「長崎での地球市民会議(NGO平和集会)にコーディネーターとして参加して」

                    西岡 由香氏(「ナガサキピ−スミュ−ジアム建設運動事務局」)

 

〜プロローグ〜

 私は走っていた。

「地球市民集会ナガサキ」閉会集会会場に溢れんばかりの人垣をかきわけて。

この集会を総括する「ナガサキアピール」に、ただ一つの言葉を入れたくて。

走っていた。

「ナガサキアピール」採択まで、あと5分のことだった。

 

Act.1

 話は、2000年春にさかのぼる。

 事の起こりは、1999年5月にオランダのハーグで開催されたNGO平和会議だった。

全世界から延べ一万人が集い、めくるめく熱い討議が展開されたハーグ。

その会議に出席し、触発された長崎市長が帰崎後、「2000年11月、世界からNGO代表者を集め、長崎でNGO平和集会を開催したい」と発表したのだ。

 通常、大規模な国際会議を開催する場合、準備期間は2〜3年を要する。予算がおりてさあ準備となったのが一年前。11月の開催予定日には国際会議場を備えたホールさえふさがっている状態。「こんなに準備期間がなくてできる訳がない」。それは当事者すべての思いであったろう。しかも、第1回事務局会議が開かれたのは、それから更に半年後の2000年4月のことだった。

「時間がないいいっっ!!」その叫びはその後、本番まで引きずることになる。

 

 長崎市原爆資料館は、爆心地公園のすぐ上手にある。資料館からのぞむ夜桜が美しい春の夜、「第1回事務局会議」なるものに足を運んだ。別に自主的に行った訳ではない。事務局スタッフ(市民ボランティア)に名を連ねていた上司にのこのこついて行ったのだ。

 配られたレジュメを見て驚いた。今年11月のことというのに、何も決まっていない。

まさか。白いスペースを埋めるべく市の職員に質問すれども「実行委員会方式ですから、皆さんが決めて下さい」と、すげない返事。この集会は、行政と市民団体、個人、NGOが一体となってつくる日本では初めての取り組みだ。軌道に乗るどころか、歯車さえまだ揃っていないこの時期にはまだ誰が、何をどう受け持つのかさえ暗中模索の状態だった。

 そんなことは全然解らない私は、質問を繰り返した。勿論、返事が返ってくる筈もない。

他の参加者の方達はうつむいて黙ったっきりだし、なんとも釈然としないまま会は終了。その日はそれで解散となった。

 で、第2回目。レジュメに目をおとすと、「分科会チーフ」の所に見たような名前・・私の名前じゃないか〜〜っ!!「よろしく」ってこらこらこら。「言いだしっぺがやらされる」って解ってたから、他の人たちは何も言わなかった訳だ。し、しまった・・

 

 NGO会議といっても、組織のフローチャートはある。実行委員長、副委員長を筆頭に理事、実行委員、事務局という流れだ。

 その企画書はある日、ウエの方から突然やってきた。

「皆さん、これでいきたいのでよろしくお願いします」と言われ、目を通してみてくらくらした。「核爆発のない核実験」「宇宙の核化」などそれはそれはカタい分科会タイトルがずらりと並んでいる。専門家のための学術会議だ。これで一般市民が来る訳ないじゃん。

しかも内容とスピーカーまできっちり決められた「女性フォーラム」担当者欄には私の名前が入っていた。冗談じゃない、ただ決められたことを実行するだけなんて。

 もうやりませんと踵を返そうと思ったけれど、その前に一言いいたくて鼻息も荒く実行委員会に乗り込んだ。

「私たちは、自分たちで企画運営したいんです!」

「それでよろしいんじゃないでしょうか」

は?

