2001.10.20平和問題ゼミナール報告資料

「ハンセン病訴訟判決に学ぶ――国側の論理を追う――」

釆女博文氏(鹿児島大学法文学部・民法専攻)

はじめに

第一 熊本地裁判決の画期的意味

          ……過去を辿り、歴史を語った。無らい県運動を裁いた。

第二 打ち破られた除斥期間論

第三 厚生大臣の法的責任論――国側はどう主張したか。裁判所はどう判断したか。判決をどう評価するか。

第四 法律論からみた画期的意味……国家賠償法のルートで違憲立法審査権行使の途を開いた。

第五 原告らの被害は救済されたのか。……損害論の課題

第六 裁判所の抑制をどう評価するか。らい予防法は成立の時にすでに、国家賠償法上違法ではなかったか。

         〔年表〕〔参照法令〕〔参考資料〕

 

概要

 1.らい予防法(一九五三年)の下で国立療養所に入所していた原告らが、平成一〇年、国に対し、@厚生大臣によるハンセン病政策の策定・遂行上の違法、A国会議員が新法を制定した立法行為または新法を平成八年まで改廃しなかった立法不作為の違法を理由に、国家賠償法に基づき一人当たり一億円(他に弁護士費用各一五〇〇万円)の損害賠償を求めた。

 熊本地裁(熊本地判二〇〇一年五月一一日)は、原告らの請求を一四〇〇万円から八〇〇万円の限度で認容した(他に弁護士費用各一割)。一九六〇年以降、ハンセン病は隔離が必要な疾患ではなくなっていたから、らい予防法の隔離規定の違憲性は明白になっていた。にもかかわらず、厚生省が同法廃止まで隔離政策の抜本的な変換を怠った。また遅くとも一九六五年までには、国会も同法の隔離規定を改廃すべきであった。いずれも国家賠償法上の違法性と過失がある。

 

 2.熊本地裁判決は、「国家賠償法のルートで違憲判断」をした最初の確定判決として裁判史上に残る。過去を辿り、歴史を語ることによって、国の責任を明らかにした。最高裁判例との緊張関係のなかで創り出される判決としては極めて高い水準のものである。原告らは「人間回復」判決と評価した。また私たちの社会の基本理念(憲法一三条)を誰にでもわかる言葉で語ったという点でも記憶に残るだろう。

 原告らを救う機会が一九四五年以降にはあった。遅くとも一九六〇年段階では、国は法的にも救う義務があった。この事実を受け止める能力があるか否か、今、日本社会は問われている。

 わが国の絶対隔離政策は指弾された。明治期から、西欧では「施設隔離」は患者の人権との緊張関係をもって行われた。国際らい会議はその雰囲気を伝える。発病率が低い、という医学的知見が活かされた。ところが、日本では「民族浄化」へと走った。戦後、日本国憲法が制定された段階でも人権との緊張関係は自覚されなかった。プロミン、そして経口薬であるダプソンの登場によって、ハンセン病が治癒する病気となり、在宅療法ができるようになった段階でも、治外法権的な施設への隔離政策が続けられた。療養所は、「治療が終われば当然退院する病院」ではなかった。

 そして、一九九六年らい予防法が廃止された後も、隔離がどれだけ深刻な被害を与えたかを理解することができなかった。法廷で国が主張した「医学的知見」の特徴は、人権との一切の緊張関係がないこと、国際的な医学的知見と切り離されたものであることである。国側の法律論は、らい予防法の条文の文言を断片的に切り取って論じることに終始し、条文が実際に機能した実態を素直にみようとはしていない。

 

 3.画期的な判決なものになったのは、なぜか。歴史を辿ることによって、原告らの被害を何が生み出したかを理解することができた。国策として推進された無らい県運動は「地域社会に脅威をもたらす危険な存在でありことごとく隔離しなければならないという新たな偏見」を生み出した。それは従来の差別・偏見、「ハンセン病患者を穢れた者、劣った者、遺伝的疾患を持つ者と見る考え」とは質的に異なっていた。

 また判決は、らい予防法は原告らから何を奪ったのかをわかりやすく説明した。「人として当然に持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性が大きく損なわれるのであり、その人権の制限は、人としての社会生活全般にわたるものである。このような人権制限の実態は、単に居住・移転の自由の制限ということで正当には評価し尽くせず、より広く憲法一三条に根拠を有する人格権そのものに対するものととらえるのが相当である。」したがって、償われるべきは、社会の中で平穏に生活する権利を奪われたという人生被害(療養所への隔離+社会から差別・偏見を受ける地位に置かれてきたこと)全体である。人生丸ごとの被害という認識があったから、国側の違法行為は続いていたとみることができたし、蓄積された損害もまとめてみることができた。原告らが受けた損害は療養所のなかに隔離されてた期間だけではないことを理解した。民法七二四条後段が定める二〇年の権利行使期間は、らい予防法が廃止されたときから進行する。提訴の時から二〇年以上の前のことを言われても困る、という国側の主張は破れた。判決は、様々な事情で療養所を出たり入ったりしている人、療養所を出てから二〇年か経過している人も救済した。また、行政と立法が何をすべきであったかについて明瞭に語ることを可能にした。

