「原爆投下問題への共通認識を求めて−長崎の視点から」

木村 朗(鹿児島大学、平和学専攻)

はじめに

  今年(2005年)はアジア・太平洋戦争終結および原爆投下から60年を迎える。しかし、強制連行・従軍慰安婦問題などをはじめ戦争責任・戦後補償問題など未だに解決されていない問題も数多く残され、そのことが、日本とアジア諸国、とりわけ韓国・中国などとの友好関係に大きな影を落とすことになっている。また、日米間においても、20世紀(あるいは第二次世界大戦と冷戦)における最大の負の遺産といえるのが、原爆投下をめぐる米国の戦争責任の問題である。そして戦後、早期終戦・人命救済の観点から原爆投下を一貫して正当化してきた米国側の姿勢が、核先制使用を当然のごとく表明している、今日のブッシュ政権の新しい核兵器政策にも反映されている。新型戦術核の開発を進める米国が近い将来において朝鮮半島などで核兵器を再び使用するという最悪の事態を阻むためにも、原爆投下問題について日米両国(およびアジアを含む世界全体)が共通認識を早急に確立することが必要であろう。


 「原爆投下が必要だったとは思わない。賢明な選択ではなかった。ただ、戦争では、国の上層部がすべての動きを把握しているわけではない。これは私の強い印象だが、原爆投下決定を下したトルーマン大統領、マーシャル陸軍参謀総長、スティムソン陸軍長官の3人は、3月の激しい空爆で日本各都市がいかに大きな損害を受けたかを詳細に知らなかったのではないかと思う。原爆投下がなければ核競争の時代の到来は避けられたし、北朝鮮の現在の問題も起きていない。」
(注1)

これは、米国のケネディ、ジョンソン両政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラ氏(87歳)が去年の1月に日本のマスコミのインタビューの質問に答えたときの証言である。第二次世界大戦後の米国の歴代大統領は、米国にとっての第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争を含む)は「正義の戦争」「よい戦争」であったという前提に立ったうえで、大戦末期において日本の広島・長崎の両都市に対して行われた二度にわたる原爆投下を早期終戦と人命救済のための必要な選択であったという理由(これこそがいわゆる「原爆神話」)で常に正当化してきた。そうした中で、原爆投下およびアジア・太平洋戦争終結60年を翌年に控えた時期に、日本への原爆投下に対する率直な反省・批判が米国政府の元高官によってなされた意味は大きいと思われる。こうした原爆投下問題に対する率直な発言は、米国や日本を中心とする研究者・ジャーナリストなどによって、これまで徐々にではあるが着実に行われてきた原爆投下研究の成果があってこそ初めて可能であったことを指摘しておかなければならない。

私のこれまでの主な専門・テーマは旧ユーゴスラヴィアの民族・地域紛争問題も含めた東欧研究であり、旧ユーゴ解体を契機に生じた一連の内戦、すなわち、スロヴェニア・クロアチアにはじまりボスニアからコソヴォへと続いた、悲惨な現実にずっと関心を寄せてきた。そして、20世紀末の1999年3月にNAT0が行ったコソヴォ空爆では、「正義の戦争」「人道のための戦争」という考え方が全面的に打ち出され、それが「21世紀型の新しい戦争」として定着しそうな動きが生まれた。こうしたコソヴォ紛争を契機にNAT0側が打ち出したような「人道のための戦争」「正義の戦争」はその経緯や実態などから見ても正当化できるような性格のものでは決してなく、逆に「主権国家に対する侵略行為」「明らかな戦争犯罪」であると私はみなしている(注2)。しかし、それにもかかわらず、こうした動きは21世紀初頭に米国で起こった9・11事件を契機に、一層加速され強まることになったのである。

本稿では、まず最初に「原爆神話」の見直しを行い、次にそれを前提として、長崎への二発目の原爆の意味、また無差別爆撃と原爆投下との関連をそれぞれ問い、最後にブッシュ現政権の核先制使用戦略を批判的に分析することによって、原爆と核兵器をめぐる過去と現在にわたる共通の問題点を考えてみたい。いうまでもなく、ここで取り上げるすべての問題に、当時は日本の敵国であり現在は日本の同盟国である「世界最強の軍事国家」米国が深く関わっており、またそれぞれが現代の戦争の特徴をよくあらわしている。その意味で、21世紀の平和秩序のあり方と日本のあるべき対応を考えるためにも不可欠の課題であるといえよう。

また、原爆投下問題にアプローチする場合に、従来あまりにも第一発目の広島への原爆投下にのみ注目が集まる傾向があり、その結果、長崎への二発目の原爆投下の意味合いが問われることはあまりなかった。そこで、本稿では、特に長崎からの視点を重視して、この問題にアプローチする。そして、個人的なことではあるが、私が原爆投下問題に取り組むようになったのは、自分自身の出身が、本来ならば二発目の原爆の投下対象となっていたはずの小倉(北九州市)であり、子どもの時から、長崎の原爆を心のどこかで意識し続けてきたことと無関係ではないことを述べておきたい(注3)

 

1.「原爆神話」からの解放

これまでの原爆投下をめぐる議論は、米国側の影響もあってどちらかといえば、原爆投下が軍事的に本当に必要であったのか、あるいは必要でなかったのかという問題を中心に論じられてきた。こうした問題設定を通じて、もし軍事的に必要であったならば原爆投下は正当化できる、また逆に軍事的に必要でなかったのならば正当化できない、という形で議論が展開されてきたわけである。しかし、こうした従来の議論の立て方はそもそも内在的な矛盾を含んでいると思われる。なぜなら、人倫・道徳の根源的な立場、真の人道的観点から見れば、そもそもナチス・ドイツの脅威を理由とした原爆の開発自体も誤りであり、ましてや原爆の使用はどのような状況であったとしても決して正当化することのできない非人道的な残虐行為であったといえるからである。そして、このような見解・立場は、原爆投下を国際法違反であり、「戦争犯罪」「人道に対する罪」として位置づけて国際的な司法の場で裁こうという最近の世界的なレベルでの市民の動向とも結びついている。

本稿ではそのことを前提とした上で、なぜ日本に原爆が投下されたのか、また日本に原爆を投下する必要がはたして本当にあったのか、そして日本の広島・長崎への二発の原爆投下は正当化することが出来るのかという問題、さらには原爆投下やソ連参戦などと日本の降伏決定との関係はどのようなものであったのか、という原爆投下をめぐるさまざまな問題を現在の新たな視点から振り返って検討してみたい。