なあんだ。理解あるじゃん。だったらこっちも頑張ろうってものだ。

専門的分科会はそのまま継続するも、「女性フォーラム」「青少年フォーラム」は、一般市民が気軽に参加でき、裾野を広げるものとして私たちに託された。(はずだった)

 討議した事項も実行委員会でハネられたらダメ、という「実行部隊」事務局。後でわかったのだが、事務局として集まったメンバーの人となりは、見事にみんな「ひとくせある」人ばかりだった。この面々が、提示された材料を味付けもせずに呑み込むはずはなかったのだ。

 事務局の勢いはやがて、実行委員をも巻き込む熱い潮流となっていく。

 

 8月の長崎は忙しい。

9日の原爆忌前後には、様々な平和団体が市内のそこかしこで集会を開く。それが済むとお盆、精霊流し。だから委員会も、8月の前半は全く機能しない。

集会の骨子、担当者もほとんど決まらないまま8月は終わりを迎えた。本番まであと3ケ月もないのに、である。

集会の実行委員、事務局には沢山の平和団体が名を連ねているが、どこも8月下旬までは動けないのが解っているから、それまでは控えていた連絡を、この時期になって一斉にかけた。

 ぽつぽつと人が集まってきた。

 私が担当する「女性フォーラム」には、様々な女性団体の第一線で活躍している女性たちが企画運営メンバーとして名乗りをあげて下さった。頼もしいことこの上ない。夏の暑さをものともせず、活発で前向きな意見が飛び交う。そうして練りあがった企画内容は、チェルノブイリ原発事故のヒバクシャによるコンサートを中心とした、間口の広いものだった。核について基礎知識のない方でも気軽に参加でき、かつ身近なところから考えるきっかけを作ろうというものだ。

 任せてもらったはずの企画内容だったが、日がたつにつれ「チェルノブイリは趣旨が違う」とか「コンサートは導入部分でしょ」という声が行政側から聞かれるようになった。

チラシは校正もとうに済んで、すぐにでも印刷に回せる状態になっているというのに、膠着状態は10日も続いた。結局、当初予定していなかったミニシンポジウムを入れるということで一応の折り合いはついたのだが、越えねばならないハードルはまだ延々と続いていた。

 台本作り、備品準備、時間調整・・作業量の多さに反比例して、日にちだけがどんどん過ぎていく。

まるで干潟の海を、ずぶずぶと腰までつかりながら歩くような、重く、先の見えない道程。しかし、そんな暗夜を進めたのは、志を同じくする仲間がいたからこそだった。

 最初は、私を含めて3人だった。集会の状況を見かねたボランティアである。

夏を過ぎて、倍になった。更に倍。そして残り一ヶ月になってようやく多くの人たちが集まってくれた。

 「ギリシャのオリンピアの火を会場に灯そう」「街頭インタビュービデオを作ろう」等のアイデアが飛び出す。集会の大車輪がゆっくりと回りはじめたのがわかった。

 正直、不安材料は多い。最初から関っている私たちでさえ、未だ全体が見えないでいるのに、途中から参加した人は何をか言わんやである。そして何より本番の動員。「核兵器廃絶」という敷居の高い集会に、いかに市民の参加を促すかが最重要課題だ。

 20世紀最後のNGO会議をナガサキでやる。2000年5月にニューヨークで開かれたNPT再検討会議、ミレニアムフォーラムの流れをくみ、核兵器廃絶への明確な提言を行おうと、世界各地から参加するNGOメンバーの意気込みは熱い。その温度差を、私たちはどう埋めていけるだろう。

 

●世界NGO会議 核兵器廃絶−地球市民集会ナガサキ

20001117()原爆遺構巡り、ウェルカムパーティ

       1118()開会集会、交流会、各団体ブース出展、自主企画

       1119()分科会

                   1.ヒバクシャフォーラム 2.青少年フォーラム 3.女性フォーラム

                   4.平和教育・平和文化 5.核兵器禁止条約 6.核抑止論の克服

                7.弾道ミサイル防衛と宇宙の核化 8.非核地帯と核の傘

                   9.核爆発のない核実験 10.NGOの役割

       1120()閉会集会 ナガサキアピール採択、原爆遺構巡り

 

