2001.3.19  「平和運動症候群」   

西岡 由香(長崎ピースミュ-ジアム建設運動事務局)

 

ビデオ上映

『ピースボート-第1回ながさき女性国際平和会議-地球市民集会ナガサキ』

 

1.平和運動、きっかけはさだまさし!?

 1986年、長崎出身の歌手さだまさし氏が始めた平和コンサート「長崎から」。

 「平和への玄関口であり続けたい」というこのコンサートは今年15年目。

 さだ氏は舞台からこう語る。「ある日突然平和になる訳ではない。身近から

 大切な人の笑顔を守るために自分にできることをやる、それがいつしか世界

 を少しずつ平和にしていくのだ」。

 

 「長崎から」をきっかけに、全国のファンのネットワーク「Together」を設立。

 通信を発行する中で、91年「湾岸戦争」が勃発。通信の中でコメントを書くには

 あまりにも世界の現状を知らない自分に愕然とする中で知人からピースボート

 紹介。99年、ついに会社を退職してピースボートに乗船。

 

 ※ピースボート---1982年、日本のアジアに対する軍事行動を「進出」とするか

 「侵略」と表記するかで物議をかもしたいわゆる「教科書問題」の際、実際に

 現地へ行って調べようと、当時早稲田大学生だった辻元清美氏らが船を出したのを

 皮切りに、世界各地へ寄港して交流、検証、支援を続けているNGO。 

 

2.地球はひとつ!〜ピ−スボ−ト地球一周〜1999.1.29-4.16

 ・船内で、小林よしのり氏の「戦争論」を題材にした討論会の司会をつとめるも

  未消化に終わる。自らの力不足を痛感。

 ・アフリカ ケニア ツァボ国立公園訪問。象牙不買運動「No  No  Ivory」に参加

 ・モザンビーク かつてのポルトガル植民地は、20年にわたる内戦で街には銃弾の

  あとが生々しく、国内には未だ350万個の地雷。救援物資さえどこかで横流しされ

  市場で売られている。顔の見える「手渡し」の援助を。

 ・南アフリカ アパルトヘイト(人種隔離政策)の跡、流刑島や博物館を訪問。

  六区博物館では「ナガサキの方へ」と館長からアパルトヘイトの資料を託される。

 ・南米 アルゼンチン 軍事政権下で夫や息子を軍によって奪われた母親たち

  「五月広場の母たち」と交流。「世界中の被害者、被爆者が力をあわせれば、

  世界を平和にできる大いなる力となるのです」の言葉はその後の活動の原点に。

 ・チリ 長崎と酷似した街並みを見つつ実感。「なあんだ、同じなんだ」。

  地球の裏側にも同じように街があり、人々が暮らし、家族をもち、一所懸命

  生きている。地球はひとつ。こうして出会い、つながりを作っていくことが

  「対岸の火事」から「身内の火事」へと形を変えていく。仮にそこで事件が

  起こったら、もう人ごととは思えない。

 ・タヒチ ファアア市の反核市長へ長崎代表として、長崎市長からのメッセ

  ジを届ける。「自分にも平和活動ができる。どんどんやっていけばいい」。

 ・東京へ帰港 船内で十分な平和論議ができなかった消化不良と、スタッフの

  誘いもあり、ハーグ国際平和会議への参加を決意。

 

  ピースボート地球一周の旅で見えてきたのは「世界の設計図」。世界のどこかで

  戦火があがっている。それは民族大移動から始まって、宗教、民族、経済、南北

  問題など様々な要因が絡み合って起こった結果であり、単に「戦争はいけない」

  と言う前に、それら要因について知らなければ本質はきっと見えてこない。

 

3.世界のアツい人々〜ハ−グ国際平和会議〜1999.5.7〜17

 100年に一度の「NGOの文化祭」は世界127ヶ国から約1万人が参加。

 「軍縮と人間の安全保障」「国際人道法」「武力紛争の防止」「戦争の根源と

  平和の文化」などを軸に、一週間、約500の分科会が開催された。特に

  NATOがコソボを空爆中であり、空爆の是否をめぐって論議が白熱。

 《開会式における南アフリカ、ツツ大司教のスピーチ》

 「私たちが20世紀において学んだのは”人間はひどいもの”であると同時に

  ”人間は素晴らしいもの”であるということです。

  私たちは人間として、アパルトヘイトを終わらせることができました。

  私たちは人間として、奴隷制度やホロコーストを終わらせることができ

  ました。

  誰かが”人間は汚い”と言ったら”それは嘘だ”と答えてほしい。

  私たちに終焉できなかったことはあるのでしょうか?

