ベトナム反戦運動と現代
私たちはいまどんな時代にいるのでしょう?
アメリカのベトナム侵略と戦ったベトナムの人民と、これに連帯して世界中に広がった反戦運動から今
日のイラク戦争の行く末と今後の21世紀を考えてみたいと思います。
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なぜアメリカはベトナムという小国と戦争を始めたのか?
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1.第二次世界大戦直後のベトナム
・ 60年以上にわたるフランスの植民地支配
→ 日本(1945年3月、フランス軍を武装解し占領。日本軍はベトナムの米徴発、ビルマ、中国戦線に送ったため、ベトナム人多数が餓死)
→ ホー・チ・ミン指導の武装蜂起。1945年8月27日にベトナム民主共和国臨時政府を樹立(八月革
1945年9月2日、ベトナム民主共和国の宣言
→ 1946年12月19日、フランスの侵攻。ハノイでの衝突を機に全面戦争に突入(インドシナ戦争
1946.12〜54.7)
・ 1954年4月、ジュネーブで和平会議
2. アメリカの介入
・
フランスは1949年6月にバオ・ダイを元首とするベトナム国(首都サイゴン)を樹立し、アメリカとイギリスは1950年2月にベトナム国を承認。
・ 1950年5月、アメリカはインドシナ戦費の援助を開始、フランスの戦費の七八%を賄うに到った。
・ アメリカの介入理由−−−中国人民民主主義革命に続き、東南アジア全域、さらに日本も共産化す
る。アジアの共産化ドミノを防ぐために、南ベトナムを封じ込めの防波堤にしなければならない。
(国防長官、ダレスの「ドミノ理論」)
・ ジュネーブでインドシナ和平協定が調印。
(1)停戦。北緯17度線を臨時軍事境界線とする北側は民主共和国、南側はフランス・ベトナム国
(2)インドシナ3国の独立と主権尊重
(3)南北統一のため1956年までに自由な総選挙実施等を協定。
しかしアメリカは(3)の選挙の実施に反対。
2. 大戦後の世界の情勢
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「象と蟻の戦争」と言われ、物量では圧倒的なアメリカになぜ小国のベトナムは勝利できたのか。
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1. 大戦後の世界の情勢
1−1 アメリカの戦後世界構想と中・ソ封じ込め
1−1−1 アメリカ主導の国際連合の結成
・ 1941年12月の日本によるパールハーバーを攻撃きっかけに第二次世界大戦に参戦。
これに先立ち、1941年8月にルーズヴェルトは英国のチャーチルとの間で戦後世界支配体制の枠
組みを協議し、国際機構の再建を含む戦後構想を発表。(大西洋上会談・大西洋憲章、全8カ条)
・ 1943年10月、ダンバートン=オークス会議で国際連合憲章の原案(「一般的国際機構設立に関す
る提案」米英ソ中4カ国参加)を作成。
・ 1945年2月のヤルタ会談、同年4月、サンフランシスコ会議(連合国50カ国参加)でダンバート
ン=オークス会議で作成した国際連合憲章原案をもとに討議。6月26日に国際連合憲章(前文お
よび19章111条からなる)を採択。
1945年10月24日に国際連合が発足。「国際紛争がおきる原因は国連にある」と言われる国際機構を発足させた。
1−1−2 東南・南アジアにおける反共軍事同盟の結成
・ 1951年8月にフィリピンと米比相互防衛条約を結び、9月には日米安全保障条約を結ぶ。同月、オ
―ストラリア・ニュージランドと太平洋安全保障条約(ANZUS、アンザス)を結ぶ。
・ 1953年8月には、朝鮮休戦協定を無視して米韓相互防衛条約を結んだ。
・ 1954年9月には、アメリカが中心となり、イギリス・フランス・オーストラリア・ニュージランド・
フィリピン・タイ・パキスタンの8カ国で東南アジア条約機構(SEATO、セアトー)を結成し、同年12月には台湾の蒋介石政権と米華相互防衛条約を結ぶ。
・
1955年11月に、トルコ=イラク相互防衛条約(1955.2)にイギリス・イラン・パキスタンが参加して、バグダード条約機構(中東条約機構、METO)を結成した。(1958年のイラク革命でイラクが脱退、中央条約機構(CENTO)と改称し、本部をトルコのアンカラに移す)
こうしてアメリカは、ヨーロッパにおけるNATOと合わせて、ソ連・東欧諸国・中華人民共和国・北朝鮮・北ベトナムの共産主義政権を包囲する反共軍事同盟をつくりあげた。
これに対して、ソ連は、1950年2月に中華人民共和国と中ソ友好同盟相互援助条約を結び、1955年5月には東欧8カ国で東ヨーロッパ相互援助条約(ワルシャワ条約機構)を結成してNATOに対抗。
1−1−3 ヨーロッパのドイツの分断、東アジアの朝鮮の分断(略)
