自身が決して

この社会で幸せに生きていないことは、大人の過労死、自殺、夫婦間の暴力、子どもへの

虐待といった現象が如実に示しています。子どもたちは、自分の周囲の大入たちが決して

幸せではないこと、生きることに喜びを感じられずにいることを感じ取っています。

 

 私たちがシュタイナー学校をつくろうとするのは、決してこの苛酷な社会で生き残り、

成功できるような人間を育てるためではないはずです。たとえ、そのような成功者を数多

く生み出すことが可能であったとしても、そこには押しのけられ、踏み付けられる無数の

弱者がつねに存在しているのです。

 

 いま緊急に必要なのは、子どもたちの目の前にいる私たち大人一人ひとりが、真剣に自

分自身の生き方について考え始めることではないでしょうか。私は本当に自分を生きてい

ると言えるだろうか。私は悔いのない人生を送っているだろうか。私は幸せだろうか。幸

せとは、何も安楽で贅沢な暮らしを意味するものではないはずです。人は、自分の本領を

発揮できたとき、「幸せ」を感じるのではないでしょうか。その本領は、人によってさま

ざまに異なります。しかし、目の前の大人が、その人らしく、精一杯生きているのを見る

とき、子どもは自分を待ち受ける社会に対して希望をもつことができるのです。

 

 私たちの学校設立の運動は、何よりも私たち自身の「幸せ」を担うものでなければなり

ません。たとえ、さまざまな苦難があったとしても、そこに参加するすべての人が共有す

る「理想」に向けて、喜びと希望をもって協力できる運動でなければなりません。なぜな

ら、子どもたちはすでに私たちの後ろ姿を見ているからです。もし学校設立を誰か特定の

人に委ね、自分は子どもをそこに通わせればよいというのでは、テレビゲームやビデオに

子守りをさせるのと大して変わりはありません(もちろん、これは学校設立に関心をもっ

ている人々についてのことです)。

 

 シュタイナー学校は決して「理想の学校」ではありません。それは他のすべての学校と

同じように、一つの地域社会の中で、子どもたち、父母、そして教師たちの具体的な努力

によって成立するのです。そこに関わる一人ひとりの人間のあり方を通して、シュタイナ

ー学校は「善い学校」にもなれば、「悪い学校」にもなりえます。だからこそ、世界に1

000校を数えるといわれるシュタイナー(ヴァルドルフ)学校は、それぞれに異なる個

性をもっています。

 

 シュタイナー学校の設立は、私たち大人が自分の生き方を通して、いまの社会を少しず

つ変えていこうとする努力によって伴われなければなりません。もちろん、その努力は、

一人ひとりまったく異なるはずです。一人ひとりが独自の個性をもっているのですから。

 

 したがって、私たちの学校設立運動の第一歩は、私たち一人ひとりが本当に納得して共

有できる「理想」や「目的」を見いだすことから始まります。シュタイナー学校設立に関

わるからと言って、みんなが同じ思想に染まるわけではありません。思想、宗教、民族、

女や男といった違いを越えて、人間が人間であるがゆえに共有できる「普遍的なもの」を

見いだそうとすることが、シュタイナー思想の根本的な努力目標なのです。

 

 シュタイナー学校の設立には、一人ひとりの自発控に基づいた多くの努力が必要とされ

ます。それを共に担う意志をまず生み出さなければなりません。そのためには、基本的な

知識を学び、徹底して話し合い、本当に納得することが必要なのです。(また、納得でき

なければ、無理に関わる必要もありません)。

 

 そのような基盤となる人間たちがいなければ、どんなに理想的な学校を構想したところ

で、それは絵に描いた餅でしかありません。

 

 この呼びかけは、先ず第一に、そのような基盤づくりへのお誘いなのです。

 

 

《シュタイナー学校と社会》

 最初のシュタイナー学校は、第一次世界大戦の直後にルドルフ・シュタイナーが精力的

に展開した「社会三層化運動」の中から生まれました。ドイツの敗戦とともに帝政が崩壊

し、新しい社会秩序が模索される中で、シュタイナーは何がこの戦争の悲劇をもたらした

のか、と問うことから始めました。そして、社会が生きて発展するためには、国家(法律・

政治)、経済、精神生活(文化)の三領域がそれぞれ独立して働くようにならなければな

らない、という社会三層化の思想を打ち出したのです。社会の三領域のどれか一つが突出

し、他の二領域を支配するとき、社会の病が生じるとシュタイナーは考えました。帝政ド

イツにおいては、社会の一領域であるはずの国家が、経済と文化を呑み込んでいたのです。

 

