「新しい世界秩序と東アジアにおける平和の模索−冷戦の負の遺産としての原爆−」

1 世界戦争と新しい世界秩序の形成−戦争と秩序の相互関係をめぐって−

20世紀に生じた二度にわたる悲惨な世界大戦を経験することによって、人類および国際社会は国際関係のより一層の組織化と「法の支配」および「戦争の違法化」に動き始めた。それは、原爆使用による核被害を含む戦争の悲惨さ・残忍さを経験した人類が再び同じ過ちを繰り返してはならないという強い非核・非戦の意思を表明したものであった。その具体的現れが、1920年の国際連盟規約、1928年のパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約、)1945年の国連憲章であった。こうした規約、条約、憲章に結実した「戦争の違法化」の思想・考え方は、戦後に支配的な潮流となった新しい国際協調主義の反映であり、それまでの「勢力均衡」・「力による平和」や「無差別戦争」観に象徴されるような権力政治的な発想・考え方とは根本的に異なるものであった。   

第二次世界大戦後の国際社会が守るべき基本的なルールとして策定された国連憲章では、「戦争の違法化」を前提に、国際紛争に対しては、個別国家による武力行使を禁止して(国連憲章2条4項)、平和的解決を優先させることを義務づけている(同2条3項)。そして、それらの努力を尽くしてもなお解決できない場合にのみ、「例外的措置」として国連による軍事的な強制措置(同42・43条)と自衛権の発動による武力行使(同51条)を認めている。国際紛争の平和的解決を義務づけるこのような考え方は、国連憲章ばかりでなく、1919年の国際連盟規約、1928年の不戦条約や1970年の「友好関係原則宣言」等によっても確認されてきた国際社会の重要な基本原則である(注1)

国際連盟は、第一次世界大戦後にそれまでの「勢力均衡システム」に代わって初めて「集団的安全保障システム」を採用した。しかし、国際連盟は二度目の世界大戦を阻止できなかった。国連はその教訓を踏まえて、より強固な集団的安全保障システムを確立することを目指した。国連の新しい集団的安全保障システムは、国際連盟と比べて一段と強化され、より権力集中的でかつ強制的な性格をもつことになった。すなわち、国連は、安保理と総会の関係や五大国の拒否権にみられるように、大国が他の中小国よりもより大きな発言力と決定権をもつことを認めることによって、より確実に国際社会の平和と安全を実現できるようになると考えられた。

ところが、こうした想定と期待は、その後の現実の歴史的展開の中で大きく裏切られることとなった。すなわち、発足直後の国連において、「国連軍」設置の前提となる特別協定を締結する試みがなされたものの、第二次世界大戦後まもなくして米ソ対立を主軸とする「冷たい戦争(以下、冷戦と略す))」が本格的に開始されることによって、1948年にはすでにその可能性を失うことになったのである。国連の影響力・役割の低下の直接的原因は、冷戦下の安保理が米ソ双方の拒否権行使によって機能麻痺状態に陥ったためであった。こうして国連は、5大国の意思に反しては何ら有効な行動を取ることはできない、つまり五大国の利害が絡む紛争に対しては無力である、という安全保障上の限界・制約があることを早くも露呈することになった。国連による集団的安全保障システム上のこうした制約を克服しようとする試みは、朝鮮戦争の際に総会において採択された「平和のための結集決議」(総会強化決議、1950年11月3日)やその後の平和維持活動(PKO)等にみることができるものの、冷戦時代を通じて本来の意味での「国連軍」が創設されたことは一度もなく、国連は憲章で意図されたような安全保障機能を十分に発揮することはできなかった。結局、こうした国連の集団的安全保障システムの生き詰まりを理由として、国連加盟国の多くが「個別的及び集団的自衛の固有の権利」(国連憲章53条)に基づき、2国間の軍事同盟や多国間の地域的軍事機構(例えば、北大西洋条約機構やワルシャワ条約機構)という形で自国の安全保障の実現を求めることになった。

この自衛権、特に集団的自衛権を認めた第53条の規定は、憲章作成の最後の段階で大国間の思惑と妥協によって盛り込まれものであった。しかし、それは本来の国連の趣旨とは矛盾する性格をもっており、国連の安全保障システムを制約しその基盤を切り崩す危険性を秘めていたと指摘できよう。