「原爆投下によって日本が降伏を決定し早期終戦が実現できたのであり、それによって50万人から100万人にものぼる米兵の犠牲者を回避できたばかりでなく、それ以上の日本人やアジアの人々の生命が救われることになった。だから原爆投下は必要でかつ正当な人道的行為でもあったのだ」という見方は、原爆投下を正当化するために、あるいは第二次世界大戦における最大の「戦争犯罪」であることを覆い隠すために、戦後になって米国によって作られた「原爆神話」「虚構の論理」である。しかし、この早期終戦及び人命救済のためであったという考え方は、米国政府の今日にいたるまでの公式見解であり、現在でも多くの米国国民がその見解を疑うことなく信じている。また、残念なことに、日本政府が戦後こうした米国の見解を強く否定せずに、あたかも受け入れたかのような姿勢に終始したこともあって、日本国民のかなりの部分も、この公式見解をそのまま鵜呑みにしているという現実がある。しかし、こうしたいわゆる「原爆神話」が必ずしも事実に基づいたものではなく、戦後権力(占領軍・日本政府など)によって意図的に作り出された「虚構」そのものであることが次第に明らかになりつつある。

最初に確認しておく必要があるのは、「原爆が第二次世界大戦の終結をもたらしたというより、むしろ戦争終結を遅らせたということだ」(注4)(米国のマ−ティン・シャ−ウィン教授)という基本的事実である。米国は、すでに1943年5月の軍事政策委員会や翌年9月の英国とのハイドパーク協定(1944年9月)で原爆投下の対象を日本にすることをほぼ決定していた。原爆の投下対象が当初のドイツから日本に変えられた理由は、日本の方が知識水準から見て原爆投下が失敗した場合の情報漏れの可能性が少ないと見られたこと、ドイツへ投下した場合に放射能物質を使った何らかの報復攻撃がなされる可能性を恐れたことなどが指摘されているが、日本人に対する人種的偏見が影響した可能性も排除することはできない。また、グローブズ将軍が「当初から原爆投下の対象は日本であった」と証言しているように、この決定はさらにずっと前(例えば、原爆搭載可能なB29の生産が始まった1939年や、実際にB29がアジア・太平洋地域に配備されて飛行訓練が開始された1941年)に行われた可能性もある(注5)

また、米国は1945年春以降になされた日本側の、ソ連を仲介とする終戦工作を暗号解読などで正確につかんでおり、ポツダム宣言草案に当初盛り込まれていたような形で天皇制存続の容認など降伏条件を緩めることも可能であった。ここで重要なことは、当時のバード海軍次官やグルー国務次官やスティムソン陸軍長官など多くの政府要人が「降伏条件の明確化」、すなわち天皇制存続の容認などの降伏条件の部分的修正を求める一方で、それが「無条件降伏」とは矛盾しないものであると考えていたという事実である。だが、結局、最後の段階でバーンズ国務長官の進言をトルーマン大統領が受け入れて天皇制容認条項を削除した。また、ポツダム宣言にはこれも当初予定されていたはずのソ連の署名が入っていなかった。これは、米英両国が対日戦への参加を少なくとも原爆実験が成功するまでは強く要請・懇願していた相手であるソ連を意図的に排除して、その代わりに重慶の蒋介石政府を急遽参加させた結果であった。また、正式な外交ルートを用いず回答期限もつけないなど、米国が後から主張したような公式の最後通牒あるいは原爆投下への事前警告といえるような代物ではなかった。つまり米国側は日本側の拒否を見通した上で、敢えて「無条件降伏」を突きつけたのである。

さらに、トルーマン大統領は、原爆実験の成功を見届けるためにポツダム会談開催を当初の7月1日から7月15日に延期させるとともに、重慶の蒋介石政府とソ連との条約締結時期もできるだけ遅らせるように働きかけていた。そして、ポツダム宣言発表(7月26日)前に日本へ原爆を投下する事実上の決定(7月25日)を行っていた。そして、原爆の威力を知らしめるために、例えば無人島や東京湾などに事前に投下して、日本に対して警告を与えるという選択肢(原爆開発に協力した科学者たちなどからの提案)をトルーマン大統領は最終的に拒否した。

以上のことから、米国・トルーマン大統領がポツダム会談直前に開発に成功した原爆を何としても投下できる環境・条件を作ろうとしていたこと、またそのために意図的に戦争の終結が引き延ばされたということが理解できよう。

また、人命救済説に関しては、トルーマン大統領などが戦後に原爆投下を正当化するために持ち出した50万から100万という想定戦死者数は、九州上陸作戦にともなう当時の実際の米側推定死傷者数が「2万人以内」(1945年6月18日のホワイトハウス会議用資料)や、「6万3千人」(1995年に開催予定であったスミソニアン原爆展の展示案)であったことと比較しても、かなりの「誇張」を含んでいた。また、日本側の犠牲にも「配慮」したとの理由は、2ヵ所の原爆投下で、45年末までに多くの朝鮮人・中国人や連合国捕虜などを含む約20万人(広島約13万人、長崎約7万人)、今年までで35万人以上にもなる原爆犠牲者が出たことや今もなお放射能後障害で苦しんでいる多くの被爆者の存在を思えば、これがいかに的外れの議論であるかがわかるであろう。

この問題を考える前提として、当時の米国指導部がソ連参戦などで日本が降伏する可能性が大きく本土上陸作戦そのもの(1946年3月1日に予定されていた関東上陸作戦はむろんのこと、1945年11月1日に実施予定の九州上陸作戦も)が不要となる可能性が高いと判断していた事実をどのように考えるのか、さらに、そもそも新たな攻撃に伴う双方の側の犠牲者の多寡で、しかも一方の側は戦闘員で、他方の側は非戦闘員が対象という決定的相違を問うことなく、その攻撃の正当性を争う議論自体が不毛なものではないのか、という点をまず問う必要がある。

