いま「九州・沖縄」から平和を創る−「非核神戸方式」と

地域・自治体の平和力−

木村 朗(鹿児島大学、平和学専攻)
 
はじめに
  21世紀初頭に生じた9・11事件で明らかになったことは、世界最強の軍事力をもってしても国民の安全を守ることはできないという事実であり、
これまでの安全保障概念は根本的見直しを求められることになった。しかし、その後のブッシュ政権の対応は、あくまでも従来型の「国家(あるい
は軍事力)中心の安全保障」や「(集団的自衛権に基づく)軍事同盟」を強化・拡大することによって危機を乗り切ろうとするものであった(1)。
いま本当に求められているのは、こうした旧来型の「国家の論理」に基づく「力による平和」ではなく、「人間の安全保障」の実現と「(国連を中
心とする)集団的安全保障」の再編・強化をはかるという選択である。それは、紛争の根本原因である飢餓・貧困・差別などの「構造的暴力」の克
服をめざし、市民・NGO・自治体などが「積極的平和」を創造する主体となり、その世界的・地域的ネットワークの構築と国境を越えた市民社会の形
成を追究する「世界(あるいは地球)市民主義」を意味している(2)。
より具体的には、冷戦後の日米安保体制において新たな軍事戦略拠点として重視されつつある「九州・沖縄」という一つの「地域」から、平和を創造
する主体としての「市民」や「自治体」の側が、「安全保障(外交・防衛)問題」を地球的規模で考え、「国家」の側とは異なるもう一つの「平和戦
略(=平和憲法を活かす具体的構想)」を考え行動することが鍵になってくる。この点で、労組・政党や特定の平和活動家が中心となった従来型の平
和運動(「守る平和」)ばかりでなく、普通の市民、特に女性や若者が気楽に参加して音楽や絵画など多様な手段で自己表現をし、在日外国人との連
帯やインターネットを通じた国際的ネットワークをも形成しようとするような新しい平和運動(「創る平和」)が登場しているのが注目される。これ
は「自分たちの安全は自分たちの手によって守る」という「市民(あるいは民衆)による安全保障」、自治体・地域を主体とする「地域から問う安全
保障」という考え方の反映であり、また「地方(=「周辺」)から中央(=「中心」)を変革する」という新しい発想・考え方であるといえよう。
9・11事件以後、日米軍事同盟をさらに強化・拡大する動きがある一方で、国家の側から有事法制の整備が執拗に提起され、すでに有事関連3法に
続いて新たに有事関連7法が成立するにいたった。このような状況下で、全国各地でそれに反対する地域の平和・市民運動の側も大きな正念場を迎え
ている。その中でも、地域と市民の視点から最も注目されるのが、高知、函館、小樽、石垣、鹿児島など全国各地で取り組まれている港湾の非核化、
すなわち「非核神戸方式」の導入を求める動きである。これは、「脱国家」・「脱軍事」の動きを創り出そうとする試みの一つであると考えられる。
ここ鹿児島でも2002年5月25・26日に、函館(1999年)、横須賀(2000年)に次ぐ第三回目の「非核・平和条例全国交流集会」が開
催された。この運動の最大の意義は、国是である「非核三原則」と日米安保体制の下でのアメリカによる「核の傘」の提供とは両立不可能であるとい
うこと、「国民の安全」のためには「国家の安全」すなわち国家中心の「軍事的安全保障」よりも「人権」を最優先する人間中心の「非軍事的安全保
障」が最も有効であること、またそのために自治体・地域の持つ「平和力」を市民・地域住民が育てていくことが最も大切であること等を明らかにし
た点にある(3)。
本稿では、新ガイドライン安保体制下で最前線基地化しつつある「地域としての九州・沖縄」(ここでは米軍岩国基地のある山口も含めて考えることに
する)の現状をふまえ、とくに「非核神戸方式」の導入をめぐる問題で注目を集めている鹿児島での脱軍事化と港湾の非核化をめざす取り組みを中心
に「地域から平和を創る」可能性を探ることにしたい。

 

1 新ガイドライン以降の日米安保体制の変質と「九州・沖縄」

冷戦後のアメリカのアジア・太平洋戦略(あるいは東アジア戦略)の中で、フィリッピンからの米軍基地の撤去、ソ連崩壊後のベトナムからの旧ソ連軍の引き上げなどで、アジア・太平洋地域における在日米軍基地の役割・比重が相対的に高まってきた。そして日米安保体制の本質的役割・性格が従来の対ソ抑止型、日本有事あるいは国土防衛型の日米安保体制から地域紛争型、周辺有事あるいは海外出動型の日米安保体制へと徐々に移行・変質することとなった。

この背景には、「(米国)東アジア戦略報告」(1995年2月)から「(日本)新防衛計画大綱」(同年11月)、さらに「日米安保共同宣言」(1996年4月)へと続く安保「再定義」のプロセスがあり、その具体化が97年9月に改訂された「日米防衛協力のための指針」(以下、「新ガイドライン」と略称)および「周辺事態安全確保法」(99年8月、以下、「周辺事態法」と略称)であった。そうした中で、従来、関東(横須賀・横田・厚木)や東北(三沢)・北海道などの東日本・北日本に重点が置かれていたのが、朝鮮半島有事や台湾海峡有事をにらんで西日本あるいは南日本の九州・沖縄地域(沖縄・佐世保・岩国)に対する軍事的拠点の比重が急速に移りつつある(例えば、『西日本新聞』1999年9月20日付)。

冷戦後の日米安保体制の生き残り戦略ということで、新たな方向性として軍事同盟化=NATO化の動きが一挙に加速して出てきた。日米安保再定義・新ガイドライン・周辺事態法という一連の新しい流れの中で、日米間の戦力(装備、組織、運用)の共用・一体化が進んでおり、また平時における日米共同訓練・演習も頻繁化してきている。こうした動きは、明らかに有事における日米軍事協力の先取りであり、その具体的事例が九州・沖縄各地でさまざまな形であらわれている。

とりわけ97年の新ガイドライン制定以降、そのような動きが顕著にあらわれてきた。九州・沖縄各地での米軍基地での事前集積はさらに進み、港と集積基地の物資輸送を担う民間業者の協力、あるいは防災訓練および救難活動での日米協力の実施や、自治体の民間施設、すなわち港湾・空港・病院などの利用に対する米軍側からの相次ぐ要請・打診が行われた。また、九州上空での低空飛行訓練も、有事における自衛隊あるいは民間・自治体による後方支援の全面的具体化として、地域住民の反対の声を無視して実施されてきた(4)。