 また1980年代末から90年代初頭にかけての旧ソ連・東欧圏崩壊と冷戦終結によって、国際社会は新たにきわめて大きな構造的変化を経験することになった。冷戦後の国際社会は、単に米ソ対立を主軸とする冷戦構造が基本的に崩壊したばかりでなく、17世紀以来の主権国家を基本単位とする世界秩序そのものが根本的な変革を迫られる歴史的転換期に入ったといえるだろう。そして、こうした国際社会の変容を、さらに加速化させる契機となったのが21世紀初頭にアメリカで起きた9・11事件であった。米国のブッシュ政権は新保守主義者(ネオ・コンサーバティブ)が主導権を握り、「新しい戦争(対テロ戦争)」を掲げ、アフガニスタンに続いて、イラクに対しても一方的攻撃を国連や国際世論を無視する形で強行した。「テロ」という「犯罪」に「戦争」を宣言して「報復」を行う米国のやり方は、これまでの世界の法秩序を乱暴に踏みにじるものであり、まさに「正義」を盾とした「無法」に他ならない。国連憲章では、「戦争の違法化」を前提に、国際紛争に対しては、個別国家による武力行使を禁止して(国連憲章2条4項)、平和的解決を優先させることを義務づけている(同2条3項)。そして、それらの努力を尽くしてもなお解決できない場合にのみ、「例外的措置」として国連による軍事的な強制措置(同42・43条)と自衛権の発動による武力行使(同51条)を認めている。国際紛争の平和的解決を義務づけるこのような考え方は、国連憲章ばかりでなく、1919年の国際連盟規約、1928年の不戦条約や1970年の「友好関係原則宣言」等によっても確認されてきた国際社会の重要な基本原則である。しかし近年、「人道的介入」を名目にして行われたNATO空爆のように、アメリカを中心に、こうした基本原則を否定し既成事実の積み重ねによって新たな国際法や世界秩序を形成しようとする傾向が顕著になっている。戦後の国際社会がこれまで積み上げてきた民主的な法秩序の根幹が今日根底から揺さぶられているといえよう(注2)

 

2 東アジアの「冷戦構造」と朝鮮半島問題

第二次世界大戦直後に表面化した冷戦は、ポーランド・ドイツ等のヨーロッパ戦後処理問題を中心に展開したものであったが、次第にアジアにも波及してくることとなった(注3)。アジアでの冷戦は、第二次大戦末期に行われたソ連の対日戦争への参加とその結果としての、中国での国共内戦の拡大、朝鮮半島における南北分断国家の誕生、ソ連による在満日本人のシベリア抑留と北方領土占領、中華人民共和国の誕生と中ソ友好同盟相互援助条約の締結といった形で1948年後半以降に現れてくる。特に決定的な転機になったのが、1950年6月に勃発した朝鮮戦争であった。この朝鮮戦争は、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と略す)側が中ソの同意を得た上で開戦の発端を開いたことが今日では明らかになっているが、単なる侵略戦争というよりも国際的な内戦ともいうべきもので、南北双方の武力統一路線の衝突と朝鮮半島南部での事実上の内戦状況の発生、アメリカ・中国・ソ連の三つ巴の対立等、当時の複雑な国内情勢および国際環境がからんだものであった(注4)

朝鮮戦争の結果、冷戦はヨーロッパばかりでなくアジアを含む全世界的な規模のものとなった。また、アジアでの冷戦は中ソ両国の直接の衝突という「熱戦」を伴うものであり、米ソ対立以上に中ソ対立が全面に出てくるというヨーロッパとは別の特徴がみられた。そして、この特徴は、第一次インドシナ戦争(1945〜54年)からヴェトナム戦争(1960〜75年)へとつながっていくものであった。日本はこの朝鮮戦争に「隠れた参戦国」と言われるほどに米軍を中心とする「国連軍」(中華人民共和国政府の代表権剥奪とソ連の安保理欠席という二重の意味で括弧づきの性格を秘めていた!)への最大の後方支援・補給基地としての役割を果たした。日本国内では戦争特需が生まれ(ヴェトナム戦争での特需とともに)、その後の経済成長の大きな要因となったばかりでなく、後述するように「東洋のスイス」から「アジアにおける反共の砦」へと変貌する契機となったのである。

第二次世界大戦後のアジアでは、50年代後半から表面化した中ソ対立や60年代半ば以降に本格化したヴェトナム戦争、70年代に入ってからの米中接近と米ソ緊張緩和、1956年の日ソ国交回復共同宣言と日本の国連加盟、1964年の日韓基本条約締結と1972年の日中国交正常化等様々な国際情勢の変遷があった。しかし、ヨーロッパを主とする冷戦終結(1989〜91年)を受けた後も、中国と北朝鮮・ヴェトナムという体制・イデオロギーが異なる三つの「社会主義国家」をめぐる潜在的な緊張関係が今日まで続くことになった。その意味で、アジア、特に東アジアにおいては、朝鮮半島および台湾海峡をめぐる二つの分断国家の対立・緊張を軸とした「冷戦構造」が負の遺産として残されていると言えよう。東アジアにおける「冷戦構造」を示す事例としては、1989年の天安門事件とその波紋、北朝鮮の核保有疑惑をめぐる朝鮮半島危機(1994年)と中国のミサイル発射演習を契機とした台湾海峡危機(1996年)、日本での北朝鮮によるテポドン発射騒動(1998年)や武装不審船事件(特に1999年「能登半島沖事件」と2001年の「奄美大島沖(正確には東シナ海)事件」)、等が具体的に挙げられる。

