こころの被爆者

 

中村 尚樹(ジャーナリスト・九州大学大学院非常勤講師)

 

 今年二月二十六日、私はふと、写真の整理を思い立った。去年撮った写真の多くが、アルバムに綴じられないままとなっていたのを思い出したからだ。いつでもよかったのだが、急にその日、写真を見たくなったのだ。ダンボール箱にしまっておいた写真を床に広げ、項目別に整理することにした。するとなぜか数枚の写真に、私の目が吸い寄せられた。それは去年六月十六日、長崎平和研究講座の第三回目として、鎌田さんが長崎市で講演された時のものだった。

 鎌田さんがおととし、沖縄での平和学会のあと緊急入院され、容態が思わしくないという話は伺っていた。しかし、大阪在住の私は、そうたびたび長崎を訪れることもできない。去年一月に長崎平和研究所を訪ねた際には、病院で治療を受けた帰りの鎌田さんにお目にかかることができた。久しぶりにお会いした鎌田さんは、いつものように多弁で、仕事に取り組むエネルギーに溢れていらっしゃった。治療の様子を伺うと、肝臓が悪いために抗がん剤を使うことができないとのこと。病院での放射線療法に加え、様々な漢方薬も試していらっしゃって、私に薬を詳しく説明してくださったのが印象的だった。

 しかしほどなく、鎌田さんの具合がかなり悪そうだという話を、長崎在住の方から耳にするようになった。夫人の信子さんからは、鎌田さんは原因不明の貧血が続き、食事ものどを通らない状態だと電話で伺った。点滴をして自宅療養を続けているが、やりのこした仕事や平和学会のことで、ずいぶんあせっている様子とのことだった。

 そんな話を伺っていただけに、平和研究講座でお目にかかった鎌田さんの姿に、ほっとした。確かに顔色は良いとはいえなかったが、私が知り合った時はすでに、肝炎を患い、それが肝硬変に悪化していた鎌田さんのこと。顔色が悪いのは、いつものことで、思いのほかお元気そうな様子に、その時はひと安心した。

 去年十一月には、立命館大学平和ミュージアムで開かれた学術会議と平和学会共催のシンポジウム、「『戦争の世紀』であった二十世紀を反省し、二十一世紀の『平和』を考える」で、鎌田さんに再びお目にかかることができた。この時の鎌田さんは、表面上は体調も良さそうで、平和研究所通信にも、「熱のこもった討論で元気をもらった」と書かれている。それが、私が生前の鎌田さんにお目にかかった最後の機会だった。

 この冬を乗り越えられたのだから、夏の原爆の日にはまたお目にかかれるだろう。そんなことを思いながら、平和研究講座で語る鎌田さんの笑顔の写真、講座を終えられたあと鎌田さんご夫妻と食事をご一緒させていただいた席での写真を眺めたのだった。そして鎌田さんの訃報を伺ったのは、その日の夜だった。私が鎌田さんと写真で久しぶりにお目にかかったその日に、鎌田さんは鬼籍に入られたのだった。これが虫の知らせというものだろうか。

 

 去年の長崎平和研究講座で鎌田さんは、「核兵器廃絶運動の歴史と課題」と題し、反核平和運動の原点としての被爆の持つ意味について、時に笑顔を交え、時に舌鋒鋭く述べられた。ご自分の病状を意識してか、自らの人生の歩みに言及しながらの講演となっただけに、研究者や教育者、運動家といった枠にとどまらない鎌田さんの幅広い取り組みが紹介され、余人には代え難い鎌田さんの力を改めて感じたものだった。その中で、特に印象に残った鎌田さんの言葉がある。それは、「自分の原点で翻訳すること」、「立場を入れ替えて共感し、共有すること」である。