また沖縄・佐世保・岩国の在日米軍基地では、さまざまな形で基地機能の強化や施設の拡充などが矢継ぎ早に行われている。とくに90年代後半以降、九州・沖縄地区における日米共同訓練、米軍機・米軍艦船の民間空港・港湾の利用、九州上空を訓練ルートとした低空飛行の活発化で、九州・沖縄地域が重視されるようになった。鹿児島や宮崎などの南九州も、沖縄・佐世保・岩国の中間地点という地理的条件から軍事的拠点としての戦略的価値が改めて見直されている。例えば、米軍機による民間空港利用の比率は、2002年度のデータで、長崎・福岡・鹿児島がすべて全国の上位5位以内に位置しており、この三つの県だけで全体の6割以上の比重を占めている(『朝日新聞』2003年5月21日付)。特に鹿児島については、民間港湾の米軍艦船による軍事利用が九州では常に突出しており、全国でも1999年から2003年のデータでもトップとなっている(5)。

特に9・11事件以降、九州・沖縄地域の「有事での最前線基地化」が平時において急ピッチで行われており、とりわけ地理的な関係から朝鮮半島をめぐる有事などを想定したテロ・ゲリラ対策においても九州・沖縄地域が最重要視されるようになった(6)。

例えば、佐世保基地では、周辺事態法成立以来、米軍の戦略見直しと再編強化が進められてきている。米軍の現状は、最新鋭の揚陸艦エセックスなど7隻の米艦船が常駐している。 99年以降、自衛隊の整備機能と意識高揚が図られ、ミサイル艦の配備のため660名が配置され、全国有数の有能な部隊・特殊部隊へと変身しつつある(7)。2001年11月9日には、対テロ特措法に基づき燃料補給を目的としてインド洋に海上自衛隊3隻が派遣された。9.11事件以降、在日米軍は、米原潜など米軍艦船の入港情報を公開しない方針を採るようになっている。

また沖縄の米軍実弾砲撃演習を本土に分散・移転することによって、本土の「沖縄化」が一層進む危険性が強まっている。九州・沖縄地域では大分県の日出生台演習場(大分県玖珠町、九重町、湯布院町にまたがる敷地面積4900ヘクタールの自衛隊演習場で、87年、91年、96年に日米合同訓練が実施される。)では、99年から毎年、米軍による実弾砲撃演習が、実施されてきた。米軍は沖縄のキャンプ・ハンセンで実施してきた県道104号越え実弾砲撃演習を、99年以降全国5カ所(大分県日出生台演習場、北海道矢臼別演習場、宮城県王城寺原演習場、山梨県北富士演習場、静岡県東富士演習場)で分散・移転する形で行い、日出生台演習場での過去5回は8日間の演習だった。演習に参加する米軍車両は高速道に乗るまでは一般国道をノンストップで通過するなど、米軍最優先の態勢を作っている(8)。

そして、北九州市小倉にある曽根陸上自衛隊の訓練場には、対ゲリラ模擬訓練を実施できる施設が地域住民の反対の声を抑えて初めて設置されており、そこでの訓練が日常的に行われているばかりでなく、大分県の日出生台演習場では、初のゲリラ戦を想定した市街地戦がすでに実施されている。また、陸上自衛隊霧島演習場(吉松町とえびの市)にはテロ、ゲリラ戦への対応を想定したしがち訓練場が建設されつつあり、小隊(約30人)規模の訓練が行われる予定である。(『南日本新聞』2003年9月4日付)。近年になって急速に注目されている不審船対策の一環として、佐世保の海上自衛隊基地に高速ミサイル艇2隻がすでに配備されている(9)。

また九州・沖縄からは少し離れているものの、広島の呉基地には60人規模で不審船の武装解除を任務とする海上自衛隊の特別警備隊が置かれている。2000年12月の東シナ海で生じた「武装不審船事件」(10)でもその動きが注目されたが、結局出動するにはいたらなかった。このようにさまざまな形で、すでに九州・沖縄地域では有事(とくに朝鮮有事)をにらんだ最前線基地化(軍事基地化、あるいは軍港化)が既成事実として急速に進んでいるという現状がある。

 以上、ここでは新ガイドライン以降の日米安保体制の変質とそのもとでの「九州・沖縄」の最前線基地化の現状をみてきた。こういった動きが既成事実化する中で、市民・地域住民の側は、このような実態・状況にどのように対処していけばいいのか、という切実な問題に直面しているといえよう。

「九州・沖縄から問う平和戦略」あるいは「平和のためのガイドライン」の構築という観点から、まず一番重要と思われるのは、現在の日米安保体制に見られるような軍事力中心の発想からの転換である。すなわち、これまでの軍事力中心、国家中心の安全保障の考え方から脱して、非軍事的・脱国家的な「市民(あるいは民衆)による安全保障」や「地域から問う安全保障」という新しい思考と発想をとる必要がある。

 

2 周辺事態・有事法制と自治体の平和力−「非核神戸方式」の意義と展望

(1)   周辺事態法から有事法制へ

周辺事態法(1999年8月25日施行)の特徴と問題点として、「原則は事前承認、緊急時は事後承認」という国会承認の手続き、「事態の性質に着目したもので地理的な概念ではない」という「周辺事態」概念の定義、「後方地域支援」の実体と「武器使用」の基準見直しなどが指摘できるが、ここでは、自治体・民間協力のあり方に関連する問題に注目したい。

  周辺事態法第9条では、新ガイドラインで明記された「米軍の活動に対する日本の支援」を具体化して、第一項で自治体協力(「関係行政機関の長は、法令及び基本計画に従い、地方公共団体の長に対し、その有する権限の行使について必要な協力を求めることができる。」)、第二項で民間協力(「前項に定めるもののほか、関係行政機関の長は、法令及び基本計画に従い、国以外の者に対し、必要な協力を依頼することができる。」)を定めている。問題なのは、この政府による自治体や民間への協力要請の具体的内容ばかりでなく、その協力要請をどのような場合に拒否できるかを明らかにしていない点である。

  政府は、法案審議の過程で協力内容を問う自治体側からの再三の要求を受けて、ようやく港湾・空港の使用や救急輸送、民間輸送事業者の協力、民間医療機関への患者の受け入れなど最小限の11項目(最終的には13項目)を盛り込んだが、依然として「あいまいさ」は払拭されていない。また、「国の要請に対する協力は義務か」という問題で、「一般的な義務」であるが正当な理由がある場合は断ることはできるとしながらも、その「正当な理由」の基準は示されておらず、実に「あいまい」である。結局、罰則規定は盛り込まれなかったものの、許認可権や補助金供与等の巨大な権限を政府が握っているため、自治体や企業にとって「事実上の強制義務」となる可能性は大であると言わざるを得ない。

  以上のように、周辺事態法はその内容からみてまさに「戦争協力」法であり、日本国憲法の平和主義や基本的人権・地方自治、議会制民主主義等の基本原則と相反する性格を持っている疑いが濃厚であるといえよう(11)。

