辺見庸著『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社、2006年)の薦め

本書は、脳出血とガンを経て二年間の沈黙を破った前作『自分自身への審問』に続く、戦争とファシズムの時代状況と真正面から向き合う辺見庸氏の身体を賭けた、人倫の根源からの問いかけの書である。

「死への誘い」に一時は自死をも考えた著者が辿り着いた境地は、死への接近は精神的な<静>ではなくじつは<動>であったという認識、また「最期まで書け」という内奥の声であった。自らの死期を悟った著者は、強い衝迫を背景に旺盛な創作意欲をもって、「末期の眼」で「時代と状況が特殊に生んだ固有の奈落」を熟視し、「無限の作業仮説と自己内問答」を試みる。

「人の織りなす罪との無窮の同心円あるいは終わりなき常動曲」という「人倫の謎」を極限まで思索し、かつて著者がカンボジアで視た「あそこの風景」と日本の「いまの風景」に共通する、「すぐれて人間的な非人間群の輪」のなかでの「もっとも深い罪」と「恥ずかしさ」を浮かび上がらせ、それを「まさにただ在ること」「罪ならぬ罪の恥辱」「幽かな恥」「無作為の罪と恥」として指弾する。それは、「人間としての恥」、すなわち、「日常化して視えなくなってしまった罪と恥」、名状のむずかしい「いま」の罪と恥辱であり、「恥知らずの愉楽」である「コロニアルな人道主義」に陥り、国家および国家幻想という「逃げ水」に翻弄される日本および日本人の姿でもある。

小泉政権の五年間を、政治権力と一体化したメディアと群衆の危うい変わり身が結合した「大衆迎合的人道主義」、群衆の思考停止と嘲笑、シニシズムの蔓延によって支えられる「(新しい)ファシズム」の登場、として総括する。著者がとりわけ危険視するのが、イラクへの自衛隊派兵の論拠を憲法前文に求める「小泉首相と憲法の、摩訶不思議な関係」であり、こうした最高権力者による「憲法の意図的な誤用」を一向に指弾しないメディアとそれを容認する観衆の存在である。「ああいう話を黙って聞く記者、これを糞バエというのです」と著者の鋭い舌鋒は特に、(政治権力とともに)言葉を脱臼させ根腐れさせ、情報消費者にシニシズムを日々植えつけているメディアに対して向けられる。また、本当の問題は、「コイズミ的なものを受容するわれわれの躰のなかのファシズム」であり、それを恥とも思わないことであると喝破する。

本書出版の契機ともなった講演の題目、「憲法改悪にどこまでも反対する」という姿勢は、まさに「生者としての基本動作」である。それは、強者の立場による歴史の塗り替え、記憶の忘却などの「バックラッシュ」を阻み、異端者・少数者への寛容と被害者・弱者への共感共苦、歴史の移し替え、「潜思(せんし)」と自省に向けることでもある。こうした辺見氏の姿勢と根源的な問いかけに強い共感と感動を覚える。

「生者の恥」で「私という実存の全否定」「愧死(きし)」を招くはめにならないためにも、一人ひとりが「人間としての尊厳」を賭けて、真正面から「いま」と向き合うことが求められている。脳出血の後遺症や抗ガン剤の副作用と苦闘しつつ「最期まで言葉を紡いでいく」覚悟を表明している辺見氏とともに、安倍政権の誕生によって一層強まるであろう非人間的な時代状況に「諾(うべな)う」ことなく、「自分の魂の芯」に忠実に「魂をもった個人」として抗して生きたいと思う。木村 朗・鹿児島大学教員(『週刊金曜日』2006年10月13日号掲載)