「鎌田定夫先生の思想と行動−<九州の平和学>の視点から−」
木村 朗(鹿児島大学法文学部、長崎平和研究所客員研究員)
<はじめに>
長崎における被爆者証言運動の中心的存在であったばかりでなく、日本および世界の原水爆禁止運動、反戦・平和運動のリーダーのお一人でもあった鎌田定夫先生が、今年2月26日に享年72歳でその不屈の生涯を終えられました。ここであらためて鎌田先生のご冥福を祈るとともに、最後まで「非核非戦」の意思を貫かれた故鎌田定夫先生の足跡をたどり、その意思を少しでも継承することが出来ればと思います。
1.鎌田定夫先生の活動の軌跡−「こころの被爆者」としての歩み
鎌田定夫先生は、1929年(昭和4年)11月29日に宮崎県都城市に生まれる。太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)、都城中学校(旧制)3年在学中に富高海軍航空基地の掩体壕構築作業に動員される。そのときに日常的に行われていた暴力的制裁への疑問などを書いた日記が発端となって同級生と対立し、「非国民」「国賊」「偽善者」などと糾弾されて鉄拳制裁を経験した。その当時のことを鎌田先生は生前につぎのように語っている。「それに対して、私は教育勅語を逆用して真っ向から彼らを批判したんです。教育勅語の中に『君に忠に、親に孝に、夫婦相和し、朋友相信じ…』という言葉があります。『朋友相信じ』と教育勅語でさえ書いているじゃないか。これはいったいどうなるんだ。おまえたちは『朋友相信じ』ているんだったら鉄拳制裁なんて、そもそも教育勅語に反するじゃないかとういう一点で、私は抗議しました」(「戦争と原爆の体験から何を学ぶか」『発信地で発信者に聴く旅 講演録』(調布学園、2002年発行、10〜11頁)
鎌田先生の反骨精神の原点とも思われるエピソードであるが、鎌田先生はこの事件をきっかけに「聖戦」に疑問を抱くようになり、前途に失望、人間不信に陥り自死の誘惑にかられたといわれる。
しかし、敗戦3年目の熊本第五高(旧制、理科専攻)時代に、それまでの沈黙を破って反戦・平和の声をあげる。さらに翌年、九州大学(新制、医学部専攻)に進学し「わだつみの声の悲劇を再び繰り返すな!」「三木清、戸坂潤の氏を忘れるな!」という反戦・反ファシズムのスロ−ガンを掲げていた学生運動に積極的に参加し、占領下の弾圧を経験する。当時は「軍国主義再来」や「ファシズム復活」が叫ばれ、九大でも反レッドパージのストライキなどが行われこうした声が多くの学生の共鳴を呼んでいた。また戦後5年目に起きた朝鮮戦争を契機に、日本戦没学生記念会「わだつみ会」にも参加。そして、永井隆博士の死去から3ヶ月後の1951年(昭和26年)8月に反戦集会出席のために福岡の学生代表として長崎の地を訪れ、城山小学校で被爆者と初めて出会い、その発言の重さに心を打たれる。後にそのときのことを鎌田先生は、強制連行されて犠牲になった朝鮮人や中国人たちを含め、「幾万もの死者たちのおん念が自分に乗り移ってくるようにくるのを感じた」と語っている(長崎新聞の追悼特集「非核不戦に生きて−鎌田定夫が残したもの−(上)」2002年2月28日)。また、長崎(三菱兵器工場)に学徒動員中に被爆して重傷を負った隣町出身の同年輩の少年と敗戦後に知り合ったことも鎌田先生の原爆体験として何らかの影響があったと思われる。
その後、学生運動へ積極的に参加し頭角を現したことが原因で九州大学医学部を一度退学になったものの、教授や仲間からの支援などもあって復学が認められる。文学部(仏文)に転部し1956年(昭和31年)に卒業。その後、東京に出て民間教育運動に参加(国民文化会議、日本作文の会、新日本文学会の事務局員)し、国際的な核廃絶運動の芽生えを体験する。この間、(旧姓・川崎)信子さんと出会い1958年(昭和33年)に結婚。1962年(昭和37年)に長崎造船短期大学助教授として赴任。以後、長崎の地で反核・平和運動(反核証言運動、核廃絶・原水禁運動、民間教育運動)の中心的存在として信子夫人とともに常に精力的に活動する。権力・資本への批判的姿勢を一貫して失わず、病弱な体に鞭を打ちながら最後まで被爆体験の思想化をめざし、政治の逆行に抗して反原爆市民運動を続けられた。
