第2回九平研「平和の旅」文集−中国東北地方(旧「満州」)を訪ねて

  −歴史の再認識と日中平和交流をめざして〔2006年〕−

   

A.中国・東北(旧満州)地方への「平和の旅」文集を発行するにあたって

 私たち一行(夫婦や子供連れを含む総勢30名)は、この夏(8月)にかつて帝国日本・関東軍によって樹立された満州国があった中国の東北地方を訪れた。九州平和教育研究協議会としては、2002年秋(9月)の韓国に続く、第2回目の「平和の旅」である。

前回の韓国への平和の旅では、ソウルを中心に、全教祖本部、西大門刑務所歴史館、安重根義士紀念館(第1日目、9月27日)、提岩教会跡、梅香里住民対策委員会(第2日目、9月28日)、江華島遺跡地、ナヌムの家(第3日目、9月29日)、仁寺洞、3・1運動遺跡地などを訪問し、現地の人々と交流する貴重な機会を持つことが出来た。その旅のことを私は文集の中で、次のように記している。

「今回の平和の旅では、日本と韓国の過去と現在の関係、特に日本による植民地支配(「日帝36年」の『恨(ハン)』)の負の遺産の大きさと日韓両国の国民に共通する米軍基地の重さという問題を痛切に考えさせられた。ちょうど日本では、小泉首相の突然の北朝鮮訪問によって日朝国交正常化交渉が動き始め拉致問題を中心に世論の注目を集めていた時だけに、過去の日本の植民地支配と侵略戦争、戦後の南北分断と朝鮮戦争といった出来事を現地でより一層身近な問題として実感できたことは貴重な経験だったと思う。」

そして、このたびの「歴史の再認識と日中交流をめざす中国東北部への旅」は、ある意味で前回以上に重い旅になるであろうとの予感があった。福岡−審陽(旧奉天)・撫順−ハルビン−大連・旅順−福岡のコースで回った実際の旅がどんなものであったかは、各自の体験談に委ねることにしたい。が、その旅を終えて日本に戻ってからすでに2ヶ月余りが過ぎたいまでも、そうした思いは強くなるばかりである。それは、この中国への旅の直前の8月15日に退陣間近の小泉首相が靖国神社への公式参拝を強行したことに象徴されるように、現下の日本と世界の置かれた状況が1930年代と類似した「戦争とファシズムの時代」に突入しつつあることと無関係ではない。

敗戦からすでに60年以上が過ぎ、近年では戦後民主主義や平和憲法を否定的にとらえ、東京裁判史観を自虐史観として一方的に糾弾・排斥する論調や歴史認識が蔓延し始めている。そればかりでなく、2001年の9・11事件以降の世界は急速に戦争ムード一色となり、新自由主義・新保守主義を2本柱とするグローバル化を背景に、世界的な規模で戦争国家・警察国家あるいは監視社会・差別(新しい身分・階級)社会への道が開かれようとしている。いまや時代は急速に右旋回しており、私たちは戦後最大の岐路に立たされていると言っても過言ではない。

とりわけ1999年以降の日本は、戦後民主主義・平和主義が急速に崩壊して権力(国家)と資本(企業)が暴走し始めている。「改革」「安全」をキーワードにして国家主義・軍国主義と市場万能主義・拝金主義という濁流があふれ出し、その勢いが一気に加速化されようとしている状況にある。そうした危機的な混沌状況のなかで、民衆が権力・メディアの扇動・情報操作に乗せられて弱者や体制批判者を徹底的に痛めつけ、異論を許さないような集団同調主義、「物言えば唇寒し」という風潮がますます強まり、1930年代と酷似した戦時翼賛体制の出現、「戦争とファシズムの時代」の到来が囁かれている。

 2005年10月末に米軍再編の「中間報告」と自民党「新憲法」草案が相次いで出された。両者は密接な関係を持っており、その主な狙いが、海外での日米共同の軍事作戦を可能にすることにあることは明らかだ。米軍の世界的再編は従来の前方展開戦略と新しい先制攻撃戦略が結びついた形で進められており、キャンプ座間や横田基地への日米司令部機能の集中に象徴される在日米軍と自衛隊の一体化は、「日本全土の沖縄化」を進め、集団的自衛権の行使を合法とするための憲法改悪を先取りしたものであり、日本を「戦争のできる国」(=「小さなアメリカ」「第二のイギリス」)にするものであることに他ならない。