周辺事態法の成立後に、本格的に登場してくるのが有事立法を整備する動きである。いわゆる有事関連3法案(@武力攻撃事態対処法、A改正自衛隊法、B改正安全保障会議設置法)が2002年4月16日に閣議決定され、翌日国会に上程された。日本での有事法制へ向けた動きは、1965年に暴露された「三矢研究」(正式には「昭和38年度 統合防衛図上演習」)が発端である(12)。福田内閣時代の1977年より本格的に「研究」(あくまでも「法制化を前提としない」形で)が開始され、1981年に第一分類(「防衛庁所管の法令」)、1984年に第二分類(「他省庁所管の法令」)の報告がそれぞれ出されたものの、第三分類の「所管省庁が明確でない事項に関する法令」が残されたまま今日に至っていた。一方、冷戦終了後、PKO等協力法(1992年)、日米安保共同宣言(1996年)、新ガイドライン(1997年)、周辺事態法(1999年)、2001年の対テロ特措法および自衛隊法改正、2003年のイラク特措法などによって、自衛隊の海外派兵を可能とする法的枠組みが整備されていった。

ここで米国との関係で注目されるのは、1994年に「核開発疑惑」問題で北朝鮮と戦争直前の状況にまでいたった米国が日本に突きつけた要求と2000年10月に発表されたア−ミテ−ジ報告(「対日政策提言」)である。前者では1900項目以上もの対日要求が出されたが日本に有事法制がなく実効的な支援体制が期待できないとの失望を米国側に与え、後者の報告では集団的自衛権行使のための憲法解釈の変更と有事法制(特に情報管理法制)の整備・確立への強い「期待」があからさまに示されていた。こうした米国の日本に対する期待・要求は、2001年11月の対テロ特措法(「米軍等支援法」ともいえるもので、「戦時」での米軍への「後方支援」を可能とした)および自衛隊法改正(とりわけ「防衛機密」規定の導入)で一定程度満たされることとなったが、それでも不十分と考える米国の意向に添う形での日本の回答が有事法制導入の動きであったといえる(13)。

この論理の最大の弱点でかつ最も危険なところは、「軍隊」でない自衛隊を事実上「軍隊」として扱い、現時点での政府解釈でもできないはずの「集団的自衛権の行使」をなし崩し的に行おうとしている点である。このことは、2001年の9・11事件および同年12月の武装不審船事件以降に顕著となった、「警察力」と「軍事力」の同一視、あるいは「集団的安全保障」と「集団的自衛権」の意図的混同という流れのなかで密かに既成事実化しつつある。具体的には、自衛隊の武器使用基準のなし崩し的「緩和」(というよりも「拡大」であり、ROE=交戦規則の制定はその総仕上げ)や制服組の発言権増大とシビリアン・コントロールの形骸化(14)、日米軍事同盟のさらなる段階での軍事協力(「防衛協力」とは限らない、「集団的自衛権」を前提とする「真の軍事同盟」への急速な傾斜)に端的に表れている。いうまでもなく、有事体制とは「戦争」ができる体制のことであり、「有事」(すなわち「戦時」)における自衛隊および「米軍」の自由な軍事活動を可能とするためにあらゆる手段で国民や自治体を「動員」し強制的に「協力」させることを意味している。

結局、有事関連3法案は防衛庁情報リスト問題など政府側の不手際で継続審議となったが、翌2003年6月6日に若干の修正を加えた上で再度提案・審議され、最大野党である民主党の支持を受けるなど圧倒的多数で国会を通過・成立した。さらに、今年5月に新たに有事関連7法案(@外国軍用品等海上輸送規制法案、A米軍行動円滑化法案、B自衛隊法改正案、C特定公共施設利用法案、D国民保護法案、E国際人道法違反処罰法案、F捕虜等取り扱い法案)が採択されて成立し、これによって有事法制の基本的骨格は確立されることになった(15)。
 こうした相次ぐ有事関連諸法の成立によって、日本は米国の先制攻撃戦略に加担・協力するために国民を動員・統制・管理(監視)するという戦争国家・警察国家への道をいよいよ本格的に歩み出すことになった。いうまでもなく、有事法制の最大の目的は、「戦争ができる国」「戦時動員体制」を作って、「米国の戦争」(とくに「朝鮮有事」や「台湾有事」)に日本が自衛隊ばかりでなく自治体や民間企業・一般国民も含めて総力を上げて全面的に協力できるようにすることにある。日本国憲法の三大原則である、平和主義、基本的人権の尊重、国民主権(主権在民)は、交戦権および集団的自衛権の行使と「領域外」での武力行使の容認(専守防衛の放棄)、米軍および自衛隊の軍事活動円滑化のための国民の権利と自由の制限(とりわけ国民の知る権利や表現の自由の否定)、首相・行政府への極端な権限・情報の集中と国会・国民関与の軽視、等という形ですべて否定する内容となっている。有事法制は違憲の疑いが濃厚であり、まさに、下位法(=有事法制)が上位法(=平和憲法)を覆す「法の下克上」あるいは「法的クーデター」が現在進行中の翼賛状況化の中で静かに起きているといえよう。

すでに、2001年の対テロ特措法および自衛隊法改正、2003年の対イラク特措法などによって、自衛隊の海外派兵が現実のものとなっている。現在の状況は、まさに新しい戦前であり新しい戦争が到来する日も目前に迫っていると言わざるを得ない。否、9・11事件以後に米国が発動した対テロ戦争に日本が積極的に参加しているという意味で、すでに日本は戦時下にあると言ったほうが妥当であろう。このような状況のなかで、一部の市民や特定の地域から強い反発が起きているとはいえ、国民全体からの大きな抗議の声があまり聞こえてこないのはなぜであろうか。とりわけ、マスメディアの「沈黙」は本当に異常である。マスメディアの権力への自発的服従と権力による言論・情報統制がすでに始まっている今こそ、市民一人ひとりがなぜこのような状況を招くことになったのかを真摯に反省・検討し、こうした状況を克服するための市民・平和運動の再構築に新たに取り組む必要があると思われる。

 

  (2)「非核神戸方式」の意義と現状−「非核3原則」と「事前協議制」の矛盾

周知のごとく、「非核神戸方式」とは、1975年に神戸市議会が核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否決議を可決し、その決議をもとに入港を希望する外国艦船に「非核証明書」の提出を義務づけることによって核積載可能艦船の入港を拒否するものであり、今日まで米艦船の神戸港への入港を一度も認めていない、という画期的な成果をもたらしている。

いうまでもなく、この「非核神戸方式」が可能となったのは、神戸市が神戸港の港湾管理権を保有しており、またアメリカ政府が「核抑止」論の立場から自国の軍用機および軍艦に核を積んでいるか否かを明らかにしないというNCND政策(Neither confirm nor deny)を一貫してとっているからである。この「非核神戸方式」が、「核の傘」と「非核三原則」の矛盾という日米安保体制のもっとも脆弱な部分を突く性格をもっているだけに、新ガイドライン策定以後、この神戸方式への関心は、賛成・反対双方の側でさらに強まっているのは当然といえよう。 高知県で99年2月に橋本知事がイニシアティブをとって県議会決議に加えて「条例化」という形でこの方式を導入しようとしたのに対して外務省がクレームをつけたり、98年5月に政府・外務省からの圧力もあって神戸港へカナダ軍艦が入港した事件(これはあくまでも非核国カナダの軍艦で、寄港地も海上自衛隊基地であったので、「非核神戸方式」が直ちに放棄されたとは思われない)が生じたのも、そうした関心の高まりを示している。 ここでは、高知県の事例をもう少し詳しく検討することでこの問題を掘り下げてみたい。