それでは、米国はなぜあの時期に急いで原爆を日本に投下しなければならなかったのであろうか。その背景には、当時ヨーロッパを舞台に拡大しつつあった米ソ対立、すなわち冷戦があった。ソ連がドイツ降伏(1945年5月8日)後3ヶ月以内に対日戦に参戦する、というヤルタ会談でも確認された合意が存在していた。この合意は、満州の関東軍を叩くために米国側が要請し北方領土・満州の権益と引き換えにソ連がそれに応えたもので、原爆投下時点においても有効であった。7月16日の原爆実験の成功から8月6日の広島への原爆投下までの短期間に米国が事を性急に運んだ理由も、ポツダム会談でソ連が対日参戦を公約した8月15日に間に合わせるためであった。すなわち、それは、原爆投下によってソ連参戦前に日本が降伏すれば(たとえソ連参戦後に日本が降伏した場合であっても)、対日占領政策を含むアジアでの戦後のソ連の影響力拡大を封じ込めることができるというのが最大の狙いであった。その意味で、まさに「原子爆弾の投下は、第二次大戦の最後の軍事行動であったというよりも、寧ろ目下進行しつつあるロシアとの冷たい外交戦争の最初の大作戦の一つであった」(注6)(英国のP.M.S.ブラッケット教授)のであり、日本への原爆投下の真の理由もそこにあった。

原爆神話を形成するもう一つの見方に、日本が降伏を決定した最大の要因は原爆投下であった、という原爆「天佑」説がある(注7)。それは、原爆投下以外に日本を降伏させる方法はなかった、という米国の立場を正当化するものであり、日本は戦術や精神力ではなく科学力の差で負けたのだ、という日本側(特に軍部)にとっても都合のいい論理であった。この原爆投下を正当化する見解は、8月6日の広島への原爆投下によって8日に早められたソ連の対日参戦の影響を不当に過小評価するものであるが、これは戦後、占領軍・米国政府ばかりでなく、日本政府によってもこれまで基本的に受け入れられてきた。しかし、日本側のその後の研究によって、日本にとってソ連参戦の「衝撃」がいかに大きく決定的なものであったかが次第に明らかにされつつある(注8)。ここでも、日本降伏の決定要因として、原爆投下とソ連参戦の「ダブルショック」のどちらを重く見るかという問題の立て方、それ自体の意義を否定するものではないが、そこには一つの大きな「落とし穴」があることを指摘しておく必要がある。なぜなら、原爆投下を「非人間的な決定(許されざる選択)」「国際法違反(戦争犯罪)」であるとする立場を取るならば、原爆投下以外の選択肢(平和的手段と軍事的手段の双方)をまず問わねばならないと考えるからである。

いずれにしても、当時の日本は米軍による激しい戦略爆撃や海上封鎖によって継戦能力をすでに失っており、原爆投下や九州上陸作戦が実施されなくともソ連参戦後間もなく日本が降伏していたことだけは確かである。また、8月15日という時点での日本降伏の決め手は、ソ連参戦でも原爆投下でもなく、結局、二発の原爆投下を終えた後に、「ポツダム宣言」では意図的に削除した天皇制の維持を、間接的に「保証」した米国政府からの最終的な公式返答である「バーンズ回答」であったという基本的な事実は、もっと注目されるべきであろう。

総じていえば、日本への原爆投下は、冷戦の起源としてのソ連に対する威嚇と抑制、さらにいえば戦後世界における米国の世界的覇権(核による平和、力による世界支配)の確立を最大の目的としていた。そのために米国は、原爆投下のチャンスが来るまで日本が降伏することを引き延ばし、原爆が使用可能になると、明確な事前警告を与えることもなく性急に原爆を日本に投下した。原爆投下を正当化する「米国の論理」(早期終戦・人命救済説)は説得力を欠いており、また多くの米兵の命を守るためであっても、戦闘員の犠牲を避けるための民間人の大量殺戮は、明らかな国際法違反であるといわねばならない(注9)

もちろん、米国による日本への原爆投下がいかなる理由によっても正当性をもちえないとしても、侵略戦争を引き起こした日本側の戦争責任がそれによって無くなるわけではない。また、「国体護持(天皇制の維持)」のためには国民の生命さえも軽んじた、当時の日本側の戦争最高指導部の「狂気」も戦争継続の大きな要因であったことを忘れてはならない。この点で、戦後一般に流布されているように天皇による「聖断」によって日本国民が救われたのではなく、逆にそれはあまりにも遅すぎたというのが真実である。なぜなら、もしそれがもっと早くなされていたならば原爆投下やソ連参戦(あるいは凄惨な沖縄戦さえ)も無く、大きな犠牲者を出さずにすんだからである。米国政府が第三発目以降の原爆投下という選択肢を捨てずに、東京や京都などを次なる標的とした準備が軍部(グローブズ、マーシャル、アーノルド将軍など)で直前までなされていたという事実があるだけに、この問題は重大である。

原爆投下につながる日本側の責任ということでさらにいえば、日本の明治時代以来の植民地支配とその延長としての侵略戦争、特に日本軍による重慶への無差別爆撃や南京大虐殺などの残虐行為が、ファシズム対民主主義という形で「正義」を掲げる連合国(特に米国)側が行った都市住民を標的とした東京大空襲や二度にわたる原爆投下という明らかな「戦争犯罪」「人道に対する罪」を正当化させる口実を作ることになった。このように考えれば、原爆投下は日米両政府、すなわち「国体護持」にあくまでも執着した日本政府と、「無条件降伏」に最後まで固執した米国政府とのある意味での合作、あるいは一種の共同作業による結果であったといえよう。また、この原爆投下の選択・決定とその悲惨な結果は、日本側には文字通りの地獄の苦しみを、米国側には自国に対する道徳的な誇りの喪失と取り返しのつかない罪を犯したという良心の呵責を与えたという意味で、日米双方の国民にとっての大きな悲劇であった。

 

2.長崎への二発目の原爆投下の意味

日本への原爆投下の理由としては、主に米国側の研究成果として、すでに述べた米国の公式見解である「早期終戦・人命救済説」やソ連に対する威嚇・抑制と戦後世界での覇権確立の他にも、日本の「卑怯な」真珠湾攻撃と「バターン死の行進」などの「野蛮な」戦争捕虜虐待に対する「報復」と、その背景にある人種的偏見の影響、20億ドルという巨大な開発費用の「回収」を求める議会・国民からの強い圧力の存在、新型兵器の威力を試すための実戦使用と人体実験の必要性、ルーズベルトの負の遺産とマンハッタン計画実施機構の「はずみ」、米国指導者(トルーマン、バーンズ、グローブズなど)の野心と人種的偏見、などが指摘されてきた(注10)