特に、ヴェトナム戦争が開始され日韓基本条約が締結された1965年に日本の戦争責任問題が浮上する中で、韓国・朝鮮人被爆者の追悼碑建設運動に取り組み、外国人(在外)被爆者問題を終生のテ−マとする。そして、1967年(昭和42年)、厚生省が発表したいわゆる原爆白書に「被爆者と非被爆者との間に健康上と生活上の有意の格差はない」と書かれてあったのに反発した長崎原爆被災者協議会や日本科学者会議などの市民有志たちの手による自主的な調査活動をすすめ、報告書『あの日から二三年、長崎原爆被災者の実態と要求』を発行。これを契機に被爆(反核)証言運動を秋月辰一郎氏らとともに本格的に開始し、翌69年8月に『長崎の証言』を創刊する。また、1975年(昭和50年)に、「在外被爆者を支援する会」を結成してその代表になるとともに、被爆者や学生たちと在韓被爆者医療調査団を組織し、朴正煕大統領の軍事政権下にあった韓国を訪問して実地調査を実施、さらに韓国人被爆者の来崎と治療などの救援活動をすすめていく。
鎌田先生の思想的原点として重要だと思われるのが、鎌田先生が初めて長崎を訪れる直前に亡くなっていた永井隆博士の思想的遺産との出会いである。当時の長崎において、『長崎の鐘』に代表される永井博士の「原爆投下は神の摂理であった」という考え方がかなりの影響力をもっていた。この一種の“原爆神話”と格闘した結果、鎌田先生は、永井博士を次のように評価するにいたる。
原爆炸裂の瞬間と戦時下長崎市民の意識と感性の実態を的確に描写する一方、天皇とキリストが共存、結合して一つの殉教の美意識にまで変容、東洋的諦観が一切の矛盾を飲み込み、ただ祈りと賛美歌に代わる。また、原爆(投下)を被害の側面からリアルに捉えてはいるが、侵略戦争への荷担という加害の側面での自己批評が欠落している。戦争・原爆の全体構造を描くという点で、視点や方法に弱さがあった。(鎌田定夫「長崎の原爆表現と文学の課題」『核・貧困・抑圧』222〜223頁。)
これは、原爆投下直後の献身的な被爆者救護活動に見られる永井博士の機敏な行動力とその文学に一貫する平和への強い情熱を鎌田先生が高く評価する一方で、永井的な原爆受容とカトリックの美談が原爆投下者、つまりアメリカ占領軍とその追随者たちに利用されたことも疑えない、という厳しい指摘をされていることにも通じているといえよう(鎌田定夫「歴史の証言から歴史の変革へ」『広島・長崎の証言(下)』未来社、1976年)。
晩年の鎌田先生を偲ばせるエピソードとしては、1995年(平成7年)に衆議院本会議で与党が強行採決した「戦後五十年決議」を受けての感慨がある。この決議では「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行なったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し」「過去の戦争についての歴史感の相違を越え、歴史の教訓を謙虚に学び平和な国際社会を築いていかなければならない」と書かれていた。これに対して鎌田先生は次のような激しい言葉で日本政府の欺瞞生を糾弾した。
「自分の犯した侵略戦争への率直、誠実な反省の代わりに、近代史における列強の侵略行為や植民地支配を引き合いにそれを相対化し、日本の行なった戦争に対する『歴史感の相違』があたかも当然のように書かれている。しかし、これは重大な歴史の偽造であり、戦後日本再生の原点をあいまいにする詐術である」「かつて中国侵略を批判した国際世論と中国人民の抵抗のなかで、逆に『帝国の自存自衛のために』と居直り、『大東亜共栄圏樹立』とその侵略拡大を美化していった日本軍国主義の亡霊の存在を許容することになる」(中村尚樹「こころの被爆者」『長崎平和研究』第13号、17〜18頁)。
