東アジアにおける平和秩序の構築に向けて何ができるか

−「非核神戸方式」と東北アジアの非核地帯化構想を中心に−

                                           木村 朗(鹿児島大学・長崎平和研究所客員研究員、平和学専攻)

 

1.東アジアの「冷戦構造」の克復と朝鮮半島の統一問題

第二次世界大戦直後に表面化した冷戦は、ポーランド・ドイツ等のヨーロッパ戦後処理問題を中心に展開したものであったが、次第にアジアにも波及してくることとなった。アジアでの冷戦は、第二次大戦末期に行われたソ連の対日戦争への参加とその結果としての、中国での国共内戦の拡大、朝鮮半島における南北分断国家の誕生、ソ連による在満日本人のシベリア抑留と北方領土占領、中華人民共和国の誕生と中ソ友好同盟相互援助条約の締結といった形で1948年後半以降に現れてくる。特に決定的な転機になったのが、1950年6月に勃発した朝鮮戦争であった。この朝鮮戦争は、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と略す)側が中ソの同意を得た上で開戦の発端を開いたことが今日では明らかになっているが、単なる侵略戦争というよりも国際的な内戦ともいうべきもので、南北双方の武力統一路線の衝突と朝鮮半島南部での事実上の内戦状況の発生、米国・中国・ソ連の三つ巴の対立等、当時の複雑な国内情勢および国際環境がからんだものであった。

朝鮮戦争の結果、冷戦はヨーロッパばかりでなくアジアを含む全世界的な規模のものとなった。また、アジアでの冷戦は中ソ両国の直接の衝突という「熱戦」をともなうものであり、米ソ対立以上に中ソ対立が全面に出てくるというヨーロッパとは別の特徴がみられた。そして、この特徴は、第一次インドシナ戦争(1945〜54年)からヴェトナム戦争(1960〜75年)へとつながっていくものであった。日本はこの朝鮮戦争に「隠れた参戦国」と言われるほどに米軍を中心とする「国連軍」(中国人民共和国政府の代表権剥奪とソ連の安保理欠席という二重の意味で括弧づきの性格を秘めていた!)への最大の後方支援・補給基地としての役割をはたした。日本国内では戦争特需が生まれ(ヴェトナム戦争での特需とともに)その後の経済成長の大きな要因となったばかりでなく、後述するように「東洋のスイス」(マッカ−サ−の言葉)から「アジアにおける反共の砦」へと変貌する契機となったのである。

第二次世界大戦後のアジアでは、50年代後半から表面化した中ソ対立や60年代半ば以降に本格化したヴェトナム戦争、70年代に入ってからの米中接近と米ソ緊張緩和、1956年の日ソ国交回復共同宣言と日本の国連加盟、1964年の日韓基本条約締結と1972年の日中国交正常化等さまざまな国際情勢の変遷があった。しかし、ヨーロッパを主とする冷戦終結(1989〜91年)を受けた後も、中国と北朝鮮・ヴェトナムという体制・イデオロギーが異なる三つの「社会主義国家」をめぐる潜在的な緊張関係が今日まで続くことになった。その意味で、アジア、特に東アジアにおいては、朝鮮半島および台湾海峡をめぐる二つの分断国家の対立・緊張を軸とした「冷戦構造」が負の遺産として残されていると言えよう。東アジアにおける「冷戦構造」を示す事例としては、1989年の天安門事件とその波紋、北朝鮮の核保有疑惑をめぐる朝鮮半島危機(1994年)と中国のミサイル発射演習を契機とした台湾海峡危機(1996年)、日本での北朝鮮によるテポドン発射騒動(1998年)や武装不審船事件(特に1999年「能登半島沖事件」と2001年の「奄美大島沖(正確には東シナ海)事件」)、等が具体的に挙げられる。

一方、冷戦崩壊の兆しを示すような東アジアでの明るい材料・状況としては、1992年9月のモンゴルによる非核地帯化宣言(98年の国連総会議決で確認される)、1997年2月の中央アジア5カ国(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン及びウズベキスタン)の非核地帯化をめざす「アルマティ宣言」の採択、1994年危機の解決としての米朝間のKEDO合意、2000年6月の北朝鮮・金正日主席と韓国・金大中大統領による南北首脳会談開催と朝鮮半島の緊張緩和、2002年10月の北朝鮮・金正日主席と日本・小泉首相の日朝首脳会談の開催と日朝国交樹立協議開始への基本的合意等があった。