また、主に日本側から見た原爆投下研究の最近の新しい特徴として、大別すれば、A.「原爆投下の必要性・正当性」を中心とする政治・軍事上の問題から、「原爆投下の道義性」を問う人道上・国際法上の問題へ、B.冷戦の起源としてのソ連抑止説(戦後世界での米国の優位性確立とソ連の影響力封じ込め)から人体実験説(新兵器の実戦使用での威力の確認)へ、C.アウシュヴィッツ、南京大虐殺との「ジェノサイド(大量殺戮)」としての共通性への注目、 D.真珠湾攻撃と原爆投下の相殺説から、重慶爆撃と原爆投下の共同加害説へ(「被害」と「加害」の重層性、「人道に対する罪」としての「無差別爆撃」と「大量殺戮」、無差別都市爆撃の延長線上としての原爆投下という位置づけ)、という4つの傾向を指摘できる。

これらの見解・指摘は、問題が多い欺瞞的な20億ドル圧力説を除けば、それぞれが非常に説得力があり、今後さらに原爆投下問題の解明を進めていくためにも有力な手がかりになると思われる。ここでは、特に、冷戦の起源としてのソ連抑止説(戦後世界での米国の優位性確立とソ連の影響力封じ込め)から人体実験説(新兵器の実戦使用での威力の確認)へという最近の新しい視点を長崎原爆との関連で考えてみたい。

これまでの原爆投下研究では、日本への原爆投下は「人類史上初の出来事」であった第一発目の広島への原爆投下とほとんど同一視される傾向が強く、第二発目である長崎への原爆投下の意味はともすれば見落とされがちであった。このような傾向は、第二次世界大戦後の世界的な原水爆禁止運動においても、「ヒロシマ」と比べて「ナガサキ」の名前・存在があまり知られておらず最近にいたるまで非常にその影が薄かった事情とも通じるものがある。しかし、私は、ここに重大なもう一つの「落とし穴」があったと考えている。というのは、米国による原爆投下の動機・目的を考える場合に、広島原爆と長崎原爆との共通性のみが注目され(あるいはそれが自明の前提とされ)、両者の相違や微妙な差異が無視・軽視されることになったからである。

すでに述べたように、戦後世界での米国の世界的な覇権確立とソ連の影響力・発言力の封じ込めの日本への原爆投下という評価・位置づけは、確かに戦後直後に本格化する冷戦との関係をみれば非常に説得力のある見解であることに異論はない。しかし同時に、それとは異なる隠された要因があったのではないのかというのが私の立場・見解である。すなわち、「原爆投下は新型兵器の威力を試し、その効果を確認するための実験であり、とりわけ人体への影響の測定という実験を重視したものではなかったのか」という解釈・評価がそれである。ここでそのことを全面的に論証する余裕・準備はないが、現時点で私は、原爆投下には複数の動機・目的があったのは事実であるが、その中でもソ連抑止説と人体実験説が特に重要で両者の関連や投下要因における比重などを今後明らかにしていかなければならないと考えている。

最近の米国の歴史研究者の中では、日本への原爆投下は不要であったという見解が多数派になりつつあるという。より厳密に言えば、「一発目の原爆投下の必要性をどのように考えるかはともかく、8月9日に長崎に落とされた二発目の原爆は、ほぼ間違いなく不必要なものだった」(注11)(米国のバートン・バーンスタイン教授)という認識が拡がっているということである。しかし、それではなぜ長崎に原爆が落とされることになったのかという問題を正面から問い、またそれを人体実験説との関連で考える米国の研究者はなぜかほとんど見当たらない。この点は、原爆投下問題を専門とする米国側の研究者で日本語資料を読みこなせる者がほとんどいないという現状とも関連があると思われるが、日米間で原爆投下問題での共通認識をこれから形成していくにあたって、大きな鍵を握っていることだけは確かである。

これまでの議論との関連でいえば、長崎に二発目の原爆を投下した目的の一つは、広島への原爆投下の悲惨な結果を確認したうえで、その直後に行われたソ連参戦の影響を最小限にし、日本の降伏はあくまで原爆投下によるものとするためであったと考えられる。広島への原爆投下によってソ連参戦が、予定されていた15日から8日に早められることになった。それは、原爆投下によってできればソ連参戦前に日本を降伏させたい、という米国・トルーマン大統領の意図を察したソ連・スターリン書記長が、2月のヤルタ密約での対日参戦の見返りとしての利権確保を確実にするために、蒋介石政府との協定成立前にも関わらず既成事実を作ろうと急遽参戦したとの解釈が成り立つ。また、長崎への原爆投下は、真相はなお不明であるが、これも当初は11日に投下される予定であったのが天候の事情からグローブズ将軍の指示で急遽9日に早められたといわれている。

ここで一つの疑問が生じる。この長崎への原爆投下の決定に、はたしてトルーマン大統領は直接に関わっていたのか、もし関わっていたとすれば具体的にどのような手順でいかなる決定を行ったのか、という問題である。トルーマン大統領やバーンズ国務長官らが直接関与していたとするならば、天候の理由ではなく、政治的理由によって長崎への原爆投下が早められた可能性も出てくるが、今のところ直接の証拠は見つかっていない。また逆に、マンハッタン計画の現場の最高責任者であったグローブズ将軍は、トルーマン大統領は日本への原爆投下の最終決定は行ったものの、その具体的手順の細部には直接関わっていなかったことを示唆している。そして、トルーマン大統領が長崎原爆の後で、第三発目を含む、それ以上の原爆投下の中止を命じたことは事実として確認されているとはいえ、この点をめぐる真相はまだ明らかになっていないといえよう。

長崎への二発目の原爆投下について注目する見解は、これまで主に日本側(特に長崎)の研究者によって提起されてきており、その多くは人体実験説と密接に関係している(注12)。それは、長崎の視点から原爆投下問題にアプローチするもので、長崎原爆は広島に投下されたウラン型とは異なるプルトニウム型であり、アラモゴードで実験済みであったとはいえ、広島原爆と同じく、やはり実戦での使用でその威力と効果を試すためであったのではないか、という点を重視する。これは、7月25日の時点で出された原爆投下指令が二種類の原爆を準備が出来次第、連続して投下することを厳命していた(すなわち、広島原爆と長崎原爆は「ワンセット」としてとらえられていた)という事実とも符合するものである。つまり、米国政府は都市の物理的破壊ばかりでなく都市住民の皆殺しを狙って新型兵器の実戦使用を行ったのであり、人体実験の性格が濃厚であったという主張である。これが真実であるならば、原爆投下は戦争の短期化と人命の救済という「人道的行為」であったという「原爆神話」が根底から崩れ去ることになり、これまで主張されてきたいかなる「米国の論理」をもってしても原爆投下を正当化することは到底できなくなる。