高知県では、97年12月に県議会で「高知県の港湾における非核平和利用にかんする決議」が全会一致で採択され、その決議にもとづいて98年3月議会に港湾施設管理条例を提出するはずであった。しかし、外務省が条例化に反対する意向を地元選出の中谷元衆議院議員(自民党前国防部会長)を通じて伝えたため、提案をいったん見合わせている。その後、高知県は98年5月29日付で外務省に非核港湾条例にかんする質問状を提出。そして、約7月たってようやく外務省は、次のような内容の公式見解を示した。竹内行夫北米局長名で98年12月28日付で出された外務省見解は、港湾管理者である自治体の権限を「港湾の適正な管理および運営を図る観点のものにとどまる」と制限したうえで、外国艦船の寄港にかんする国の決定に自治体が「関与」または「制約」することは港湾管理者としての権限を「逸脱」するもので「許されない」としている(『高知新聞』99年1月7付)。しかし、この見解は、「外交や防衛は国の専権事項である」という戦前型の時代遅れの思考を前提としているばかりでなく、「危険物の取扱い」その他の港湾管理の適正な管理・運営を行う権限を自治体に与えた港湾法の規定を完全に無視して、外国艦船(特に米軍艦艇)の入港を絶対化するものである。仮に外国艦船の入港の是非を最終的に判断するのが国の判断(安保特別法である日米地位協定第5条だけでは根拠は不十分)だとしても、非軍事・平和利用の徹底を求める自治体の意思を尊重するのは政府としての当然の責任であると思われる。

もう一つの重要なポイントは、「非核3原則」と「事前協議制」をめぐる問題である。先の外務省見解に対して県内外から反対・賛成双方の意見が出される中で、橋本大三郎知事は、「非核神戸方式」をさらに徹底させた非核港湾条例の制定を押し進めることを年頭に改めて表明。その後、政府・自民党側からの度重なる圧力・妨害を受けて「非核証明書」の提出を相手国から外務省に変えるなどの一定の後退・譲歩を余儀なくされながらも、国是である「非核3原則」の実質化と県議会決議という形(間接民主主義)で示された県民の非核平和の意思の実現を非核港湾条例(および附随する要綱)によってはかることをこの2月定例県議会に提起するにいたったわけである。この高知県の非核港湾条例という形は、国会決議による国是である「非核3原則」を法制化する政治的義務をこれまで怠っていた政府・国に代わって自治体がはたそうとする試みであると同時に、いわゆる「非核神戸方式」をさらに徹底させる性格をもっているといえよう。

それでは、政府・国会が国是としてきた「非核3原則」を実質化させようとする提案に対して、なぜこれほどまでに政府・与党側は強く反発したのであろうか。その理由は、まず第一に、「核兵器の存在を肯定も否定もしない」という軍事戦略を現在も維持している米軍艦艇の入港が「非核神戸方式」の導入によって事実上困難となるためであり、第二は、「非核神戸方式」が神戸市や高知県ばかりでなく函館市など他の自治体にも広がる勢いを見せており、米軍艦艇による民間の港湾施設の利用を新ガイドライン関連法の制定でより実効性のあるものにしようとしている政府にとって「日米安保体制」そのものを麻痺させる可能性を持つ非常に厄介なものと写っているからである(16)。ここで問題となってくるが、核持ち込みについての「事前協議制」である。政府は、「非核3原則」の堅持を掲げる一方で、「核持ち込みの協議があれば、当然断る」「事前協議の申し入れがない以上、核の持ち込みはない」という対応に終始してきた。しかし、後述するように、これまで米国の元高官たちから、寄港の際の核持ち込みは事前協議の対象とはならないという証言が繰り返されてきているばかりでなく、有事の際の核持ち込みの密約の存在も明らかになっている。したがって、日米安保体制のもとでの「核の傘」と「非核3原則」の矛盾を覆い隠す装置としての「事前協議制」というレトリック・論理はいまや破綻していると言ってよい。

高知県の橋本知事が99年の2月定例県議会に提案した県内港湾の非核化を宣言する県港湾施設管理条例の改正案および同時に提出された「綱領」案は、結果的には、自民党県議団の強い反対や政府・外務省の介入で挫折させられるにいたった。しかし、この問題はもちろん橋本知事や高知県だけのものではなく、「地域から平和を創り出そうとする試み」は相前後して同じような動きを全国各地に生じさせるという波及効果をもたらした。

ここで、「非核神戸方式」と大きな関連があると思われる、「非核三原則」と「事前協議方式」(あるいは「核の傘」・「核密約」)との矛盾という問題に触れてみたい。

いうまでもなく、「非核三原則」とは、核兵器に関して、「@ 持たず、A 作らず、B 持ち込ませず」との日本政府の基本方針である。この基本方針は、1968 年に佐藤栄作首相が国会で答弁をして以来、国是として歴代政府によって形式上は受け継がれている。しかし、この三原則うち、「B 持ち込ませず」については、日米安保条約によってアメリカの「核の傘」の下にある日本は米核戦略の最前線に置かれており在日米軍基地に核兵器が持ち込まれている可能性が高いこと、また核兵器を積載して航行していると思われる米軍艦船が日本寄港時に核兵器をわざわさ取り外すとは軍事作戦上のうえからも考え難いことなどの理由により、「核持ち込みは安保条約上の事前協議の対象。事前協議がない以上、核持ち込みはないと考える」との日本政府の説明に対しては野党側や多くの一般国民から強い疑問が出されていた。しかし、 74 年のラロック・アメリカ退役海軍少将のアメリカ両院合同原子力委員会での証言 (「核兵器積載艦が外国の港に入る時、核兵器をはずすことはない」)、81年のライシャワー元駐日アメリカ大使の発言 (「核兵器積載アメリカ艦船・航空機の日本領海・領空通過は核持込みに当たらないという日米間の口頭了解があり、アメリカ艦船は核を積んだまま日本に寄港している」) など、事実上これを否定する証言が続き大きな衝撃を日本国民に与えた。また、アメリカの情報公開制度に基づいて、「日本の領海や港内の艦船上の核は“持ち込み”には当たらない」という密約が日米間に存在していたという疑惑を裏づける米軍極秘文書を菅英輝(九州大学)・我部政明(琉球大学)両氏ら日本側の研究者が発見・確認してもいる(17)。それにもかかわらず、日本政府は未だに先に述べた答弁を繰り返すのみでそうした指摘・疑惑を一貫して否定し今日にいたっている。ここには、「核の傘」と「非核三原則」の二重基準ともいうべき矛盾・両立不可能性と「事前協議制」の機能不全・形骸化が象徴的にあらわれている。

