鹿児島における買売春史
−松元事件から売春防止法制定運動の展開を中心にして−
鹿児島大学 大学院 人文社会科学研究科
法学専攻 二年 迫田 有紀
1.はじめに
∇買売春について
用語「買春」「売買春」「買売春」
∇買売春への認識
買売春は,歴史上どの時代にも存在したが,それが「売春」として概念化され、
「禁止」されるのは近代以降である。
男女の二重基準をはらむ問題 → 女性の人権を侵す問題へ
∇問題の所在
近代以降は、名目的な売春禁止と売春公認(公娼制度)の繰り返しであった。売春防止法により、性の売買は禁止されたが、現代においても相変わらず買売春は存在し、潜在化した営業が公認されている。この原因は、男性の性欲にだけに還元できない。女性にも性に関する問題意識や、人権意識の内実が伴っていないためである。
2.占領期の廃娼と「赤線」の成立
(1)戦前の買売春
∇国策としての買売春管理体制
近代日本は、前近代からの公娼制度を再編成し、国策による買売春管理体制を完成させた。公娼制度とは、性病予防を第一の課題として国家がつくりあげた隔離政策である。また、私娼についても、一定の地域に集合させ、公娼並みの性病予防を行う限りにおいて、国家は黙認する政策を採る。
鹿児島では
県知事布達「芸妓住居及び営業の地は鹿児島郡鹿児島市街の内大門並びに大島郡名瀬港とす」(1885年)
→遊女の営業地域を制限。
→1888年公認の築地遊郭設置を認可
1889年、塩屋町沖ノ村[1]に移転し、沖ノ村遊郭は、鹿児島県下の遊郭の代表に。
(2)占領期の買売春
∇占領軍向けの国家売春命令
民主化政策の一環としての「完全な男女同権と婦人の解放」 → 矛盾発生
∴性の防波堤説によるRAA[2]の設立(1945年8月26日)
人のために犠牲になることが美徳でもあった時代、職を求めなくても生活できる層の女性(良家の子女)の代わりに、職を求めなければ生活できない女性(一般の婦女子)たちが日本婦人の「貞操の防波堤」として犠牲にされる。
↓しかし
性病の蔓延
強制的な性病検診を行うが、このような対策も無力であり、RAAは崩壊に至る(1946年3月10日)。
⇒結果として、RAAで働いていた女性は投げ出され,街娼(「パンパン」「闇の女」と蔑称される)として、各地に増加し、更に性病は蔓延する。
RAAの影響
@ 集娼政策の擁護。
A パンパンの発生の促進。
B 性道徳の頽廃と性的頽廃。
∇公娼制度の廃止と赤線・青線
「公娼制度廃止に関する通達」(1946年1月12日)(資料1)
従来の娼妓と貸座敷業者間の「就業を以て債務の返済とするを内容とせる貸借
関係」は禁止するが、現行の貸座敷指定地域をそのまま「私娼黙認地域」として認める。「貸座敷」→「接待所」、「娼妓」→「接待婦」として稼業を継続することを認める。その上で、従前に倍して性病予防に努めることが求められた。
「日本における公娼廃止に関する覚書」(1946年1月21日)(資料2)
「デモクラシーの理想に違背し、且つ全国民間に於ける個人の自由発達に相反
する」ことを理由に公娼制度の廃止を命じる。そして、その存在を認める法令等の撤廃を求められる。
→1946年2月2日内務省令第3号により、娼妓取締規則及びこれに関連した法規の廃止により、公娼制度は廃止される。
→一つだけ例外があり。生計の資を得るという目的で、個人が自発的に売春行為をすることまでは禁止しないということ。
※ 形式的には公娼制度を廃止するが、実体はそのまま温存し、私娼として営業を続行させようというもの。集娼政策を採りたい日本政府としては、接待婦が接待所に自発的に入って、自発的に商売をすれば命令違反にはならないという強引な解釈を下す。
→「赤線」「青線」[3]の成立
勅令9号「婦女に売淫をさせた者等の処罰に関する勅令」(1947年1月15日)