一方、冷戦崩壊の兆しを示すような東アジアでの明るい材料・状況としては、1992年9月のモンゴルによる非核地帯化宣言(98年の国連総会議決で確認される)、1997年2月の中央アジア5カ国(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン及びウズベキスタン)の非核地帯化を目指す「アルマティ宣言」の採択(注5)、1994年危機の解決としての米朝間のKEDO合意、2000年6月の北朝鮮・金正日主席と韓国・金大中大統領による南北首脳会談開催と朝鮮半島の緊張緩和、2002年10月の北朝鮮・金正日主席と日本・小泉首相の日朝首脳会談の開催と日朝国交樹立協議開始への基本的合意等があった。

しかし最近の東アジアにおける国際情勢は、2001年に登場したブッシュ政権の「悪の枢軸」発言に見られる対北敵視政策によるKEDO合意の破綻と朝鮮半島危機の再浮上、2002年10月の日朝首脳会談で明らかになった北朝鮮による日本人拉致問題をめぐる日朝間の不和・摩擦の拡大等によって、ますます混沌としたものになっている。このような状況が続く中で、東アジアにおいて日本がいま後どのような選択・役割を果たすのかが一つの大きな鍵となっている。北朝鮮への強硬路線を変えようとしないブッシュ政権にいたずらに追随したり、拉致問題による国民感情の悪化を理由とした北朝鮮への経済制裁発動を行うことが日本の取るべき選択・方向ではないことは言うまでもない。日本は過去の植民地支配・侵略戦争の結果としての朝鮮半島の分断、未曾有の損害・犠牲を伴った朝鮮戦争への関与と特需という恩恵の享受、という形で朝鮮半島の人々に特別な責任・義務を背負っている。日本がいまなすべきことは、このことを十分に自覚して、過去の戦争責任や戦後補償の問題に誠実に向き合うとともに、朝鮮半島における核・ミサイル問題の解決に現在の6者協議の枠組みの中で粘り強く努力し、将来における朝鮮半島を含む東アジア(あるいは北東アジア)の非核地帯化構想等を通じた冷戦構造の克服と安定した平和の実現へ向けて真剣に取り組んでいくことであろう。

 

3 戦後日本の軌跡と安保・沖縄問題−失われた「もう一つの選択」を求めて−

いまから53年前(1951年9月8日)に日本は、サンフランシスコ講和条約を調印して国際社会に復帰して独立を回復した。そのときに日本は、対日講和条約と同時に結んだ日米安保条約によって、米国の軍事力に基本的に自国の安全保障をゆだねて、その代わりに戦後復興と経済発展に専念する道を選択した。この「軽武装・経済優先主義」という吉田路線の選択によって、その後の日本は、短期間に敗戦の痛手から立ち直ったばかりでなく、奇跡ともいわれた高度経済成長を達成して世界有数の「経済大国」になるにいたった。この意味で、戦後の日米関係を「世界で最も成功し、最も重要な二国間関係」(マンスフィ−ルド元駐日米国大使の言葉)とし、「半世紀前の吉田の判断は賢明であった」(注6)という総括が一般的に行われたのも理由のないことではないであろう。東西ドイツや南北朝鮮のような分断国家の悲哀を受けることもなかった。戦後日本の歩みを幸運に感じ、「寛大な占領(あるいは講和)」を行った米国に多くの国民(特に保守的指導層)が素朴に感謝の意を表してきたことも理解できないことではない。