鎌田先生を身近で長年にわたって接してきたジャーナリストの中村尚樹氏も指摘しているように、この国会決議は外国人被爆者を含む被爆体験の思想化と日本の戦争責任問題の解決を修正のテーマとしていた鎌田先生にとって到底受け入れがたい性格のものであったと思われる。
このように鎌田定夫先生は、平和思想家・市民運動家、教育者、研究者・文学者(記録者、編集者)というさまざまな側面を持っており、まさに平和運動と平和教育・平和研究が三位一体となった思想的体現者であった。「非核不戦の思想(・理念)」と「核廃絶・非暴力の世界」の実現に生涯を捧げた信念の人(ある意味で「殉教者」「求道者」)でもあったといえよう。
特に晩年、ご家族のご不幸やご自分の病状悪化・トラブルなどがありながら、それを契機に私財を投じて長崎平和研究所を創設され、残された人生のすべてを平和のために捧げられた鎌田先生の壮絶な生き様に深い感銘を覚えずにはおられない。鎌田定夫先生は、誰よりも(ある意味では被爆者以上に)原爆への怒りと悲しみを自分のものとしてとらえた人間として、まさに「こころの被爆者」と呼ぶにふさわしいと思われる。
※ 参考文献
・ 中村尚樹「こころの被爆者」(『長崎平和研究』第13号、12〜19頁)。
・ 鎌田定夫「核兵器廃絶運動の歴史と課題」(2001年6月の長崎平和研究講座で)の報告)。
・ 鎌田定夫「歴史の証言から歴史の変革へ」(『広島・長崎の証言(下)』未来社、1976年)。
・ 鎌田定夫「戦争と原爆の体験から何を学ぶか」『発信地で発信者に聴く旅−2000年度 高校一年 学習体験旅行 講演録−』(調布学園、2002年3月18日発行)。
・ 長崎新聞の追悼特集「非核不戦に生きて−鎌田定夫が残したもの−(上)(中)(下)」2002年2月28日から3月2日)、その他。
2.鎌田定夫先生が追究された思想的課題−20世紀の遺産の継承と発展
鎌田先生がその生涯をかけて追究されたテーマが、「核のない世界の実現」と
「被爆体験の思想化」である。ここでは、20世紀から21世紀へ持ち越された思想的課題としての「被爆体験の思想化」の問題を取り上げて考えてみたい。
鎌田先生がご自分の人生の中で最も精力と情熱を注がれたのが反原爆表現運動 の一環としての被爆証言記録運動であることはいうまでもないであろう。すでに述 べたように、1969年(昭和44年)8月に鎌田先生は秋月辰一郎氏らとともに 『長崎の証言』を創刊する。そして、「長崎の証言の会」について、次のように語られている。
「長崎の証言の会は、反核証言活動を独自課題とする自立的市民組織として、国家 権力や党派、自治体からさえ自立し、つねに地球的に考え、原点“ヒロシマ・ナガ サキ”から行動すべく努めてきた。証言記録の作成や編集刊行という作業は、きわ めて地道で一定の技術と集中力を要するが、同時にその普及と持続の展では、集団 の知恵とエネルギ−が不可欠である。証言の会が、長崎・広島を起点に世界各地の 被爆者と結び、日本全土にネットワ−クを組みながら、日常は運営委員会と事務局 を中心に運営するという、逆ピラミッドの形をとりつつ、世界と日本の一切の重み を引き受け、つねに自主独立をつらぬこうと努めてきたのはこのためである。」(前掲・鎌田「反原爆−人間のあかし」『長崎の証言20年』、16頁。)
「被爆者たちの体験と訴えを出来る限り正確な文章表現、修験記録として提出すること、それを通して政府の被爆者対策やアメリカの核政策への追随を告発し、国家補償にもとづく被爆者の完全援護と核兵器全面禁止運動への内側からの論理的思想的根拠を固めていくこと、また、その証言活動を通して、被爆者と市民の強固な国民的連帯をつくりあげていくこと、これらの問題意識と動機から“長崎の証言”運動が出発する。」(前掲・鎌田「歴史の証言から歴史の変革へ」『広島・長崎の証言(下)』、137頁。)
