21世紀における平和秩序の構築を求めて−「確固たる政治的意思を」

木村 朗(鹿児島大学教員・長崎平和研究所客員研究員、平和学専攻)

はじめに−核戦争の危機と核廃絶のチャンス

現在の世界は、核をめぐる正反対の二つの動きがせめぎ合っているという状況にある。すなわち

、一方では、イランや北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国を略す)への核兵器およびミサイルの拡散をめぐって国際的な緊張が生じている。この問題について、米国はイラン・北朝鮮両国に対して一貫して強硬姿勢を取り、国連安保理での経済制裁決議の採択から武力制裁への道を模索している。日本を含む国際社会がこうした米国の姿勢にこのまま同調することになれば、最悪の場合は核兵器(新型戦術核兵器)の先制使用を含む核戦争の危機が現実のものとなりかねない、きわめて危険な状況となっている。

また他方では、核兵器を生物・化学兵器とともに国際法上で非合法化すべきだとする国際的な

提言がつい最近出された。この画期的な提言は、世界の有識者でつくる「大量破壊兵器委員会」(WMDC=ハンス・ブリクス委員長)によって国連のアナン事務総長に6月1日に手渡されたものである。この提言には法的拘束力はないとはいえ、核軍縮をテーマとする特別首脳会議の開催や国連軍縮会議(ジュネーブ)の再活性化の要求などきわめて重要と思われる具体的な方策も提起しており、今後の軍縮交渉に大きな影響を与え、核廃絶のチャンスとなる可能性を秘めていると評価できる。

このような核をめぐる危機とチャンスが同時進行している国際状況の中で、私たち市民は、それぞれの問題をどのようにとらえればいいのか、またこれからいかなる選択を行うべきなのか。そこで、本稿では、過去から現在につながる核兵器をめぐる危機の連鎖を読み解くという視点を重視しながら、これらの問題を考えることにしたい(拙著『危機の時代の平和学』法律文化社、2006年、の特に第8章を参照)。

 

1.核兵器(原爆)問題をめぐる過去と現在−「被害」と「加害」の二重構造を越えて

アジア太平洋戦争末期に米国によって日本の広島・長崎に対して行われた原爆投下は、人類にとって核時代の幕開けを告げたばかりでなく、戦後世界における冷戦開始の合図となった。この冷戦は、大戦末期における米ソ間の戦後構想をめぐる対立から生じたものであり、ある意味で戦争(それも最初の核戦争)の産物であった。また、冷戦は、米国を中心とする西側陣営とソ連を盟主とする東側陣営との間での世界市場・勢力圏をめぐる権力政治的対立と社会体制のあり方をめぐるイデオロギー的対立という二重の相克を意味していた。この米ソ対立を中核とする東西冷戦では、東西(あるいは米ソ)双方によって「力による平和」が追求され、また核による「恐怖の均衡」によって世界秩序・社会体制ばかりでなく、人間の心の中までが日常的に支配されることになった。

しかし、1980年代末に東側陣営の急速な崩壊という形で冷戦が終結すると、新しい世界秩序が模索される中で冷戦期には封じ込められていたさまざまな矛盾が表面化すると同時に、戦後処理に伴う未解決の様々な問題が浮上した。すなわち、これまで冷戦構造の下で押さえられていた、民族・宗教対立の激化、南北・南南問題の深刻化、環境破壊の進行、人口爆発と飢餓・貧困の拡大、大量難民の発生といったさまざまな矛盾が一挙に目に見える形で噴出した。さらに、東京裁判・ニュルンベルク裁判の見直しが浮上し、米国が行った日本への原爆投下の是非と核兵器の合法性・違法性、日本軍が行った重慶大爆撃、南京大虐殺、七三一部隊、強制連行、従軍慰安婦(戦時性奴隷)等さまざまな残虐行為・戦争犯罪とそれに対する戦後補償・戦後責任の追及などが改めて問われることになったのである。

こうした中で、米国は戦後一貫して日本への原爆投下の正当性を主張し続けている。日本への原爆投下を正当化する論理は、「原爆投下こそが日本の降伏と戦争の早期終結をもたらしたのであり、その結果、本土決戦の場合に出たであろう50万人から100万人にのぼる米兵の犠牲者ばかりでなくそれ以上の日本人やアジア人の生命をも同時に救うことになった」という早期終戦・人命救済説であり、今日の米国においても支配的な見解となっている。この早期終戦・人命救済説が必ずしも事実に基づいたものではなく、戦後権力(占領軍・日本政府など)によって意図的に作り出された「原爆神話」ものであることが次第に明らかになりつつある。

