防衛政策の変容と総合安全保障構想の形成

新条約締結後における日本の安全保障政策の規定要因―

 

T 第2次世界大戦後日本の外交・安全保障政策を捉える視点

1 「吉田ドクトリン」

・「吉田ドクトリン」……吉田茂像および日本外交・安全保障政策に対する見方の確立(60年代〜70年代)

 

・「吉田(ドクトリン)修正主義」の登場(90年代)

吉田外交の再検討

(豊下楢彦『安保条約の成立』岩波書店、1996年、三浦陽一『吉田茂とサンフランシスコ講和』上下巻、大月書店、1996年、豊下楢彦編『安保条約の論理―その生成と展開』柏書房、1999年)

・「吉田(ドクトリン)修正主義」に対する反論

 

2 「再軍備の55年体制」論

植村秀樹『再軍備と五五年体制』木鐸社、1995年):3派鼎立(自由党鳩山派、自由党吉田派、社会党)

 

3 課題と視角

 

U 新条約締結後の日本の安全保障政策の展開

吉田の防衛政策に対する認識:

「『経済中心主義の外交』なんてものは存在しないよ」という言葉を、私は吉田茂の口から聞いたし、同じような言葉を聞かされた人は少なくないはずである。彼は、昭和25年にはダレスの再軍備を断固として拒否したが、いつまでも日本の防衛をアメリカに大きく依存しようとは思っていなかった」(高坂正尭『宰相吉田茂』中央公論社、1968年、245頁)

 

1 条約改定とその反動

1960年1月19日 「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(新日米安全保障条約)の調印。

→ 日本の施政権下における、日米共同防衛義務の明記(形式上の日米間の双務性の達成)

      国内における反発

 

2 沖縄返還と自主防衛論の勃興

1967年−

 

3 「基盤的防衛力」構想の形成と防衛政策の変容

1973年2月、久保卓也の防衛構想は国会で試案として提示されるも、頓挫。

 

坂田道太の防衛庁長官就任と、「基盤的防衛力」構想の再登場

……「防衛を考える会」の組織、『防衛白書』の再刊行、久保の防衛庁復帰(1975年7月)、日米間の防衛協力小委員会の設置(1976年7月8日決定)

 

19761029日 「防衛計画の大綱」を閣議決定(「基盤的防衛力」構想の採用)

19781127日 「日米防衛協力のための指針」が日米安全保障協議委員会にて決定

 

4 総合安全保障論の形成

Cf: 野村総合研究所『国際環境の変化と日本の対応』

 

・「総合安全保障研究グループ」報告書

1980年7月2日(大平の死後)、「総合安全保障研究グループ」は報告書「総合安全保障戦略」を伊東正義臨時総理代理に提出

報告書……「日米間の全般的な友好関係だけでなく、軍事的な関係が現実によく機能し得るよう準備しなくてはならない」

     「平時において十分な警戒態勢をとり得るとともに、限定的かつ小規模な侵略までの事態に有効に対処し得るものを目標とする」

 

198012月2日 「総合安全保障閣僚会議」の設置を閣議決定

各省庁内(経済企画庁、通商産業省、運輸省)に、総合安全保障に関する委員会が設置

 

中曽根康弘による安全保障政策

1983年1月14日 対米武器技術供与を閣議決定

1986年7月1日  「安全保障会議」の設置を決定

1987年1月24日 防衛費GNP1%限度枠の廃止を閣議決定

Cf: シーレーン防衛研究、技術研究開発費の増大(兵器国産化)

 

自衛隊とアメリカ軍の関係

19831212日 初の日米共同指揮所訓練(航空自衛隊、府中)

1984年6月11日―6月15日 初の日米共同指揮所訓練(海上自衛隊、横須賀)

1986年2月24日―2月28日 日米共同統合指揮所演習

    1017日―1031日 日米共同統合実動演習

 

5 日本の外交・安全保障政策の規定要因をめぐって

・結果としての「吉田路線」

 

・冷戦と「吉田路線」

 

・規定要因をめぐって

 

【参考】

・吉田ドクトリンに関する最近の議論のなかから

池田慎太郎「苦悩のなかのイニシアチブ―ジョン・アリソンと吉田政権の崩壊―」『筑波法政』(筑波大学社会科学系)第23号、1997年9月

     「中立主義と吉田の末期外交」豊下楢彦編『安保条約の論理』柏書房、1999

吉次公介「池田・ロバートソン会談と独立後の吉田外交」『年報日本現代史』第4号、現代史料出版、1998

      ポスト冷戦期の日本の安全保障政策に関する最近の議論のなかから

室山義正「米国の国家戦略と日本の安全保障政策」九州大学大学院経済学研究院政策評価委員会編著『政策分析200021世紀への展望―』九州大学出版会、2001