 大学を卒業して放送局に就職した私は、二十五歳から三十歳まで長崎で勤務した。駆け出しを経てようやく一人前の記者となる頃、私は原爆で被爆した人たちと巡り合った。彼らと出会ったことで、私はジャーナリストとして生きる意味に目覚めたように思う。自ら望んでではなく、「最も人間的に生きるべく運命づけられた人々」。そんな被爆者との出会いは、私にとって衝撃だった。だが、それをどのようにメディアで表現し、伝えてゆけるだろうか。そんな思いにとらわれていた私に、様々なアドバイスを与えてくださったのが鎌田さんだった。かつて鎌田さんは、私のインタビューに答えて、次のように語ったことがある。

「ただ被害者意識で訴えるのじゃなく、いかに普遍性を持つような訴えになるのかという意味で、体験そのものを、被害と加害の関係の中で、もっと構造的にとらえる。そうすれば非体験者、あるいは日本人じゃない人、若い世代にも伝承可能です。自分たちの問題として翻訳が可能なんですね。自分たちの日常体験の中に翻訳できなければ、昔のことを昔のこととして語るだけでは、伝わらないんですね」

 鎌田さんは、韓国・朝鮮人や中国人、台湾人など外国人被爆者の問題が、長崎と広島に投下された原爆の本質とは何だったのかを解き明かす鍵を握っていると考えていた。長崎県被爆二世教職員の会の平野伸人さんらが、一九八七年に韓国を訪問して以降、在韓被爆者問題に積極的に関わるようになったことに言及して次のようにも語った。

「彼らは韓国に何十回も出掛けて、実地に調査をしているでしょ。戦前や戦中の負の遺産を引き受けている。その真剣さに脱帽します」

 鎌田さんが被爆二世たちの運動をこのように評価できるのは、その問題の重要性にいち早く注目した鎌田さん自身が、そうした運動の種をまいたからだと言えるのではないだろうか。

 鎌田さんは被爆者ではない。だがあたかも求道者のごとく、被爆者問題と核兵器廃絶運動に一筋に取り組むその姿は、まるで原爆犠牲者の魂が乗り移ったかのようだった。鎌田さんが講演会などで挨拶に立ったり、講演したり、フロアから質問したりする時、やや甲高い声で、ところどころ言葉につまりながら、しかし早口で喋り続ける姿は、まるで何かに憑かれたかのように見える時もあった。内面から溢れ出る思いが、鎌田さんの心を突き動かし、自らの行動を踏まえて、被爆者の言葉を翻訳した。現代に生きる私たちにとって、原爆の持つ意味を、鎌田さんは様々な角度から訴えかけてきた。だからヒロシマ・ナガサキは過去のものではない。風化することはない。それを鎌田さんは、私たちに教えてくれた。

 

 一九二九年(昭和四年)、鎌田さんは宮崎県都城市に生まれた。身体は弱かったが繊細な心を持つ少年だった鎌田さんは、人々が日一日と疲弊するにも関わらず、総力戦として戦われる戦争に疑問を持ち続けた。そんな気持ちを記した日記が見つかり、学徒動員中の海軍基地の寄宿舎で同級生たちから「国賊」、「非国民」と批判され、鉄拳制裁を受けたこともあった。戦争末期になると「聖戦」に失望し、自死の誘惑にかられたこともあったという。

 敗戦を迎えたのは、十五歳の時だった。やがて、鎌田さんと「ナガサキ」との最初の出会いが訪れる。それは、隣の家の少年だった。彼は十四歳で長崎市の兵器工場に徴用され、被爆して重傷を負った。戦後、自宅に戻ったものの被爆の後遺症に悩まされ、いったん就いた仕事も長続きせずに何十回も職場を変えた様子を、鎌田さんは見ていた。長崎は軍需都市だけに、九州一円から多くの人々が徴用された。鎌田さんも同じように徴用されて被爆したとしても、まったく不思議はなかった。結局あの時、誰が被爆者となり、誰がそうならなかったかの分かれ目は、偶然としかいいようがない。

 やがて熊本の第五高等学校理科に進んだ鎌田さんは、朝鮮半島をはじめとするアジアの情勢に関心を持つようになった。その頃は、大韓民国と北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国の成立、それに続く中華人民共和国の成立、こうした激動がアジアで次々と起こった時代だった。毛沢東が人民に絶大な信頼を受けているといったニュースは、新しい時代を求める鎌田さんたち学生を興奮させた。鎌田さんは当然のこととして、学生運動に取り組むようになっていった。