売春対策というより、前借などにより自由を拘束して売春をさせる制度の廃止。
→暴行・脅迫や「婦女を困惑させ」ることによらない売春は認められることになる。
(3)国会の動向
1948年第二回国会
「売春等処罰法案」が提出される。しかし、審議未了で廃案となる。この後も、第15回、第19回、第21回、第22回と5度にわたって法案が提出されるが、廃案となる。
風俗営業取締法(1948年)・性病予防法の成立(1948年)
赤線以外での売春は取締りの対象となり、街娼への健康診断が強制され、性病罹患者の売春は処罰される。とりあえず、勅令9号、性病予防法、風俗営業取締法、刑法、児童福祉法、労働基準法、職業安定法などの応用により、買売春を取締る方針をとる。
※ 主な対象は街娼であり、赤線のような集娼は黙認される。つまり、黙認私娼制度としての赤線の疑似公娼化である。
(4)地方レベルでの買売春取締り
∇鹿児島における赤線・青線[4] (資料3)
赤線−鹿児島市沖ノ村、鹿屋市青木町、揖宿郡山川町、川内市竹馬場に33軒。そこに働く売春婦は約230名。
青線−鹿児島市武町、南林寺、川内市堀田町、川辺郡笠沙町等、大概の市町村にあった。341業者、売春婦は約1015名。
∇売春取締条例制定への動き
国レベルで、売春を取締る法律が不成立に終わったのに対し、各自で取締る府県・市町村レベルでの条例が誕生する。
=1956年4月現在で1都11県32市1村の計50自治体
しかし、これらの条例は取締りの基準が一定せず、また実際の取締りにあたっても地方によって相違が生じ、しかも条例を制定していない地方もあるため、売春婦は条例のない地方を求めて流れていくに過ぎず、全国的に見て売春婦の減少は望めなかった。
鹿児島では
1955年10月、第三回鹿児島県議会で売春取締条例制定へ向けて、初めて検討される。しかし、「内容には賛成だが、保護更生の面について考慮されておらず、効果について期待を持てない。国会でも売春取締については継続審議の態度をとっているので、政府の態度決定を待つべきだ」と否決理由をあげ、否決される。市町村レベルでも同様で、鹿児島では、県レベルでも市町村レベルでも、売春を取締る条例は制定されず。
※ 世相が売春禁止へと高まり、そして条例制定への動きが少なくなかった中、松元事件発生の地として、全国的な注目を浴びているにもかかわらず条例を制定しなかったということは、やはり、県として、買売春は必要悪であるという認識、人権意識の低さが読み取れる。
3.
松元事件
∇松元事件の発覚
土建業者が公務員への賄賂として、制服の女子高校生をはじめ二十数人の素人娘を提供したという事件。1954年8月に、鹿児島県のまつもと荘[5]を経営する松元田鶴枝と、その夫天洋建設株式会社社長松元道生が、少女らを誘って、地元の名士達に売春をさせていたというものである。松元夫妻が経営する建設会社、まつもと荘ともに経営難に陥っており、会社の業績不振をはかるために、「玄人女はもう飽きた。女学生のような素人女と遊びたい」と、土地の名士たちが酒の席で話していたことをヒントにし、少女の情交を餌にした買収をまつもと荘で行っていた。
∇松元事件の概要
・ 少女をどのように誘ったか
・ 女性を提供し指名を獲得
∇裁判では
・ 鹿児島家庭裁判所
・ 第一審から最高裁まで
(2)問題の所在
@ 未成年の少女が含まれていたこと
A 贈収賄事件との絡み
B 多くの有識知名士が関係
C 報道の在り方
(3)松元事件に対する地元の反応
約9ヶ月、問題視されなかったのはどうしてか
神崎清→@新聞社の消極性A女学生の自殺未遂B汚職事件への移行C鹿児島の封建性より急速な世論の盛り上がりはなかったと指摘。
迫 田→神崎の指摘する4点+警察関係、教育界、婦人団体の消極性もあるのではないか?
