「鎌田定夫先生の思想と行動−<九州の平和学>の視点から−」

木村 朗(鹿児島大学法文学部、長崎平和研究所客員研究員)

1.鎌田定夫先生の活動の軌跡−「こころの被爆者」としての歩み

鎌田先生の青春時代の原点…大戦末期の1944年(昭和19年)都城中3年在学中に富高海軍航空基地の掩体壕構築作業に動員され、暴力的制裁への疑問などを書いた日記が発端となって同級生と対立し「非国民」「国賊」「偽善者」などと糾弾され鉄拳制裁を経験。「聖戦」に失望、人間不信に陥り自死の誘惑にかられる。戦後3年目の熊本五高(理科)時代に、それまでの沈黙を破って「わだつみの悲劇を再び繰り返すな!」という反戦・反ファシズムのスロ−ガンを掲げていた学生運動に参加し、占領下の弾圧を経験。戦後5年目に起きた朝鮮戦争を契機に、日本戦没学生記念会「わだつみ会」に参加。永井隆博士の死去から3ヶ月後の1951年(昭和26年)8月に反戦集会出席のために福岡の学生代表として長崎の地を訪れ、城山小学校で被爆者と初めて出会い、その発言の重さに心を打たれる。また、隣り町の少年が長崎(三菱兵器工場)に学徒動員中に被爆して重傷を負ったことを後に知る。

九州大学医学部を学生運動のために一度退学になったが、教授や仲間からの支援などもあって復学が認められる。文学部(仏文)に転部し1956年に(昭和31年)卒業。その後、東京に出て民間教育運動に参加(国民文化会議、日本作文の会、新日本文学会の事務局員)し、国際的な核廃絶運動の芽生えを体験する。この間、(川崎)信子さんと出会い1958年(昭和33年)に結婚。1962年(昭和37年、)に長崎造船大学助教授として赴任。以後、長崎の地で反核・平和運動(反核証言運動、核廃絶・原水禁運動、民間教育運動)の中心的存在として信子夫人とともに常に精力的に活動。権力・資本への批判的姿勢を一貫して失わず、病弱な体に鞭を打ちながら最後まで被爆体験の思想化をめざし、政治の逆行に抗して反原爆市民運動を続けられた。

特に、ヴェトナム戦争が開始され日韓基本条約が締結された1965年に日本の戦争責任問題が浮上する中で、韓国・朝鮮人被爆者の追悼碑建設運動に取り組み、外国人(在外)被爆者問題を終生のテ−マとする。そして、1967年(昭和42年)、厚生省が発表したいわゆる原爆白書に「被爆者と非被爆者との間に健康上と生活上の有意の格差はない」と書かれてあったのに反発した長崎原爆被災者協議会や日本科学者会議などの市民有志たちの手による自主的な調査活動をすすめ、報告書『あの日から二三年、長崎原爆被災者の実態と要求』を発行。これを契機に被爆(反核)証言運動を秋月辰一郎氏らとともに本格的に始め、翌69年8月に『長崎の証言』を創刊。また、1975年(昭和50年)に、「在外被爆者を支援する会」を結成し代表になるとともに、被爆者や学生たちと在韓被爆者医療調査団を組織し、朴正煕大統領の軍事政権下にあった韓国を訪問して実地調査を実施、さらに韓国人被爆者の来崎と治療などの救援活動をすすめていく。

鎌田定夫先生は、平和思想家・市民運動家、教育者、研究者・文学者(記録者、編集者)というさまざまな側面を持っており、まさに平和運動と平和教育・平和研究が三位一体となった思想的体現者であった。「非核不戦の思想(・理念)」と「核廃絶・非暴力の世界」の実現に生涯を捧げた信念の人(ある意味で「殉教者」「求道者」)ともいえる。そして何よりも、原爆への怒りと悲しみを、人間として立場の違い(加害者と被害者、被爆者と非被爆者、自己と他者)を越えて共感・共有することの重要性を提起・追求し続けた人であり、「こころの被爆者」と呼ぶにふさわしいと思われる。

※ 参考文献 …中村尚樹「こころの被爆者」(『長崎平和研究』第13号に掲載)。

鎌田定夫「核兵器廃絶運動の歴史と課題」(長崎平和研究講座(昨年6月)の報告)。

鎌田定夫「戦争と原爆の体験から何を学ぶか」『発信地で発信者に聴く旅−2000年度 高校一年 学習体験旅行 講演録−』(調布学園、2002年3月18日発行)。

長崎新聞の追悼特集「非核不戦に生きて−鎌田定夫が残したもの−(上)(中)(下)」2002年2月28日から3月2日)、その他。

 