 学校制度の変わり目の中、旧制五校を了えた鎌田さんは新制の九州大学に進んだ。その直後に朝鮮戦争が勃発した。鎌田さんの身の回りでも、学生運動を通して知り合った在日韓国・朝鮮人が祖国の解放戦争に加わっていった。鎌田さんは、彼らの壮行会を見たことがある。その頃はレッドパージが吹き荒れた時代である。警察から弾圧される北朝鮮側の集会は人目につかない寺院などで、密かに行なわれたのである。それでも二百人から三百人くらいの在日朝鮮人たちが集い、溢れる熱気に鎌田さんは圧倒された。

 その頃には米ソの冷戦が始まり、アメリカは日本を反共の防波堤として明確に位置付けようとしていた。これに対して中国の上海や南京で学生たちが立ち上がり、日本軍国主義の復活反対を訴えているといった情報が、鎌田さんたちに伝わった。このままでは日本は実質的にアメリカの植民地にされる恐れがある。そんな意見が高まり、行動を起こそうとする日本の学生たちの中に、鎌田さんの姿もあった。

「われらは激励の言葉を、激しい憎悪の叫びの中に聞く」

 鎌田さんの好きな、ゴーリキーの言葉である。厳しい時代を生きる鎌田さんの心に、権力に対する抵抗心が確固たるものとなっていった。学生運動の責任者としていったん放学されたが、のちに復学し、学部も医学部から文学部へと転じた。時代の流れの中で、政治に憤りを感じ、社会的な問題を生涯のテーマとして取り組んでゆきたいと考えたのだ。

 鎌田さんが被爆地を初めて訪れたのは、一九五一年(昭和二十六年)夏のことである。長崎で開かれる反戦集会に、福岡の学生代表として出席するためだった。しかしあからさまに反戦集会と銘打つと、非合法集会として直ちに中止が命令されてしまう。そこで「平和を守る会」として計画された。鎌田さんは、九大の先輩で、のちに『神聖喜劇』などを著した作家の大西巨人さんらと長崎に向かった。しかし会場の医師会館を訪れると、待ち構えていた警官隊に集会の開催を阻止された。平和を訴えることすら弾圧される、そんな時代だった。

 大学を卒業した鎌田さんは、東京の出版社に入った。この時代に身につけた編集の経験は、のちの運動に大きく役立つことになる。それは雑誌やニュースレターを編集するジャーナリスティックな面ばかりでなく、様々なシンポジウムを企画したり、運動や組織を立ち上げたりしてゆくという、鎌田さんのコーディネーター、あるいはプロデューサーとしての才覚を磨いたのだと思える。

 鎌田さんが再び長崎を訪れたのは一九六二年(昭和三十七年)、長崎造船短大、今の長崎総合科学大学にフランス語の助教授として職を得てのことである。

 一九六五年(昭和四十年)は、鎌田さんの人生にとってひとつの転機となった。この年の二月、ヴェトナム戦争でアメリカ軍は北爆を始めた。これに対し世界中でヴェトナム反戦市民運動が高まっていった。六月には日韓基本条約が調印され、韓国との国交正常化がなされた。しかし韓国の市民は、日本の戦争責任問題が決着しないまま、韓国政府が戦後補償の請求権を放棄したとして、不満を募らせることになる。特に、韓国人被爆者の落胆ぶりは大きかった。こうした状況を敏感に感じ取った鎌田さんはこの年、韓国・朝鮮人の追悼碑を建てようと決意し、委員会を作って募金活動に取り組み始めた。外国人被爆者の問題を、鎌田さんは自分の具体的なテーマとするようになったのだ。