しかし、このようなサンフランシスコ体制の光の部分だけに焦点を当てるのとは別の見方がもう一方にある。それは、対日講和条約で失われたもう一つの選択を重視し、サンフランシスコ体制の影の部分にも目を向けようとするものである。当時の日本は、冷戦の本格化を背景にした米国による占領政策の転換を受けて、戦犯追放の解除や財閥解体の中止などの逆コ−スといわれた道を歩みつつあった。また、講和条約締結の問題が浮上したのは、前年(1950年)6月に勃発した朝鮮戦争の直後のことであった。それは、日本の早期独立と引き替えに、日本の再軍備(すでに、米軍指令によって50年7月には警察予備隊が創設されていた)を促進するとともに、新たな同盟条約締結によって米軍駐留の権利を認めさせようとするものであった。つまり米国は、世界的規模での東西対立の激化のなかで、日本を西側の自由主義陣営に取り込んでアジアにおける反共の砦にするという明確な戦略的利益に基づいて、安保条約とワンセットになった形での講和条約の締結を提案したのである。これに対して当時の吉田・自民党政権は、国内における全面講和を求める多くの国民の声を無視して、米国を盟主とする(西側)自由主義陣営の一員となるという選択を、片面講和と日米安保条約の同時調印という形で行ったのである。しかし、吉田がこのときに行った決断と選択がはたして賢明かつ妥当であったのであろうか。今日の時点で、そのことを改めて考えてみる必要があるであろう。

吉田路線の負の遺産は、1.「対米従属」および 2.「アジア(沖縄を含む)の忘却」という二つの点に集約される。まずその一つは、片面講和と日米安保条約の同時調印によって、日本はいやおうなく米国の世界戦略のなかに深く組み込まれることになったことである。それは、世界的冷戦のなかで米国を盟主とする「(西側)自由主義陣営」の一員となり、ソ連を盟主とする「(東側)社会主義陣営」に対決していくことを意味した。すなわち、「東洋のスイス」から「アジアにおける反共の砦」としての日本への転換であり、独立と引き替えの自立性の喪失であった。そのことを象徴的に表すものが、占領軍からそのまま駐留軍となり、他の同盟国(たとえば、同じ敗戦国ドイツ)においても考えられないほどの特権を享受できることになった米軍の存在であり、また朝鮮戦争の最中に米国の強い圧力によって生まれ、その後、米軍の強い監視下でアジア有数の軍事力を持つまでに育てられた自衛隊(その前身としての警察予備隊および保安隊)であった。そして、日本外交の不在(あるいは戦略的思考の停止)と経済面での過大な対米依存、米軍の補完勢力でいまなお「憲法違反の存在」である自衛隊の姿といった形で講和53年となった現在でも続いている。

もう一つの負の遺産であるアジア(沖縄を含む)の忘却は、戦争責任および戦後責任の放棄である。日本は、上述した米国の政策転換によって、戦前の最高指導者であった昭和天皇や岸信介元首相など一部のA級戦犯が免責されたばかりでなく、講和会議に臨んだ米国の強い意思で当然行うべきであった賠償責任さえも負わずにすむという「幸運」に恵まれた(朝鮮戦争やヴェトナム戦争での特需景気も加えることができる)。しかし、この結果、戦後の日本は、侵略戦争や植民地支配への真摯な反省・謝罪と被害国・被害者に対する国家および個人レベルでの適切な賠償・補償という最も大切なけじめをつけることなく、今日にいたるまで重大な禍根を残すことになった。いまだにアジアの多くの国々やその地域の人々から不信と警戒の目でみられ、本当に信頼され尊敬を受ける国になることができない根本原因が実はそこにある(ここでは東京裁判で、米国が行った原爆投下や東京大空襲などとともに、日本軍が行った細菌戦・人体実験や「従軍慰安婦(=戦時性奴隷)」などといった重大な戦争犯罪が断罪されなかった事実には触れない)。また、講和条約によって日本が独立した後も米軍の過酷な占領下におかれ続けたばかりでなく、72年の本土復帰(緊急時の核持ち込みの容認という「核密約」の存在は隠されていた)後も、米兵による沖縄少女暴行事件(1995年)や昨年(2004年)の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件等に象徴されるように、過重な基地負担に苦しむ沖縄(琉球)の人々の声に真摯に耳を傾けようとしない日本政府および米国政府の原点がここにあることを指摘しておきたい。

日本は、最大の仮想敵国であったソ連の崩壊・消滅と世界的規模での冷戦終結の波という大きなチャンスに恵まれたにもかかわらず、それをアジアにおける冷戦構造の克服と平和の実現に結びつけることができなかった。それどころか逆に、日本が行った選択は、新ガイドライン・周辺事態関連法の採択や有事法制の整備を通じた日米安保の強化等による、北朝鮮および中国の敵視・封じ込めという、きわめて危険なものであった。さらに、世界的な規模での米軍基地の世界的再編構想やミサイル防衛(MD)構想の推進、新型小型核兵器の開発方針等によって日本が今後大きな影響を受けることは間違いない。東アジアにおける核を含む対立といった深刻な危機を招き、21世紀に生きる若い世代(特に沖縄)に大きな負担・犠牲を強いることになるこうした不毛な選択ではなく、いまこそ私たちは、これに代わる、“押しつけられた”安保・再軍備からの脱却というもうひとつの新たな選択を考えるときではないだろうか(注7)。それは、失われた選択、すなわち平和憲法に基づく「非武装中立の平和国家」たらんとする道であり、アジアおよび沖縄との共生を実現する道であろう。

