「米軍資料に見る鹿児島県内の空襲」

                                            柳原敏昭

 

 1945年の春から夏にかけて、鹿児島県内各地は、連日のように米軍機による空襲を受けた。最大の被害を出したのは鹿児島市であるが、都市部のみならず農村部までもが執拗に爆撃を受けたのが本県の特徴であった。超大型爆撃機B29も多数飛来している。

 以上については、県史・市町村史に記述があり、『鹿児島県の空襲戦災の記録』(鹿児島県の空襲を記録する会)という労作もあるので、ご存知の方が多いかと思う。そして、なによりも体験者の方が数多くおられることであろう。

 しかし、それぞれの地域に何機の爆撃機が襲来し、何トンの爆弾を投下していったのか、逆に米軍側がどれほどの損害を受けたのかなどについては、従来、正確な数値は不明であった。

 ところが、今年(1995年)になって、マリアナ基地からの出撃分に関しては、それらの数値が一目瞭然となる資料集が刊行された。マリアナ基地爆撃隊が作成した「作戦任務要約」「作戦任務概要」を訳出した小山仁示編『米軍資料 日本空襲の全容』(東方出版)である。

 ここでは、マリアナ基地所属機が、沖縄戦を支援するために九州の航空基地を攻撃するために展開した作戦にしぼって,本書のデータの簡単な整理・集計を行ってみたい。期間は3月27日から5月11日。鹿児島市以外へのB29の来襲はこの期間に集中する。

 攻撃に参加したB29は、作戦全体でのべ1813機であったが、鹿児島県内に飛来したものは797機に及び、全体の44%に達した。作戦回数でいえば97回のうち鹿児島県に対するものが46回を占めている。

 基地別では、鹿屋14197機以上、国分13143機以上、笠野原9回82機以上、出水8回96機以上、串良5回93機、指宿2回20機、知覧1回8機などとなっている(同一作戦で二カ所を攻撃したものがあり、その際のおのおのの攻撃参加機数が不明なものがある)。ちなみに6・17鹿児島空襲の攻撃参加機は117機である。また、本県基地を攻撃した際に失われたB2910機であった。

 こうして客観的数字を並べてみると、爆撃の猛烈さ、防空体制の貧弱さなどがあらためて印象づけられるし、沖縄特攻作戦の最前線であった本県の位置づけも明瞭に浮かび上がってくる。そして、軍事基地が地域にとっていかに危険な存在であったかも了解されよう。

 『日本空襲の全容』所収の米軍資料を、日本側資料や証言と比較検討すれば、本県の空襲の実態が一層明確になることは間違いない。本書は、地域で歴史教育・研究に携わる者、平和運動に関心をもつ者にとって必読の文献であるといえよう。

 なお、マリアナ基地では、より詳細な「作戦任務報告書」を作成していた(6・17空襲についてのみ本年の「平和のための戦争展」で翻訳された―南日本新聞6月14日付朝刊)。艦載機の活動についても報告書が存在するという。これらの本県関係部分の訳出も必要である。「戦後50年」の年は、あと一月余で過ぎ去ろうとしているが、いまなお残された課題は多いのである。

 

*筆者補注

1、これは19951120日の南日本新聞朝刊文化欄に掲載されたものである。ごく一部に加筆修正を施した。当該記事には「B29の襲来、797機に及ぶ/基地の街の危険性示す」という見出しがつけられていた。

2、6・17鹿児島空襲の作戦任務報告書の翻訳は、その後、鹿児島大学教養部紀要『社会科学雑誌』191996年)に掲載された(小栗実・柳原敏昭「米軍資料にみる6・17鹿児島空襲―米軍第21爆撃機集団『作戦任務報告書』(試訳)―」)。

   (柳原敏昭 東北大学文学部 元鹿児島大学法文学部)