しかし最近の東アジアにおける国際情勢は、2001年に登場したブッシュ政権の「悪の枢軸」発言に見られる対北敵視政策によるKEDO合意の破綻と朝鮮半島危機の再浮上、2002年10月の日朝首脳会談で明らかになった北朝鮮による日本人拉致問題をめぐる日朝間の不和・摩擦の拡大等によって、ますます混沌としたものになっている。このような状況が続く中で、東アジアにおいて日本がいま後どのような選択・役割をはたすのかが一つの大きな鍵となっている。北朝鮮への強硬路線を変えようとしないブッシュ政権にいたずらに追随したり、拉致問題による国民感情の悪化を理由とした北朝鮮への経済制裁発動を行うことが日本の取るべき選択・方向ではないことは言うまでもない。日本は過去の植民地支配・侵略戦争の結果としての朝鮮半島の分断、未曾有の損害・犠牲をともなった朝鮮戦争への関与と特需という恩恵の享受、という形で朝鮮半島の人々に特別な責任・義務を背負っている。日本がいまなすべきことは、このことを十分に自覚して、過去の戦争責任や戦後補償の問題に誠実に向き合うとともに、朝鮮半島における核・ミサイル問題の解決に現在の6者協議の枠組みの中で粘り強く努力し、将来における朝鮮半島の平和的統一や東北アジアの非核地帯化設置などを通じた形での冷戦構造の克服と東アジアにおける平和の実現へ向けて真剣に取り組んでいくことであろう。

2.NPT体制の形骸化と新たな核戦争の危機の克服

NPT(核拡散防止条約)体制の形骸化が叫ばれて久しい。その主たる原因は、第6条の核軍縮の義務に一向に真摯に向き合おうとしない、核保有五大国(とりわけ米国)の姿勢にあることは言うまでもない。さらに、ブッシュ政権の登場とその新しい攻撃的な核戦略の採用によって、今日、NPT体制は崩壊の危機にあるといえよう。そこで、この危機的な状況下において、我々は(「加盟各国」はではなく、世界各国の一人ひとりの「市民」がという意味)何が出来るのか、何をしなければならないのか、をここで考えてみたい。

今年は、原爆投下・第二世界大戦終結60周年であり、原爆投下の是非や戦争と秩序のあり方があらためて問われている。その際、原爆投下が軍事的に必要でなく、政治的に有害であったことは自明であり、何よりも、道徳的には絶対的な過ちであったばかりでなく、法的にも明らかな戦争犯罪であったことをまず確認する必要がある。そして、この「原爆投下(核兵器使用)の犯罪性と違法性」を前提にして、NPT問題を根本的に問うことが重要である。

NPT体制は、単に核不拡散、すなわち核非保有国への核の拡散防止を加盟国に強制することを目的としたものではない。むしろそれは、核保有国の核軍縮義務を明記することで核兵器廃絶の実現、核のない世界への展望を論理的必然性あるいは潜在的可能性として含むものであることが強調されなければならない。この「核不拡散の禁止・防止」と「核軍縮の義務的推進」は表裏一体の関係ではあるが、NPT体制の存続にとって決定的な鍵を握っているのが後者であることは確かである。なぜなら、核非保有国は、核保有国の核軍縮義務の誠実な履行を前提条件にして、この不平等な条約を受け入れたのであり、もしそれが履行されなければ、このNPT体制を存続させる意味の大半は無くなるからである。NPT体制の崩壊は、直ちに核拡散のなし崩し的拡大という無秩序・混乱をもたらすものではなく、それが必ずしも「最悪のシナリオ」であるというわけでもない。なぜなら、NPT体制を離脱した核非保有国だけで、新たに「核兵器禁止条約」体制を構築し、核保有国に対して、より有効な形で、核非保有国に対する先制使用の禁止や核兵器廃絶の履行を迫るという選択も可能だからである。ここで注意すべきは、NPT体制を離脱した核非保有国のほとんどは、自ら核武装への道を選択しようとするわけではなく、むしろ逆で、これまで以上に積極的に核拡散ばかりでなく、核廃絶に向けた取り組み・努力を行うであろうと予想されることある。新アジェンダ連合諸国や非同盟諸国のこれまでの活動・主張の軌跡を見れば、そのことは一目瞭然であろう。