 このように現在の状況は、戦後民主主義が新しいファシズム・軍国主義の台頭によって最大の危機に立たされているばかりでなく、権力とメディアが一体化した形で行う情報操作によって拝外主義的ナショナリズムが煽られ、その結果、異論を許さないような集団同調主義が急速に強まり危険な翼賛体制が出現しつつある。新しく発足した安部政権は、本格的な戦争内閣・改憲内閣・軍産学複合体内閣の幕開けを告げるものである。21世紀の日本と世界のあり方を決定する重要な選択、すなわち平和か戦争かという決定的な岐路にまさに直面していると言えよう。

いま私たちが反対の声を上げなければ、こうした状況がさらに悪化することは目に見えている。辺見庸氏が指摘しているように「いまここに在ること」自体が「人間としての恥」であるばかりでなく「人間としての罪」でさえあるうることを知らねばならない。かってと同じ過ちを再び繰り返さないためにも、まだ言論の自由が保障されているいまだからこそ、一人ひとりが悔いのない選択・行動をする必要があるのではないだろうか。

 「過去に目を閉ざすものは、結局のところ現在についても盲目となる」(ワイツゼッガー・旧西独大統領の言葉)、あるいは「過去の歴史を記憶できない者は、過ちを繰り返すよう運命付けられている」(米国の哲学者ジョージ・サンタヤーナの言葉)とも言われる。このようなときであるからこそ、歴史の教訓を学んで真実を知ることには大きな意味がある。その意味で、15年戦争の端緒となった1931年の満州事変勃発の地に直接足を運んで、その残された記録・遺跡を自分の眼で確かめ 、生き残った人々の証言に耳を傾け、実際にあった出来事を肌身で知ることができた今回の中国・東北地方への平和の旅は、私たちに、いま何をなすべきかを改めて認識させてくれた。それと同時に、この貴重な体験をいかに今後に生かすことが出来るか否かによって、私たちが平和学(平和研究)・平和教育・平和運動に身を置いていることの意味と九州平和教育研究協議会の存在意義が根本から問われるのではないかと思う。

 

2006年11月7日

                         九州平和教育研究協議会会長     木村 朗

 

B.旧満州への「平和の旅」を終えて

木村 朗(鹿児島大学教員・長崎平和研究所客員研究員、平和学専攻)

「実は、ついこの間(8月22日〜27日)1週間ほど、中国・東北(旧満州)地方に九州平和教育研究協議会のメンバー30名で『平和の旅』に行って帰ってきたばかりでようやく落ち着いてきたところです。旧満州への平和の旅は出かける前に想像していた以上に重かったと感じています。福岡−審陽(旧奉天)・撫順−ハルビン−大連・旅順−福岡のコースで、審陽では「9・18事変陳列館」・張作霖爆殺現場や『平頂山記念展示館』・『撫順戦犯管理所』(溥儀も入獄していた)、ハルビンでは『侵華日軍七三一部隊罪証陳列館』とハルビン駅(伊藤博文朝鮮総督の暗殺現場)、旅順では『二〇三高地』と『水師営会見所』(旅順開城後の1905年1月5日に、日本の第三軍司令官乃木希典とロシア軍司令官ステッセルが会見した所)などを訪問してきました。今回は石川捷治先生や黒木彬文先生もご一緒だったので心強かったです。ただ、自分が団長として平頂山記念展示館・撫順戦犯管理所の両所長や七三一部隊関連施設で働かされていた孫さん(80)のお話を聞いた後でご挨拶しなければならなかったので少しつらくもありました。

 もちろん、審陽での足湯マッサージや中国・ロシアが一体となったショーの観劇、ハルビンでの松花江川下り、大連でのロシア人街や旅順での日本人街の見学など観光気分でのお楽しみもありましたが…。

今回の訪問で特に感じたのは、1.旧日本軍の犯した罪とその事実を知ろうともしないで再び軍国主義に流されようとしている現代日本人の恥の大きさ、2.多くの日本人BC級戦犯の特赦と残留日本人孤児の受け入れに示される中国人の懐の深さと寛大さ、3.大連の急速な発展に象徴されるような現代中国の底知れない活力・たくましさとその発展の裏側にある資本主義的な闇・暗黒部分などです。