Act.2

 9月の声を聞いたと思う間もなく、時間は矢のように過ぎていく。

事務局スタッフが練り上げた集会内容。それは9月末の実行委員会と10月初めの市民プレ集会での承認という2つのハードルを越えねばならない。

 私たちが担当する女性フォーラムは、チェルノブイリ原発事故で被曝した20歳の歌姫ナターシャ・グジーさんのコンサートと、フォト・ジャーナリスト広河隆一さんの講演、それにミニシンポジウムという内容だ。

 連日、会議のハシゴでヘロヘロな足を引きずって実行委員会の場にのぞんだ。ただ広い会議室に、事務局スタッフと実行委員が向かい合う。

 息を呑んだ。平和団体代表、大学教授、被爆者、そうそうたる顔ぶれが並んでいる。ボーッとしていた頭もいきなりシャキーンとなる。

 集会内容についての紹介と討議が始まった。集会をよりよいものにしようと、一言一句重みと説得力のある意見が並ぶ。

会議は佳境に入る。かつて「チェルノブイリはこの集会と趣旨が違う」と行政側に言われた企画が、はたして実行委員に受け入れてもらえるのか。

 司会者が女性フォーラムの内容を読み上げる。まるで受験生の気分だ。

「皆様、この内容でよろしいでしょうか」

手が挙がった。うぎゃあああっ!!しかも長崎の平和研究第一人者の先生だし!!顔にタテ線が走った。

「僕は、非常にいいと思います」

へっ?

「核兵器廃絶に迫るアプローチは様々です。芸術、音楽の力が集会を奥深いものにしていくんじゃないでしょうか。皆さん、あらゆる力を結集してこの集会を成功に導いていきましょう」

 拍手が起こった。可決されたのだ。その後も女性フォーラムを応援するような発言が続き、問題の争点は専門的分科会へ移っていった。

 何故かどぎまぎして視線を泳がせていると、被爆者の女性と目が合った。彼女は少し微笑んで、軽くウインクをしてくれた。

何だか胸が一杯になって、私はただ頭を下げるしかできなかった。

 

 10月初めに行われた市民プレ集会(別名/コーディネーターにモノ申す会)も滞りなく過ぎていった。

 プレ集会の夜、広島、東京など各地から駆けつけたコーディネーターの方々との懇親会が開かれた。法律家、医師、平和団体代表など大御所と呼ばれる先生方ばかりだ。私なんぞがこの場にいていいんだろうか。さすがに一寸萎縮する。

 ある大学教授が口を開いた。

「内容をいかにわかりやすく伝えるか、資料と取っ組みあいの毎日さね。まるで学生時代に戻ったごたるばい」。

 巨大なウロコがぼろっと落ちた。

当事者である先生方ご自身も、専門的テーマと市民との間にある壁を感じていたのだ。

そして核兵器廃絶など今まで考えたこともない人たちが、彼らの扱うテーマに近づくトンネルを掘ろうと尽力されていたのだ。

私だけが大変な思いをしていたのではなかった。皆、歩を同じくしていたのだ。

 「この集会、いけるかもしれない」。

直感めいたものが、脳裏を走り抜けた。

 

 お開きになった会場を後にして、海ぞいのカフェバーに車を走らせた。

おりしも時は秋の大祭「長崎くんち」の中日。港界隈は赤や黄色のランプが海面に揺らめき、りんごあめや金魚釣りの出店が立ち並ぶ通りを人々が行き交う。

そんなさざめきを階下に聞きながら、カフェバーでステージを持つストリートミュージシャンを訪ねた。「青少年フォーラム」への出演交渉をするためだ。

 やがて、どこかにあどけなさが残る男性二人が現れた。

突然「今度の核兵器廃絶集会に・・」と切り出した私たちをいぶかしむこともなく、彼らはこころよく出演をOKしてくれた。「僕たちも話し合いに参加します。そして最後に皆で平和の歌を歌いましょう」と。