 

4 原爆(核兵器)問題をめぐる過去と現在−「被害」と「加害」の二重構造を越えて

アジア・太平洋戦争(あるいは第二次世界大戦)末期にアメリカによって日本の広島、 長崎に対して行われた原爆投下は、人類にとっての核時代の幕開けを告げたばかりでなく、 戦後世界における冷戦開始の合図ともなった。冷戦は、大戦末期における米ソ間の戦後構 想をめぐる対立から生じたものであり、ある意味で戦争(それも最初の核戦争)の産物で あった。また、冷戦は、アメリカを中心とする西側(資本主義)陣営とソ連を盟主とする 東側(社会主義陣営)との間での世界市場・勢力圏をめぐる権力政治的対立と社会体制の あり方をめぐるイデオロギー的対立という二重の相克を意味していた。この米ソ対立を中 核とする東西冷戦では、東西(あるいは米ソ)双方によって「力による平和」が追求され、 核による「恐怖の均衡」によって世界秩序・社会体制ばかりでなく心の中まで日常的に支配されることになった(注8)

しかし、1980年代末に東側(社会主義)陣営の急速な崩壊という形で冷戦が終結すると、新しい世界秩序が模索される中で冷戦期には封じ込められていたさまざまな矛盾が表面化すると同時に、戦後処理に伴う未解決のさまざまな問題が浮上した。すなわち、これまで冷戦構造の下で比較的おさえられていた、民族・宗教対立の激化、南北・南南問題の深刻化、環境破壊の進行、人口爆発と飢餓・貧困の拡大、大量難民の発生、人権侵害の拡大、テロ・麻薬の増大といったさまざまな矛盾が一挙に目に見える形で噴出するとともに、戦後のドイツ・ポ−ランド間の国境線の見直しと画定、連合軍が行った大戦中および大戦直後の強姦・略奪などの犯罪、東京裁判およびニュルンベルク裁判の全般的見直し・再検討、アジア太平洋戦争末期にアメリカが行った日本への原爆投下の是非と核兵器の合法性・違法性、日本軍が行った南京大虐殺・七三一部隊・強制連行・「従軍慰安婦」等さまざまな残虐行為とそれに対する戦後補償・戦争責任の追及などが改めて問われることになったのである。

こうした中で、アメリカは戦後一貫して日本への原爆投下の正当性を主張し続けており、今日においてもその主張・立場は不変である。日本への原爆投下を正当化する論理は、「原爆投下こそが日本の降伏と戦争の早期終結をもたらしたのであり、その結果、本土決戦の場合に出たであろう米兵の犠牲者(50万人から100万人)ばかりでなくそれ以上の日本人やアジア人の生命をも同時に救うことになった」という早期終戦・人命救済説であり、今日のアメリカにおいても支配的な見解となっている。

こうしたいわゆる「原爆神話」が必ずしも事実に基づいたものではなく、戦後権力(占領軍・日本政府など)によって意図的に作り出されたものであることが次第に明らかになりつつある。戦後50年を経た時点で起きたアメリカでのスミソニアン原爆展論争や二〇世紀末に行われたコソボ紛争でのNATO空爆や9・11事件後のアフガニスタンおよびイラク攻撃の正当性をめぐる議論との関わりで、日本への原爆投下の意味と背景を改めて問い直す動きが生まれていることが注目される(注9)。また、「原爆神話」を肯定する立場は、核による威嚇と使用を前提とした「核抑止」論の保持と密接不可分の関係にあることはいうまでもない。さらに問題なのは、21世紀初頭にアメリカで登場したブッシュ政権が、露骨な「力による平和」と「一国覇権主義」を追求しはじめ、そのための手段としての核兵器を「使える兵器」として位置づける核先制使用戦略を採用するにいたったことである。