 シュタイナーは、自由、平等、友愛というフランス革命のスローガンを、この社会の三

領域に関連づけました。自由、平等、友愛という二つの理念は、一緒くたに社会に応用さ

れるべきではなく、それぞれに生かされるべき領域があるというのです。

精神生活においては自由が、

法の領域においては平等が、

経済の領域においては友愛が生かされねばならない、

とシュタイナーは述べました。そこに人間が人間らしく生きられる社会が現れるというの

です。そして、そのような社会を目指した運動の中から、シュタイナー学校は生まれまし

た。

 

 シュタイナー学校は、「精神生活における自由」を社会に向けて示そうとします。「精

神生活」とは、一人ひとりの人間がもつ可能性や才能・あるいは自分らしさのことです。

だから精神生活を文化と言い換えることもできます。いわゆる知的作業だけでなく、スポ

ーツや芸術など、その人が「愛」をもって行うことすべてをシュタイナーは「精神生活」

と呼んだのです。人間は、自分に本来そなわっている能力を発揮するときは、「愛をもっ

て」「好きで」行うことができる、とシュタイナーは言います。なぜなら、そのとき人は

自分自身と一致しているからです。そして、人間が自分自身と一致している状態、本来為

すべきことを愛をもって行える状態を、シュタイナーは「自由」と呼びました。この意味

で、シュタイナー教育は「自由への教育」なのです。

 

 この「自由」が社会生活の基本になります。なぜなら、人間は本当に自由であるとき、

他者の自由を尊重できるからです。そこに法における平等の基盤があります。また、自由

な人間、すなわち自分自身と一致している人間は、自分が何をしたいのかを知っています。

そして、自分がやりたいことを愛をもって行うことができます。すでに第一次世界大戦後

に、シュタイナーは「自分が本当は何をしたいのか分からない人間」が増えていると語っ

ています。また、現代の仕事は、もはや以前のように「愛」や「喜び」をもってなされる

ことが少なくなったとも述べています。人間は本来、食べるために働くのではありません。

仕事とは本来、人間が自分自身と一致することによって湧きいでる愛に満ちた自己表現な

のです。そして、その自己表現の産物を、他の人々が認めて必要としたとき、そこに経済

活動が生じます。その意味で、シュタイナーは経済の原理は、本来は「競争」や「力」で

はなく、「愛」や「友愛」であると考えたのです。

 

 このような考え方は、あまりにも理想主義に聞こえるかもしれません。しかし、この理

想を強引に社会に押し付けようというのではありません。そこに共鳴する一人ひとりの人

間が、自分自身の生き方の中で、そのような理想を少しずつ実践していくとき、社会全体

も変わっていくのです。

 

 この人間社会の基盤である自由、平等、友愛の特性を、人間は教育によrて身につける

とシュタイナーは言います。

 

 

《社会の中の子ども時代》

 人間は社会的動物であると言われます。シュタイナーは、人間は肉体的に誕生した後も、

本当には「人間」として誕生してはいない、といいます。人間を人間たらしめている直立

歩行・言語、思考といった能力は、肉体的な誕生の後に発達します。それらの人間的能力

は、社会の中で、周囲の大人との触れ合いの中で、はじめて発達できるのです。人間が他

の哺乳類と較べて未熟な状態で生まれてくることには、A・ポルトマンのような生物学者

も注目しています。人類学者のA・モンテギューは、人間の妊娠を「体内妊娠」と「体外

妊娠」に分け、赤ちゃんがはいはいし始めるまでの生後10ヵ月ほどを妊娠期間に含めて

考えています。シュタイナーはこの「体外妊娠」期間を21年という大きなスパンで捉え

ました。シュタイナーの考え方からすれば、《子ども時代》とは人間生成に向かう「出生

後の胎生期」であり、そこでは社会そのものが「母胎」となるのです。

 