その活動の中で鎌田先生が重視されたのが、戦争・原爆の全体構造(戦争と原爆 が内包する様々な人間的因子、貧困と抑圧、差別の構造)を描くことができる視点と方法を確立すること、また被爆者自身が自己の体験を相対化・客観化し他者に説得力を持って語れるようになることであった。後者の点との関連では、例えば、「ただ被害者意識で訴えるのじゃなく、いかに普遍性を持つような訴えになるのかという意味で、体験そのものを、被害と加害の関係の中で、もっと構造的にとらえる。そうすれば非体験者、あるいは日本人じゃない人、若い世代にも伝承可能です。自分たちの問題として翻訳が可能なんですね。自分たちの日常体験の中に翻訳できなければ、昔のことを昔のこととして語るだけでは、伝わらないんですね」とも述べている(中村尚樹「こころの被爆者」、13〜14頁)。
また、被爆者が「最も人間的に生きるべく運命づけられた人々」と呼ばれる被爆 者に言及して、「これは、取りようによっては、被爆者の聖化・賛美につながりか ねない。だが、被爆者がたえず原爆後障害に脅かされる存在であることを除けば、彼は『生まれながらにしてもっとも人間的な存在』というわけではない。…中略…『彼は自分の行為を通して人間となる』、つまり、被爆者としてのさまざまな試練 に耐え、…中略…核権力とその追従者に核廃絶をせまる人間的行為によって、彼は 一被爆者としてでなく、もっとも人間的な人間になるであろう」と語っている(鎌 田定夫「「被爆者の声はどこまで核権力にせまったか」『長崎の証言』第14集、2〇〇〇年、26頁)。
このように鎌田先生は、被爆者自身が自己の体験を相対化・客観化し他者に説得 力を持って語れるようになることが重要であることを強調されるとともに、それとの関連で、被爆者が高齢化するなかでいかに原爆教育・平和教育を建て直すかが急務となっていることを指摘されていた。また、反原爆の精神的原点としての被爆体験を安保闘争挫折後に分裂した「核廃絶・平和運動」の統一と団結の回復、(原爆被害者・核被害者をはじめ)すべての人々の国際的な連帯の実現につなげていくことが今こそ求められていると強調されていた。
さらに注目されるのが、在外被爆者や連合軍捕虜を含む外国人被爆者問題との取 り組みである。鎌田先生は、被爆体験の全体像と外国人の被爆という視点、あるいは日本の加害と戦争責任(「被害」と「加害」の二重性)という側面からも原爆と戦争の問題を追求された。被爆者の証言集では、日本人被爆者の証言だけでなく、外国人被爆者の証言も積極的に発掘した。「何よりもまず、かつての帝国主義的掠奪と十五年戦争での加害責任を問うことから始めねばなるまい。朝鮮・韓国人被爆者たちの証言は、このことを疑う余地のない事実として明証している。」(鎌田定夫編『被爆朝鮮・韓国人の証言』朝日新聞社、1982年、290頁)、「外国人被爆者・在外被爆者こそが、日本軍国主義とアメリカ原爆帝国主義に挟撃された二重の被害者である。」(『ナガサキの平和学』より)、「韓国・朝鮮人被爆者こそ、『人類が直面する“核兵器廃絶”という緊急かつ最高の課題』を解く鍵を握っている存在である」(「こころの被爆者」より)という鎌田先生の言葉がその意義と重要性をよくあらわしている。
そして、韓国・朝鮮人や中国人の強制連行や捕虜収容所の問題も構造的なテーマとして取り込む。奇襲・瞬間性、無差別・根絶性、全面・持続・拡大性という原爆被害の特質や核戦争の隠された本質の解明がここから可能となった。
また、鎌田先生が最後までこだわっておられたテーマの一つが「長崎と広島に投下された原爆の本質とは何だったのか」という問題である。この問題について鎌田先生は、「原爆投下の意味の普遍化」(日本・米国・アジア諸国での共通認識の確立)、すなわち日本国内における被爆者と一般国民との間はもとより、日本人の原爆認識と米国・アジア諸国の一般大衆の間での認識ギャップを埋めていくことの重要性を常に指摘されていた。