アメリカのワシントン郊外の国立スミソニアン航空宇宙博物館別館で、広島に原爆を落とした米軍B29爆撃機「エノラゲイ」が一昨年12月15日から一般公開された。同機の展示はその一部が公開された1995年の原爆投下50周年に続くもので、前回と同じく、今回の展示においても原爆被害の状況については一切説明されずに、単に「すばらしい技術的成功」として展示された。このような展示のあり方については、アメリカ国内でも批判が広がり、ピ−タ−・カズニック教授(アメリカン大学)などが中心となって組織した「核の歴史と現在の政策に関する全国的議論のための委員会」の呼びかけで、公開にあわせ日本から数人の被爆者を含む人々が訪米して、ともに要請・抗議を行った(注10)。また同時に、原爆展示のあり方、原爆投下の正当性の是非、現在のアメリカの核政策などの問題についてアメリカの市民との対話集会も開催された。これに関連して、ブッシュ政権は同年11月24日にこれまで10年間にわたって小型核兵器の研究・開発を禁止していた法律条項を廃止し、同年12月1日には小型核兵器の研究に承認を与えて実戦使用可能な地中貫通型核爆弾の開発を促進する予算をすでに成立させている。このように、アメリカの中には、過去における日本への原爆投下と現在・未来における核使用を肯定・容認するものとそれを否定・克服しようとする相対立する二つの流れが存在し、両者の勢力・考え方がせめぎ合っているのが現実である。

一方、戦後の日本では、毎年8月15日の「終戦」記念日には全国各地においてさまざまな集会や催しが開かれてきた。こうした形で催される集会や催しで主に扱われるテーマは、原爆投下や沖縄戦、東京大空襲といった、どちらかといえば日本および日本人が「被害者」となる視点から戦争が振り返られるという傾向が強い。しかし、そういった視点で戦争が語られるだけではたして本当によいのだろうかとの声も次第に強まってきている。本来、この日はあいまいな「終戦」ではなく、まぎれもない「敗戦」を刻んだ日として認識・自覚されなければならない。まず、「アジア・太平洋戦争」(あるいは「一五年戦争」)の前提となる日本による台湾・朝鮮半島に対する植民地支配から、満州事変、日中戦争、重慶爆撃、南京大虐殺、真珠湾攻撃、七三一細菌部隊、従軍慰安婦、強制連行・強制労働などへと続く日本の「加害者」としての対外膨張の歴史を正しく捉え直す必要がある。それと同時に、教育勅語・軍人勅諭に見られる国家神道による天皇の神聖化、スローガンとしての大東亜共栄圏(東亜新秩序)・八紘一宇、大政翼賛会に象徴される国家総動員体制、大本営発表を通じた報道統制、治安維持法・新聞紙法等による人権抑圧・言論弾圧などの特徴・性格をもった戦前の軍国主義的な強権政治体制をもたらした根本原因は何であるのかをあらためて考える機会としなければならない(注11)

また、毎年8月6日と9日の「原爆の日」には、広島・長崎両市が「平和宣言」を発表し、その中で原爆被害の恐ろしさと核兵器廃絶(「核と戦争のない世界」の実現)を世界中の人々、とりわけ核保有国の指導者に訴えてきた。近年では、原爆投下の「被害者」としての視点ばかりでなく、先の大戦での日本の「加害者」としての立場に言及することが多くなっている。こうした一定の肯定的な変化が見られる一方で、日米安保体制での「核の傘」に安住している日本国政府や原爆投下を正当化し現在でも核兵器の保有・使用を肯定し続けているアメリカ政府を正面切って批判し、原爆投下を「戦争犯罪」として明確に告発する被爆者たちの声を日本人全体の統一的見解として表明することが依然としてできずにいる。

こうした現状を打開していくためには、原爆投下の本当の意味と真実を明らかにし、日米間ばかりでなくアジアを含む全世界の共通認識を育てていくことが特に重要になってくる。その鍵を握っているのが、「被害」と「加害」の二重性、「戦争」と「原爆」の全体構造(あるいは戦争の記憶と被爆体験の統一)、という複合的視点であろう。この点で注目されるのが、「外国人被爆者・在外被爆者こそが、日本軍国主義とアメリカ原爆帝国主義に挟撃された二重の被害者である。」(注12)という故鎌田定夫先生(長崎平和研究所創立者)の言葉である。この言葉には、広島や長崎では日本人ばかりでなく日本の侵略戦争・国家総動員体制の下で強制連行された多くの外国人が被爆したという事実、広島・長崎の被爆構造にはアジア・太平洋戦争における日本軍国主義による加害・被害とともにアメリカの原爆帝国主義による加害・被害が二重に刻印されているという認識が見事に表現されている。

被爆者が年々高齢化してその平均年齢がすでに75歳を越えている今日、広島・長崎の被爆体験を思想化して後生・未来の世代に継承することは焦眉の課題となっている。また、本当の意味での、過去の戦争責任の精算を戦争被害者・戦争体験者がともになお生存されている現在の時点で行うことが重要な意味をもっている。この点でも「ただ被害者意識で訴えるのじゃなく、いかに普遍性を持つような訴えになるのかという意味で、体験そのものを、被害と加害の関係の中で、もっと構造的にとらえる。そうすれば非体験者、あるいは日本人じゃない人、若い世代にも伝承可能です。自分たちの問題として翻訳が可能なんですね。自分たちの日常体験の中に翻訳できなければ、昔のことを昔のこととして語るだけでは、伝わらないんですね」(注13)という鎌田先生の言葉は重く、その本質を突いていると思われる。