 したがって、人間が本当に「自由」な人間として育つための条件をととのえることは、

社会の役割です。そして学校は、社会全体に支えられて、この役割を担うのです。0歳か

ら7歳までは、子どもはひたすら周囲の人々を「模倣」していきます。子どもは全身を感

覚器官にして、周囲の人々の目に見える動作だけでなく、考えや感情をも感じ取ります。

したがって、教育者は子どもの前では、模倣されてもかまわないような考えや感情をもつ

ように努めます。この時期の教育の課題は、いかにして子どもが模倣できる環境を周囲に

用意するかということなのです。

 

 シュタイナーによれば、幼児期における「摸倣」こそが、大人になってからの社会にお

ける「自由」の基盤をつくるのです。なぜなら、模倣への衝動は、周囲の世界との一体感

から生じるからです。子どもに自然に備わっている「世界との一体感」を養うことによっ

て、大人になってからの「自分自身との一致」(自由)が可能になるのです。

 

 7歳から14歳までの子どもの中には、「権威に基づいて行動する力」が生きている、

とシュタイナーはいいます。この時期の子どもにとっては、自分がおのずから尊敬できる

人間から、正しいことは何か、なすべきことは何か、という行動への指針を与えられるこ

とがふさわしいのです。思春期に入る前に、子どもに自主的な判断を迫ることは有害であ

るとシュタイナーは述べています。7歳から14歳までの教育は、子どもの中に「権威に

対する感情」が純粋で美しいかたちで目覚めることを主眼に据えなければなりません。な

ぜなら、この時期の「権威に対する感情」は、大人になってから「法のもとにおける人間

の平等」を体験する基盤になるからです。

 

 幼児期の「世界との一体感」が大人になってからの「自分自身との一致」の基盤となる

ように、7歳から14歳までに体験される「他者への尊敬」は、大人になってからの「他

者の中の《私》」を感じ取る基盤となります。社会における「人権」や「平等」への感覚

は、7歳から14歳までの「権威への感情」を基盤としているのです。

 

 性的成熟を迎えてからの14歳から21歳までの時期には、「普遍的な人類愛」が育ち

始めます。性的な愛情は、普遍的な人類愛の個別的な現れにすぎない、とシュタイナーは

言います。この時期の教育は、世界に対する見方を教える中で、つねに外なる世界に対す

る愛や人類愛を主眼に据えていなければなりません。なぜなら、社会における経済の中に

「友愛」が力強く働くためには、人々の魂の中に愛の力が育っていなければなりません。

そしてその基盤は、14歳から21歳の時期につくられるのです。

 

 そのようにシュタイナーは、《子ども時代》を0歳から21歳までの広いスパンで捉え

ました。この《子ども時代》は、一人ひとりの人間が「自由な人間」として育つために必

要な「社会という母胎に守られた体外妊娠期間」であると同時に、社会全体の中に「精神

生活における自由」「法のもとの平等」「経済における友愛」が実現されるための前提条

件なのです。

 

《教員養成》

 社会問題の中の緊急の課題は「教育問題」であり、教育問題の中の緊急の課題は「教員

養成の問題」である、とシュタイナーは語りました。なぜなら、授業においてもっとも大

切なものは、教師から生徒へと伝わる「目には見えないもの」だからです。シュタイナー

はそれを「教師の魂のあり方」と呼びました。しかし、教師としてふさわしい「魂のあり

方」をもつためには、人間の本質についての深い洞察を身につけることが必要です。人間

がただ「目に見える」物質としての存在だけでなく、その背後に「目には見えない」本質

を秘めていることを教師は確信できなければなりません。この世に誕生し、20年もの変

容のプロセスを通して成長していく子どもは、人間が「目に見えない世界」からとつながっ

ていることをもっとも明らかに証明している。そのことを人間について、また子どもの発

達段階について学ぶことを通して、ひとつの確信として身につける必要があるというので

す。そのような確信の中から、教師にふさわしい魂のあり方が生じてくるのです。それは

単なる「信じ込み」によって達成されるようなものではなく、一人ひとりが自分の主体性

で学び、考え、厳しい現実に直面してはまた学び考え直すという作業の中で、徐々に培わ

れていくものです。その意味で、教員養成(研修)は一生を通じて行われるプロセスなの

です。しかし、もっとも大切なことは、一人ひとりの人間がそのような人間の本質につい

ての学びを本気で志すということです。

 