こうした政府側からする国家の論理に対して、市民・自治体の側はどのような論理で対抗できるのであろうか。「事前協議制」の虚構性はすでに述べたが、その中でも重要な論点は、日本政府と自治体の主体性に関わる問題である。この問題がもつ意味がいかに重大であるかは、「周辺事態」や「有事」の認定を誰が何時どのように行うのか、を考えるだけでも明らかであろう(18)。自治体協力との関連でいえば、政府からの「協力要請」を受けた自治体はその内容をどの段階でどれだけ市民の側に知らせようとしているのか、また知らせることができるのか、といった問題がある。政府は、自治体への「協力要請」の内容で「米軍の作戦行動が対外的に明らかになる場合」は情報を一部非公開にする、との姿勢をみせている(『南日本新聞』99年6月6日付)。自治体に問われるのは、いかに地域住民の側に立って最大限の情報開示を行う姿勢(人権、すなわち、市民の生命と安全を最優先する視点)を持てるかである。特に、非核・平和条例についていえば、「国の法令が空白である以上、地方公共団体が核兵器の持ち込みを制限するために、その自治に管轄する港湾区域について独自に条例を制定することが、条例制定権について定めた憲法九四条や地方自治法十四条一項に抵触することはない。…また、外交は国の権限に属するといっても、ここでいう国とは行政府にすぎず、行政府はあくまでも国内法に従って外交を行うものでなければならない。国内法には法律もあれば条例もある。条例の制定が法令に違反しないものである以上、他国との外交は、その条例を遵守して、進められなければならない」(19)との指摘が重要である。

いずれにしても、国是である「非核三原則」と日米安保体制の下でのアメリカによる「核の傘」の提供とは根本的に矛盾しており両立することはできないということ、国家中心の軍事的安全保障よりも人権(すなわち、市民・国民の生命と安全)を最優先する「人間の安全保障」を重視する必要があるということを最後にここで強調しておきたい(20)。

 

3 地域からの平和戦略の提起−鹿児島における脱軍事・脱国家の試み

(1)「非核神戸方式」と鹿児島ー意見広告への取り組みを中心にー

鹿児島県では、すでに97年までに県を除く96市町村のすべてが非核・平和自治体宣言や議会決議、陳情・請願採択などを行い、何らかの形で非核・平和の意思を表している。またその一方で、すでに述べたように新ガイドライン策定(「日米防衛協力のための指針」、97年9月)以来、鹿児島県内の民間空港・港湾への米軍機・米艦船の寄港回数も全国的に見ても有数(ここ10年間でみると、いずれも全国で第3番目)となっている。また、「周辺事態法」を先取りする形で、98年11月には、鹿児島にある霧島演習場(姶良郡吉松町、えびの市)で日米共同軍事訓練が初めて実施された。 

そこで、こうした状況に対してはさまざまな反対・抗議運動が展開されたが、特に核搭載疑惑艦船の相次ぐ入港という事態に危機感を抱いていた鹿児島県内の研究者・弁護士・医者など16名が呼びかけ人となって、98年7月に「錦江湾・鹿児島の海の非核化をめざす意見広告の会」が結成された(21)。その後、この会が中心となって、個人1口千円(団体1口、1万円)以上のカンパを個人および団体に呼びかけて約4ヶ月間、県内港湾の非核化をめざした活動が行われた。こうした活動のなかには、約10回の呼びかけ人会議や同年10月23日の非核シンポジウムの開催、呼びかけのチラシやはがきの作成・郵送、呼びかけ人による個人および県内の各平和・市民団体や労組などへの協力要請、新聞社・広告会社・印刷会社との交渉などが含まれている。こうした取り組み・活動の結果、約2千人の個人および諸団体の協力で総額約285万円の募金を最終的に集めることができ、『南日本新聞』(98年12月1日朝刊)および『朝日新聞』(99年1月15日朝刊)の計2回にわたって「非核・平和利用を求める県民宣言」を中心とする意見広告を掲載した。

 この運動の途中で、98年9月に霧島演習場で初めての日米共同軍事訓練が実施されたことや、この運動と趣旨を同じくする鹿児島港における非核平和利用に関する決議が98年10月に鹿児島市議会で採択されたこと、98年11月末に日向灘での日米共同掃海訓練に参加する海上自衛隊艦艇(掃海母艦、掃海艦、掃海艇合わせて22隻など)が志布志港に寄港したこと、98年12月のアメリカによるイラク爆撃に鹿児島にも97年に寄港したことがある米強襲揚陸鑑ベローウッドが参加したことなどを考えれば、この意見広告は結果的に絶妙なタイミングで出されたと評価できる。 その後、「意見広告の会」は、意見広告のポスター300枚の作成・配布を行うとともに、鹿児島県知事および県議会議長への要望書を99年1月21日に提出してその主な活動を終えた。

結果的に目に見える具体的成果をもたらすことは必ずしもできなかったものの、こうした取り組み・運動は今日でも「みんなで平和をつくる会」や「世界に活かせ!憲法9条かごしまネットワーク」などさまざまな市民・平和運動に受け継がれており、地域から平和を考え、市民みずからが「自分たちの安全は自分たちで守る」という立場で行動することがいかに大切であるかを再認識させる一つの契機となったと評価できるのではないだろうか。

 

(2)   地域から市民・自治体レベルで平和を考え、創造する

アジア・太平洋地域における日本の在日米軍基地、あるいは日本における九州・沖縄の基地の重要性が高まってきたというのは最初に触れたが、鹿児島は地理的に見てみれば、沖縄という極東最大の米軍基地から岩国、佐世保、横須賀といった米軍基地をつなぐ中継地点として注目・利用されている。さらに、なぜ鹿児島港への米軍艦船による軍事利用が頻繁に行われるのかという問いに対しては、昨年4月に鹿児島港に寄稿したアメリカのミサイル駆逐艦、カーティスウィルバーのドナルド・ローン艦長は「鹿児島は気候が温暖で、観光地が多い。フィリピンや日本海域での演習場にも近く便利」(『南日本新聞』2002年4月13日付夕刊)と答えている。

また、97年9月26日付の『朝日新聞』では、次の四つの理由をあげている。第一に高知沖にある日米共同訓練海域への近さ、第二に海に面した50万都市であるという利便性、第三に旧海軍幹部を多数輩出した薩摩の歴史と、大きな反対運動も無いような現在の保守的な県民性、第四に貨物船の少なさと出入国の容易さという鹿児島港自体の自然条件・環境があげられている。米軍が作成した港湾案内(ポート・ディレクトリー)でも同じような表現・理由で鹿児島の利用良さが指摘されている(22)。

また米軍とともに注目される自衛隊については、海上自衛隊鹿屋航空基地に85年からP3C20機が常駐しているばかりでなく、海上自衛隊唯一のヘリコプターの操縦士・航空士の作成・養成をする部隊がおかれている。また鹿児島港と並ぶ大きな港である志布志港では、98年の11月末に日向灘での日米共同掃海訓練に参加する海上自衛隊の艦船22隻(掃海母艦とか掃海艦、掃海艇など)が集結した。また、阿久根には通信傍受施設「阿久根情報衛星センター」、種子島の馬毛島には核関連施設の建設が進められようとしている。さらに喜界島ではすでにある通信技術所をさらに拡張する形での「像のオリ」の導入・建設が行われつつある(23)。