2.鎌田定夫先生が追究された思想的課題−20世紀の遺産の継承と発展

☆「被爆体験の思想化」

@「長崎の証言の会」の活動と被爆者の自己変革

反原爆表現運動の一環としての被爆証言記録運動(「被爆の実相の解明」-「被

爆体験の継承」)の位置づけ。戦争・原爆の全体構造(戦争と原爆が内包する様々な人間的因子、貧困と抑圧、差別の構造)を描くことができる視点と方法を確立する事が課題。被爆者自身が自己の体験を相対化・客観化し、他者に説得力を持って語れるようになることが重要。またそれとの関連で、被爆者が高齢化するなかでいかに原爆教育・平和教育を建て直すかが急務となっている。

A核廃絶運動の原点あるいは人類友愛と連帯の思想的原点としての被爆体験(ヒロシマ・ナガサキと人間)

原爆被爆体験の全体像とその本質の解明、そしてその真の思想化が最大の課題。

特に、「最も人間的に生きるべく運命づけられた人々」である被爆者の反原爆と平和への思いを理念化・思想化(理論化)すること、「戦争被害受認論」「一億総懺悔論」の否定と克服が重要。そして、反原爆の精神的原点としての被爆体験を安保闘争挫折後に分裂した「核廃絶・平和運動」の統一と団結の回復、(原爆被害者・核被害者をはじめ)すべての人々の国際的な連帯の実現につなげていくことが今こそ求められている。

B外国人被爆者・在外被爆者問題や連合軍捕虜問題との取り組み

被爆体験の全体像と外国人の被爆という視点、あるいは日本の加害と戦争責任(「被害」と「加害」の二重性)という側面からも追求。証言集では日本人被爆者の証言だけでなく、外国人被爆者の証言も積極的に発掘。韓国・朝鮮人や中国人の強制連行や捕虜収容所の問題も構造的なテーマとして取り込む。奇襲・瞬間性・無差別・根絶性、全面・持続・拡大性という原爆被害の特質や核戦争の隠された本質の解明がここから可能となる。

     「原爆投下の意味の普遍化」(日米の共通認識の確立)

@    「原爆とは何か」、「ヒロシマ、ナガサキとは何か」=「核兵器の使用と威嚇とは何か」、「長崎と広島に投下された原爆の本質とは何だったのか」

     「アメリカの原爆攻撃と戦後の被爆者放置、被爆実相の隠蔽等は、明らかな非人道的行為であり、かつ国際法背反行為である」「天皇の戦争責任をはじめ、強制連行・強制労働や“従軍慰安婦”、731部隊、日米取引・二重外交の存在など、日本の戦争責任と戦後補償の問題の多くは未解決である」(『ナガサキの平和学』より)

     「広島・長崎の被爆構造には、アジア・太平洋戦争における日本軍国主義による加害・被害とともに、アメリカの原爆帝国主義による加害・被害が二重に刻印されました。」(「“ヒロシマ・ナガサキ”とは」長崎平和研究所のHPより)

  ※参考文献…荒井信一「原爆投下と戦争責任」(『平和文化研究』第18集、199

5年)。ジョセフ・ロ−トブラット「第二次世界大戦と原爆投下」(『平和文化研究』第19・20集合併号、1997年)。木村朗「“原爆神話”からの解放−“正義の戦争”とは何か−」(『長崎平和研究』第12号、2001年12月)。

A 原爆投下に関する意識調査…被爆者と一般の高校生・学生とのギャップの拡大、

日本人・被爆者の原爆認識とアジア一般大衆の「原爆による(日本圧政からの)解放」説、あるいはアメリカ国民の「早期終戦・人命救助」説、すなわち戦後、意識的に創られたアメリカの「国民神話」との大きなギャップ(『ナガサキの平和学』より)

 