また、それを裏付ける事実として、1.米軍が原爆の効果・威力が最も発揮出来るような都市を投下対象に選んだこと、2.原爆の効果・威力を正確に知るためにその投下対象に選ばれた都市に対して、この決定以降、通常爆撃を行うことを禁止したこと、3.原爆搭載機とは別に天候観測機や写真撮影機を飛ばして原爆の効果・威力を測定するための機器(ラジオゾンデ)を投下したこと、4.日本への原爆投下前に事前デモンストレーションや事前警告を行うのは原爆の威力・威力を損なうだけで「正気の沙汰ではない」とグローブズ将軍が主張していたこと、5.米軍が戦後に出された報告書で広島と長崎の原爆投下を一つの「実験」として位置づけ広島は成功で長崎は失敗であったとの評価を行っていたこと、6.戦後の占領期において米軍がABCC(「原爆傷害調査委員会」を通じて放射能の人体への影響を調べるために被爆者を「モルモット扱い」して治療に名を借りた実験データの収集などを行いその後の核開発のために利用したこと、7.長崎への投下目標地点が当初いわれていた三菱兵器工場などの軍事施設ではなく都市中心部の常盤橋であったと判明したことによって、原爆投下の本当の目的は都市住民の殺戮であったことが証明されたこと、などを挙げることができよう。

これに関連した重要な事実として、1945年春の時点でグローブズ将軍やバーンズなどが原爆投下の条件が整う前に日本が降伏して原爆投下の機会を失うことを恐れていたこと、またトルーマン大統領は原爆実験が失敗した場合にはソ連参戦を避けるために平和的な手段で日本降伏を実現する意図があることを示唆していたこと、などが注目される。そして、こうした事実から、原爆投下の真の目的は、ソ連に対する威嚇・示威であったという前に、何よりも降伏間近な日本に対する最後の「絶好のチャンス」を活かした新型兵器の実戦使用と人体実験であった、という一つの仮説を導くことができる。

こうした仮説を最も早くから主張していた人物の一人が故芝田進午氏である。彼の次の言葉は実に説得力に富んでいる。

≪広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。一つには戦後世界での米国の覇権確立であり、二つには「原爆の効果」を知るための無数の人間への「人体実験」だった。だからこそ、占領直後に米軍が行ったことは、第一に、原爆の惨状についての報道を禁止し「人体実験」についての情報を独占することだった。第二に、史上前例のない恐ろしい火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。第三に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに「実験動物」を治療するのでは「実験」にならない。そこで、米軍は全力を尽くして被爆者の治療を妨害したのである。第四に、被爆者を「治療」せず「実験動物」のように「観察」するABCC(「原爆傷害調査委員会」と訳された米軍施設)を広島・長崎に設置することだった。加害者が被害者を「調査」するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。≫(注13)

 

3.「重慶爆撃」から「ヒロシマ・ナガサキ」へ

原爆投下問題を見直す場合のもう一つの重要なアプローチとして、無差別爆撃と原爆投下の関係を問う視点、すなわち「無差別爆撃による大量殺戮の延長としての原爆投下」がある。そこで、無差別爆撃と大量殺戮という視点から、まず無差別爆撃の起源から原爆投下への歴史的変遷を概観し、次にその無差別爆撃の今日的形態との共通性を考えてみたい。

まず「非戦闘員(民間人)の大量殺戮」という明らかな戦争犯罪としての無差別爆撃の起源は、戦略爆撃の思想および実践の変遷と密接な関連をもっている。この「戦略爆撃」という言葉は、当初は軍需施設・工業地帯への「精密爆撃」を意味しており、必ずしも最初から「無差別爆撃」と結びついたものではなかった。しかし、兵器の性能・破壊力が向上して戦争がしだいにエスカレートし、「総力戦」の様相を呈するなかですぐに都市住民や都市全体の破壊を目的とする無差別爆撃へと変わることになった。無差別爆撃は、スペインのゲルニカに対するナチス・ドイツの爆撃からはじまり、日本軍による重慶爆撃、米英軍によるハンブルク・ドレスデンなどへの爆撃、そして日本の東京・大阪・名古屋などへの大空襲、最後に広島・長崎への原爆投下へとつながることになった。こうした戦略の残虐さの段階的な上昇と比例して、交戦当事国における人道的価値・倫理的基準は急速に後退・低下することになる。

そうした戦争の変質と人道的・倫理的基準の転換を背景として注目されるのが、日本軍によって引き起こされた重慶爆撃である。これは、1931年の満州事変から上海・南京・武漢への日本軍による攻撃・占領が続く中で行われた、当時の中国の国民党政府が本拠を置いていた臨時首都・重慶に対する初めての長期的戦略爆撃であり、当初から無差別爆撃の様相を色濃く呈していた。

この重慶爆撃は、1938年2月18日から1943年8月23日までの 5年半の長期間にわたって行われ、死者11、889人、負傷者14、100人を出し、破壊した家屋17,608戸であったといわれる(注14)。前田哲男氏は、重慶爆撃を「ヒロシマに先行するヒロシマ」と位置づけ、その特徴として、第一に、重慶爆撃は都市全体の破壊、あるいは都市住民の生命の剥奪そのものを狙った攻撃であったこと、また第二に、空軍力のみによる攻撃であったこと、さらに第三に、それが相手国(指導者および民衆)の戦争への継続意志の破壊、すなわち戦意喪失が目的であったことの3点を挙げている(注15)

このような中国の首都・重慶に対する日本軍による残虐な無差別爆撃は、「戦略爆撃のブーメラン」(前田氏)という形で、その後の日本に対する米国の攻撃、すなわち東京・大阪・名古屋などへの無差別爆撃から広島・長崎への原爆投下へとなって返ってくる。そして、日本軍による重慶爆撃と米軍による日本への原爆投下に共通する特徴として、以下の諸点を挙げることができる。

第一点は、無差別爆撃を正当化する戦争目的と軍事の論理である。これは、無差別爆撃によって一般国民に「衝撃」と「恐怖(畏怖)」を与えて、敵国民の戦意・継戦意思を喪失させるのが最大の戦争目的であるということだ。この点は、「衝撃と畏怖」あるいは「イラクの自由」と命名された米英軍などによるイラク攻撃作戦の目的(戦闘員の戦意喪失および非戦闘員の戦争継続・抵抗意思の剥奪)とも共通している。

