「21世紀の平和研究・平和運動・平和教育・の課題をめぐって」

                                     

A.      平和研究(・平和運動)の課題

平和研究は、1950年代後半以降、核戦争の危機をはらむ東西冷戦かで始められた。当時の最大の課題は、いうまでもなく戦争の不在実現、とりわけ核戦争の防止であり、そこでの達成目標は、「(核)戦争の無い状態」としての「平和」の実現であった。しかし、ベトナム戦争を契機に、従来の平和研究に対して、紛争解決に関する政策提言が不十分であった、また戦争や紛争の背後にある貧困や抑圧などの第三世界の現実や民衆の生活にもっと目を向けるべきだとの見直し・反省がだされることになった。こうした流れの中で、平和と暴力の関係を再検討して、新たな定義を打ち出したのがノルウェーのヨハン・ガルトゥングであった。彼は、戦争や紛争の背後にある第三世界における貧困や飢餓、抑圧と差別などの「構造的暴力(間接的暴力)」としてとらえて、それらの克服、すなわち南北問題の解決や地球的規模での社会正義の実現の重要性を強調した。そして、従来の「平和」概念を戦争という「直接的暴力」の除去を意味する「消極的平和」であるとし、「構造的暴力の除去された状態」を「積極的平和」とする新たな視点を提起し、その後の南北関係を解析する中心=周辺理論や従属理論に大きな影響を与えた。

冷戦後の平和研究では、研究分野・テーマの拡大・多様化がみられ、従来の冷戦・核問題や南北問題に関する研究に加えて、冷戦後に頻発するようになった民族・地域紛争や近年になってより強い注目を集めるようになった環境・資源問題などについても研究の内容および方法が深化・拡大されることとなった。こうした中で、「構造的暴力」の解消に密接に関連する「人間の安全保障」という新しい考え方や直接的暴力と構造的暴力の関係を総合的にとらえる「新国際軍事秩序」論などによって新たな問題提起がなされた。また、「核の傘」に基づく「恐怖の均衡」という核抑止論、あるいは「力による平和」、「国家(あるいは軍事力)中心の安全保障」を「地域」や「市民(あるいは民衆)」の視点から見直そうという動きもあらわれている(拙稿「地域から問う平和戦略の構築−新ガイドライン安保体制と『九州・沖縄』−」『地域から問う国家・社会・世界−「九州・沖縄」から何が見えるか』ナカニシヤ 出版、2000年9月刊行を参照)。

21世紀初頭にアメリカで生じた9・11事件は、こうした対抗軸を一層強めることになった。ブッシュ政権は、テロを戦争行為だとして「新しい戦争(対テロ戦争)」を宣言し、アフガニスタンに対する報復戦争、イラクに対する予防戦争を国際法・国連憲章や国際世論を無視して続けざまに強行した。そしてブッシュ政権は、自らが行った侵略戦争を「自衛のための戦争」・「正義の戦争」・「人道のための戦争」として位置づけ正当化しようとしている。今の世界の状況は、「ネオ・コンサーバティブズ(新保守主義派)」が牛耳るブッシュ政権が、アメリカの「一極覇権主義」による「新しい帝国秩序」の形成に向かって暴走する状況となっている。しかしその一方で、こうした「新しい帝国秩序」の形成とは逆の潮流が、国連を中心とする民主的かつ平和的な「多元的世界秩序」の構築を求める「世界(あるいは地球)市民主義」の萌芽、世界的規模での反戦・平和運動の高揚や反グローバリズム運動の登場となってあらわれている(『平和研究』第28号に掲載予定の拙稿「『新しい戦争』と二つの世界秩序の衝突−9・11事件から世界は何を学ぶべきか−」を参照)