鎌田先生の「アメリカの原爆攻撃と戦後の被爆者放置、被爆実相の隠蔽等は、明らかな非人道的行為であり、かつ国際法背反行為である」「天皇の戦争責任をはじめ、強制連行・強制労働や“従軍慰安婦”、731部隊、日米取引・二重外交の存在など、日本の戦争責任と戦後補償の問題の多くは未解決である」(『ナガサキの平和学』より)
「広島・長崎の被爆構造には、アジア・太平洋戦争における日本軍国主義による加害・被害とともに、アメリカの原爆帝国主義による加害・被害が二重に刻印されました。」(「“ヒロシマ・ナガサキ”とは」長崎平和研究所のHPより)という指摘・主張を私たちは今後とも解決すべき重要課題として取り組んでいく必要があるであろう。
※ 参考文献
・ 鎌田定夫「長崎原爆における被害と加害」(『ナガサキの平和学』長崎総合科学大学長崎平和文化研究所、1996年。
・ 荒井信一「原爆投下と戦争責任」(『平和文化研究』第18集、1995年)。
・ ジョセフ・ロ−トブラット「第二次世界大戦と原爆投下」(『平和文化研究』第19・20集合併号、1997年)。
・ 木村朗「“原爆神話”からの解放−“正義の戦争”とは何か−」(『長崎平和研究』第12号、2001年12月)。
3.「ナガサキ」からの問い直し−「九州の平和学」という視点
鎌田定夫先生は「長崎の証言」運動や「韓国人被爆者を支援する会」その他の反戦・平和運動のリーダーであったばかりでなく、日本平和学会理事や九州平和教育協議会会長もされていたように、平和研究および平和教育の理論的指導者でもあった。その鎌田先生がこだわられたのが、「九州の平和学」という視点、あるいは「辺境(フロンティア)」から平和情報を発信することの意義であった。
鎌田先生自身がそのことを九州平和学会(九州・沖縄地区平和研究集会)の発足にあたって次のように述べている。「戦後一貫して取り組まれてきた九州各地の平和運動、環境・住民運動等の成果を吸収し、九州・沖縄を単なる中央に対する周辺、あるいはフロンティアとしていちづけるのでなく、九州・沖縄の独自の個性を強化しつつ、同時に世界とアジア・太平洋の中心、平和と自由・正義の普遍的情報の発信地としての理論と情念、倫理をも生み出していきたい。」(「九州における平和学の構築」『九州の平和研究』第一号、1991年11月)。
また、そのことは次のような言葉からもうかがわれる。「辺境(フロンティア)
は中心に対する単なる辺境ではない。長崎や沖縄がそうであるように、これらの辺境はアジア・太平洋・中東・ヨ−ロッパなどにもっとも近く、絶えず海外の異なる文化圏に牽引され日本国そのものを相対化し、複眼でとらえる一種の異化作用を強いられてきた。同化と異化の間に働く緊張関係のなかから、自立と連帯につながる変革のエネルギ−が生まれ、新しい独自の文化と思想が芽生えてくるはずである。」「日本列島のなかで、京都や大阪、あるいは東京といった首都圏に対して、北海道と九州・沖縄がそれぞれ北と南の両端にあり、“日米安保条約”を機軸とする日本の軍事化、極東の冷戦構造の拠点となってきたことを考え合わせると、北海道とともに福岡・長崎を含む九州・沖縄が、いま日本の政治や思想、文化の上で果たそうとしている役割はきわめて大きい。」(『ナガサキの平和学』より)
また、鎌田先生が重視されたもう一つの視点が「ナガサキ(あるいは長崎)」からの問い直しである。鎌田先生は、「原爆の標的となった長崎の港と町が、日本とアジアの近現代史のなかで、どのような役割を果たしてきたか」に注目し、次のように語っている。
「長崎は日本の辺境にあり、つねに中央から切り捨てられながら、同時に対外進攻の前進拠点として国策遂行の役割を強いられ、ついには原爆の十字架を背負わされて、今なおその後遺症と格闘しつづけている。長崎の証言の会が背負っている困難もまた、これと不可分であり、さらに試練は続くだろう。」(鎌田定夫「反原爆−人間のあかし」『長崎の証言20年』1989年、17頁。)