2.ベトナムはアメリカになぜ勝利できたのか
・ 網の目の統一戦線組織とベトナム独自の戦い方人、南部農村部における長期戦にそなえた民族独立
教育が行き届いていた。
・ 教育の重点は60年以上も外国に支配され、服従を強いられてきたベトナム民族の意識革命に置か
れ、農村部での3200カ所12000に及ぶ米軍の「戦略村」の配置も成功しなかった。
「戦略村」はケネデイ政権のマクマナラの策定による。毛沢東の「人民は水であり、解放戦士はその中を泳ぐ魚である」からヒントを得、魚である解放戦線を水である戦略村に誘い込むという戦術
・ ホーチミンに指導されたベトナム労働党(南では「南ベトナム人民革命党」の公表名)のもとに、
南ベトナム解放民族戦線も組織ごとに任務を分け、柔硬の二面戦術をとった。「昼は政府軍、夜は
解放戦線兵士」という独自の戦術。
・ 解放戦線は人民革命党(労働党)とは一線を画した働きを持ち、民衆に身近なテーマで戦いを訴え
かけ大きな役割を果たしたが、政府軍にはそれができなかった。
3.ゲリラによる不正規戦だけではなく、正規軍による本格的な戦闘能力を保持していた。
4.フランス・アメリカとの戦争(第一次ベトナム戦争)の経験と中国革命の経験を学び、都市部も含
めベトナム独自の戦術(戦闘だけでなく農耕や医療なども担った)
5.中国、ソ連からの武器、物資の供給は途切れずに行われていたこと、また近代的な輸送手段は少な
いが、ラオスの協力を得てホーチミン・ルートを確保し人海輸送手段をとった。
6.アメリカ国内で、報道カメラマンによる新聞報道や、米国家庭でのテレビニュース報道で事実を知
らされた国民の反戦意識と運動の高揚があった。
(インドシナ戦争=第一次ベトナム戦争)
1945年8月 ベトミン(ベトナム独立同盟)の−−一斉蜂起(八月革命)
9月
ホー・チ・ミン,ベトナム民主共和国の独立を宣言
1946年12月 フランスとベトナム民主共和国の間で武力衝突(第一次インドシナ戦争)
1954年5月 ディェソビュンフー陥落。インドシナ休戟に関するジュネーブ会議開始
7月 ジュネーブ協定調印(@北緯一七度線に暫定軍事境界線を設定し、北ベトナムと南ベト
ナムにいったん分断する、A二年後に南北統一選挙を行う、を協定)
56年5月 南ベトナム,北からの統一選挙協議の提案を拒否
8月
南ベトナムのジェム大統領,治安維持法を公布
(ベトナム戦争=第二次ベトネム戦争)
59年5月 ベトナム労働党,南部の武力解放支援を決定
60年4月 アメリカ,南ベトナムに685人の軍事援助顧問団
11月 ラオスの協力でホーチミンルート完成
12月 南ベトナム解放民族戦線結成
62年7月 ラオスに関するジュネーブ協定調印
12月 南ベトナムでの米軍事要員が1万1000人に
64年8月 トンキン湾事件。「トンキン湾決議」米議会で可決
65年2月 ブレイク事件.北ベトナムへの本格的な爆撃(北爆)開始
3月
米海兵隊3500人,ダナンに上陸(地上戦への本格参戦)
7月
米ソョンソン大統領,5万人の増派発表
12月
北爆一時停止。アメリカ、和平交渉のためハリマン特使を各国に派遣
66年1月 北爆再開
7月
ホー・チ・ミン,徹底抗戦と国民総動員を宣言
12月 アメリカ、ハノイの軍事目標を大規模爆撃
67年8月 ジョンソン大統領,米軍派遣52万5000人まで承認
68年1月 テト(旧正月)攻勢開始
2月
マクナマラ国防長官辞任
3月
ジョンソソ大統領,北爆の部分停止と交渉開始を提案
5月
第一回パリ和平会談
69年1月 ニクソン大統領が就任
72年12月 クリスマス爆撃開始
73年1月 パリ協定(ベトナム戦争の終結および平和の回復に関する協定)調印
75年4月 サイゴン陥落
76年6月 ベトナム統一国会,ベトナム社会主義共和国成立
95年8月 アメリカ・ベトナム、国交正常化
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アメリカや日本での反戦運動
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<アメリカでの運動の特徴>
1.60年初頭から始まった黒人の公民権運動との合流あった。
2.1968年には、全米で大学、高校でのストライキが行われ、港湾労組などもストライキを行った。
3.反戦フォーク運動が広がり(ピートシガー、ジョーン・バエズなど)、資本主義諸国世界に広がり、
各国での反戦運動を促進した。
<日本の反戦運動>
1.急速に広がった「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)
1965年4月 東京都杉並区で主婦等を中心に初のベ平連デモ
1967年末 作家、労働者、学生らで鹿児島ベ平連結成の講演会を行う。
デモ・広報のチラシまき、ベトナムへ医療品送るカンパ活動などが主たる活動。