このような世界状況のなかで、21世紀の平和研究も新たな課題・挑戦にこたえる必要に迫られている。すなわち、それは、「正義」・「人道」の回復・実現のためには一方的な武力行使さえも容認・正当化できるという「力の論理」・「力による平和」に対して、あくまでも「対話」と「説得」という平和的な手段で「非武装平和」を実現する体系的な論理と具体的な構想を対置しなければならないということである。特に注目すべきなのは、9・11事件以後の世界の中で平和と暴力が新たに定義し直され、その意味内容がなし崩し的に転換・変容されようとしていることである。「テロリズム」・「原理主義」・「ナショナリズム(愛国心)」などの概念についても、「テロとの戦争」や「こくさい反テロ同盟」の構築との関連で、アメリカの恣意的かつ一方的な解釈・定義が急速に世界化しようとしている。すなわち、9・11事件直後にブッシュ大統領は、「世界は米国の側に立つのか、テロリストの側に立つのか」という二者択一を国際社会に強要した。そして、「善」と「悪」、「文明」と「野蛮」、「正義」と「邪悪」、などを対立させる単純な二分法的思考がアメリカで支配的となり、全世界に大きな影響を与えることになったのである。しかし、こうした思考方法は、原爆・核兵器という「文明」の産物を使用して多数の民間人を殺戮することを「正義」として疑わない「野蛮」という矛盾、「平和のための戦争」という欺瞞を覆い隠すものであり、真の「平和」とは程遠いものであることは明らかであろう。国家・権力とメディア・資本が一体となって進める、こうした意味の収奪を暴き、平和と暴力の定義を本来の豊かな内容に戻すための取り組みが今日の平和運動および平和研究の緊急の課題ともなっているといえよう。

また、ブッシュ政権が従来の抑止と封じ込めの基本戦略を根本的に見直して「ならず者国家」に対して先制的に使用することさえ辞さない姿勢を見せている現在、とりわけ「核による平和」を拒否して「核も戦争も無い平和な世界」を実現することが急務となっている。この点で、湾岸戦争、ボスニア紛争、コソボ紛争、アフガニスタン戦争、イラク戦争で大量に使用された、一種の放射能兵器である劣化ウラン弾をめぐる問題は、原爆・核兵器と同じく、無差別爆撃と大量殺戮を本質とする非人道的兵器としてその全面的禁止・廃棄を早急に実現させることが国際社会や世界の反核・反戦を掲げる平和・市民運動の重要な達成目標となりつつある(現在準備中の拙稿「『正義の戦争』とアメリカ−原爆(核兵器)と劣化ウラン弾をつなぐもの−」(『21世紀の平和論(仮称)』法律文化社から来年に出版の予定を参照)。

日本は、9・11事件以後、米国の「正義」に追随し対アフガン戦争に第二次大戦後初めての参戦をしたばかりでなく、イージス艦派遣や燃料補給等を通じて対イラク戦争への側面支援を行った。また日本政府は、拉致・不審船問題や核・ミサイル問題を通じての北朝鮮への国民感情の悪化を利用する形で、ミサイル防衛(MD構想)への全面的参加と朝鮮有事への対応を前提とした有事法制化を積極的に推し進めている。日本国内では、2001年12月の東シナ海(奄美大島沖ではない!)での武装不審船事件や、昨年9月17日の日朝首脳会談で拉致問題が全面的に浮上したのを契機に、一挙に排外主義的風潮が強まり、在日コリアンへの嫌がらせの急増等で顕在化するにいたった。この北朝鮮脅威論の高まりを背景に、対北朝鮮強硬派が台頭し、対基地(先制)攻撃論や核武装論等の軍事的な強硬意見が、有事法制必要論と結びつく形で相次いで出ている。こうした日本における戦後民主主義の急速な崩壊と全面的反動化にいかに対処するべきかが、平和運動ばかりでなく、平和研究の側でも重要な課題となっていることはいうまでもない(前掲拙稿「地域から問う平和戦略の構築−新ガイドライン安保体制と『九州・沖縄』−」を参照) 。