 小泉首相が8月15日に靖国神社に公式参拝した直後ということもあって、いろいろと考えさせられたというのが率直な感想です。」

 以上は、私が中国への平和の旅から戻ったばかりの時期(9月初旬)に親しい方々にメールでご報告した内容です。いま現在の時点(11月初旬)でも、ここに書かれた気持ちにはほとんど変わりはありません。このことをまず最初にお断りした上で、私の旧満州への旅行体験記を改めて書かせていただきます。

 私が今回の旅で最も印象を強くもったのは、やはり何と言っても「侵華日軍七三一部隊罪証陳列館」でした。それは、森村誠一氏の『悪魔の飽食』でよく知られているように、「人間がどこまで非人間的になれるのか」 (辺見庸氏の言葉)をまさに実証した場所であり、戦争中とはいえ人間の極限の狂気が繰り広げられたその地に足を踏み入れて戦慄する思いを禁じ得ませんでした。自分の目下の研究対象は原爆投下問題ですが、その中でも「人体実験」と「情報操作」が大きなキーワードになっています。「マンハッタン・プロジェクト(Manhattan Project)」は通常「原爆開発計画」と翻訳されていますが、それも一種の情報操作であり、実態からすれば「放射能兵器開発計画」という名称がよりふさわしいと思います。というのは、このプロジェクトの一環として、すでにアラモゴードでの原爆実験以前にも人体実験、すなわち生身の人間に放射性物質を注入してその効果・影響を観察するという驚くべき非人間的行為がきわめて有能な科学者達(軍医を含む)によって行われていたことがすでに明らかにされているからです。

 ハルピンの平房にある侵華日軍731部隊罪証陳列館内には、その当時の人体実験に使われたフラスコやペスト菌増殖器、注射器などさまざまな実験器具や遺品、生体実験の様子を再現した蝋人形や数多くの写真・資料が10数室にわたって展示されていました。また、その陳列館の近くに七三一部隊の本部跡やボイラー室跡などがありましたが、七三一部隊関連施設を日本軍が敗走直前に証拠隠滅のために爆破したために、その大部分が破壊されてわずかに建物の一部・基礎部分や半壊した姿のボイラー室・煙突が残されているのみでした。

こうした事実関係は知識としては事前の読書・学習によってあったとはいえ、やはり現地で実際にその当時の様子を目の前にしてそのあまりに衝撃的な内容に声を発することさえ忘れたほどでした。また、当時15才で中国人労務工として働かされていて終戦間近に運良く脱走して脱走して生き残ることができた孫伝本さん(80才)は、私たちに当時の生々しい様子を 語ってくれました。その証言は自分の心に大変重く突き刺さりました。孫さんの証言の後で私が団長として挨拶をすることになったのですが、その余韻があまりにも大きかったために、ただただ申し訳ない気持ちで一杯になり、二度と過ちを繰り返しませんとの決意を表明するのがやっとで意を尽くすことができませんでした。

石井四郎部隊長を中心とする細菌研究班である七三一部隊関連組織・施設には常時2,600名(そのうち医療関係者が約1,000名)が従事し、「マルタ」」(丸太)と呼ばれた中国人やロシア人など収容者約3,000名が、連日のように生体解剖、炭疽菌・ペスト菌などの細菌実験、毒ガス実験、冷凍実験などの「材料」として扱われて犠牲となったのです。この七三一部隊は終戦直前に特攻隊による細菌攻撃を準備し ていたばかりでなく、終戦後も日本に進駐する米軍など連合国軍を標的に細菌攻撃を検討していたことが判明しています。また、東京裁判では、周知のように、石井四郎部隊長をはじめ七三一関係者全員がその研究データの米軍への提供を約束した見返りとして免責されています。そればかりでなく、彼らの多くは戦後の医学会において要職を歴任したばかりでなく、 ミドリ十字などの会社役員として薬害エイズにも関わることにさえなったのです。

このように見てくると、過去と現在は連綿と繋がっており、「七三一部隊はまだ終わっていない」という事実が浮かび上がってきます。旧満州各地で実戦使用された細菌兵器の犠牲者の遺族による訴えばかりでなく、七三一部隊などが放置した生物・化学兵器による被害者が細菌になって続出している自体などがそのことを如実に物語っていると言えます。

今回の「歴史の再認識と日中交流をめざす中国東北部への旅」は、過去と真正面から向きって被害者の立場からの問題解決を進めることが急務となっていることを私たちにはっきりと自覚・認識させてくれるほど、その内容がすごく濃く重い旅であったということは間違いありません。このことを最後に確認した上で、次の第3回「平和の旅」につなげたいと思います。