《沖縄への平和の旅に参加して》

 

平和問題ゼミでは、4月の正式発足を前に2月末のプレゼミに参加したメンバーが、木村国際関係論ゼミと合同する形で、1997317日から19日にかけて沖縄へ行ってきました。ここでは、その旅行の足跡を、記憶に鮮明に残っていることを中心にまとめて見ました。

 

ここに、『新版・観光コースでない沖縄』(高文研、1996年新版)という、一冊の本がある。観光地としての沖縄を紹介したものではなく、基地や、歴史的経験といった、もう一つの沖縄の顔を写し出している、一風変わった視点から作成された、案内本(と一応分類した)である。

私たちのゼミは、1995年9月4日に起きた、米軍少女暴行事件をかわきりにして発展した一連の「島ぐるみ闘争」を沖縄問題の一つとして捉え、この問題についてさらなる知識と見解を深めるために、ゼミにおいて取り組んできた。そういった中で、今回の旅行を通して実際に沖縄問題、はたまた安保問題にも触れてみようということになった。

実際の状況に触れるために、私たちが選択したのが、この本に基づいた観光コース決定であった。

 

3月17日の昼過ぎの便で、私たちは鹿児島空港を発った。飛行機の中で、置いてあった「沖縄タイムズ」「琉球新報」等を読みながら、これから降り立つであろう沖縄についていろいろと思いをはせていた(確かその日の一面は、那覇市内での、米軍施設返還に基づく跡地利用に関する決定についてではなかったか)。

那覇空港に到着すると、アロハシャツを着た琉球大学高良鉄美憲法ゼミの方々の大変嬉しい歓迎をうけた。そして彼らとは、その日の夜にコンパを通じて親睦交流を深めることとなった。

初日のうちに首里城をみておこうということになって、夕方の大渋滞のなか、琉大生の方の先導をうけて急いで車を走らせた。流れていく街並みはとてもきれいで、つね日頃問題となっている経済問題というものは果たして本当に存在するのだろうか?と疑問を持ってしまうほどであった。その地域の経済問題等を冷静になって把握する場合には、そこの最も良い所ではなく、もっと違う個所を見て判断すべきなのであろう。

首里城の守礼之門の近くに、旧日本軍司令部壕跡がひっそりとそのおもかげを残している。もちろん中には入れないのだが、当時の雰囲気が醸し出されていた。平和を愛したとされる琉球王朝と、それとはまるっきり逆の性格を持つ、沖縄戦の代表的戦跡の一つでもあるこの壕跡とのコントラストは、沖縄が当時おかれていた(現在もまたそうであるが)特徴や状況をよく表しているのではないか。

 

旅行第二日目は、主に沖縄本島北部の戦跡を数箇所、嘉手納基地、楚辺通信所、チビチリガマをまわった。

通称「安保の見える丘」から、嘉手納基地を一望した。ひっきりなしに戦闘機が離着陸をくりかえしていた。戦闘機の合間に、輸送機もまた同じような訓練を行っていた。現在の安保条約によってこの基地の存在があるわけである。来る途中、米軍関係者を対象としているのか、空室あり(くやしいが英文を忘れてしまった)と英語で書かれた案内がマンション(どちらかというとアパートか)の窓から垂れ下がっているのを幾度となく見た。

基地からの重圧と、基地からの利益という、相反する二つの影響力を持ち続ける米軍基地。そして、その狭間で生活を余儀なくされる住民の姿があった。一概に米軍基地反対の姿勢をとれない人々の存在があった。

チビチリガマには、「私たちの先祖の墓を荒らさないで下さい」と書かれた看板と、千羽鶴が私たちを出迎えてくれた。戦時中、このガマの中でもだえ苦しみながらこの世を去っていった人々がいる。そして、もし自分が、そこで生き残って今現在も生きていたならば、やはり同じ看板を立てたであろう。肉親や知人をあのような状況で失った方々は、このガマに対して、想像を絶する苦しい心境をもっているに違いない。だが、このガマに、探検気分で訪れる人々もまたいるのであろう。その看板と千羽鶴は、ここを訪れるあらゆる人達を必死で食い止め、また諌めているのである。