ここには、被爆都市・長崎が「日本軍国主義(帝国主義)の加害都市」(あるいは「日本の侵略拠点、兵站基地」)であると同時に、「日本帝国主義とアメリカ原爆帝国主義の二重の被害都市」でもあったことが述べられている。鎌田先生は、こうした長崎の加害者として役割の視点を忘れることなく、その負の遺産を克服していくこと、すなわち日本および世界にむけて平和の訴え続けていくことこそが被爆地・長崎の使命・役割であると明確に認識・主張されていたのである。
鎌田先生と長崎との関わり、また長崎と広島の違いについては、次のような発言・指摘がある。
「私のように身も心も長崎に惚れ込んだっていうか、入れ込んだ人間というのはそう多くはないと思うんです。そういう者として言えば、長崎原爆とは、わたしにとって結局何だったのか。長崎原爆は、広島に次いでの核戦争体験の第二弾なんですね。日本のジャ−ナリズムも行政のほうもそうなんですけれども、広島までは出かけるけれども、なかなか長崎までは出かけない。しかし、長崎に来ると、世界と日本がより深く明確に見えてくるんですね。」(前掲・鎌田「戦争と原爆の体験から何を学ぶか」『調布学園講演録』、9頁)。「“怒りの広島、祈りの長崎”というジャ−ナリスティックな呼称は、もはや今日の長崎にはふさわしくない。怒りかつ祈り、祈りかつ怒る、というべきか。核権力=占領者のふりまいた“原爆神話”が崩壊し、あらたな核戦争を脅威が強まるなかで、民衆の意識は醒め、内攻する怒りとともに反原爆の思想が芽ばえていく。反原爆の証言とは、それら崩壊しゆく神話のあとの空白を埋める、被爆者自身の真相告発と自己表現、新しい連帯の自己表現でもあった。」前掲・鎌田「歴史の証言から歴史の変革へ」『広島・長崎の証言(下)』、135頁。)
鎌田先生は反核・平和運動のあり方をめぐってもこれまで多くの発言をされている。その発言の一部を以下にご紹介する。
「かって原水禁運動が分裂し、被爆者運動もまたきびしい試練の中にあったとき、私たちは原爆・敗戦の原点に立ち返り、被爆者と草の根市民に依拠する党派をこえた運動を提唱、反核証言運動を開始したのでした」(『ヒロシマ・ナガサキの証言』第12集、1998年)。「今こそ、日本政府に非核三原則の法制化や『核の傘』からの脱却を求めるなど、被爆国としてはっきりものが言える状況をつくっていくべきだ」(「再構築迫られる運動」『長崎新聞』1998年8月2日)。「原爆投下の非人道性と日本の侵略戦争、加害の問題を結合させた運動を強めたい。原爆投下の認識について(米国と)大きな隔たりがある。運動の国際化促進や、会の運営を若い世代にどう継承していくかが課題」(「非核不戦に生きて−鎌田定夫が残したもの−(上)」『長崎新聞』2002年2月28日)。「核兵器廃絶の思想は1945年8月6日、9日の原爆被爆体験を原点として、広島・長崎の被爆者の痛苦のなかから芽生えた。」(「核兵器廃絶をめざすNGOの動向」『日本の科学者』Vol.36,No.8,Aug.2001、P5)。
こうした鎌田先生の平和への情熱と取り組みは、「政党の枠組みを越えた戦線統一、無党派層の取り込み、市民運動レベルでの左右統一、研究者の運動への参加、平和教育の理論化等、鎌田先生の平和分野における数々の業績」(『九平研通信』NO.62、2002年4月の緒方智子さんの追悼文から)となって私たちに引き継がれている。
晩年の鎌田先生がその最後の精力・エネルギーを注がれたのが、2000年11月に長崎で開催された「核兵器廃絶・地球市民集会ナガサキ」と「日欄戦争原爆展」であった。この二つの取り組みついて、鎌田先生は次のように、その意義と問題点をそれぞれ述べている。