 店を出ると、ほろ酔いの頬に海風がひんやりと心地良かった。

時計は0時を回っていた。さっきまでの賑わいもなりをひそめ、裸電球の明かりで橙色に染まった通りを抜けると、駅前広場に出る。

 明日、じゃない今日の午後から、ここでチラシ配りだ。どのくらい集まるかな。いや、きっと集まるに違いない。様々な出会いが与えてくれたのは「明日を信じる勇気」だった。

 誰もいない駅前広場で私は、久しぶりに深呼吸をした。

 

 そのニュースが入ってきたのは、11月3日の午後のことだった。

祝日とはいえ市の担当職員は全員出勤、事務局スタッフもチラシ印刷やミーティングに追われていたさなか、共同通信からの電話が鳴った。

「ロシアが臨界前核実験をやりました!」

「なにィィィッ!?」

その場にいた全員に緊張が走る。一瞬後、それは怒りに変わった。

コメントを求めるマスコミからの電話がじゃんじゃん鳴りはじめる。

 そういえば、同年2月5日に女性国際平和会議を開催した時も、2日前の2月3日にアメリカが臨界前核実験を強行したのだった。あの時は「平和井戸端会議」なる性格だったからアピールこそ出さなかったが、今度は核兵器廃絶の集会だ。怒りは、やがて決意に姿を変えてゆく。こうなかったら何が何でも集会成功させてやるもんね。みんなのヤル気に火をつけてくれてありがとうってものだ。負けるもんか。

 

 本番まで残り一週間を切った。プレ集会、街頭パネル展、毎晩の会議、皆の疲労の色も濃い。しかし、だ。「いい顔してるなあ」とホレボレする瞬間に、いくつも出会う。ロシアの核実験が火をつけたのも事実だろう。だが、それ以上に、互いへのいたわりと、結束力と、この集会を成功させようという熱気が、原爆資料館の部屋にみなぎっている。あるいは、この地に残る何かの思いも力を貸してくれているのかもしれなかった。

 被爆者も、原水協も原水禁も、学生も、社会人も、行政もマスコミも、皆がひとつの方向へ向かって走っている。「ナガサキアピール制作は徹夜でやりましょう!」と事務局長が笑った。

 21世紀の黎明に、ナガサキはどんな希望を育むことができるだろう。

本番への秒読みが始まった。

 

Act.3

 11月18日、いよいよ開会集会当日がやってきた。

ゆうべも遅くまでリハーサルと打ち合わせがあり、身体はくたくたなのに頭だけは妙に冴えている。

 冷え込んだ朝のきりりとした空気。かつてハーグを訪れた時も、こんなふうに期待と緊張感に満ちた空気が流れていたのを思い出した。

 女性フォーラムに出演するナターシャと共にタクシーで原爆資料館に乗りつける。車を降りた瞬間、私はその光景に言葉を失った。

 人、人、人──────                                                      

 開会集会に訪れた溢れんばかりの参加者に、受付は上を下への大混乱の最中だった。

「人が溢れてもう会場に入りきれません!」悲鳴にも似た言葉が飛ぶ。隣接する小ホールでの同時中継を見るべく、ドアに人々が殺到していく。11月というのに中は熱気で息苦しいくらいだ。

 「司会を立てない」という斬新な手法を取った開会集会。スピーチを終えた登壇者は、次の登壇者を紹介し、握手と共にクロスして入れ替わる。NGO代表、各国政府代表のスピーチにアトラクションをはさみつつ、会はテンポ良く進んでいく。

 「全世界から核兵器をなくしましょう。みんなの力で。ここに集まった私たちの力で!」被爆者と小学生たちが拳を天へ突き上げる。

 4時間に及ぶ開会集会。会場を埋め尽くした参加者は、ついにほとんど席を立つことがなかった。

 