戦後50年を経た時点で起きた米国でのスミソニアン原爆展論争や二〇世紀末に行われたコソヴォ紛争でのNATO空爆、9・11事件後のアフガニスタン・イラク攻撃の正当性をめぐる議論との関わりで、日本への原爆投下の意味と背景を改めて問い直す動きが生まれていることが注目される。また、「原爆神話」を肯定する立場が、核による威嚇と使用を前提とした「核抑止論」の保持と密接不可分の関係にあることはいうまでもない。

一方、戦後の日本では、毎年8月6日と9日の「原爆の日」に、広島・長崎両市が「平和宣言」を発表し、その中で原爆被害の恐ろしさと核兵器廃絶、「核と戦争のない世界」の実現を世界中の人々、とりわけ核保有国の指導者に訴えてきた。近年では、原爆投下の「被害者」としての視点ばかりでなく、先の大戦での日本の「加害者」としての立場に言及することが多くなっている。こうした一定の肯定的な変化が見られる一方で、安保体制の下で米国の「核の傘」に依存する日本政府は、現在でも原爆投下を正当化し核兵器の保有・使用を肯定している米国政府を正面切って批判することができず、原爆投下を「戦争犯罪」として明確に告発する被爆者たちの声を依然として無視している。

こうした現状を打開していくためには、原爆投下の本当の意味と真実を明らかにし、日米間ばかりでなくアジアを含む全世界の共通認識を育てていくことが特に重要である。その鍵を握っているのが、「被害」と「加害」の二重性、「戦争」と「原爆」の全体構造(あるいは戦争の記憶と被爆体験の統一)、という複合的視点であろう。この点で注目されるのが、「外国人被爆者・在外被爆者こそが、日本軍国主義と米国原爆帝国主義に挟撃された二重の被害者である」という故鎌田定夫先生(長崎平和研究所創立者)の言葉である。この言葉には、広島や長崎では日本人ばかりでなく日本の侵略戦争・国家総動員体制の下で強制連行された多くの外国人が被爆したという事実、広島・長崎の被爆構造にはアジア太平洋戦争における「日本軍国主義」による加害・被害とともに米国の「原爆帝国主義」による加害・被害が二重に刻印されているという認識が見事に表現されている。

被爆者が年々高齢化している今日、広島・長崎の被爆体験を思想化して後世・未来の世代に継承することは焦眉の課題となっている。また、本当の意味での、過去の戦争責任の清算を戦争被害者・被爆体験者がなお生存されている現在の時点で行うことが大きな意味をもっている。しかし残念ながら、今日の日本の状況は、それとはほど遠い地点にあるといわねばならない。

 

2.ブッシュ政権の新しい核戦略と劣化ウラン弾(・枯れ葉剤)使用問題

ブッシュ政権の強大な軍事力による「世界的覇権」の再編・強化という「一国覇権主義」は、具体的には、「ミサイル防衛」構想の推進と並んで、2002年1月に米国防総省が議会に提出した報告書「核戦略体制の見直し(NPR)」に見られる。特に注目されるのは、核兵器を「使える兵器」として位置づけ、その先制使用を「選択肢」の一つとするという方針を打ち出していることだ。これは、ブッシュ大統領が同じ1月に行った演説で、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」として名指しで非難し、これら「ならず者国家」「テロ(支援)国家」に対しては核兵器による先制攻撃を行うのが最も効果的だ、と表明した事実とも合致している。

ブッシュ米政権の新核戦略のもう一つの特徴は、ミサイル防衛構想の推進のために、弾道迎撃ミサイル(ABM)制限条約から一方的に離脱したことにもよくあらわれている。これは、冷戦時代のソ連との「相互抑止」の前提となっていた「相互確証破壊」戦略の事実上の放棄であり、核軍拡を宇宙にまで拡げてまでもアメリカの「絶対的かつ一方的優位」を確保しようとする狙いがある。これによって米国は、ロシア等の意向に縛られることなく自由かつ無制限に世界各地で相手を問わずに軍事介入を行うことが可能となった。

米国の攻撃的な姿勢は、2002年9月20日に公表された「米国の国家安全保障戦略」の中でさらに明確になる。ブッシュ大統領は、「ブッシュ・ドクトリン」(予防戦争・先制攻撃戦略とも称される新しい戦略)で、冷戦期に抑止と封じ込めを中心としてきた従来の政策を転換し、冷戦後における米国の圧倒的な軍事力の優位を前提に、大量破壊兵器を持つ「テロリスト」や「ならず者国家」に対しては必要ならば単独でも先制攻撃を行って政権を転覆させる「予防戦争」を打ち出した。これは、国際協調、すなわち国連や同盟国・友好国との国際的な協力よりも国益を優先的に考える、米国の「新しい帝国主義」的な考え方を鮮明に反映している。そして、この「ブッシュ・ドクトリン」を先取りしたのがアフガン戦争だとするならば、それを全面的に適用した最初の事例がイラク戦争であった。

