ベトナムの協同組合と農村
神田 嘉延

(1)ベトナム中央協同組合を訪問して
われわれはベトナム協同組合に訪ねて、現在のベトナム農村の実状を尋ねました。そこでは、副主席のグエンテイ氏とハノイ市の副会長のテエンテイ氏らが応対してくれました。グエンテイ氏がベトナムの農村の現状と協同組合の役割について、次のようにのべてくれました。
 ベトナム協同組合は、一番貧しい人々の代表をしている組織です。農村の貧しさのため、人口が都市へと集中しているのがベトナムの現状です。協同組合では、農村から都会に人口が流れないように農村の経済発展に努力している組織です。この際に、農産物加工を大切にした農村経済の発展を指導しています。現在では農産物の90%以上はそのまま販売している状況です。ベトナムの協同組合は各省(県)が活動の基本方針の単位になっていますが、農産物加工工場をつくることに重点施策をしているのは共通です。
ベトナム協同組合の経済発展の基本的施策は、村の小さな協同組合の発展を基礎に農村経済を考えています。協同組合は村の経済、教育、文化を支える組織です。長い戦争のため、農村経済は発展できませんでしたが、ドイモイ政策によって、昔の文化が回復できるようになったのです。ベトナムの農村では日本のテレビドラマの「おしん」を感動してみています。おしんの子どもの頃はは今のベトナムの農村ににているからです。努力すれば、日本のように経済発展ができるとということがベトナム人の今の心です。
 ベトナム人は日本人と同じように勤勉です。将来的にはきっと豊かになります。ベトナムの問題は長い戦争で国土が荒廃し、人々の心が傷ついたことです。しかし、ベトナムの協同組合では、昔の文化を回復していくことも大切にしています。ベトナムは4000年の歴史がありますが、戦争と厳しい気候のため、文化遺跡が十分に残っていません。人々が意識的に努力していかないとベトナムの歴史的文化は消えていきます。
ひとつの村にはひとつの学校とひとつの診療所・病院が必ずあります。村の協同組合にとって、診療所・病院や学校の経済的援助をしていかねばならないことになっています。政府の援助だけでは、それらを運営していける財政的基盤がないからです。幼稚園から中学校まで村が教育の条件を整えているのです。
 ベトナムにとって、村は小さな基礎的社会です。農村の学校の条件整備と運営は、政府、自治体、親で負担しています。ベトナムではどの子どもでも教育される権利があるということは国民の意識に定着しています。学校教育の内容は国の教科書によって基本は決まっていますが、親と教師とよく相談して課外教育やスポーツ活動、文化活動などが行われています。このなかで、協同組合としても積極的に関与しています。
 ベトナムでは、幼稚園から親や地域住民が教育のためにお金を支出しなければなりません。学校の建築と教師の給料は政府と自治体が払っていますが、それだけでは不十分です。親や地域住民が学校の条件整備をしなければなりません。
 農村協同組合の学校の条件整備の資金援助の役割が大きいのです。農村には健康検査を定期的にやるための病院・診療所が必ずあります。診療所は政府から半分援助がだされますが、あと半分は協同組合が負担しています。病気になったとき、患者は少し負担すればよいようになっています。各村には医療スタッフが必ず派遣されています。
 ベトナムの村は2000−3000人程度をかかえている行政の末端の基礎組織です。村(社)の単位に人民委員会の行政単位があります。小学校の校区も村(社)が単位です。この下に集落(部落)がありますが、伝統的自治単位は村(社)になっています。ベトナム北部の紅河デルタの農村では村(社)の伝統的自治機能が強固に残っているのです。

(2)ハノイ市近郊のミイニョン村(社)を訪問して
この村(社)は農産物加工による経済発展がみられベトナム農村での発展のモデル地域です。大変豊かな農村です。人民委員会の役場で協同組合の役員たちと懇談をもちました。
 協同組合の組合長は、戦争に長くいっていた英雄です。1972年に戦争から帰ってきて、この村で一番高い地位を与えられました。「愛国とはあなたのふるさと愛することである」と軍隊でも教えられたということです。この村は歴史の遺跡がたくさんあるところです。ベトナム農村文化がこの村にたくさんあると組合長は強調していました。
 1986年以降のドイモイ政策のなかで、この村は急速に発展しました。労働人口一人あたりの収入が600ドルあげています。ドイモイ政策によって、色々の作物や職業を自由にすることができるようになりました。昔は、この村はミルクをつくる人が多く、牛の皮をとって牛革製品にして、販売していた歴史をもっていた村であります。
 現在ではミルクをつくる人もいなく、皮製品の加工場もありませんが、農産物を加工する精神が復活しています。はすの実、薬草を漢方薬に、ニッケイを加工、らいちをりんごジャムとしての加工等様々な農産物、林産物を加工して製品にしているのです。ニッケイなどは、山岳の少数民族と農産物の現物を交換して、原料を仕入れているのです。加工したものは、ベトナムの貿易会社をとおして輸出製品として、または、国内品として自由に市場に売られていくのです。
この村は2500家族、人口13000名とベトナムでは巨大な村です。しかし、村の役職は、会長1名、副会長1名、専門官6名で仕事をしている状況です。専門官は、文化・スポーツ、軍、治安、交通、水利、財産管理です。会長と副会長で学校教育と医療の担当をしています。事務員は専門的な仕事をしているわけではなく、パートとして12名いる程度です。われわれは、人民委員会の事務所の懇談のあと、村のなかを歩き、二軒の豪邸の農家を訪問しました。一軒の農家は4階たての建てたばかりの豪邸に訪問しました。
この農家ははすの実、薬草、稲作をしています。ドイモイ政策によって、土地を拡大しています。家族6名と忙しいときは5名ほど雇用しています。もう一軒の家では、庭で15名ほどの近所の人が仕事の手伝いにきていました。はすの実、ニッケイ、漢方薬、乾燥ライチなどを加工していました。この家は農業をせずに農産物加工工場として、大きな収益をあげています。年間1万ドルの収入をあげることができると旦那さんはのべていました。この村は伝統的に漢方薬をつくる技術をもっていました。そして、昔から農産物加工品の商売を熱心にしていた伝統があったといいます。
 この村の訪問をしたときは、田園風景のなかに農村の市街地に入っていくような感じでした。この村は協同組合の財政力もありまりますので小学校の授業は8時間くまれています。村の子どもたちが通学する中学校と高校は半日の授業になっています。財政力も豊かですので多くの子どもが高校までかよっています。
 この村では、ほとんでの家庭でビデオが入っていますので、映画館にいく必要はありません。村のなかには、文化交流やスポーツをする施設が整備され、病院も整っています。村のなかには最近建て敷地30坪ー40坪ほどの3階、4階の豪邸があちこちにみられていました。
 この村の発展がドイモイ政策以降の農産物加工工場の普及によって成し遂げられたということであれば農村の地域経済の発展のあり方として大変興味あることです。また、伝統的な村(社)の組織がそのまま現代のなかにも生きておりました。村の行政組織といっても日本での町村行政と全く異なり、専門的な行政職員がフルタイムで働いていないことです。村の行政的組織というよりも自治的な住民組織という 感じが強くした。
 また、協同組合と村の人民委員会の関係もはっきりせず、その分離も明確でないようです。村の協同組合は、村の経済的機能を担っているようです。協同組合の組織も現在法律的にも検討中であるということですので、その機能分離のあり方をこれからのようです。