1967年12月 那覇で沖縄ベ平連と交流
1968年1月 米原子力空母エンタープライズ、佐世保寄港抗議行動(エンプラ闘争 )
1968年5月 鹿児島で報道カメラマンの岡村昭彦さんを招き講演会
7月 鹿児島港で、吉川事務局長(東京ベ平連)、神戸、大阪のベ平連と「沖縄渡航証」
破棄闘争を行う。
1968年11月 溝辺地区の「溝辺空港建設反対期成同盟」と交流
市民会館で「三里塚の夏」上映。
ベ平連運動全般については平井先生の「ベトナム戦争と日本の社会運動」(歴史学研究会編集『歴史学
研究』増刊号青木書店2003.10)をご参考下さい。
2.反戦青年委員会運動の誕生
65年から71年にかけて6年間にわたって展開された青年労働者の運動。日韓闘争に向けた組織がつ
くられ運動が始まる。
(第一期)
65年8月〜68年3月運動主体が社会党・総評青年部が中心
(第二期)
68年から71年、様々な新左翼諸党派の県反戦、地区反戦が主体で自主的に始めた
闘争課題は、ベトナム反戦、日韓条約反対闘争、砂川反基地闘争、沖縄返還運動、70年安保自動延長
阻止闘争、三里塚空港(現新東京国際空港)などに置いていた。
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ベトナム以後、今日のイラク戦争まで世界と日本はどう変わったのか、あるいは変わらなかったのか?
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・1971年の ドルショック、為替の変動相場制への移行
・1973年の第4次中東戦争による石油ショック
・1985年のプラザ合意と翌年の「前川レポート」
――― 米国の「双子の赤字」と国内の「産業の空洞化」の進行
・1990年代 バブル経済と膨れあがる対米投資
・1996年の 橋本内閣による「金融自由化」
・2003年 総選挙による社民・共産の敗退と二大政党制化?
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21世紀の世界はどうなるのか?
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*アメリカ帝国の崩壊を予測 エマニュエル・トッド(「帝国以後」)での指摘
@ 貿易収支の赤字の急速な増大は工業生産の不振が原因
――― 自国の輸出によって輸入代金をまかなえない。
A アメリカの消費はますます旺盛になり輸入は増大の一途
B 赤字のカバーは、ドルという基準通貨の力が引き寄せる、全世界から資金を集め、代金を払ってい
るという「略奪者」の性格をもっている。
C アメリカは本国の市民家を属国にまで拡大する「普遍主義」を持ち合わせていない。
D 「自由」を売り物にしてきたが、ソ連崩壊とちもに小国を脅威に仕立て上げ、世界安定要因の攪乱
者となった。
E ヨーロッパは、アメリカの後見から独立、仏独の連携強化とロシアのヨーロッパへの協調で、世界
安定要因の一角が崩れる
(ブレジンスキーの「世界はこう変わる」ーー21世紀の世界戦略と比較をお奨め)
* 米二十一世紀国家安全保障委員会「新世界がやってくる 二十一世紀の米国安全保障」報告書
による2025年の予測
(船橋洋一 「グローバリゼーション・トリック」(岩波書店 2002.12)より
二〇二五年の世界はどのような世界だろうか。
▼中国の経済規模(国内総生産=GDP)は、米国を抜いて世界一ということがありうる
▼大欧州(人口七億六一〇〇万)の経済規模は米国より少し大きいだろう
▼インドの人口は中国を抜いて世界一
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世界の経済規模(global
GDP)における日本の割合は現在のほぼ半分の四・五%に下がってしまうだろう
▼ドルとユーロの二大通貨が支配しているだろう。同時に、欧米間の経済競争は熾烈になるだろう
米国の人口は三億三五〇〇万になっているはずだ(現在は二億七三〇〇万)。その時点でヒスパ
ニックが黒人を抜いて最大のマイノリティーになっているだろう。白人の割合は人口全体の六二%
にまで下がるだろう
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ロシアの人口は一九九五年の一億四八〇〇方から一億三九〇〇万に減少。この間、十全たる民主主義へと発展することは考えにくい。ロシアは”ユーラシアの病人”となってしまうだろう
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エネルギーの革命的な新技術はまだ開発されていないため、世界は依然として石油や天然ガスに頼らざるを得ないだろう
▼バイオテクノロジーの発展によって、昆虫を使った軍事インテリジェンス活動が始まるに違いない