問題は、以上のような認識・立場を前提にして、核兵器保有国に何を迫るか、ということである。この点で最も重要な視点は、「問題なのは核兵器の数ではなく、それを使用とするドクトリン(教義)であり、政策である」(英国・レベッカ・ジョンソン氏)。核抑止論の克服(あるいは、それと裏腹の原爆投下の完全否定)は、このような視点に立ってこそ初めて可能となるのである。また、具体的な方策としては、1.非核保有国に対する核保有国による核の先制使用の放棄、2.(中央アジア5カ国の最近の合意にみられるような)非核地帯設置の拡大、3.核保有国相互間における核先制使用の放棄、4.核実験の全面的・即時禁止、5.核兵器の新たな開発・生産の即時禁止、6.核兵器の使用の全面的禁止。7.時期を明確にした形での核兵器の段階的廃棄、という手順で、核兵器廃絶に向かって着実に努力することである。

NPT体制をめぐる問題を考える際に、もう一つの重要な視点は、「核兵器(・戦争)と通常兵器(・戦争)の有機的関連」であろう。これまで、核問題は特別視され、「核兵器(・戦争)」と「通常兵器(・戦争)」という二つの問題は、区別されることはあっても、その関連が問われることはほとんどなかった。ここに実は、大きな「落とし穴」があったといえよう。なぜなら、日本への原爆投下(核戦争の開始)は、アジア・太平洋戦争(通常戦争)の末期に行われたのであり、その後の朝鮮戦争やヴェトナム戦争においても、通常戦争の延長上に核兵器の使用が検討されたというのが現実だからである。換言すれば、実際には、核戦争と通常戦争とは常に重なる形で行われてきたし、今後もそうなる可能性が最も高いという事実である。また、湾岸戦争以来、非常に残虐でかつ巨大な破壊力をもつ非人道的な新兵器が米国などによって使用されてきたこと、特に新型兵器のなかには劣化ウラン弾のような放射能兵器も含まれており、「核兵器(・戦争)と通常兵器(・戦争)の区別」がますます曖昧かつ困難になっているのが現状である。

 そこで、我々は、以上のような現状を正しく認識した上で、「原爆投下(核兵器使用)の犯罪性と違法性」という問題に再び立ち戻る必要がある。それは、最近の「新しい戦争」で頻繁に使用されるようになっている新型兵器は、その破壊力や残虐性から見ても、道徳的にも法的にも到底正当化できない性格のものである。そして、こうした新型兵器の使用禁止と核兵器廃絶の実現とは、明らかに密接な関連があるということである。特に、「非戦闘員と戦闘員の区別」という人道的原則に、真っ向から対立する、新型兵器の使用による、無差別爆撃と大量殺戮が、今日、「正義」や「人道」の名の下に頻繁に行われているという深刻な現実を直視する必要がある。その意味で、こうした蛮行を止めさせるための具体的な努力、例えば、アフガン戦争・イラク戦争等に対する世界的規模での市民による国際戦争犯罪法廷の動きや無防備都市宣言運動の拡がりは、原爆投下の犯罪性・違法性を問う新たな試み(ここ広島での「原爆裁判」の開催など)や核廃絶を求める原水爆禁止運動の取り組みなどと密接かつ有機的な関連があるといえよう。

日本政府による「核の傘」を容認した上での「核軍縮」の主張は、日米安保という軍事同盟を是認した上での平和憲法・非武装の主張と同じく、世界や国際社会に対して十分な説得力を持ち得ないものであり、その欺瞞的ともいうべき曖昧な立場・発想からの根本的転換が今日求められているのはいうまでもない。

3.「非核神戸方式」から「無防備都市宣言」、そして東北アジア非核地帯化の設置へ

「非核神戸方式」とは、1975年に神戸市議会が核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否決議を可決し、その決議をもとに入港を希望する外国艦船に「非核証明書」の提出を義務づけることによって核積載可能艦船の入港を拒否するものであり、今日まで米艦船の神戸港への入港を一度も認めていない、という画期的な成果をもたらしている。