  私たちには、戦争を終わらせる力と能力があります。さあ皆さん、

  世界に響くように叫びましょう。We love the PEACE!」

 

4.「平和のレシピ」って?〜ながさき女性国際平和会議〜2000.2.5

  帰国後、一枚のチラシで「男女共同参画都市宣言事業」の一環である

  「ながさき女性国際平和会議」企画運営委員募集を知り、応募→いきなり

  運営委員長に抜擢される。

  基調講演に吉田ルイ子氏を迎え「沖縄」「原爆」「東ティモール」等を

  テマにした分科会を企画。基本コンセプトは「平和初心者会議」。

  成功率は呑み会の多さに比例する!? 平和運動なんて参加したことの

  ない方でも行きやすい雰囲気づくりは内部から。

  フタをあけてみると当日は1200名の参加者。人を呼び、集め、伝える

  力は、怒りからではなく笑顔から生まれるものかもしれない。平和運動を

  楽しんでやることは決して不謹慎なことではない。

  女性会議アジェンダ《平和のレシピ》

  「知ること」「多様な価値観を認めること」「知らせること」「行動

  すること」

 

5.NGOと行政のはざまで〜地球市民集会ナガサキ〜2000.11.17〜20

 2000年5月にNYで開催されたミレニアムサミット、NPT再検討会議の

 流れをくみ、核廃絶への明確な道すじを提言しようと世界中からNGOの

 代表者が集まる会議に事務局として参加。分科会「女性フォーラム」を担当。

 「女性フォーラム」内容 

 チェルノブイリ原発事故のヒバクシャである20歳の歌手、ナターシャ・

 グジーさんのコンサート

 フォト・ジャーナリスト広河隆一さんの講演「チェルノブイリと世界の

 ヒバクシャたち」

 「国際女性平和自由連盟」NY支部長、フェリシティ・ヒルさんらを加えた

 ミニシンポジウム

 ・なぜ音楽という形の分科会を開催したか?

 人は初めての時「理性」でなく「感性」から入ってくる。「楽しそう」

 「面白そう」。

 「一人の100歩」より「100人の一歩」を促す分科会にしたかった。

 難しいことをいかに心に響くよう伝えられるか→文化、音楽

 ・原発を扱った理由 

 原発社会は、その危険性を次の世代に手渡すことが前提となる。

 原発問題を「エネルギー問題」ととらえるのでなく、「いのちの問題」と

 とらえ、世界のヒバクシャの実状と痛みを知ることからはじめたい。

 

 原発問題を「今集会と趣旨が違う」ととらえる行政側との軋轢。

 被爆者の方や平和研究者の先生の支援をいただいて企画可決→本番へ

 参加者400名の大成功(集会全体はのべ5625名)

 

 閉会集会で採択する「長崎アピール」に、「チェルノブイリ」「核事故」

 の文字が入らないことへの不満。悔しさ。

 

 「理想を実現していく人間の活動」を「文化」と呼ぶなら、集会に関わった

 人々によってこの街に「平和の文化」が生まれたと言えるのではないか。 

 世界を「核の鎖」に包囲させることなく、世界のヒバクシャが手をつなぎ

 あい、核廃絶への大きな流れをつくっていきたい。

 

6.平和運動ing

 ・ナガサキピースミュージアム建設運動(事務局として参加 2001年開館予定)

  戦史を中心にすえるのでなく、子どもの笑顔や美しい自然から、平和の素晴し

  さを心豊かに味わえるミュージアムづくりを目指して活動中。

 ・平和運動とは、特別な人が特別なことをすることではない。いつでも、

  何からでも始められる。

 ・国際協力、国際貢献などと言うと手の届かないことのように思えるが、

  「今・ここ」も世界の一部。自分の身の回りから始めることが、やがて

  世界を平和にしていく。

 ・なぜ平和運動をやっているのか?

  最初は義理と刺激だけでやっていた。それはいつしか「何かのため」

  「誰かのため」でなく「自分自身のやりたいこと」に姿を変えていく。

  皆と1つのものを作り上げ、朝まで議論をかわす。平和運動という闘いの

  空間−「平和運動症候群」にかかった人々とつながって動いている空間が

  自分自身の「居場所」であると思う。

 ・私の思う「平和」とは? 

  「心安らぐ空間での心安らぐ生活」のこと。←第一段階(個人的なもの)

  「平和であることを阻む様々な因果関係紛争、飢餓、環境破壊などーが

  クリアされ、全体として平和が構築された状態」が最終段階

  ・今後の活動

  様々な企画をとおして「平和運動は楽しくやっていい」と伝えること、

  「五月広場の母たち」の言葉のように、世界の平和を願う人々を

  少しでもネットワークでつなくごとが自分の役割だと思う。

 ・そのパワーはどこからくるのか?

  私の好きな言葉は伊藤千尋さんの「君の星は輝いているか?」。

  かつて伊藤さんがロム(ジプシー)と旅をしたとき、ロムの少年が

  空を指差してこう言ったそうです。「この地上には人の数だけ星が

  ある。あの一番輝いているのが僕の星だ」。伊藤さんはこう続けます。

  「日本のくぐもった空。星はあの時ほど見えないけれど、人の輝きが

  見える自分でいたい。とりもなおさず自分が輝きたい」。だから

  私は事ある毎に自分にこう問いかけます。「君の星は輝いているか?」

  と。