米国によって行われた「新しい戦争」では、湾岸戦争で初めて登場した劣化ウラン弾をはじめとするあらゆる新型の非人道的兵器が大量に使用された。米国は、国際的非難が集中しているにもかかわらず、それをあくまでも「正義の戦争」として正当化しようとしている。また、これとの関連で、米国が第二次世界大戦後に犯した「もう一つの戦争犯罪」であるヴェトナム戦争における枯れ葉剤使用とその被害をめぐる問題にもあらためて注目する必要があろう。

「一種の核兵器」(厳密には「放射能兵器」)ともいわれる劣化ウラン弾使用をめぐる問題は、原爆投下や枯れ葉剤使用などとも本質的に共通する問題を含んでいる。それは、米国が情報操作による真相の隠蔽や歪曲された事実を前提として作られた「虚構の論理」によって正当化しようとしている点である。この問題を、米国が行う「正義の戦争」「人道(平和)のための戦争」という名の「(偽りの)作られた戦争」「終わりのない戦争」との関連で追求し解決することが急務ではないだろうか。さらにいえば、核戦争の被害者である「被爆者」だけでなく、もう一つの「被曝者」、すなわちビキニ・マーシャル諸島などでの核実験やチェルノブイリ・東海村などでの原発事故の被害者、ウラン鉱山や原子力関連施設で働く労働者や周辺住民への放射能被害なども含めた「グローバルヒバクシャ」という新しい視点・問題意識から、核・原爆や戦争・紛争をめぐる問題を総合的に問うことも求められている(肥田舜太郎/ 鎌仲 ひとみ (共著)『内部被曝の脅威−原爆から劣化ウラン弾まで』 ちくま新書、グローバルヒバクシャ研究会(編集)/前田哲男監修『隠されたヒバクシャ―検証=裁きなきビキニ水爆被災』凱風社を参照)。それは、特に人体実験と情報操作、あるいは無差別爆撃と大量殺戮、さらに秘密主義(権力)と営利追求主義(資本)といった、現代国家における民主主義の根本的なあり方(権力・資本と民衆・メディアとの関係など)と直接に関わる問題であるだけに、今日の世界における最も緊急性が高い最重要課題となっているといっても過言ではない。

 

3.NPT体制の形骸化と核危機克服の模索

前述したように、ブッシュ米政権は、「ミサイル防衛」構想の推進と並んで、核兵器先制使用を「前提」に、必要であれば「先制攻撃」によって敵対する国の「体制転換(政権転覆)」を圧倒的な武力によって実現するという、「ブッシュ・ドクトリン(予防戦争・先制攻撃戦略)」を打ち出している。この恐るべき新しい戦略では、地下貫通型の新しい小型核兵器の開発とそのための核実験再開などの必要性が強調されており、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約からの一方的な離脱や包括的核実験禁止条約 (CTBT) の死文化に続き、いまやNPT体制までが崩壊の危機に瀕することになっている。

NPT(核拡散防止条約)体制の形骸化が叫ばれて久しいが、その主たる原因は、第6条の核軍縮の義務に一向に真摯に向き合おうとしない、核保有五大国、とりわけ米国の姿勢にあることは明白である。NPT体制は、単に核不拡散、すなわち非核保有国への核の拡散防止を加盟国に強制することを目的としたものではない。むしろそれは、核保有国の核軍縮義務を明記することで核兵器廃絶の実現、核のない世界への展望を論理的必然性あるいは潜在的可能性として含むものであることが強調されなければならない。この「核不拡散の禁止・防止」と「核軍縮の義務的推進」は表裏一体の関係ではあるが、NPT体制の存続にとって決定的な鍵を握っているのが後者であることは確かである。なぜなら、非核保有国は、核保有国の核軍縮義務の誠実な履行を前提条件にして、この不平等な条約を受け入れたのであり、もしそれが履行されなければ、このNPT体制を存続させる意味の大半は無くなるからである。NPT体制の崩壊は、それが直ちに「最悪のシナリオ」、すなわち核拡散のなし崩し的拡大という無秩序・混乱をもたらすとは必ずしいえないだろう。なぜなら、NPT体制を離脱した非核保有国だけで、新たに「核兵器禁止条約」体制を構築し、核保有国に対して、より有効な形で、非核保有国に対する先制使用の禁止や核兵器廃絶の履行を迫るという選択も可能だからである。ここで注意すべきは、NPT体制を離脱した非核保有国のほとんどは、自ら核武装への道を選択しようとするわけではなく、むしろ逆で、これまで以上に積極的に核拡散ばかりでなく、核廃絶に向けた取り組み・努力を行うであろうと予想されることである。新アジェンダ連合諸国や非同盟諸国のこれまでの活動・主張の軌跡を見れば、その可能性はかなり高いと思われる。