∇鹿児島県民の世論
→「女子学生自身にも責任がある」「この事件によって、鹿児島は人格的劣等者として、他の県民から軽蔑されるだろう」
大部分の意見は、国会の中で採り上げられるに至り、はじめて地元でも事件の重要性を再認識するというもの。
→「新聞、ラジオニュースにより、この問題の解決に全国の人々の関心が寄せられていることに、明るい灯を見出した気がする」「松元事件の徹底的調査をのぞみ、検察当局、報道機関が徹底的調査を望む」「松元事件が国会で採り上げられるのをきっかけに、人身売買事件の本質を究明し、正しい解決策を見出せ」
(2)鹿児島の婦人団体の運動
婦人団体が中心となり、婦人会の開催、新聞、ラジオニュース、また街頭にたっての啓蒙活動など、活発な動きを見せる。鹿児島県議会においても、1955年5月31日売春禁止法制定促進の請願・陳情を行うことを決議する(資料4)。
∇鹿児島婦人団体連盟
鹿児島県では、これまで地域の婦人団体協議会はなかった。鹿児島の婦人団体の組織力は弱かった。
鹿児島県下各婦人団体の親睦、連絡協調、福祉促進を図る組織として、1955年5月11日に結成される。横の連絡を図り総合的な運動をしようという目的で、当面の仕事として松元事件の紛糾に呼応し、婦人運動を展開する。
売春禁止制定促進大会(1955年6月4日)
−県議会に売春禁止の条例を制定するように働きかける。
−全国売春制定促進委員会鹿児島支部を設ける。
−売春禁止法制定促進の署名運動を行う。
松元事件批判会(1955年5月17日)
鹿児島大学教育学部講堂にて、松元事件調査のために来鹿した神崎清を囲んで開催。女子学生100人が集まる。ここで、松元事件のような不道徳な問題を起こした鹿児島の汚名を返上するためにも売春禁止法制定促進に学生の立場から県内の婦人団体と協力することを決め、国会婦人議員団や郷土出身議員に決議文を送る。
鹿児島県全学生大会(1955年6月4日)
鹿児島大学教育学部講堂で開催。市川房江議員、門口与志雄県議員らも参加し、学生400名が、買売春に対する協議を行う(資料5)。
−国会婦人議員団・地元選出代議士に激励電報を送る。
−売春禁止法制定促進の決議を行う。
∇鹿児島婦人少年室
初代鹿児島婦人少年室長宮崎たかゐを中心として、鹿児島県下の売春禁止法制定促進運動の中心を担う。
・ 売春問題懇談会
・ 婦人相談員と婦人ホームの設置
5.
売春防止法の成立と転廃業の動き
∇鹿児島では
1958年4月1日、売春防止法の全面施行された。鹿児島県では、同年3月15日をもって、赤い灯・青い灯が消えた。売春業者は全部で612軒、廃業したのは111軒、過半数の307業者が風俗営業法による料理店、飲食店、バー、カフェへの転業を行う。それ以外では、旅館124、飲食店37、その他である。こうして、1800人の従業婦は自由の身となった。
6.おわりに
売春防止法の内容については、いろいろな問題が指摘されている。しかし、人が人を金で売買することを、国家権力が公認し、制度として認めることは、この法の実施によってともかく違法となった。国家が買売春を悪であると法で定めたこと、女性等の運動が国会で結実したことに、売春防止法はじめ、その制定運動に、大きな意義があったとわたしは評価する。
松元事件は、単なる汚職事件ではなく、人権の軽視、児童福祉法の空文化など数多くの社会問題を含んでいた。決して簡単に葬り去られる性質のものではなかった。国会で採り上げられ、初めて事件の重要性に気付き、売春防止法制定に向けて、鹿児島の女性をはじめ、男性は、全国的にも注目
される運動を展開した。この運動は、その当時の社会構造、時代風潮の中で、買売春は女性への人権侵害であり、買売春問題は人権問題である。女性の問題だけではなく、自分たち自身の問題であるという視点を提示した。それに少なくない世論が応え、立ち上がった。
人権意識は、法が整備されたからといって、すぐに浸透するものではない。法律・制度の改善よりも難しいのは、この伝統的な社会通念の切り替え、精神的革命にある。これは男性だけではなく、女性も同様である。
[1] 鹿児島市塩屋町沖ノ村遊郭は、約60年の歴史を持つ。全盛期(大正末期から昭和前期)には、約500名の遊女がいたとされ、鹿児島県下で最大の規模を持つ遊郭街であった。鹿児島市甲突川河口の北側一帯の旧塩屋町にある。
[2] 特殊慰安施設協会(recreation and
amusement association)、後に国際親善協会と改称。1945年8月23日に設立され、女性の募集を行う。占領軍兵士に女性を提供するという、まさに国策としての買売春である。
[3] 1946年11月14日吉田内閣事務次官会議の通達により、1946年2月2日になくなったはずの遊郭は、地域を限定して実質的に残ることとなる。警視庁が、従来の集娼地区を指定地域として赤線で囲んだことから、公娼地区、私娼地区を総称して「赤線地域」と言う。赤線地域は、警察から風俗営業の許可を得る、いわば公認の売春地域である。また、赤線の周辺には政府の許可を受けずに、旅館や飲食店などの形態で売春を行う集娼地域も発生した。同じく、警視庁が青線で囲んだことから「青線地域」と呼ばれる。
[4] 『南日本新聞』1955年10月7日。この日の報道では、鹿児島県業者と売春婦の前仮金の方法、勤労条件、稼ぎの分割法などについて、実態を報道している。この統計は、1955年10月現在のもの。
[5] 松元事件、松元荘事件、まつもと荘事件と,呼称に違いはあるが、ここでは、「松元事件」に統一する。なお、買売春が実際に行われていた宿舎を表すときには当宿舎が「まつもと荘」と表記されてことから、「まつもと荘」と表記する。