 一九六七年(昭和四十二年)、厚生省は「被爆者と非被爆者との間に健康上と生活上の有意の格差はない」とした、いわゆる原爆白書を発表した。これに反発した長崎原爆被災者協議会や日本科学者会議などの有志が自分たちの手による原爆白書を作ろうと、『あの日から二三年、長崎原爆被災者の実態と要求』と題した報告書をとりまとめた。これを契機に鎌田さんらの呼びかけで証言運動が本格化し、翌六九年八月には『長崎の証言』が創刊された。

 当初は年刊だった『長崎の証言』は、季刊となったり、広島のグループと合流したり、再び年刊に戻ったりするなど、これまで四次にわたる変遷を経ている。去年出版された『証言―ヒロシマ・ナガサキの声』第十五集で、通算五十八集となった。この間の証言者はのべ二千人以上に上る。『証言』は、多様な人々の原爆の体験、その後の人生を浮き彫りにするものとなった。

 証言集では日本人被爆者の証言だけでなく、外国人被爆者の証言も積極的に発掘してきた。韓国・朝鮮人や中国人の強制連行や捕虜収容所の問題も構造的なテーマとして取り込んだ。鎌田さんは韓国・朝鮮人被爆者こそ、「人類が直面する『核兵器廃絶』という緊急かつ最高の課題」を解く鍵を握っている存在である、と考えたからだ。彼らこそ、日本が犯した侵略戦争、そしてアメリカの原爆投下という、歴史的犯罪の犠牲者だ。それだけではない。戦後は韓国国内でも、被爆者というだけで言われなき差別を受けた。補償の要求も日韓基本条約で切り捨てられた。日本政府とアメリカ政府、韓国政府、そして同胞たちから何重にも抑圧された存在だ。そんな彼らの声を聞くことで、核戦争の隠された本質が明らかになると鎌田さんは考えたのだ。

 被爆三十年目の一九七五年(昭和五十年)、鎌田さんは学生たちと在韓被爆者医療調査団を組織し、実地調査にあたった。その頃の韓国は、朴正煕大統領の軍事政権下にあった。日本の平和運動は左翼勢力であると見なされ、至る所で厳しいチェックを受けた。街角の写真を撮っていても私服の警察官がどこからともなく現われ、鎌田さんを職務質問する。同行してくれていた韓国人被爆者たちが、「この人は日本の大学の先生で、私たち被爆者のために力を尽くしてくださっているんです」と事情を説明し、何とか拘束を免れたことも度々だった。

 一九九五年(平成七年)に発行された『証言』で、鎌田さんはその巻頭言を「被爆五十年、歴史は無意味に流れたか」と題して著した。衆議院本会議で与党が強行採決した「戦後五十年決議」を受けての感慨である。

 決議では「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行なったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し」「過去の戦争についての歴史感の相違を越え、歴史の教訓を謙虚に学び平和な国際社会を築いていかなければならない」とうたっている。

 これに対して鎌田さんは反論した。

「自分の犯した侵略戦争への率直、誠実な反省の代わりに、近代史における列強の侵略行為や植民地支配を引き合いにそれを相対化し、日本の行なった戦争に対する『歴史感の相違』があたかも当然のように書かれている。しかし、これは重大な歴史の偽造であり、戦後日本再生の原点をあいまいにする詐術である」と述べる。その上で、「かつて中国侵略を批判した国際世論と中国人民の抵抗のなかで、逆に『帝国の自存自衛のために』と居直り、『大東亜共栄圏樹立』とその侵略拡大を美化していった日本軍国主義の亡霊の存在を許容することになる」と訴える。韓国・朝鮮人をはじめとするアジアの被爆者問題を生涯の課題とする鎌田さんにとって、被爆体験と敗戦の歴史から何も学ぼうとはしなかった国会決議は、許すことのできないものだった。