このような米軍による民間空港・港湾の軍事利用や自衛隊活動の強化という九州・沖縄あるいは鹿児島県内の軍事化の動きに対して、市民が地域から具体的に何ができるかが今ほど問われているときはないといえよう。そこで、そのことについて最後に考えてみたい。

まず一番重要と思われるのが、地域から市民の視点で脱国家・脱軍事の動きを作り出すことであり、それこそが日本と世界の非軍事化につながる、という発想・考え方だ。鹿児島でも、前述した霧島演習場での日米共同訓練の恒常化や、喜界島での「像のオリ」あるいは馬毛島での核関連施設の建設に反対する動きなど、この間いろいろな平和の取り組みがなされてきている。

その中でも特筆されるのが98年10月1日に採択された鹿児島市議会決議「鹿児島港での軍事利用の禁止等非核・平和利用を要求する決議」である。また98年9月29日には名瀬市議会決議で、「鹿児島県内の全ての民間空港・港湾を米軍に使用させないことを求める意見書」も出されている。この意見書は、全県域の民間空港・港湾の軍事使用に反対しているという点が非常に画期的な新しい特徴である。さらに屋久島では2000年3月に「放射性物質の持ち込みと原子力関連施設の立地拒否」という決議・条例も作られている(24)。

港湾の軍事利用禁止を考えるうえで、非核・平和条例を考える全国交流集会について触れておきたい。この全国交流集会は「すべての自治体に『非核・平和条例』を!」というスローガンを掲げて1999年10月に函館、2001年2月の横須賀、2002年の鹿児島、2003年の神戸とこれめでに4回開催されている。ここでは、全国から筆者自身を含む600名を超える参加者が集った「錦江湾を非核の海に―全国交流集会」(鹿児島、2002年5月25日・26日)について述べたい。

初日の基調講演では、君島東彦氏(北海道学園大学)が、平和をつくる主体と方法、あるいは世界の非暴力化・民主化をめざす方向として非核・平和条例運動の意義を、日本の「周辺」としての北海道としての視点を強調し函館港での米艦船寄港拒否の取り組みを具体的に上げながら「非核・平和条例制定運動は、地域の安全を守るための運動だけではなく、アメリカの核兵器の移動の自由を脅かすものである。日本の自治体がアメリカの核搭載艦船を自由に使えなくする、核の移動の自由を奪うことは、世界全体の非暴力民主化にとって重要なルートである。アメリカが一番おそれていることは、ニュージーランドの非核法などに見られる『非核神戸方式』が世界に広がっていくことである。」と指摘した。

道畑克雄氏(非核・平和函館市民条例を実現する会)が、函館では99年の3月議会に続いて3年ぶりに「非核・平和条例」が議員提案され、同様に小樽市では市民が議会に陳情を行い、苫小牧市では2002年の3月議会に条例案が市民の要望を背景に市長提案という形で提案・採択されたこと、さらに市民の反対運動は米艦船が寄港する港湾を巡る問題から米軍機が離着陸する帯広空港利用の問題へと広がりを見せて全道ネットワークが結成される動きが見られることを報告した。

横須賀の新倉裕史氏による特別報告では、「自治体の平和力」を市民と行政が一体となって育てていくことの重要性が強調された。具体的には「有事法制」の動きに対抗する方法・取り組みとして、1.自治体への働きかけ、2.地方議会への陳情書と意見書採択、3.有事法制への非協力宣言をする自治体労働者の支援と働きかけという3点を具体的に提起した。

また翌日の分科会では、9.11事件以降「自衛隊が海外へ出ることが普通になってしまった」中での平和運動のあり方が活発に議論された。その中でも、中村伸夫氏(「憲法を生かす会神戸」)が、「非核神戸方式」ができた背景と仕組みと「非核神戸方式」の法律的有効性を説明した後、震災後進む神戸港の軍事利用と強まるアメリカからの圧力など「非核神戸方式」つぶしの動きについて触れたのが注目される。すなわち、98年には、カナダ艦船プロテクターが非核証明書なしに神戸港(自衛隊阪神基地)に入港。大阪湾での大軍事演習「ノーページェントインナニワ」で「おおすみ」神戸港使用。トルコ地震への仮設住宅輸送で「おおすみ」が神戸港から出港。99年には、米フォーリー駐日大使(当時)が「私の在任中に米艦船が神戸港に入港するのが願い」と発言。2000年には、米ルーダン総領事が神戸新聞の取材に対し「米国艦船は他の港と同様、神戸港にも出入りするのが望ましい。安保条約で確保されている」と発言したばかりでなく、港湾関係労組と懇談した席で「なぜ米艦船の入港にこだわるのか。入港できないと、神戸に歓迎されていないと思う米企業もある。入港は神戸のためになる」と入港を打診した。2001年8月には、「非核神戸方式」ができた75年以来一隻も兵庫県内に米艦選は入港していなかったが、兵庫県姫路港に米艦船ビンセンスが入港。これに対し、兵庫県の対応は、「神戸方式」にならって「非核証明書」の提出を米側に求めたが、「個々の艦船について核搭載の有無は議論しない」と回答、また外務省の「安保条約にもとづく事前協議はなかった」という回答から、核兵器は搭載していないと判断し入港を認めたというものであった。また、神戸市の反応は、「あくまで非核証明書の提出なきでは入港は認めない。神戸は25年間神戸方式を守り続けた実績があり、今後も変わりはない」(神戸市海務課長)としながらも、「ガイドライン関連法のような有事を除けば、非核証明書の提出を求める」(神戸市長)という、有事の際には核の持ち込みがあってもいいと受け取られる発言を行っている。ビンセンス入港時の『神戸新聞』のアンケートでは、半数が入港は歓迎しない、8割が非核神戸方式を他の自治体に広げる必要ありと回答。「非核神戸方式」に未来はあるか、がいま真剣に問われていると指摘した(25)

以上のように、地域から市民が平和戦略を提起する動きは全国各地で起き、その運動をネットワ−ク化する新しい動きが生まれている。これまで本稿で述べた「非核神戸方式」の導入をめぐる函館、小樽、苫小牧、高知、鹿児島など全国各地での動きは、いうまでもなく従来の非核自治体宣言運動から発展的に派生したものである(26)。また、非核自治体運動そのものは、反核・平和運動と自体運動との接点で生まれた。日本における非核自治体運動の初期に、その動きに注目した石川捷治氏(九州大学)は、非核自治体運動の歴史的意義は、@市民に、結集の機会と社会的意思決定の枠組みを提供した、A市民が自治体を「自治体化」する回路を提供したこと、B市民が主権者として、国家の専管事項とされていた軍事問題・核問題に関わる具体的回路を提供したこと、C「無防備地域」への回路を開いたこと、D「非核の政府」ないし「非核の国家」から核廃絶への展望を開いたこと、E市民の国際的連帯への回路を開いたこと、という6点にわたって指摘している(27)。この指摘は、現在でも基本的に有効であると考えられるが、特に、C〜Eの可能性を具体化する構想・政策を創り出し、それを実現させることが急務の課題となっている。