 翌19日。

 私がコーディネーターをつとめた「女性フォーラム」会場は、全国から駆けつけて下さった約400人で埋まった。

 参加者、スタッフの熱気に応えるように、フォーラムの中身もそれは素晴らしいものだった。チェルノブイリ原発事故のヒバクシャであるナターシャ・グジーさんのコンサート。彼女は風邪で喉を傷めており、実はリハーサルまで声が出ない状態だったのだが、本番になってまさに奇蹟、水晶のように澄んだ歌声が、会場いっぱいに響きわたった。

 「いつかナガサキで歌いたい」というのがナターシャの夢だったという。この瞬間も病に苦しむ子どもたちの思いが、ナターシャの身体を通じてほとばしる。その痛みはナガサキの痛みでもあるのだ。歌の翼が、ゆるやかにチェルノブイリとナガサキを結んでゆく。

 客席のあちこちですすき泣きが聞こえる。「魂の歌」とはまさにこういう歌をいうのだろう。

 歌いきった彼女に、ステージ上で市民手作りの千羽鶴がプレゼントされた。これは年に一度、平和推進協会から外国人一人だけにプレゼントされるもので、今年はナターシャが選ばれたのだ。

感激で目を潤ませつつ小躍りしている私たちに、広河さんがにこやかに語りかけた。

「あのお、僕の講演も残ってるんだけどな・・」。

 広河さんはこの日の直前までパレスチナを取材されていた。「イスラエル軍は非人道的な行為を世界に知られたくない。ジャーナリストがその地に留まることで、虐殺を防ぎうることもある」とあえて危険区域に身をさらしていたのだ。彼の右腕は、イスラエル兵の「偽装ゴム弾」(鉛を埋め込んである)を受けて、もしかしたら骨にヒビが入っているかもしれないという。更に催涙ガスの影響で、決して万全とは言えない状態で長崎へ駆けつけて下さったのだ。

 「チェルノブイリと世界のヒバクシャたち」。スライドを上映しながらの講演は、ずっしりと重く深い核汚染の現実を伝えるものだった。ヒバクシャの生と死。奪われた日常。放射能という目に見えない圧力の産物によって弱者は傷つき、大地もまた赤い涙を流す。この時間と空間は強烈な体験となって、参加者の記憶に織り込まれたことだろう。「一生忘れられない」。そんな講演が、ここにあった。

 二部が終わってのミニシンポジウムは、広河さん、ナターシャに加えて、「国際女性平和自由連盟」のニューヨーク事務所長、フェリシティ・ヒルさんと、12年間の闘いの末、この7月に最高裁での勝訴が確定した「長崎原爆松谷訴訟を支援する会」事務局次長の牧山敬子さんが一同に会する、まさに「夢の共演」となった。

 嬉しかったのは、まずフェリシティさんが「このフォーラムはウラン採掘から核被害まで、“核の鎖”の全てを網羅している。こんな意義ある分科会に出席できて光栄です」とおっしゃって下さったこと。トークの中身もまたスゴかった。言葉と空気が、痛かった。

「何人子どもが亡くなったら、人は賢くなるのでしょう」(ナターシャ)

「私たちは過去の核被害から何も学んではいない。世界中に放射能の防護服はない」

(広河さん)

「裁判の勝利は、核被害の実態を直視し援護するという、被爆者の立場に立った政策を自国の政府に求める世界の核被害者を励ますものとなったことでしょう」(牧山さん)

そして最後にフェリシティさんが「地域の力と国際的な力を結び、私たちの思いを粘り強く伝えていきましょう」と締めくくった。

 会場アンケートにも「知らないことは罪だと思った」「核兵器廃絶ではなく、核廃絶だと思った」「核問題は自分の問題だと思った」などの声が相次いでいた。「いのちを育む性として世界のヒバクシャの現状と苦しみ、核の実態を知り、私たちにできることを考えよう」という女性フォーラムのテーマは、十分に伝わったのだ。そんな手ごたえを感じつつ、会は盛大な拍手と共に終了を迎えた。