問題は、以上のような認識・立場を前提にして、核兵器保有国に何を迫るかということである。この点で最も重要な視点は、「問題なのは核兵器の数ではなく、それを使用しようとするドクトリン(教義)であり、政策である」(英国のレベッカ・ジョンソン女史)。核抑止論の克服(あるいは、それと裏腹の原爆投下の完全否定)は、このような視点に立ってこそ初めて可能となるのである。また、具体的な方策としては、1.非核保有国に対する核保有国による核の先制使用の放棄、2.(中央アジア5カ国の最近の合意にみられるような)非核地帯設置の拡大、3.核保有国相互間における核先制使用の放棄、4.核実験の全面的・即時禁止、5.核兵器の新たな開発・生産の即時禁止、6.核兵器の保有・使用の全面的禁止。7.時期を明確にした形での核兵器の段階的廃棄、という手順で、核兵器廃絶に向かって着実に努力することである。

NPT体制をめぐる問題を考える際に、もう一つの重要な視点は、「核兵器(・戦争)と通常兵器(・戦争)の有機的関連」であろう。これまで、核問題は特別視され、「核兵器(・戦争)」と「通常兵器(・戦争)」という二つの問題は、区別されることはあっても、その関連が問われることはほとんどなかった。ここに実は、大きな「落とし穴」があったといえよう。なぜなら、日本への原爆投下(核戦争の開始)は、アジア太平洋戦争(通常戦争)の末期に行われたのであり、その後の朝鮮戦争やヴェトナム戦争においても、通常戦争の延長上に核兵器の使用が検討されたというのが現実だからである。換言すれば、実際には、核戦争と通常戦争とは常に重なる形で行われてきたし、今後もそうなる可能性が最も高いという事実である。また、湾岸戦争以来、非常に残虐でかつ巨大な破壊力をもつ非人道的な新兵器が、米国などによって使用されてきたこと、特に新型兵器のなかには劣化ウラン弾のような放射能兵器も含まれており、「核兵器(・戦争)と通常兵器(・戦争)の区別」が、ますます曖昧かつ困難になっているのが現状である。

そこで、私たちは、以上のような現状を正しく認識した上で、「原爆投下(核兵器使用)の犯罪性と違法性」という問題に再び立ち戻る必要がある。なぜなら、最近の「新しい戦争」で頻繁に使用されている諸種の新型兵器は、その破壊力や残虐性から見ても核兵器と同じく、道徳的にも法的にも到底正当化できない性格のものとなっているからである。また、こうした新型兵器の使用禁止と核兵器廃絶の実現には密接な関連があるということも明らかである。特に、今日、「非戦闘員と戦闘員の区別」という人道的原則に真っ向から対立するにもかかわらず、新型兵器の使用による無差別爆撃と大量殺戮が、「正義」や「人道」の名の下に頻繁に行われているという深刻な現実を直視する必要がある。その意味で、こうした蛮行を止めさせるための具体的な努力、例えば、アフガン戦争・イラク戦争等に対する世界的規模での市民による国際戦争犯罪法廷の動きや無防備都市宣言運動の拡がりは、原爆投下の犯罪性・違法性を問う新たな試み(「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」の開催など)や核廃絶を求める原水爆禁止運動の取り組みなどと密接かつ有機的な関連があると指摘できる。

日本政府による「核の傘」を容認した上での「核軍縮」「(究極的)核廃絶」の主張は、日米安保条約という軍事同盟を是認した上での「平和憲法」・「非武装」の主張と同じく、世界や国際社会に対して十分な説得力を持ち得ないものであり、その欺瞞的ともいうべき曖昧な立場・発想からの根本的転換が求められているといえよう。

 