この「非核神戸方式」が可能となったのは、神戸市が神戸港の港湾管理権を保有しており、またアメリカ政府が「核抑止」論の立場から自国の軍用機および軍艦に核を積んでいるか否かを明らかにしないというNCND政策(Neither confirm nor deny)を一貫してとっているからである。この「非核神戸方式」が、「核の傘」と「非核三原則」の矛盾という日米安保体制のもっとも脆弱な部分を突く性格をもっているだけに、1997年の新ガイドライン策定以後、この神戸方式への関心は、函館、小樽、苫小牧、高知、鹿児島など全国各地おけるその導入を目指す試みが拡がっているばかりでなく、非核平和宣言から非核・平和条例へ、さらには無防備地域宣へ、という形で質的にも運動が発展・強化されている。

この「非核神戸方式」は、従来の非核自治体宣言運動から発展的に派生したものである。また、非核自治体宣言運動も、反核・平和運動と自治体運動との接点で生まれた。石川捷治氏(九州大学)によれば、日本における非核自治体運動の歴史的意義は、@市民に、結集の機会と社会的意思決定の枠組みを提供した、A市民が自治体を「自治体化」する回路を提供したこと、B市民が主権者として、国家の専管事項とされていた軍事問題・核問題に関わる具体的回路を提供したこと、C「無防備地域」への回路を開いたこと、D非核の政府ないし非核の国家から核廃絶への展望を開いたこと、E市民の国際的連帯への回路を開いたこと、という6点にわたって指摘している。

特に、C「無防備地域」については、今日新たな重要な動きが生まれており、ここでそのことに少し言及しておきたい。一般民衆を戦争被害から守る目的で1949年に国際人道法と呼ばれるジュネーヴ条約(99年で188カ国が加盟)ができ、その後、朝鮮・ベトナム両戦争で多くの一般住民の犠牲を出した反省から、1977年にジュネーヴ条約追加第1および第2議定書が作られた(99年での加盟国は、それぞれ152カ国、144カ国。米国や日本は現在にいたるまでこの両議定書に加盟していない)。同議定書第59条に、「紛争当事国が無防備地域を攻撃することは、手段のいかんを問わず、禁止する。」という「無防備地域」の規定が含まれており、世界各地だけでなく、日本の大阪市、枚方市をはじめ滋賀、広島、北海道、沖縄などでも無防備地域宣言運動が取り組まれようとしている。

このように、今日の非核平和宣言から非核・平和条例へ、あるいは無防備地域宣言運動という流れは、自治体の平和力を具体化する新しい取り組みであり、自治体の平和外交や市民による平和地帯構想(東北アジア非核地帯化構想、朝鮮半島非核地帯化構想)などと結びつくものである。また、それは、日本国憲法の核心でもある非暴力・平和主義とその具体化の試み(非暴力平和隊、非暴力防衛、良心的兵役拒否、無防備都市、完全軍縮など)とも共通する考え方・構想であることはいうまでもない。このような考え方・構想の根底には、平和の創造や外交・軍事政策をつくる主体を国家や国際機関だけではなく、自治体やNGOや市民・個人に求めるという、平和・安全保障観の根本的転換があると思われる。すなわち、国家の安全と国民の安全を区別し後者を最優先するような新しい平和・安全保障観、国家の安全保障から人間の安全保障へ、あるいは軍事的安全保障から非軍事的安全保障への転換を求める流れの中から新しい平和思想・運動が誕生しつつある。

市民が主体となって地域から脱国家・脱軍事化を実現させる動き、すなわち市民による安全保障、人間の安全保障の実現を求める取り組みや市民・地域住民による自治体の平和的創造力を発展させる試みこそが、そうした戦争への道を防いで国家中心の軍事力による安全保障を克服する有効な選択肢であると思われる。いま私たちには、まさにこうした平和憲法を活かし具体化させようとする新しい発想と行動こそが求められている。とりわけ、

日本にとって非常に身近な朝鮮半島での戦火を再び起こさせないためには、市民一人ひとりの思想と行動が今日ほど問われている時はないといえよう。