 この教員養成の問題は、シュタイナーの思想と出会った私たち一人ひとりの課題ともつ

ながっています。「自由」や「他者への目覚め」を教育を通して身につけることができな

かった人間は、自分自身でそのような特性を獲得していかなければなりません。しかし、

大人の場合、幼い子どものように「摸倣」から始めることはできません。大人にとっての

第一歩は、考えることです。大人は、思考の中に自由の基盤を見いたします。そして、他

者もまた自分と同じ「考える存在」なのだと気づくことによって、他者の中の《私》に目

覚め始めるのです。シュタイナーにとって、この「自由」と「他者の中の《私》への目覚

め」は、この世に「愛」が働くための絶対条件でした。それをシュタイナーは『自由の哲

学』という著書の中でこのように表現しました。「行為への愛に生き、他者の意志を理解

することによって、それを生かすこと。それが自由なる人間の基本原理である。」そし

てこの基本原理は、社会三層化の思想の中では、個々人の「精神生活における自由」と

「法における平等」として表現され、それを前提として「経済における友愛」が生じるこ

とになるのです。

 

《シュタイナーが目指した社会とシュタイナー教育》

 シュタイナー学校は、社会三層化運動の重要な柱であり、社会に対して「精神生活の自

由」を提示するものとして始まりました。前述したように、精神生活とは、一人ひとりが

もつ可能性や能力、あるいは自分らしさのことであり、スポーツや芸術を含む「文化」と

も言い換えることができます。それは本来、一人ひとりの人間に自然に備わっているもの

であり、それゆえ「愛」や「喜び」をもって行うことができます。それこそが社会にとっ

ての真の「資本」である、とシュタイナーは述べました。社会が本当に豊かに発展するた

めには、一人ひとりの個人が自分を抑圧したり、無理に「全体に奉仕」するのではなく、

ありのままの自分を発揮することが必要なのです。しかし、そのためには、一人ひとりの

人間が「自由」であること、本当に自分自身と一致していることが必要です。そうでなけ

れば、「自由」の名のもとに単なる欲望の充足を求めることになってしまいます。

現代社会は、単に人々(消費者)の欲望を煽り、その欲望の充足へと駆り立てることを

「自由の原理」と呼んでいます。しかし、それは欲望や衝動の「奴隷」でしかなく、「精

神における自由」からはかけ離れたものです。また、強者の論理、女や男はかくあるべき

という先入観、慣習や家制度に基づく価値観などが、個々人が自由に至る道を阻んでいま

す。シュタイナー学校は、そのように人間の自由に対して抑圧的に働きかける一切の影響

から「子どもの尊厳」を守り抜こうとします。それは既存の社会に楯突くためではなく、

社会にとっての真の「資本」を育てるためです。

 

 自分が本当にやりたいこと、愛をもって行えることを見いだした人間は、真の資本を獲

得したことになります。その人間は何よりもまず自分自身のために愛をもって仕事(労働)

をします。そこから生み出された作品は、「商品」となって社会を流通します。人々は、

愛をもって働くとともに、お互いの仕事から生まれた作品(商品)を認め合うのです。そ

のような愛に満ちた創造活動を基盤として成立する「社会」をシュタイナーは目指したの

です。

 

 私たちが、いま現実に目の前にいる子どもたちのために「理想的な学校」を望むのはと

ても自然なことです。そのような具体的な思いから、すべては始まるのだと思います。し

かし、その個別の思いは、やがて社会全体へのまなざしへと開かれていくことでしょう。

なぜなら、シュタイナー学校の運動は、そもそも自由を基盤として、社会の中に普遍的な

愛を実現させるための運動だからです。そして、知識やカリキュラムよりも、一人ひとり

の教師や父母がもっている「目に見えない」信念こそ、もっとも大きな影響を子どもに与

えることを考えるなら、私たちはまず学校設立を通して私たちが見据えている理念を確認

すべきでしょう。私たちがいかに学校づくりに取り組むか、そのプロセスそのものが、社

会を変える力となり、子どもたち自身の成長を力づよく支えることになるのではないでしょ

うか。

高橋 明男

(2000.10.10.)