第二は、無差別爆撃をしても敵との距離が遠いために、相手側の死傷した姿などの惨状を直接目にすることはなく、良心の呵責や罪悪感を感じずにすむという点だ。この点は、アウシュビッツ、南京などでの大量殺戮と無差別爆撃・原爆投下との大きな違いでもある。このことは、安全な遠隔地からのハイテク兵器によるピンポイント爆撃という「戦争のゲーム化」にも形を変えて現れていると言えよう。

第三点は、早期終戦・人命救済、すなわち戦争を短期間で終結させて犠牲者を最小限にできるという正当化の論理である。だが、これは勝つためには手段を選ばないという野蛮な戦争のやり方を、あたかも「人道的方法」であるかのようにいう非常に欺瞞的な動機づけであると指摘せざるを得ない。

第四に、無差別爆撃を行う場合に、新型兵器の実験や訓練という要因が常にともなうという点である。例えば、重慶爆撃では、新しい「0式戦闘機」、あるいは新しい爆撃機「一式陸上攻撃機」、新しい焼夷弾「新四号」などが用いられた。また、重慶爆撃はその後の日米戦争の前哨戦としての性格、すなわちそのための「訓練」を兼ねていたともいわれている。最近のアフガニスタン戦争およびイラク戦争において、劣化ウラン弾やクラスター爆弾ばかりでなく、デージー・カッター、サーモバリック爆弾、電磁波爆弾などのあらゆる新型兵器が実戦で使用されたことは記憶に新しい。

第五は、第一次世界大戦・第二次世界大戦とともに登場した「総力戦」という考え方である。それは、戦争の勝敗を決するのは最前線での戦闘能力を支える、銃後・後方におけるその国の経済力と国民全体の総合的な団結力であるという戦争観であり、この「新しい国民戦争」に勝つためには本国の産業基盤を破壊することが決定的に重要な意味をもつことになったのである。そして、「戦闘員と非戦闘員の区別」や「軍事目標に限定した戦略爆撃」という道徳的規範が次第に失われ、都市全体の破壊や全住民の抹殺を目的とするような無差別爆撃が行われるようになったということだ。

この点に関連して注目されるのが、植民地主義と人種差別主義の結合という点である。これは、自分たちの側が「正義」・「民主主義」であって、邪悪な敵や劣っている民族に対してはどのような手段を用いても構わないというある種の人種的な偏見や差別に基づく考え方である。その結果、敵国の軍事・政治指導者ばかりでなく一般国民も等しく邪悪であるという「敵の悪魔化」・「敵の非人間化」が行われて、異教徒撲滅あるいは害虫駆除と同じような感覚で敵国人の皆殺しや大量殺戮さえ正当化されるようになる。東京大空襲や二度にわたる原爆投下を平然と行い、その悲惨な結果を知った上でなおそれを正当化する姿勢の背後にはこのような考え方があったのである。また、日本軍による真珠湾攻撃や連合軍捕虜虐待などに対する怒り・憎しみとそれに対する報復・復讐という感情・心理がそれに拍車をかけたことも事実であろう(注16)

以上から、無差別爆撃を正当化する論理は、そのまま原爆投下を正当化する論理と重なることがわかるであろう。しかし、このような考え方は、根本的には植民地主義や人種差別主義に根ざしたものであり、人道的観点からも決して容認できないことは明らかだ。特に問題なのは、こうした無差別爆撃や原爆投下を正当化する考え方が、過去ばかりでなく現在においても形を変えて生き続けているということだ。すなわち、冷戦終結直後の湾岸戦争で「正義の戦争」という考え方が復活し、その後のボスニア・コソヴォ紛争やアフガニスタン戦争・イラク戦争でも「人道のための戦争」「平和のための戦争」という形で拡大・強化されている(注17)。しかし、こうした考え方は、「空からの(国家)テロ」ともいうべき無差別爆撃の非人道性・残虐性を覆い隠す、きわめて偽善的かつ欺瞞的な考え方であると言えよう。

 

4.「21世紀型の新しい戦争」の克服に向けて

ブッシュ政権の新しい核戦略は、「ミサイル防衛」構想の推進と並んで、2002年1月に米国防総省が議会に提出した報告書「核戦略体制の見直し(NPR)」に見られる。この報告書では、非核保有国を含む7カ国(イラク、イラン、北朝鮮、シリア、リビア、ロシア、中国)に対する核攻撃計画の作成や地下貫通型の新しい小型核兵器の開発とそのための核実験再開などの必要性が強調されている(注18)

特に注目されるのは、核兵器先制使用を「選択肢」の一つとして確保するという方針を明確にしていることだ。これは、ブッシュ大統領が同年1月に行った演説で、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」として名指しで非難し、これら「ならず者国家」「テロ(支援)国家」に対しては従来の核抑止力は機能せず核兵器による先制攻撃を行うのが最も効果的だ、と表明した事実とも合致している。このように、ブッシュ政権の新しい核戦略では、核攻撃に対する抑止力だけではなく、大量破壊兵器に対する抑止力としての新しい役割を核兵器に持たせようとしている。ここでの核兵器は従来の「使えない兵器」ではなく、「使える兵器」として考えられているのが新しい特徴だ。

ブッシュ政権の新核戦略のもう一つの特徴は、弾道迎撃ミサイル(ABM)制限条約から一方的に離脱したことにもよくあらわれている。これは、冷戦時代のソ連との「相互抑止」の前提となっていた「相互確証破壊」戦略の事実上の放棄であり、核軍拡を宇宙にまで拡げてまでも米国の「絶対的かつ一方的優位」を確保しようとする狙いがある。

米国の攻撃的な姿勢は、2002年9月20日に公表された「米国の国家安全保障戦略」の中でさらに明確になる。米国・ブッシュ政権は、「ブッシュ・ドクトリン(予防戦争・先制攻撃戦略)」とも称されるこの新しい戦略で、冷戦期に抑止と封じ込めを中心としてきた従来の政策を転換し、冷戦後における米国の圧倒的な軍事力の優位を前提に、大量破壊兵器を持つ「テロリスト」や「ならず者国家」に対しては必要ならば単独でも先制攻撃を行って政権を転覆させる政策を打ち出した。これは、国際協調、すなわち国連や同盟国・友好国との国際的な協力よりも国益を優先的に考える、米国の「新しい帝国主義」的な考え方を鮮明に反映したものといえる。そして、この「ブッシュ・ドクトリン」を先取りしたのがアフガニスタン戦争だとするならば、それを全面的に適用した最初の事例がイラク戦争であった。