また、C「無防備地域」については新たな重要な動きが生まれており、ここでそのことに少し言及しておきたい。一般民衆を戦争被害から守る目的で1949年に国際人道法と呼ばれるジュネーヴ条約(99年で188カ国が加盟)ができ、その後、朝鮮・ベトナム両戦争で多くの一般住民の犠牲を出した反省から、1977年にジュネーヴ条約追加第1および第2議定書(99年の加盟国はそれぞれ152カ国、144カ国。米国や日本は現在にいたるまでこの両議定書に加盟していない。)が作られた(28)。同議定書第59条に、「紛争当事国が無防備地域を攻撃することは、手段のいかんを問わず、禁止する。」という「無防備地域」の規定が含まれており、世界各地だけでなく、日本の大阪市、枚方市をはじめ滋賀、広島、北海道などでも無防備地域宣言運動が取り組まれようとしている(29)。

このように、今日の非核平和宣言から非核・平和条例へ、あるいは無防備地域宣言運動という流れは、自治体の平和力を具体化する新しい取り組みであり、自治体の平和外交や市民による平和地帯構想(北東アジア非核地帯化構想、朝鮮半島非核地帯化構想)などと結びつくものである(30)。また、それは、日本国憲法の核心でもある「非暴力・平和主義」とその具体化の試み(非暴力平和隊、非暴力防衛、良心的兵役拒否、無防備都市、完全軍縮など)とも共通する考え方・構想であることはいうまでもない。このような考え方・構想の根底には、平和の創造や外交・軍事政策をつくる主体を「国家」や「国際機関」だけではなく、自治体やNGOや市民・個人に求めるという、「平和・安全保障観」の根本的転換があると思われる。すなわち、「国家の安全」と「国民の安全」を区別し後者を最優先するような新しい「平和・安全保障観」、「国家の安全保障」から「民衆の安全保障」へ、あるいは「軍事的安全保障」から「非軍事的安全保障」への移行・転換を求める流れの中から「新しい平和思想」が誕生・登場しつつあるといえよう(31)。

いまわたしたちには、まさにこうした平和憲法を活かし具体化させようとする新しい発想と行動こそが求められているといえよう。とりわけ、世界的には米国主導でアフガニスタンにつづきイラクに対しても一方的攻撃(それは「戦争」というよりも「殺戮」と言った方が相応しい)が行われ、国内的には日本を「戦争のできる国」にする有事法制や陸上自衛隊を初めて戦地に派遣するイラク特措法が成立させられるにいたった現在、市民が主体となって地域から脱国家・脱軍事化を実現させる動き、すなわち「市民による安全保障」「民衆の安全保障」の実現を求める取り組みや市民・地域住民による自治体の平和的創造力を発展させる試みこそが、そうした戦争への道を防いで国家中心の「軍事力による安全保障」を克服する有効な選択肢であると思われる。とりわけ、日本にとって非常に身近な朝鮮半島での戦火を再び起こさせないためには、市民一人ひとりの思想と行動が今日ほど問われている時はないといえよう。

 

 

<注>

(1)   ここでの問題意識は、拙稿「地域の市民による平和運動」(AERA Mook『平和学がわかる』朝日新聞社、2002年9月)とそのまま重なる。また、新しい安全保障概念については、田中明彦監修・「外交フォーラム」編集部編集『「新しい戦争」と安全保障』(2002年、都市出版)を参照。

(2)   「地球民主主義」については、武者小路公秀『国連の再生と地球民主主義』柏書房、1995年、および坂本義和 /大串和雄著『地球民主主義の条件下からの民主化をめざして』 同文館出版、1991年を参照。また、これに関連した拙稿「『新しい戦争』と二つの世界秩序の衝突−9・11事件から世界は何を学ぶべきか−」『平和研究』第18号(2003年11月)も参照。

(3)   「いのくら」基地問題研究会編『私たちの非協力宣言−周辺事態法と自治体の平和力』(明石書店、2001年)および『錦江湾を非核の海にー非核・平和条例を考える全国交流集会in鹿児島 報告集』(編集・発行「非核・平和条例全国交流集会in鹿児島」実行委員会、2002年11月)を参照。また、この問題に同じ視点からアプローチしたものとして、拙稿「地域から問う平和戦略の構築-新ガイドライン安保体制と九州・沖縄−」(『地域から問う国家・社会・世界−「九州・沖縄」から何が見えるか』ナカニシヤ出版、2000年9月)を参照。

(4)   例えば、冊子『日本全国が低空飛行訓練基地に米軍機の低空飛行訓練を追う』(リムピース発行,1997年)を参照。

(5)   梅原氏宏道監修『核軍縮・平和・自治体2004』(NPO邦人ピースデポ発行、2004年8月)123頁。

(6)   前掲拙稿「地域から問う平和戦略の構築-新ガイドライン安保体制と九州・沖縄−」229頁 〜233頁。

(7)   谷村和親(佐世保地区労事務局長の報告)「2001年米海軍佐世保基地の動きから」前掲『錦江湾を非核の海にー非核・平和条例を考える全国交流集会in鹿児島 報告集』48頁〜52頁。

(8)   浦田龍二(「米軍基地と日本をどうするローカルネNET大分・日出生台」の報告)「なぜ私たち地域住民は米軍演習に反対するのか?その問題点」前掲『錦江湾を非核の海にー非核・平和条例を考える全国交流集会in鹿児島 報告集』74頁〜78頁。『日出生台 ピースアクション2002春〜夏』(「米軍基地と日本をどうするローカルネNET大分・日出生台」発行、2002年7月)も参照。

(9)   拙稿「鹿児島の軍事利用の現状と『意見広告の会』の取り組み」・前掲『錦江湾を非核の海にー非核・平和条例を考える全国交流集会in鹿児島 報告集』38頁〜43頁。梅林宏道『在日米軍』(岩波新書、2002年5月)および島川雅史『増補・アメリカの戦争と日米安保体制―在日米軍と日本の役割』(社会評論社、2003年)、等も参照。

(10)2001年12月に東シナ海(奄美大島沖ではない!)の公海上で起きた不審船事件については、日本側の対応を正当化する議論が一般的である。しかし、国内法的には明らかに違法であり、国際法上も深刻な問題を含むものであった。前田哲男「海上保安庁法の改定と領域警備」山内敏弘編『有事法制を検証する−「9・11以後」を平和憲法の視座から問い直す』法律文化社、2002年、192〜196頁。

(11)例えば、山内敏弘「憲法との齟齬をどうするか?」『法学セミナー(特集・周辺事態法でこうなる!)』第536号(1999年8月)、8頁〜10頁および山内敏弘編『新ガイドラインと周辺事態法』(法律文化社、1999年)の第二部、49頁〜211頁を参照。