4.核廃絶の実現に向けて何が必要か−発想の転換と下からの運動を

米国のワシントン郊外の国立スミソニアン航空宇宙博物館別館で、広島に原爆を落とした米軍B29爆撃機「エノラゲイ」が2003年12月15日から一般公開された。同機の展示はその一部が公開された1995年の原爆投下50周年に続くもので、前回と同じく、今回の展示においても原爆被害の状況については一切説明されずに、単に「すばらしい技術的成功」として展示された。このような展示のあり方については、米国国内でも批判が広がり、ピ−タ−・カズニック教授(アメリカン大学の核戦略研究所所長)などが中心となって組織した「核の歴史と現在の政策に関する全国的議論のための委員会」の呼びかけで、公開にあわせ日本から数人の被爆者を含む人々が訪米して、ともに抗議を行った。それと同時に、原爆展示のあり方、原爆投下の正当性の是非、現在の米国の核政策をめぐる問題について米国の市民との対話集会も開催された。他方で、ブッシュ政権は同年11月24日にこれまで10年間にわたって小型核兵器の研究・開発を禁止していた法律条項を廃止し、同年12月1日には小型核兵器の研究に承認を与えて実戦使用可能な地中貫通型核爆弾の開発を促進する予算を成立させている。このように、米国の中には、過去における日本への原爆投下と現在・未来における核使用を肯定・容認するものとそれを否定・克服しようとする相対立する二つの流れが存在し、両者の勢力・考え方がせめぎ合っているのが現実である。

こうした核をめぐる正反対の二つの動きがせめぎ合っているという状況は、現在の世界において

も形を変えて続いている。イランや北朝鮮への核開発疑惑およびミサイル発射・拡散をめぐる国際問題がまさにそれである。この問題を詳述する紙幅はもう残されていないが、米国がイランや北朝鮮への敵視政策を改め、両国に対して体制保証を与えることが問題解決の近道であると思われる。一番大事なのは、「核兵器があるかぎり核戦争は避けられない。核を廃絶せよ」(ジョナサン・シェルの言葉)という視点であり、まさに「米国問題」こそが最大の問題であるというのが結論である。すなわち、核拡散の悪循環を断ち切るためには、核軍縮ではなく核廃絶を実現することこそが必要不可欠であり、そのために世界最大の大量破壊兵器保有国である米国は、核廃絶に向けた世界的行動へのイニシアティブを発揮すべきである。私たちは、米国のイラク問題をめぐる情報がいかに嘘と欺瞞に満ちたものであったかをすでに知っているはずである。そうであれば、米国から同じく「悪の枢軸」と名指しされているイラン・北朝鮮両国に関する米国情報にも誇張・歪曲がないか十分に注意すべきである。

このような危機的な状況を打開する上で、前述したブリックス氏の大量破壊兵器委員会の報告書は重要な提言を行っている。「恐怖の兵器」と題する報告書は、冷戦終結後の今日においても新しい種類の核兵器、宇宙兵器、ミサイルの兵器開発競争という危機が存在すると指摘し、イランや北朝鮮の核開発問題についてはNPTの枠組みの中での平和利用を認めつつ交渉する必要性を示すとともに、「最終的な核兵器廃絶を達成するためには、確固たる政治的意思」が必要であると論じている。この指摘は、米国がイスラエルや日本・インドに甘く、イランや北朝鮮・中国には厳しいという「二重基準」に基づいた対応をとっている現在、とりわけ重要であると思われる。

核廃絶を実現するためには、「確固たる政治的意思」とともに、それを支える市民による下からの運動が不可欠である。この点で、従来の非核自治体宣言運動から発展的に派生した「非核神戸方式」や有事法制・国民保護法制に反対する立場から最近新たな展開をみせている「無防備地域宣言運動」が注目される。それは、日本国憲法の核心でもある第九条の非暴力・平和主義とその具体化の試み(非暴力平和隊、非暴力防衛、非武装中立、完全軍縮、良心的兵役拒否など)とも共通する考え方・構想であることはいうまでもない。このような考え方・構想の根底には、「国家の安全」と「国民の安全」を区別し、後者を最優先するような新しい平和・安全保障観、「国家の安全保障」から「人間の安全保障」へ、あるいは「軍事的安全保障」から「非軍事的安全保障」へ、という平和・安全保障観の根本的転換がある。

市民が主体となって地域から脱国家・脱軍事化を実現させる動き、すなわち市民による安全保障、人間の安全保障の実現を求める取り組みや市民・地域住民による自治体の平和的創造力を発展させる試みこそが、国家中心の軍事力による安全保障を克服する有効な選択肢である。いま私たちには、まさにこうした平和憲法を活かし具体化させようとする新しい発想と行動こそが求められている。とりわけ、日本にとって非常に身近な朝鮮半島で戦火を再び起こさせないためには、市民一人ひとりの思想と行動が今日ほど問われている時はないであろう。原爆神話・核抑止論を克服して核兵器廃絶を実現する道がその延長上に見えてくることは間違いない。

 

(『軍縮問題資料』2006年9月号に掲載)