「ボランティアたちと、NGOリ−ダ−や専門家たちの間には、大きなギャップがあり、(中略)専門性と大衆性、個別性と普遍性、地域と世界の矛盾をどう統一するか、この古くて新しい難問にいどむ真剣な討議のなかから、市民各層のエネルギ−を結晶させる多彩で柔軟かつ硬質の市民運動が生まれたのであった」鎌田定夫(「核兵器廃絶をめざすNGOの動向」『日本の科学者』Vol.36,No.8, Aug.2001.)。「今回の原爆展では、原爆投下の非人道性を証言と歴史資料で究明した。連合軍捕虜の被爆は、国家のためなら自国民の生命さえ踏みにじることを証明している。インドネシアでの戦争体験を取り上げたオランダ側の企画に、今日的な“核時代”への問題提起を加え、非核不戦の二十一世紀を展望しようと試みた。これは、国家の権威として存在し続ける核抑止論への問い掛けであり、現在の問題。同時期に長崎市で開かれた反核非政府組織(NGO)集会のテーマにもつながる。」「戦争展をする以上、戦争加害と被害の問題は避けて通れない。加害者と被害者の立場は入り組んでいて、受け止め方もさまざまだ。しかし、過去を直視し、今を生きる指針を導き出すことが重要だ。」「まず相手の過ちを問いたくなるのが人間の心理。それに対して“そっちもひどいことをしただろう”と反論したところで、”どっちもどっち“と互いの過ちを相殺できるものではない。歴史の相殺ではなく、互いの痛みを共有し、普遍的な歴史観を導かなくては。戦争展が個人的体験の証言を中心としたのも、そうした意図があった。」(「普遍的歴史観の共有を」『長崎新聞』
この二つの取り組みは、鎌田先生のこれまでの平和への取り組みの一つの集大成としての意味があったばかりでなく、長崎での原水爆禁止運動や反戦・平和運動にとっても21世紀への一つの変換点ともなる新しい性格と画期的な意義をもっていたと思われる。
鎌田定夫先生が亡くなられた現在、私たちを取り巻く国内および国際情勢は依然として厳しく、残された課題はあまりにも大きいと言わねばならない。しかし、私たちは、鎌田先生が最後に残された遺言ともいうべき、次の言葉を肝に銘じながら少しでも核も戦争もない平和な世界の実現のために努力していきたいと思う。
「21世紀幕開けの1年は、ブッシュ、小泉、両政権登場と9・11テロや報復戦争 により、非戦不戦・共生・連帯という新世紀への期待は完全に裏切られた。しかし、 テロと報復の連鎖のなかで、変革と新たな創造のための模索も始まり、最大の『なら ず者国家』アメリカの覇権主義、独善主義を孤立化・包囲し、対米従属病日本の克服 のための不屈の戦いもまた続けられている。変革と希望は、困難を恐れず、自ら苦し みを引き受け、弱者・被害者と共に抵抗し闘う勇気によってのみもたらされるだろう。
……中略……
そこで私は、九平研(青島集会)で述べたように、70余年の自らの生涯に照らして、小学5年、中学3年の戦中体験、そして1948年の高校時代から始まった50余年にわたる平和闘争(研究、教育、運動)の全体験に照らして、最初は本能的、直感的に、そして次第に体験と学習を重ねながら、より理性的、科学的な認識と実践によって、欺瞞や恫喝と闘ってきた。何よりも生身の人間として、少年から老年にいたる全過程で、心も知恵も働くのである。
そこで私は、いま出口を求めて苦闘し続ける若い世代に呼びかける。先駆者たちに習って、進んで苦難を引き受け、子供と父母、仲間と共に知恵を絞り、心を通わせ、団結を固めながら、人類史上まれなこの試練に耐え、そこから勝利と希望を紡ぎだそう。 『受苦によって勝利を!』 (Conquer by suffering!) 」
(「受苦を通して変革と希望を−2002年を迎えて−」九州平和教育協議会『九平研通信』61号、2002年1月)
※ 参考文献
・ 鎌田定夫(「核兵器廃絶をめざすNGOの動向」『日本の科学者』Vol.36,No.8,2001年8月)。
・ 鎌田定夫「核兵器廃絶を迫る日本のNGO運動−東京フォ−ラムと広島・長崎・首都圏市民集会−」(『軍縮問題資料』1997年7月号)。
・ 舟越耿一「オランダ戦争展拒絶から見えていること」『反天皇制運動じゃ〜なる』No.36、2000.7.11号。
・ 「特集 21世紀の平和運動を考える」(『長崎新聞』2001年1月1日)。
<最後に>