3.「ナガサキ」からの問い直し−「九州の平和学」という視点

     「辺境(フロンティア)」からの平和情報の発信とその意義

・「戦後一貫して取り組まれてきた九州各地の平和運動、環境・住民運動等の成果を吸収し、九州・沖縄を単なる中央に対する周辺、あるいはフロンティアとしていちづけるのでなく、九州・沖縄の独自の個性を強化しつつ、同時に世界とアジア・太平洋の中心、平和と自由・正義の普遍的情報の発信地としての理論と情念、倫理をも生み出していきたい。」(「九州における平和学の構築」『九州の平和研究』第一号、1991年11月)。

☆原爆の標的となった長崎の港と町が、日本とアジアの近現代史のなかで、どのような役割を果たしてきたか⇒負の遺産の克服が今後の被爆地・長崎の課題

「日本軍国主義(帝国主義)の加害都市」、「日本の侵略拠点、兵站基地」

「被爆都市・長崎は日本帝国主義とアメリカ原爆帝国主義の二重の被害都市」

     「長崎は日本の辺境にあり、つねに中央から切り捨てられながら、同時に対外進攻の前進拠点として国策遂行の役割を強いられ、ついには原爆の十字架を背負わされて、今なおその後遺と格闘しつづけている。長崎の証言の会が背負っている困難もまた、これと不可分であり、さらに試練は続くだろう。」(鎌田定夫「反原爆−人間のあかし」『長崎の証言20年』1989年、17頁。)

     「長崎の被爆構造」=数百年の歴史をもつ日本西南端の港町、歴史的なキリスト教徒受難の町、強制連行や徴用で多数の朝鮮人労働者の宿舎や飯場の点在する街、一万数千人の外国人たちが連行・動員された外国人強制収容所(連合軍捕虜収容所、外国人収容所、浦上刑務所など)の町、抑圧・差別された部落のある町

 ☆反核・平和運動のあり方をめぐって

     「政党の枠組みを越えた戦線統一、無党派層の取り込み、市民運動レベルでの左右統一、研究者の運動への参加、平和教育の理論化等、鎌田先生の平和分野における数々の業績」(『九平研通信』NO.62、2002年4月の緒方智子さんの追悼文から)

     「原爆投下の非人道性と日本の侵略戦争、加害の問題を結合させた運動を強めたい。

原爆投下の認識について(米国と)大きな隔たりがある。運動の国際化促進や、会の運営を若い世代にどう継承していくかが課題」「本物の被爆者の証言は、ほかの何よりも説得力がある」(「非核不戦に生きて−鎌田定夫が残したもの−(上)」『長崎新聞』2002年2月28日)、「今こそ、日本政府に非核三原則の法制化や『核の傘』からの脱却を求めるなど、被爆国としてはっきりものが言える状況をつくっていくべきだ」(「再構築迫られる運動」『長崎新聞』1998年8月2日)。被爆地長崎(日本)の今後の課題…被爆者の高齢化と被爆体験の継承=「被爆者亡きあとの証言運動」をどう再構築するか、被爆体験と核廃絶論の融合、日本(長崎・広島)と世界(アメリカ、アジア)の間における原爆観の相剋の解消=「原爆神話」・「原爆終戦論」の克服、「唯一の被爆国日本」=「原爆(被爆地)の絶対化」「日本の加害・戦争責任の相対化」の克服、「非核三原則」法制化の実現と北東アジア非核地帯の実現、「核抑止」論の克服と「核の傘」・「核安保」からの脱却、核兵器先制不使用および非核国への使用禁止条約の締結、反核・平和運動論の再構築の必要性(運動の分裂の克服と統一の実現−世代超えて交流の機会を、ネット駆使し"証言"を世界へ−小国・自治体・NGO・市民の自立と連帯)、反戦と反核の結合(通常戦争と核戦争の関連性の解明)、「人道的介入」論(「新介入主義」ドクトリン)と新しい「正義の戦争」論の批判と克服、核軍縮・核不拡散・核廃絶の実現、理想主義と現実主義の調和・均衡、等

※ 参考文献…鎌田定夫(「核兵器廃絶をめざすNGOの動向」『日本の科学者』Vol.36,No.8,2001年8月)、同「核兵器廃絶を迫る日本のNGO運動−東京フォ−ラムと広島・長崎・首都圏市民集会−」(『軍縮問題資料』1997年7月号)。舟越耿一「オランダ戦争展拒絶から見えていること」『反天皇制運動じゃ〜なる』No.36、2000.7.11号。「特集 21世紀の平和運動を考える」(『長崎新聞』2001年1月1日)。