『名前を探る旅』への招待状
                              中村尚樹
■『ナガサキの絆』
◎ヒューマニストとして評価される永井隆博士の思想。
「原子野に泣く浦上人は世界に向かって叫ぶ、戦争をやめよ。ただ愛の掟に従って、相互に協商せよ。浦上は灰の中に伏して神に祈る。ねがわくばこの浦上をして世界最後の原子野たらしめ給えと」『長崎の鐘』
 同時に永井は、「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」と記す。「終戦と浦上壊滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠され、燃やされるべききよき子羊として選ばれたのではないでしょうか」「この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本に信仰の自由が許可されたことを感謝致します」「原爆にみまわれて私たちは幸いであった」『ロザリオの鎖』
◇ 永井の思想が持った歴史的意義⇒「二重の免責」
◇ 永井の後輩であった医師、秋月辰一郎は強く反発⇒「原爆を落として、無辜のひとびとをこれほど殺して、苦しめたものは真に誰であるかという問いを、とうとう私自身回答し得なかった悔いの三十年間でもあった」
◎被差別部落ウラカミとしての被爆
「浦上町部落、人畜は強大な爆風と熱気によって一部は即死、大部分は重傷。浦上町戸数229戸。1300人。原爆によって全戸全焼。430人が死亡」『長崎市制65年史』
◎原圭三さんからの私信。
「戦争中、天皇陛下のおん為、お国の為で、否応なしに全国各地から軍需工場へ徴用されたのです。国家の命令であり、現人神のご命令であり、ほかにどんな事情があろうと、指定された日時には指定された工場に着任しなければならなかったのです。ある者は妻子を、ある者は年老いた母一人を残して着任したのです。そして毎日の残業20年に入りますと、空襲警報は鳴りっぱなし、夜もろくな睡眠はとれず、その疲労感と空腹は体験者でないと到底理解できるものではありません。(中略)そんな悲惨な死に方をさせられた人たちに企業は、行政は何をしてくれましたでしょう。なんにもしていません。表面的には供養しているように取り繕っていはいますが、何もしていないのです。心が全くありません」
⇒原を突き動かした動機は何重もの怒り。
後輩を死地へとおいやった自分への怒り。その背景には、自分も軍国主義の末端だったという自覚。社員を慰霊しない三菱への怒り。遺骨を受け取ろうとしない、遺族への怒り。最後に国家への怒り。

■『ヒロシマの絆』

原爆と韓国・朝鮮人〜韓国・朝鮮人被爆者は広島で数万人、長崎で2万人。
⇒「三重に抑圧された存在」

■これからの課題

◎被爆体験の継承
◇ 二つの視点⇒一つは「核兵器」、もう一つは「何故原爆が投下されたのか」
◇ 衆議院「戦後五〇年決議」〜「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行なったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し」「過去の戦争についての歴史感の相違を越え、歴史の教訓を謙虚に学び平和な国際社会を築いていかなければならない」

◎本島発言と天皇制、表現の自由と民主主義
一九八八年(昭和六十三年)十二月七日、本島等市長の答弁
「外国のいろいろな記述を見ましても、日本の歴史をずっと、歴史家の記述を見ましても、私が実際に軍隊生活を行い、特に軍隊の教育に関係をいたしておりましたが、そういう面から、天皇の戦争責任はあると、私は思います」

一九九〇年(平成二年)一月十八日、右翼団体構成員が本島市長銃撃
「平和と民主主義を尊重する考え方は、新しい日本国憲法に盛られ、それまでの日本人の考え方に大きな変化を与えました。しかし今のおとなたちは、あのころの心の歪みはどうやって直したか、歪みがまだ残ってはいないか、あるいは、もしかしたら、歪みが肉体的な成長とともにますます大きくなってはいないか、終戦からそろそろ半世紀たった今、そういう自己チェックはもう必要ではなくなったのでしょうか。そんなことはありません。私には歪みもまた成長していると思えてならないのです。げんに、そういう人間的にいびつな部分こそが、自分たちと思想信条が合わないというそれだけの理由で、生きて動いている私にピストルを向けたのではなかったのか。旧い時代の戦争の亡霊が、この私を撃ったのです」
 
◎事実でありながら、全体としては間違っているもの
「日本はアメリカに負けた」の裏側⇒「だからアジアに負けたのではない」
◇ 事実でありながら間違っている思想を見極めるリトマス試験紙としての「原爆」
◇ あいまいに「わかる」ことではなく、「共有する」こと、
「ともに考え、悩むこと」、「寄り添うこと」