 多くの日本人は、「日本はアメリカと戦争して負けた」「唯一の被爆国だ」と考えているだろう。一見事実と思えるその考えは、ともに間違っている。ひとつは、その当時は日本とされた朝鮮半島出身者が被爆者全体の一割にものぼると推定されていること。もうひとつは、「アメリカに負けた」という言葉の裏には、「アジアには負けていない」という意味が隠されていることである。鎌田さんの提唱した証言運動は、そうした嘘をあばくものでもある。政府や財界にとって都合の良い歴史ではなく、庶民の視線で地に足のついた歴史を残すことにつながるからだ。もちろん庶民といっても一枚岩ではない。多様な人々が、様々な状況で原爆に直面した。そのひとりひとりにとっての原爆を積み上げてゆく。権力者のつく嘘を見抜けるのは、そんな小さな物語の積み重ねでしかない。だがそれには、非常な困難も伴なう。鎌田さんは「長崎の証言の会」について次のように述べている。

「長崎は日本の辺境にあり、つねに中央から切り捨てられながら、同時に対外進攻の前進拠点として国策遂行の役割を強いられ、ついには原爆の十字架を背負わされて、今なおその後遺と格闘しつづけている。長崎の証言の会が背負っている困難もまた、これと不可分であり、さらに試練は続くだろう」

 

「その時には病院に入院していましたので、ちょこちょこ病院を抜け出して編集しました」

 六九年に創刊号を出した頃の思い出を伺うと、鎌田さんはそんな話をしてくれた。鎌田さんは肝炎をながらく患ってきた。輸血で感染したものだ。その後も証言集の編集作業は、たびたび病院を抜け出して、あるいは病院のベッドで行なわれた。次男の春生さんは九三年(平成五年)、奈良の弥山で遭難し、行方不明となくなった。それでも編集の作業は怠らなかった。

 鎌田さんの勤めた大学からは差別的な取り扱いを受けた。長崎総合科学大学では、停年を迎えた教授について本人からの希望があれば停年延長の措置が取られるのが通例だった。しかし大学の理事会は鎌田さんについて、停年の延長を拒否したのだ。大学側はその理由を明らかにしなかったが、保守的な理事会が、リベラルな鎌田さんの思想を嫌ったのだろう。その不当な扱いについて裁判で闘ったが結局、鎌田さんの主張は認められず、客員教授という名目で最終的に理事会と決着した。大学側は、研究室だけは与えたものの、それ以外は給与も含めて一切の支給を打ち切った。そんな厳しい状況中でも、鎌田さんは平和の問題を考え続けてきた。大学を退職した鎌田さんは九七年(平成九年)に私財を投じて長崎平和研究所を立ち上げ、被爆地ナガサキの平和運動の先頭に立ち続けてきたのである。

 

 鎌田さんは自らを「こころの被爆者」と呼ぶ。鎌田さんは被爆は体験していない。しかし、二千人に上る日本人や外国人の被爆者の証言を通じ、鎌田さんの心の中には、原爆が重く沈んだ怒りをもたらしている。

 核時代の運命に投げ込まれた中で、鎌田さんは党派やイデオロギー、国の違いを越えて、反核の思想と運動の先頭に立ってきた。人間は時代とともに生きる存在である。今そこに被爆した人たちが生きている以上、そして地球を破壊し尽くす核兵器が存在している以上、そのあるがままの姿を見て行かなければならない。抑圧され、差別に悩む被爆者ほど、自らの苦しみを内に秘めている。彼らに共感し、共に歩むことのできる人々が、「こころの被爆者」なのである。

 鎌田さんのお通夜の席で私は、夫人の信子さんに、鎌田さんから伺った「こころの被爆者」の話をした。すると信子さんは、こんな話を聞かせてくださった。

「彼は放射線治療を受けると、よろこんでいました。『これでようやく、身体もヒバクシャになった』って」

 政治のリアリズムに対抗して、人間の問題としてのヒロシマ・ナガサキを訴えてきた鎌田さんにとって、身も心もヒバクシャとして人生を終えたことは、「最も人間的に生きるべく運命づけられた」という意味において、最大の勲章であるかもしれない。そんな鎌田さんの言葉、「自分の原点で翻訳すること」、その意味するものは深く重い。

              (なかむら・ひさき ジャーナリスト、九州大学大学院非常勤講師)