 

 ナターシャ、広河さんを見送った後、休む間もなく翌日の閉会集会で読み上げる「女性アピール」作成に入る。

関ったスタッフみんなの魂をこめたアピール文ができあがった。

 

「今、私たちはここナガサキから呼びかけます。

この世界を、核の鎖に包囲させてはなりません。

世界中のヒバクシャ、そして平和を願う人々が、悲しみを越えた暖かい心を結びあい、

手をつなぎあって、丸い地球を包み込みましょう。すべてのいのちを大切にする社会を

つくりましょう。

世界中の異なる性、異なる民族、異なる文化が出会い、互いを慈しみ、絆を深めたならば

必ず新しいいのちが誕生することでしょう。

そのいのちの名前は“PEACE OF EARTH”です」。

 

 女性フォーラムだけでなく、やはり市民が主体となって一からつくりあげた「青少年フォーラム」などの分科会も、平均300人という参加者を動員し、大成功をおさめたという報告が入ってきた。各会場では、どんなに熱い論議が交わされたことだろう。スタッフやコーディネーターの笑顔が見えるようだった。

 

 しかし、その喜びに影をおとすような出来事が、その夜から始まったのだ。

 

 分科会終了後の夜更け、翌日の閉会集会で採択する「ナガサキアピール」の起草委員会が招集された。集会の内容を総括し、世界に向けて発信する重要なアピール文だ。

  原案を見て驚いた。核兵器廃絶へのアプローチはあるものの、専門的分科会の総括がメインとなっており、「青少年フォーラム」「女性フォーラム」の内容が全く入っていない。

 「これでは専門家のための専門アピールではないか」「核実験だけでなく、核事故の文字も入れるべき」との意見が各コーディネーターから相次いだ。

「女性フォーラム、青少年フォーラムも大きな役割を果たしたはずです」。私も粘ったのだが、その夜は保留の形で終了。釈然としないまま、翌朝を待つこととなった。

 ところが、翌朝、再討議の場は設けられなかったのだ。その上、各起草委員が「最終決定」としてアピール文を受け取ったのは採択15分前。あわてて目を通すと「女性、青少年などを含むあらゆる分野の声がわきおこり」と、申し訳程度に言葉が入っている。

 はっとした。「私たちは核時代の苦しみを味わった広島、長崎、セミパラチンスク、ネバダ、ムルロア、東海村のヒバクシャについて多くを学んだ」という一文が入っているではないか。しかし、なぜチェルノブイリが入っていないんだー!!しかも英文のアピール文にはしっかり入っているのに。

 

 私は、アピール文を握りしめて走った。実行委員長の元へ、閉会集会会場の人垣をかきわけて。

ただ「チェルノブイリ」の文字を入れたくて。

なぜならその言葉の向こうには、数え切れないヒバクシャの苦しみと、祈りと、女性フォーラムをつくりあげたみんなの情熱がみなぎっていたからだった。

みんなの思いを凝縮した女性フォーラムのスタンスを貫きたかった。コーディネーターとして、絶対に折れることのできない文字だった。

「ナガサキアピール」採択まで、あと5分。

 

 ようやく、実行委員長の元へ辿り着いた。

息せききって文書を指さし「これはなぜ・・」あえぎながら尋ねた。

返ってきた言葉は、驚くほど単純なものだった。

「ミスプリです」。

・・!