 

 4.行政の法的責任を明らかにした。

 「法律による行政」、法治主義の主張をも退けた。行政は法律に従って政策を施さねばならないから、行政庁及びその職員が関係法律を違憲と考えたとしても、当該法律に従って政策を施すほかない。政策の立案、実施に関連して個別の国民に対する法的義務を負うことはない。地裁は、この形式的な論理を克服した。立法のプロセスの実態を素直にみた。この立法プロセスのなかで所管官庁の責任を位置づけた。地裁判決は、戯画化された「法律による行政」論(形式的な法治主義)を、<行政に対する法の統制が究極的には、人権の保障にある>という実質的な法治主義で克服した。

 また地裁は、らい予防法をこう読んだ。らい予防法の下での患者の隔離は、基本的人権を保障した憲法の下では、最大限の慎重さでもって実施すべきだった。第六条一項はその趣旨を含んでいる。

 

5.立法の法的責任も明らかにした。

国は最高裁一九八五年判決に依拠しながらこう主張した、国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであって、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けない。

 地裁は最高裁判決をこう読んだ。最高裁判決は、立法行為が国家賠償法上違法と評価されるのが、極めて特殊で例外的な場合に限られるべきであることを強調しようとしたにすぎない。一九六三年の第八回国際らい会議では、「この病気に直接向けられた特別な法律は破棄されるべきである。一方、法外な法律が未だ廃されていない所では、現行の法律の適用は現在の知識の線に沿ってなされなければならない。(中略)無差別の強制隔離は時代錯誤であり、廃止されなければならない。」とされた。またこの時期、全患協が、国会議員や厚生省に対し、改正要請書を提出したり新法改正を求める陳情を行うなどの活動を盛んに行っており、右陳情を受けた国会議員の中には、「政府も早急に法改正に努力しなければならない。」とか、「このような予防法があることは国として恥かしい。」と述べた者もいた。国会議員としても、このころに新法の隔離規定の適否を判断することは十分に可能であった。他にはおよそ想定し難いような極めて特殊で例外的な場合であった。

 

6.しかし判決には課題も残った。

慰謝料額は最高でも一四〇〇万円にとどまった。七〇歳、八〇歳という原告らには個別に生じた損害を一つ一つ立証している時間は残っていなかった。地裁もこれに応えてわずか二年一〇か月で判決を下す途を選択した。原告らは自分たちに共通に生じた損害、様々な損害をひっくるめて一律な慰謝料請求をした。地裁は、個々人が強いられた断種・中絶による損害や患者作業により生じた思い障害という損害を救済できなかった。今日の学問は被害の全面的な救済に応え切れていない。また地裁は、国側の新法廃止前の処遇改善努力や新法廃止後の処遇の維持・継続を考慮した。それは、法廷での国側の恫喝、「もし国の法的責任が認められるようなことがあれば、らい予防法廃止法が保障している入所者への処遇を見直さなければならない」という主張を許さないという宣言でもあった。判決はこう述べた。「本判決が、廃止法二条、三条による処遇の在り方を左右するような法的根拠となるものでないことは明らかである」。

 しかしその結果、賠償額は極めて低いものにとどまった。これが私たちの学問の到達点であるとすれば、損害論の領域では、もう一歩を進める努力がわれわれに必要である。地裁は、被害者の人権回復をはかるべき国の法的責任を宣言した。ここに、この判決の画期的な意味がある。同時に、地裁は原告らの完全な救済を裁判の外、すなわち行政と立法、そして国民にゆだねた、またゆだねざるを得なかったといってよい。

 

 7.また、歴史的に検証すべきことも多い。

 (1)厚生省は、これまでの政策の本質が何であったかを自覚し、その政策の転換を図ろうとした時期があった。一九四八年一一月二七日の衆議院厚生委員会において東竜太郎厚生省医務局長は次のとおり答弁した。「癩というものは、普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局その隔離をしたままで、癩療養所に一生を送らせるのだというふうな考えではなく、癩療養所は治療をするところである、癩療養所に入って治療を受けて、再び世の中に活動し得る人が、その中に何人か、あるいは何百人かあり得るというようなことを目標としたような、癩に対する根本対策癩のいわゆる根絶策といいますか、全部死に絶えるのを待つ五十年対策というのではなく、これを治癒するということを目標としておる癩対策を立てるべきじゃないかと私ども考えております。」

 しかしこの政策転換を阻んだ専門家集団がいた。第一二回国会参議院厚生委員会(一九五一年一一月八日)での国立療養所三園長発言のなかにその一端を伺うことができる。

  たとえば、国立療養所長島愛生園長光田健輔は次のように証言した。

 