B.平和教育の課題

 「平和学」講座は、大学・短大など高等教育機関で近年増えつつあり、そのこと自体は歓迎すべきことである。しかし、中学・高校の教研集会などで実感するのは、平和教育部会への参加者や各教室現場での取組みは明らかに数も機会も減ってきているという現状である。平和教育の具体的課題としては、戦争責任・戦後補償や靖国神社への公式参拝、「新しい歴史教科書をつくる会」などの動きや国旗・国歌の問題など多くあるが、先の戦争や被爆の体験者が次第に少なくなっているという中で、直接本人から戦争体験・被爆体験を語ってもらうことがますます困難になっているということだ。核廃絶・核先制使用禁止の実現や戦争責任・戦後補償問題の解決などとともに、本来ならば20世紀中に解決しておかなければならないことが21世紀に持ち越されてしまったといえよう。こうした問題を真に解決するためにも、今の時点で、体験者から直接話を聞いて記録の残しておくことが重要な課題となっていると思われる。

 最近、冷戦後に頻発する地域紛争との関連で注目されている「民族・宗教対立」・「ナショナリズム(愛国心)」・「テロリズム」・「原理主義」などが平和研究の大きな課題となっていることはすでに述べたが、それらをどのように考えて、どうように教えていくのかも平和教育の重要な課題である。安易に「文明の衝突」論に陥らないためにも、この問題を総合的かつ客観的に認識することが必要である。ここで指摘しておきたいのは、民族問題は民族自決や国家承認など政治・経済・歴史・宗教・社会など複雑なものを含んでおり、それだけで問題をとらえるのは不可能であるということだ。ユーゴ紛争の場合も、最初からあのような民族対立があったのではなく、それ以前にすでに生じていた政治・経済・社会レベルでの対立・矛盾が重要な鍵をにぎっていたということも指摘しておかなくてはならない。今回の9・11時件も同様で、「イスラム教文明」対「キリスト教文明」、あるいは「文明」対「野蛮」といったような単純な視点で原因を求めるようなことをすれば、問題の本質を見誤るばかりでなく、問題解決からも遠ざかることになることは明らかだ。

 また、「テロをどう教えるか」ということは、大学を含む学校現場ばかりでなく、家庭や社会においても重要かつ緊急の課題となっていると思われる。民間グル−プによる組織テロばかりでなく国家によるテロも含めて、全てのテロに反対するということは基本です。しかし同時に、なぜテロが起こるのかも、根本から考える必要がある。国境や民族を越えたテロもあれば、国内レベルのテロもある中で、強健・抑圧体制への抵抗闘争や民族自決権に基づく独立・解放闘争などをどのように評価するのか、という問題とも当然関わってくる。両者の区別や関連をどう考えるかも今後に残された重要な課題だと思われる。

最後に、日本における最近の状況と「ナショナリズム」と「愛国心」といった問題を考えてみる。こうした言葉・概念は多義性をもち、それを使う論者によって、その意味内容が異なっているのが普通である。しかし、1999年の第145通常国会で国歌・国旗法が周辺事態法・盗聴法などと一緒に成立して以来、国家による上からの画一的な解釈・定義が一方的かつなし崩し的に押し付けられようとしている。この傾向は、2001年12月の東シナ海(奄美大島沖ではない!)での武装不審船事件や、昨年9月17日の日朝首脳会談で拉致問題が全面的に浮上したのを契機に、一挙に排外主義的風潮が強まり、在日コリアンへの嫌がらせの急増等で顕在化するにいたった。この北朝鮮脅威論の高まりを背景に、対北朝鮮強硬派が台頭し、対基地(先制)攻撃論や核武装論等の軍事的な強硬意見が、有事法制必要論と結びつく形で相次いで出ている。こうした状況下で、「心のノート」が副教材として導入され、通知表に「日本人としてのアイデンティティ」や「愛国心」の強さを教師に評価させる動きが生まれている。このような動きに対抗して、平和教育を担う教師や一般の市民が偏狭なナショナリズム・排外主義を批判和解と共生の理念・構想を説得的に提示することができるかどうかが今ほど問われている時は無いであろう。新ガイドラインが策定された1997年に立ち上げて以来、つき1回のペースで学生・社会人が自由に参加できるという開かれた形で今日まで続けている「平和問題ゼミナール」(HPのアドレスは、http://www.ops.dti.ne.jp/~heiwa/peace/)は、こうした課題に応えようとするささやかな試みである。

                                                                  木村 朗(鹿児島大学教員、平和学・国際関係論専攻)