親米タカ派路線をとる日本の小泉首相は、こうした米国の核先制使用戦略に対して「理解」を示したばかりでなく、独仏など多くの欧州諸国が反対した米国による一方的なイラク攻撃や、その後の占領統治に対しても「無条件に支持」する姿勢を貫いている。それは、9・11事件以後に採択された対テロ特措法・イラク特措法や有事関連立法といった形で、直ちに具体化された。このことは、有事法制整備の最大の目的がイラクや北朝鮮など「ならず者国家」「テロ(支援)国家」への米国の軍事行動を「有効に支援する」環境・条件づくりにあることや、ミサイル防衛への共同開発に参加するという形でも小泉政権が、米国の新核戦略を含む世界戦略に積極的に協力する姿勢・方針をとっていることと無関係でないことは明白だ。そして最近顕著になってきた、政治家による「非核三原則」の見直しや核使用・核武装合憲発言、あるいは財界からの「武器輸出禁止原則」見直しや平和憲法の改定を求める動きなども、こうした脈絡で考える必要がある。

いま日本に求められているのは、このような形で米国の危険な核・軍事戦略に積極的に加担することではない。そうではなく、平和憲法と「非核三原則」の原点にもどって日本の「非核・不戦」の意思を明確にし、これまで国際社会が積み重ねてきた核軍縮の流れを一挙に逆流させようとする米国の暴走を欧州諸国などと共に説得してストップさせる努力を、真剣にかつ粘り強く行う必要がある。全世界の期待を裏切る形でのブッシュ再選が現実となり、イランや北朝鮮に対する経済制裁や新たな戦争の可能性が指摘されるようになっている現在、その意味はさらに大きなものになったといわねばならない。

クリントン大統領が1994年のスミソニアン展示論争に関連して「トルーマン大統領が下した原爆投下の決断は正しかった」と語ったように、現在でも米国では原爆投下を正当化する世論が圧倒的に強い。また、核抑止論に基づく核の先制使用という選択も放棄されていない。「無差別爆撃」と「核の先制使用」の禁止という、本来ならば20世紀のうちに解決されていなければならない課題が21世紀に持ち越されている。「正義の戦争」「人道のための戦争」という大義名分を掲げて一方的な軍事介入・先制攻撃を圧倒的な戦力で行ってそれを正当化するというパターンが、これから先「21世紀型の新しい戦争」として定着する恐れがある。

米国と同盟関係を結んでいる日本は、今後それによって大きな影響を受けることになる。なぜなら、新ガイドラインや周辺事態法・有事法制などによって日米安保体制の性格・本質がここ数年で大きく変わり、日本自身もこれまでいわれてきた「自衛のための戦争」だけではなく、米国などが唱える「正義の戦争」「人道のための戦争」に加担させられる可能性が急速に強まっている。そういった動きを何とか早い段階で克服するために力を尽くしていくことが今のわたしたちに求められているのではないだろうか(注19)。そして、新型戦術核の開発を進める米国が近い将来において朝鮮半島などで核兵器を再び使用するという最悪の事態を阻むためにも、原爆投下問題に関して日米両国(および世界全体)が共通認識を早急に確立することが必要である。そのためにも、まず日本が過去の総括・反省を真摯に行い、真の民主主義を確立するために努力する必要がある(注20)

原爆(核兵器)の威力を政治的発言権の拡大に利用する、米国による「原爆外交」(米・アルペロビッツ教授)は、21世紀を迎えた現在でも世界的覇権を維持するための道具として生き続けている。今もなお、核抑止論に固執し続けるすべての核保有国や「非核三原則」を掲げながら日米安保体制下での「核の傘」の呪縛から逃れられない日本政府に対して、その根本的転換をうながすだけの力をつけることが今こそ私たちに求められている。

本稿は、原爆投下問題への共通認識を確立するための一つのささやかな試論にすぎない。それは、現時点ではあくまでも一つの仮説であり、細部を含めての論証が今後さらに必要である。核抑止論の批判と克服、その結果としての核廃絶・核のない世界の実現は、この原爆投下をめぐる諸問題についての共通認識の形成・確立と結びついていることは明らかである。21世紀における平和な世界秩序を構築するためにも、国籍・職業・専門分野などを問わずに、多くの人々がさまざまな視点から新たにこの問題にアプローチして、その真実と本質がより一層明らかになることを心から期待したい。

 

< 引用・参考文献の注 >

(1)『読売新聞』2004年1月31日付(ワシントン発)

(2)拙稿「『ヨーロッパの周辺事態』としてのコソボ紛争―NATO空爆の正当性をめぐって」『日本の科学者』Vol.35.(2000年7月)、千知岩正継「国際社会における一方的人道的介入の正当性をめぐって―NATOによるユーゴスラヴィア空爆を事例に―」『比較社会文化研究』第12号(2002年)、岩田昌征『社会主義崩壊から多民族戦争へ―エッセイ・世紀末のメガカオス』御茶の水書房(2003年)などを参照。 

(3)なお、関連拙稿として、次の3つの論文を参照:@「原爆神話」からの解放−「正義の戦争」とは何か−『長崎平和研究』第12号(2001年)、A「原爆投下と無差別爆撃−重慶から広島・長崎へ−」『長崎平和研究』第16号(2004年10月)、B「『正義の戦争』とアメリカ−原爆と劣化ウラン弾を結ぶもの−」編著『核の 時代と東アジアの平和と原爆の記録(仮題)』法律文化社(2005年)。

(4)「マ−ティン・シャ−ウィン氏へのインタビュー」中国新聞社編『核時代 昨日 今日 明日』(中国新聞社、1995年)、36頁。

(5)例えば、岩城博司氏は、米国はすでに1939年の時点で日本への原爆投下を決定していたと指摘している(岩城著『現代世界体制と資本蓄積』東洋経済新報社、1989年、16頁)。また、スチュワートL・ユードル氏(米国)によれば、ドイツの具体的な原爆開発計画は実際には存在せず、米英両国はそれを1939〜1942年という早い段階から知っていたという(同著『八月の神話―原子力と冷戦がアメリカにもたらした悲劇』時事通信社、1995年、39〜47頁)

(6)P.M.S.ブラケット著『恐怖・戦争・爆弾−原子力の軍事的、政治的意義』法政大学出版局(1951年)、211頁。

(7)その代表的なものとして、例えば、麻田貞雄「原爆投下の衝撃と降伏の決定−原爆論争の新たな視座」『世界』通号616(1995年12月)および同「原爆投下の衝撃と降伏の決定」細谷千博他編『太平洋戦争の終結−アジア・太平洋の戦後形成』柏書房(1997年)を参照。