しかし残念ながら、戦後60年目を迎えた日本の状況は、こうした方向・選択とはほど遠い地点にあると言わねばならない。冷戦終結後の日本は、湾岸戦争を契機に、外なる「国際貢献」と内なる政治・行政改革を合い言葉に外圧(=アメリカの要求)に応える形で、上から新しい「国づくり」なるものを紆余曲折しながら強引に進めてきた。それがどんな性格をもっているのかは、国際平和協力法や周辺事態法・有事法制、対テロ特措法・対イラク特措法等を通じた軍事的な国際貢献の拡大、産業再生法や介護保険法・国民年金法にみられるような競争と効率を基本原理とし自己責任を重んじる「小さな政府」への移行、元号法や国家・国旗法にあらわれた国家主義的傾向の復活・強化、阪神大震災事件・オウム事件や北朝鮮の不審工作船事件・テポドン発射事件を口実とした国家・危機管理体制の強化といった一連の動きに明らかに示されている。それは、換言すれば、内外の危機に迅速に対応できる強いリーダーシップを備えた危機管理型高度国防国家、あるいは戦争国家・警察国家(監視社会)の構築であり、経済(超)大国から政治・軍事大国への転換であるといえよう。特に注意すべきは、誇張された「北朝鮮の脅威」を理由とした、先制攻撃能力保有論と核武装必要論がアメリカのチェイニー副大統領を筆頭とするネオコンの動きと連動する形でにわかに浮上表面化したことである。しかし、こうした方向・選択は、「力による平和」という冷戦型思考の復活・強化に他ならず、21世紀の世界に再び混乱と無秩序をもたらす不毛の選択であることは明らかである。世界非武装化を理想として掲げる平和憲法を持ち、非核三原則を国是とする日本が本来果たすべき役割は、現代国際社会において核兵器廃絶と全面的軍縮を実現するために努力することである。

最後に、「20世紀は人間がどこまで非人間的になれるかを示した大量殺戮の時代であった。そうであるならば、新しい21世紀は逆に人間がどこまで人間的になれるかを示す時代にしなければならない」(作家・辺見庸氏の言葉)ということが、まさに私たちのこれからの課題であることを肝に銘じておきたい。

                       文責・共編者 木村 朗(鹿児島大学)

 

<序章の注>

(1)戦争の違法化については、小池政行著『国際人道法―戦争にもルールがある』朝日新聞社(2002年)および井上忠男著『戦争のルール』宝島社 (2004年)等を参照。

(2)拙稿「『新しい戦争』と二つの世界秩序の衝突−9・11事件から世界は何を学ぶべきか−」日本平和学会編『平和研究(特集 世界政府の展望)』第28号(早稲田大学出版、2003年11月発行)、ダグラス・ラミス「米国と戦争政策と平和憲法の効き」『長崎平和研究』第18号(2004年10月)、TUP編『世界は変えられる―TUPが伝えるイラク戦争の「真実」と「非戦」』七つ森書館(2004年)等を参照。

(3)拙稿「人民民主主義とコミンフォルムの歴史的経験」『時代のなかの社会主義』法律文化社(1992年)、下斗米伸夫著『アジアの冷戦史』中公新書(2004年)等を参照。

(4)第二次世界大戦後の東アジアや朝鮮半島の歴史については、ブルース・カミングス著『北朝鮮とアメリカ 確執の半世紀』明石書店(2004年)、徐 勝編『東アジアの冷戦と国家テロリズム―米日中心の地域秩序の廃絶をめざして』 御茶の水書房 (2004年)、韓 桂玉著『朝鮮半島の非核化と日本』大阪経済法科大学出版部(1997年)、姜尚中著『日朝関係の克服―なぜ国交正常化交渉が必要なのか』集英社新書(2003年)、石川 捷治・平井一臣共編『終わらない20世紀―東アジア政治史1894〜』法律文化社(2003年)等を参照。

(5)中央アジア5カ国の政府は、2月8日に非核地帯設置条約に仮調印し、今年8月にカザフスタンのセミパラチンスクで本調印に望むことで合意した(『朝日新聞』2005年2月20日付)。