 踵を返して、採択を読み上げる高校生の元へ走った。訂正を伝える。間に合ったのだ。 かくして「ナガサキアピール」は読み上げられた。

「皆さん、採択を」との呼びかけに「異議あり!」と挙手する声も続き、会場は一時騒然となったのだが、「後ほど調整を」ということでアピールは一応の採択をみた。

 私は拍手できなかった。「チェルノブイリ」の文字は入った。が、あれほど先生方もこだわった「核事故」の文字がやはり入っていなかったからだ。

 

 閉会集会後の記者会見で、「なぜこの集会では原発問題を扱わなかったのですか」という質問が記者団から投げかけられた。

 海外NGOの方が「ヒバクシャは全て同じだと思っている」と答えたのを受けて私も「核廃絶の過程では、世界のヒバクシャが手をつなぐことが大切。だから“核事故”の文字も入れるべきです」と主張したのだが、結局それを通訳してくれる方もなく、「時間がおしているので」の一言で会見は終了。その時にはもう、「ナガサキアピール」も決定稿としてマスコミに流されてしまっていたのだった。

 ある記者がこう話しかけてくれた。「海外では反核=反原発が主流。ここでも積極的にその殻を破ってほしかった。なぜなら、ここはナガサキなのだから」。

 平和団体の男性が「核問題に行政が絡むと、いつももめるんだよ。原発問題と女性問題は日本が一番遅れてるからね」と肩を叩いて通り過ぎた。

 今更と言われるかもしれないが、正直いってこんなことになるなんて思ってもみなかった。私は反原発なんて叫ぶのではなく、ただ世界のヒバクシャの痛みを伝えたかった。被爆地を平和への思いでつなぎたかった。サバイバルナイフで刺すのも、包丁で刺すのも痛みは同じだと思うから。ただ、いのちの大切さを伝えたかったから。

 慌ただしく会場の後片付けをするスタッフの姿が、白黒写真のように見えた。

私と、青少年フォーラムリーダーの所だけ時間が止まったかのようだった。

多くの参加者を動員し、感動の渦を呼んだフォーラムと、そのアピールが評価されない。急速にしぼんでいく心を、私はどうすることもできなかった。

 

 悔しかった。

 

 4日たって思ったことは「海外NGOの方達も、活動を展開する中できっと同じような悔しさを抱えているのだろう」ということだった。

フェリシティさんが「粘り強く」と訴えられた、あの説得力は、そんな不条理や悔しさを抱えているからこそ生まれるものかもしれない、と。

 私の中の悔しさを「みんなそうだから」と、ごまかそうとは思わない。

むしろ、山を登りきったら、次の山が目の前にそびえていた、そんな気持ちが心を支配していた。

 

Act.4

 集会後、はじめての事務局会議が行われた。

11月末の夜。吐く息が白い。初めてみんなが集まった時には桜が咲いていたのに、今、街には早いクリスマスを告げるポインセチアが赤く並ぶ。

 もう早々に失礼しよう。そんな思いで出かけた会議だった。

集会の総動員数5625人という数が報告されると、どよめきにも似た歓声が上がる。

それでも俯いていた私に顔を上げさせたのは、事務局の面々から語られた言葉だった。

「成功の影に隠れて見えなくなっている問題点をきちんと見つめよう」

「各フォーラムの出したアピールを色々なところで活用していこう」

 驚きだった。私が言わんとしていたことは、みんなもまた感じていたことだったのだ。 話は尽きることなく、時計は午前を回っていた。

深夜の道を、同じ方向の集会班リーダーと帰る道すがら、今まで抱えていた悔しさと苛立ちについて語った。彼は少し考えてから、こう答えてくれた。

「先生方も、市民手作りのフォーラムが、まさかあんなに成功するとは思っていなかったんじゃないかな。あの短い時間では、確かに女性、青少年フォーラムの成果を入れることは難しかったかもしれない。だったら、僕たちでこれから追加アピールを作ればいい。

たくさんの人たちが、所属団体や立場を超えて集まったからこそ、このナガサキに“平和の文化”が生まれたんだよ」。

 

 「だから、一人で山を登ろうとするな」という声が、深夜の通りに染み込んでいった。強さと温かさを内包した言葉に、凍てついた心が溶けていく。

しんしんと夜気が降る午前1時、自宅でお米をとぎながら、涙があふれて仕方がなかった。

 闘っていたのは私一人ではなかった。そして、これからも一緒に闘える仲間と場、つま

り「文化」がもはや生まれていたのだと────                                  

 