(8)主なものとして、西島有厚著『原爆はなぜ投下されたか−日本降伏をめぐる戦略と外交』[新装版]青木書店 (1992年)、荒井信一著『原爆投下への道』東京大学出版会(1995年)、進藤榮一著『戦後の原像―ヒロシマからオキナワへ』岩波書店(1999年)などを参照。

(9)例えば、エドワード セント・ジョン著『アメリカは有罪だった―核の脅威の下に〈上〉〈下〉』朝日新聞社(1995年)、田中正明著パール判事の日本無罪論』小学館(2001年)、C.G.ウィーラマントリ著『核兵器と科学者の責任』中央大学出版部(1987年)、松井康浩著『原爆裁判―核兵器廃絶と被爆者援護の法理』新日本出版社(1986年)などを参照。

(10)原爆投下問題を扱った米国などの主な研究書(日本を除く)としては、P.M.S.ブラケット著『恐怖・戦争・爆弾−原子力の軍事的、政治的意義』法政大学出版局(1951年)、L.ギオワニティ/F.フリード共著『原爆投下決定』原書房(1967年)、ハーバート・ファイス著『原爆と第二次世界大戦の終結』南窓社(1974年)、マ−ティン・J.シャ−ウィン著『破滅への道程−原爆と第二次世界大戦』TBSブリタニカ(1978年)、ガー・アルペロビッツ著『原爆投下決断の内幕・(上)(下)』ほるぷ出版(1995年)、アージュン・マキジャニ、ジョン・ケリー/共著、『原爆投下のシナリオ WHY JAPAN? 』教育社(1985年)、ロナルド・タカキ著『米国はなぜ日本に原爆を投下したのか』草思社 (1995年)などの文献を参照のこと。

(11)バートン・バーンスタイン「検証・原爆投下決定までの三百日」『中央公論』1995年2月号、411頁。

(12)長崎への原爆投下の意味に注目する数少ない貴重な研究・文献としては、例えば、犬丸義一「長崎になぜ原爆が投下されたか」『平和文化研究』第12集(長崎総合科学大学発行、1989年)、鎌田定夫「長崎原爆とは何であったか」マヤ モリオカ・トデスキーニ 編集『核時代に生きる私たち−広島・長崎から50年』時事通信社(1995年)、田崎昇「長崎になぜ?−原爆投下をめぐる二つの疑問について考察する−」『長崎平和研究』第18号(2004年10月)、などを参照。この主題を直接扱った米国側の文献に、Joseph Laurance. Marx Nagasaki; The Necessary Bomb?Macmillan Pub Co (September 1, 1971) がある。

   また、原爆と人体実験の関係に注目した研究には、 芝田進午「被爆50年 これからの課題−人体実験としての原爆−」『平和文化研究』第19・20集合併号(長崎総合科学大学発行、1997年)、高橋博子「核時代における国家と国民―原爆医療情報と民間防衛」紀平英作編集『帝国と市民―苦悩するアメリカ民主政』山川出版社(2003年)がある。また関連文献として、笹本征男著『米軍占領下の原爆調査―原爆加害国になった日本』(新幹社、1995年)、椎名麻紗枝著『原爆犯罪―被爆者はなぜ放置されたか 』大月書店(1985年)、アルバカーキー・トリビューン編『マンハッタン計画―プルトニウム人体実験』小学館(1994年)、山崎正勝・日野川静枝共編『原爆はこうして開発された』青木書店(1997年)、沢田昭二著『共同研究 広島・長崎原爆被害の実相 』新日本出版社(1999年)、河井智康著『原爆開発における人体実験の実相―米政府調査報告を読む』新日本出版社(2003年)、なども参照。

(13)芝田進午・広島大学名誉教授「被爆者援護法−もうひとつの法理」

(『毎日新聞』1994年9月6日付き)より抜粋。

(14)中国・重慶市で2003年12月に開催された「重慶爆撃65周年国際シンポジウム」での報告資料より。私も参加して報告を行った。前掲・拙稿「原爆投下と無差別爆撃」を参照。

(15)重慶爆撃と無差別爆撃については、例えば、前田哲男著『戦略爆撃の思想 ゲルニカ-重慶-広島への軌跡』朝日新聞社(1987年)および同「日本が戦争の歴史に加えたこと−『9・11』への補助線」磯村早苗・山田康博共編『グローバル時代の平和学2 いま戦争を問う』法律文化社(2004年、58〜88頁)、ロナルド・シェイファー著『米国の日本空襲にモラルはあったか−戦略爆撃の道義的問題』草思社 (1996年)などを参照。

(16)アジア・太平洋戦争が「人種(主義)戦争」であったとの指摘については、例えば、ジョン・ダワー著『容赦なき戦争』平凡社(2001年)、ロナルド・タカキ著『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』草思社(1995年)および同『ダブル・ヴィクトリー―第二次世界大戦は、誰のための戦いだったのか?』柏艪舎(2004年)などを参照。

(17)正義の戦争については、例えば、ダグラス・ラミス著『なぜ米国はこんなに戦争をするのか』晶文社(2003年)の「正義の戦争はあるのか」119〜130頁および同著『憲法と戦争』晶文社(2000年)の「正戦論」198〜219頁を参照。

(18)ここでの記述は、拙稿「『新しい戦争』と二つの世界秩序の衝突 −9・11事件から世界は何を学ぶべきか−」日本平和学会編『平和研究(特集 世界政府の展望)』第28号(早稲田大学出版、2003年11月発行)を参照。

(19)次の二つの拙稿、「いま『九州・沖縄』から平和を創る−『非核神戸方式』と地域・自治体の平和力』菅英輝編『21世紀の安全保障と日米安保体制』ミネルヴァ書房(2005年)および「新ガイドライン安保体制と『九州・沖縄』−地域から問う平和戦略の構築に向けて」石川捷治・平井一臣共編著『地域から問う国家・社会・世界−「九州・沖縄」から何が見えるか』ナカニシヤ出版(2000年9月)を参照。

(20)原爆投下と日本の戦争責任との関連をどう考えればいいか、という問題については、次の高橋哲也氏の短いが本質を突いた鋭い論考を参照のこと(「米国は広島、長崎の原爆投下を謝罪していないのに、なぜ日本だけが謝罪しなければならないのですか?」『世界(増刊)』通号 687号(2001年4月)。