(12)しかし、1954年の自衛隊創設以前に制服組主導で密かに始められていた、という指摘もある。纐纈厚『周辺事態法―新たな地域総動員・有事法制の時代』(社会評論社、2002年3月)59頁〜64頁、同「戦後有事法制論議の軌跡」『世界』2002年5月号を参照

(13)1994年に「核開発疑惑」問題での米国からの要求については、「94年朝鮮緊張時の米軍“対日要望”」(『朝日新聞』1999年3月3日付)および『有事法制はいらない「有事法制に関するQ/A」』(社民党ブックレット、2002年3月)25頁〜26頁、アーミテージ報告については、自由法曹団編『有事法制のすべて』(新日本出版社、2002年)69頁〜71頁、を参照。

(14)川邊克朗「忘れられたシビリアン・コントロール」『世界』2002年4月号を参照。

(15)詳しくは、前田哲男『有事法制―何が目指されているか』(岩波ブックレット第571号、2002年6月)、纐纈厚『有事法の罠にだまされるな!!』(凱風社、2002年)および同『有事体制論』(インパクト出版会、2004年6月)、憲法再生フォーラム編『有事法制批判』(岩波新書、2003年2月)、西沢優・松尾高志・大内要三『軍の論理と有事法制』(日本評論社、2003年)、小池政行『戦争と有事法制』(講談社現代新書、2004年1月)等を参照。

(16)社説「『非核条例』に潜む反安保の策動」『読売新聞』(1999年2月22日付)を参照。

(17)例えば、1998年8月1日付「西日本新聞」の記事「核艦船の寄港容認―九大教授の公文書発見」や梅林宏道「日本政府は米空母の核付き母港を容認していた」(『週刊金曜日』2000年6月9日号)、我部政明『沖縄返還とは何であったのか』(日本放送出版協会、2000年)、藤井治夫『密約―日米安保大改悪の陰謀』(創史社、2000年)、不破哲三『日米核密約』(新日本出版社、2000年)、「非核の政府を求める会」編『シンポジウム日米核密約と新ガイドラインー核密約は日本をどこに導くかー』(2000年3月発行)、中馬清福『密約外交』(文春新書、2002年12月)、等を参照。

(18)例えば、「周辺事態」を認定する場合、横田耕一氏が指摘しているように、「日本が米軍の情報に基本的に依存している以上、米軍の認定に日本は追随せざるをえない」し、日本に拒否権はあっても現実には使うことはできず、「実際の認定権は米軍にあるというしかない」からである(横田耕一「『周辺事態』の問題性」山内編・前掲『日米新ガイドラインと周辺事態法』、62頁)。このことは有事法制の発動を考えても基本的に同じであり、ここには「自発的な(植民地型)従属同盟」という日米安保体制の本質がまさにあらわれている。

(19)浜川清「非核港湾条例と地方自治」『法律時報』71巻第6号(1999年5月)2

頁〜3頁。また、田巻一彦「有事法制と自治体」梅原氏宏道監修『核軍縮・平和・自治体2004』(NPO邦人ピースデポ発行、2004年8月)102頁〜121頁を参照。

(20)「人間の安全保障」については、例えば、石川捷治「国際連合『人間の安全保障』論の意義と問題点」『日本の科学者』2004年9月号(Vol.40)、根本博愛「『人間の安全保障』と日本国憲法」『日本の科学者』2004年8月号(Vol.39)、大柴亮「国際機構と人間の安全保障」高柳彰夫+ロニー・アレキサンダー共編『私たちの平和をつくる−環境・開発・人権・ジェンダー』(法律文化社、2004年)を参照。

(21)拙稿「地域から平和を考える−県内港湾の非核化運動を中心に−」『自治研かごしま』(1999年4月号、鹿児島自治問題研究所発行)および前掲拙稿「鹿児島の軍事利用の現状と『意見広告の会』の取り組み」を参照。

(22)資料集『いま地域から平和をつくる 非核・平和条例を考える全国交流集会in鹿児島 』(編集・発行「非核・平和条例全国交流集会in鹿児島」実行委員会、2002年5月)42頁〜43頁。

(23)前掲・資料集『いま地域から平和をつくる 非核・平和条例を考える全国交流集会in鹿児島 』12頁〜14頁。

(24)前掲・資料集『いま地域から平和をつくる 非核・平和条例を考える全国交流集会in鹿児島 』33頁〜34頁。

(25)昨年の6月28・29日に、神戸市で第4回「非核平和条例を考える全国交流集会」が開催され、「非核神戸方式」の意義と役割が改めて確認された(『守ろう非核「神戸方式」、広げよう全国にー非核平和条例を考える全国交流集会in神戸』実行委員会発行のパンフを参照)。

(26)2002年7月15日の段階で、都道府県も含めた宣言自治体数は全国の3288自治体中の80・6%にあたる2651自治体が非核・平和宣言を採択していた。その内訳は、都道府県が34(約72%)、市615(約91%)、町1578(約80%)、村403(約72%)、東京23区中21区となっている(『毎日新聞』2002年7月27日付)。また、200389日現在で、その総数は、市町村合併に伴う自治体数減少が影響し2614自治体となっている(『長崎新聞』2003年8月9日付)。

(27)石川捷治「非核自治体運動についての覚書−一試論−」『法政研究』第55巻第1号(1988年10月発行)を参照。

(28)小池政行「五十年忘れ去られてきた『国際人道法』」『論座』1999年6月号、79頁。

(29)冊子『無防備地域宣言都市−市民が創る平和な町作り−』(『無防備地域宣言をめざす大阪市民の会』発行、2003年を参照。

(30)非核地帯化構想については、山内敏弘「非核地帯条約の締結に向けて」山内敏弘編『新ガイドラインと周辺事態法』(法律文化社、1999年)243頁〜258頁、および梅林宏道「非核地帯構想こそが対案である」『世界』第660号、岩波書店、1999年4月、65頁〜72頁を参照。また、自治体の外交権や安全保障政策については、大津浩「憲法学からみた自治体外交権論」『平和研究』第17号(1992年11月発行)および池尾靖志「軍事ヘゲモニーの進展と自治体の対応」『立命館大学人文科学研究所紀要』78号(2001年)を参照。

(31)本書所収の初瀬龍平論文「国家の安全と国民の安全」や君島東彦「市民平和活動の時代―武力によらない平和の構築」山内敏弘編『有事法制を検証する』(法律文化社、2002年)、古関彰一『「平和国家」日本の再検討』(岩波書店、2002年1月)、五十嵐仁「第V章 日本政治の課題と展望』『現代日本政治−「知力革命」の時代』(八朔社、2004年)、平井一臣「地方自治体−身近な政府からの平和」小柏葉子・松尾雅嗣共編『アクター発の平和学−誰が平和をつくるのか?』(法律文化社、2003年)、君島東彦「『武力によらない平和』の構想と実践」『法律時報』2004年6月号等を参照。