 時間と体力と、あらゆる犠牲を払ってやり遂げた「地球市民集会」の果てに生み出されたもの、それは「平和の文化」だった。

 「文化」を辞書で引くと、「理想を実現していく人間の活動、またはそれによってつくりあげられた結果」とある。それは、一人一人の思いがそのつながりによって編み上げられて出来るものなのだろう。

理不尽なこと、不条理なこともあるけれど、つながりの輪に加わった人々が諦めなければ、きっといつかは高い山も越えられる。

 むっっちゃくっちゃ大変だったけど、やっぱり、やって良かった!!

 

 集会が終わって、様々な人と話をした。ナガサキアピールについて、集会の意義について。そして、知らなかったことをたくさん教わった。

  ゲンバクとゲンパツ。

最初は、原爆という一粒の種だった。それが経済という土壌を得ることで、核産業は童話の豆の木のように伸びていく。天を目指して。核廃絶へのアプローチが、理論のみではなしえぬ矛盾を抱えているように、核産業もまた、いつ豆の木がバベルの塔に変わるやもしれない不安を抱えているのだ。

 両者を打破する方向はきっと、ある。

それは、はからずも私たちが今集会でそうしたように、エネルギーや疫学の視点から見るのではなく、ただ「いのちの問題」ととらえるやり方ではないか。

 そうだ思い出した。記者会見後、平和団体の男性と交わした言葉を。

「私、何も知らずにつっ走っちゃいました・・」

「その方がいいこともあるんだよ。これからはむしろ。そんな力が必要なのかもしれない」

 向こうに光がある、と解っていながら動けない善意の群衆の存在が、その言葉の陰に見えた気がした。

 ナガサキアピールにこそ入らなかったが、集会期間を通して女性や若者に期待する声は、先生方やマスコミから痛いほど伝わってきた。それは、行政や先生方もまた、疫学重視の歴史、団体間の溝、外国とのバランスという軋轢にあえいでいたことの裏返しではなかったか。

 本番まで紆余曲折あったものの、結局、フォーラム自体は思い通りにやらせてもらった。それはもしかしたら「黙認」という名の勇気だったのかもしれない。

 かつて、長崎、広島に原爆が投下された時、地域の医師たちがわが身をけずって治療に当たったように、今、求められているのは単純にいのちを救おうとする強い思い、ヒバクシャの痛みや地球の痛みを感じる自然な感性ではなかろうか。

 苦しんでいる人たちがいるから手を伸ばす。

そういった、ごく自然な行動への回帰こそが、核の鎖を打ち砕く原動力となるのかもしれない。

 

 久しぶりの休日、報告書を届けに原爆資料館へ出かけた。

真下に見下ろす爆心地公園の木々はもう大半が落葉していた。その傍らでは、老夫婦がわずかな日だまりに憩う。原爆の記憶を抱きつつ、自然は季節を彩ってゆく。人もまた、そのふところで四季を繰り返す。あきらめと希望、疾走と休息の間を揺れながら。

 資料館内にあるポスターにふと目が止まった。

「2000年 平和の文化国際年」。思わず吹き出した。

大切なメッセージは、すぐ近くにあったのだ。その上「2001年からの10年は、国連の定める平和文化のための10年」だって。なんてタイムリー、なんて偶然。いや、きっと偶然じゃない。

誕生したばかりの「平和の文化」は手塩にかけなければ育つまい。

 集会班リーダーの言葉を思い出した。「あなたが闘うのをやめないなら、“平和の文化集団”はその(個人でなく)存在を支えるだろう」。

 どうやら「集会が終わったから終わり」というわけにはいかないようだ。

 

 資料館の扉を開けて、外へ出た。

「平和の文化」の産声の向こうで、目に映る風景のすべてが輝いて見えた。

西岡由香さんが描いた(「長崎で開かれた女性国際会議の舞台裏での奮闘」