本稿は、今年4月26日に長崎で開かれた長崎平和研究講座の特別講座「21世紀平和研究の課題〜鎌田定夫先生に学んで〜」および7月6日に上智大学で開かれた日本平和学会での報告「鎌田定夫先生の思想と行動−<九州の平和学>の視点から−」を一部修正・加筆したものであることをお断りします。
☆ 鎌田定夫(かまた さだお)先生の足跡(略歴と業績)☆
< 略 歴 >
生年月日 1929年(昭和4)11月29日生
出身地 宮崎県都城市
1942年(昭和17) 宮崎県庄内小学校卒業
1946年(昭和21) 宮崎県立都城中学校(旧制)卒業
1949年(昭和24) 第五高等学校(旧制)理科修了
1956年(昭和31) 九州大学文学部卒業 フランス文学(文化)専門
同 年(昭和31) 国民文化会議および日本作文の会事務局員
1958年(昭和34) 川崎信子さんと結婚
1960年(昭和35) 新日本文学会事務局員
1962年(昭和37) 長崎造船短期大学助教授
1965年(昭和40) 長崎造船大学助教授
1974年(昭和49) 同大学教授(昭和53年に校名変更, 長崎総合科学大学教授)
1985年(昭和60) 長崎総合科学大学・長崎平和文化研究所所長
1992年(平成4) 同大学客員教授
同 年(平成4) 佐賀大学教養部・九州大学法学部非常勤講師,日本学術会議平和研究連絡会議委員(3期)
1997年(平成9) 長崎平和研究所を設立
2002年(平成14)2月26日 病没(享年72歳)
※ この間、長崎の証言の会代表委員,日本戦没学生記念会理事,長崎平和推進協会理事,日本平和学会理事,日本学術会議平和研究連絡委員会委員,日本社会文学会評議員,日本平和教育研究協議会代表委員,広島大学平和科学研究センター客員研究員,九州平和教育研究協議会会長などを兼務
※受 賞 第1回国民文化会議文芸評論賞(1963年)
平和共同ジャ−ナリスト基金・JCJ奨励賞(1997年)
長崎市政功労表彰(2002年)
<主な業績(共編著など)>
○ 長崎の証言運動の軌跡「長崎の証言の会」(1969年〜現在59冊)
・ 前史(1968年)、『あの日から23年・長崎原爆被災者の実態と要求』(調査報告書)
・ 『長崎の証言』年刊10集季刊12号(1969年〜78年〜81年)。
・ 『ヒロシマ・ナガサキの証言』季刊21号(1982年〜87年)。
・ 『証言−ヒロシマ・ナガサキの声』年刊15集(1987年〜現在)。
○『長崎平和研究』長崎平和研究所(1997年〜現在12号)。
○ 『長崎平和研究所通信』(1997年〜現在20号)。
○ 『平和文化研究』長崎総合科学大学長崎平和文化研究所(1978年〜現在第23集)
・ 『広島・長崎30年の証言』(上・下巻)未来社、1975/76年。
・ 『原爆被害の実相―長崎レポート』NGO被爆問題国際シンポジウム長崎準備会、1977年。
・ 『ナガサキの証言』青木書店、1979年。
・ 『米国戦略爆撃調査団報告』長崎「原爆問題」研究普及協議会、1980年。
・ 『被爆朝鮮・韓国人の証言』朝日新聞社、1982年。
・ 『核廃絶人類不戦』外国人戦争犠牲者追悼碑建立委員会、1982年。
・ 『日本の原爆文学』第14巻(長崎編)、ほるぷ出版、1983年。
・ 『平和読本・ながさきへの旅』長崎の証言の会、1983年。
・ 『ナガサキ−1945年8月9日』岩波ジュニア新書、1984年。
・ 『反核・文学者は訴える』ほるぷ出版、1984年。
・ 『核・貧困・抑圧』ほるぷ出版、1984年。
・ 『イルボンサラムへ』汐文社、1986年。
・ 『長崎の証言双書』(1・2・3巻)汐文社、1989/91/年。
・ 『原爆棄民』岩波書店、1987年。
・ 『長崎の証言』第1〜10集(『日本の原爆記録』第11巻)日本図書センター、1991年。
・ 『広島・長崎の平和宣言』平和文化、1993年。
・ 『新版・ナガサキ―1945年8月9日』岩波ジュニア新書、1995年。
・ 『ナガサキの平和学』長崎総合科学大学長崎平和文化研究所、1996年。
・ 『ガイドブックながさき』新日本出版社、1997年。