(6)『日本経済新聞』2001年9月5日付の社説「50年の日米成功物語の続編を書こう」を参照。

(7)2004年8月13日に宜野湾市にある沖縄国際大学に普天間基地所属の米軍ヘリが墜落するという事件が起こった。この事件への日米両政府の対応を見ても、沖縄を米国と日本本土の「二重の植民地」扱いする基本的な構造・性格が1995年の沖縄少女暴行事件以後も何ら変わることなく続いていることがよくわかる。伊波洋一 ・永井浩共著『沖縄基地とイラク戦争―米軍ヘリ墜落事故の深層 』岩波ブックレット No.646(2005年2月)、大田昌秀著『 沖縄、基地なき島への道標』集英社新書、2000年、沖縄問題編集委員会編集『沖縄から「日本の主権」を問う沖縄米兵少女暴行事件と安保日米地位協定の内実 』リム出版新社、1996年などを参照。

(8)冷戦期を「長い平和」として肯定的に評価するジョン・L. ギャディスのような論者(著書『ロング・ピース―冷戦史の証言「核・緊張・平和」』芦書房 、2003年を

   参照)もいるが、筆者は冷戦を朝鮮戦争・ヴェトナム戦争などの数多くの局地戦を

含むかたちを変えた「第三次世界大戦」と考えており、この見解に同意することはできない。また、第二次世界大戦後における核時代の軌跡を分析・叙述した優れた著作として、エドワード セント・ジョン著『アメリカは有罪だった―核の脅威の下に〈上〉〈下〉』朝日新聞社(1995年)およびスチュワート・L ユードル著『八月の神話―原子力と冷戦がアメリカにもたらした悲劇』時事通信社(1995年)を挙げておきたい。

(9)トム・エンゲルハート/ エドワード・T. リネンソール共著『戦争と正義―エノラ・ゲイ展論争から』朝日選書(1998年)、フィリップ・ノビーレ/ バートン・J. バーンステイン共著『葬られた原爆展―スミソニアンの抵抗と挫折』五月書房 (1995年)、マーティン・ハーウィット著『拒絶された原爆展―歴史のなかの「エノラ・ゲイ」』みすず書房、1997年、 NHK取材班著『アメリカの中の原爆論争―戦後50年スミソニアン展示の波紋 NHKスペシャル』ダイヤモンド社(1996年)等を参照。

(10)ピーター・カズニック「エノラ・ゲイ展示をめぐる問題について」『長崎平和研究』第18号(2004年10月)を参照。

(11)戦争責任・戦後補償問題等については、高橋哲哉著『戦後責任論』講談社(1999年)および同編『「歴史認識」論争 知の攻略 思想読本』作品社(2002年)、内海愛子著『戦後補償から考える日本とアジア 日本史リブレット』山川出版社 (2002年)、家永三郎著『太平洋戦争』岩波現代文庫(2002年)、荒井信一著『戦争責任論―現代史からの問い』岩波書店(1995年)を参照。

(12)拙稿「鎌田定夫先生の思想と行動−<九州の平和学>の視点から−」『長崎平和研究』第14号(2002年10月)を参照。

(13)中村尚樹「こころの被爆者」」『長崎平和研究』第18号(2004年10月)、13〜14頁。

  

 

※ 読者へのお勧め本3冊の紹介

@     辺見庸『永遠の不服従のために』毎日新聞社(2002年)

『いま、抗暴のときに』(2003年)および『抵抗論』(2004年)とともに3部作となっている。戦後民主主義が崩壊し大反動期を迎えつつある今日の時代状況の本質を権力・メディア・民衆が三位一体となった「鵺のようなファシズム」として鋭くえぐり出し、見えない絵と聞こえない音を浮かび上がらせる。まさに人間の生き方を根源から問うものであり、あるべき人間と社会のあり方を実時間で考えるうえで必須の本である。

A 田城明『知られざるヒバクシャ―劣化ウラン弾の実態』大学教育出版(2003年)

著者は『中国新聞』の敏腕記者で、連載された劣化ウラン弾問題の特集に後手を加えて出版したもの。当時あまり詳細が知られていなかった劣化ウラン弾問題についての本格的な取材・調査をその特性と影響について湾岸戦争時の写真などを交えて分析・紹介している貴重な労作である。劣化ウラン弾問題の背景とその実態・本質を知ろうとする者にとっては必読の本である。

B     スチュワート・L ユードル/紅葉誠一訳『八月の神話―原子力と冷戦がアメリカにもたらした悲劇』時事通信社(1995年)

著者はケネディ・ジョンソン政権時の元内務長官で、その後、ウラン採掘に従事して被曝したナバホ・インディアン労働者の人身被害訴訟の弁護などの市民レベルでの人権擁護活動に積極的に参加。そうした活動を通じて知った国家の闇の部分、すなわち原爆投下や冷戦開始の背景や戦後アメリカの原子力政策の問題点をする同支店で追求し明らかにしている。