 「長島という所は海の中にあつてどこへでも船で行かなければならん、ところが船を買収しましてですね、これは以前は百円ぐらいで向うの地まで送つてくれましたが、今では千円、二千円ほど漁夫にやつて、そして向うへ逃げて行くと、こういうわけです。夜のうちに逃げて行く。そうしてあとは追跡するのですけれどもわからなくなつてします。それからこの逃走に対する一つの罰則というものがどういうふうにあるか、今のところでは逃げたら逃げつ放しなのです。何ぼ入れても又逃走する。それから小島の春の中に出て参りますが、その患者が……ここで申上げても秘密厳守を破るというわけではないだろうと思いますから申上げますけれども、その患者も五、六度岡山県と協力しまして長島へ入れたのです。ところが妻君が連れに來るのです、船を持つて。そうして又数カ月家におる、五、六回出入りをしております。そういうようなものはですね、逃走罪という一つの体刑を科するかですね、そういうようなことができればほかの患者の警戒にもなるのであるし、今度は刑務所もできたのでありますから、逃走罪というような罰則が一つ欲しいのであります。それは一人を防いで多数の逃走者を改心させるというようなことになるのですから、それができぬものでしようか」。「日本が一番模範的に隔離事業を実行して行き、又他国に一つのお手本を示してやるということが貞明皇后様の思召しにもかなうことであり、又世界的に今癩の問題をこれほどはつきりしたことをやつた所は殆んどないと私は思つておるのでありますから、今、日本の救癩事業というものが私は最も世界で進んでおると考えるわけでありまするから、この予防法等についても、広くこれを世界各国に知らしてやりたいと思う。早くそうしなければもうアメリカあたりで宣伝されるというと、それを本当のようなことを言う患者のごときは、癩は肺及び梅毒のごとく伝染性はないわけであるから、癩患者をそんなに家族から隔離する必要はないというような議論をする人もある。(略)日本の学者といえども、神経癩は移りはせぬ、それは外へ出してもかまやせぬというようなことを言う人があるのであります。(略)これも併し貞明皇后様のその癩を予防する、治療よりも予防というその御趣旨を奉戴してそういうようなことを世界各国に宣伝する必要があると思うのです。」

 

 この光田証言からは、自分と家族の生活を守るために必死に闘う患者の姿、そして園内で正義の独裁者として振る舞い続けようとする専門家集団の姿が浮かび上がる。また国際社会での動きを知りながら、あえて強制隔離にこだわった。そこには人間を社会から隔離することへの苦悩は一切ない。

 医療の最先端技術を担った専門家集団に人権感覚がなかった。わずかながら人権感覚を持った専門家もいた。小笠原登(京都大学皮膚科特別研究室主任)はその代表者である。一九三四年、彼は「感染力は微弱である。治癒するが跡が残る。らいの極悪性は患者に加えられる迫害にある」と述べている。戦時体制下、専門家集団はその声を鎮圧した。一九四一年、第一五回日本癩学会総会は小笠原登の説を糾弾した。「戦時下かかる国策に反逆」「其の罪万死に値す」「癩学会の恥」。この専門家集団は、戦後もそのままハンセン病医学の主流であり続け、自らを省みることはなかった。自らの責任を明瞭に語り、積極的な行動を続けることはなかった。病巣はまだ奥深く残っている。

 (2)国立療養所の入所者らは、一九五一年、全国国立らい療養所患者協議会(後に「全国ハンセン病患者協議会」〔全患協〕に改称。現在、全療協と改称)を結成し、これを中心に、新法成立までの間、強制収容反対、退園の法文化、懲戒検束規定の廃止等を求めて、療養所でのハンストや陳情団の国会での座り込みなどによる激しい運動を展開した。国会議員は耳をすませば、入所者たちの声を聞き取ることが可能であった。また国際社会で日本の政策が厳しい批判を受けていたことにも気づくことができたはずである。

 専門家集団、行政担当者、国会議員たちが、なぜ誤ったのかをまじめに点検することがないとすれば、再び同じような過ちを繰り返す。それは個人のレベルでも、国家のレベルでも同じことである。どんなテーマでも同じである。

 

8.ハンセン病元患者らを救済する機会は何度もあった。

今、国が、ハンセン病施策を隔離政策の被害者に対する加害者の償いとして位置づけるのでなければ、元患者らの社会復帰はない。創設が予定されている退所者給与金が退所者をせめて経済的に支えるものになりうるだろうか。提訴前死亡の遺族と未入所元患者との和解を国は拒否した。来春、二度目の熊本地裁判決がでる。

 わずか一三人の原告から始まった国の法的な責任を明らかにする訴訟は、やがて全療協全体の運動となり、熊本地裁判決でひとまず結実した。裁判所は球を行政と立法に投げ返した。その責任を行政と立法が果たすことができるかどうか。

 政府は、入所者に対し、療養所の外でも豊に暮らせるだけの手当をすべきである。またすでに人間関係が形成されてきている療養所のなかで暮らしつづけることを選択する入所者には、そのことを全面的に保障しなければならない。これは福祉政策ではない。国の法的責任を宣言した判決に服した国は、その責任を果たすことである。

 私たちは最後の機会を失ってはならない。これが熊本地裁の裁判官たちが私たちに送ったメッセージである。