 

旅行最終日は、ひめゆり平和祈念資料館、第一外科壕の地下洞窟、摩文仁の丘と平和祈念公園をまわった。

これをご覧になっている方が、もしこれからひめゆり平和祈念資料館を訪れる機会があったら、そこで販売されている、『公式ガイドブック ひめゆり平和祈念資料館』(1996年改訂)を是非一読されることをお薦めする。というのは、沖縄戦の詳細な経過に加えて、実際に悲惨な地上戦を経験された県民の方々の証言が、まざまざとその戦争の実態を写し出しているからである。実際ガマの中ではどのような事が行われたのか、戦争での死というものに直面した人々が一体どのような事を考え、また思ったのか。このような証言はそれらを知る上でのかけがえのない貴重な資料である。

第一外科壕の地下洞窟は、チビチリガマとは状況が違っていて、ある程度中まで入ることができた。入り口付近に残っている土砂やくずれた石は、沖縄戦で米軍が爆破したときのものである。奥に進むに従って、真っ暗になり、ポツリポツリと水のしたたる音のみが聞こえてくる。沖縄戦では、いつ狙われるかもしれないこの不気味なほど暗くて静かな壕の中で、まだ若々しい乙女達が負傷者の手当てを行っていたのかと思うと、いたたまれない気持ちで一杯になった。一分間の黙とうを全員で捧げた後、ぬかるみに足をとられないようにしながら外に出た。

ここで、一人の東京からの男性旅行者に出会う機会があった。聞く話によると、彼もまた、私たちが今回参考にした『新版・観光コースでない沖縄』を頼りにして旅を続けているという。これからこの壕を体験するであろう彼もまた、私たちが経験したのと同じ思いにかられるのであろう。

飛行機の時間を気にしながら、摩文仁の丘を目指した。平和祈念公園では、ガイドの方にバスで各県の沖縄戦における各都道府県慰霊塔を案内してもらった。

この祈念公園の敷地内には、沖縄戦で犠牲になった人の名前をすべて刻んだ平和の がある。ここには、国籍を問わずに沖縄戦犠牲者(ただ、沖縄県民に関しては沖縄戦の戦没者に限られない)の冥福を祈ろうという趣旨のもと、礎が整然と並んでいるのであるが、ここに、朝鮮人犠牲者の問題が見え隠れする。沖縄戦の朝鮮人犠牲者の名前が刻まれているはずの礎の中には、名前のない、のっぺらぼうな礎がただ並べられているだけの個所がある。犠牲者(その殆どが従軍慰安婦や軍夫であるといわれる)の遺族の中には、ここに名を残すことは恥辱であるという理由で、刻名を拒否した方々が多数おられたということである。

 

薩摩軍による琉球支配、琉球処分から、現在までを通して見ると、沖縄戦というものが、現在ある沖縄問題にいかに関係しているかが理解できる。平和の尊さ、戦争のむごたらしさを訴えるための戦跡をとどめておきながらも、一方では基地の存在によって軍事的要衝の性格を帯びている沖縄の矛盾性。沖縄戦という悲惨な経験をして、それを二度と繰り返すまい、戦争によって死んでいった人々の死を無駄にはすまいと、平和をアピールしていこうとする沖縄県民が、今度は基地の重圧に耐えている。果たしてこれを、日本の安全保障を実現する

ための受忍限度の範囲内として捉えることができるのだろうか。安全保障を実現していくための代替策はまったく存在しないのか。

 

経済問題、歴史的問題を抱えながらも、それでもなお現在の状況を良くしていこうとする沖縄を生で触れることができた今回の旅行は、大変有意義なものであった。ゼミ内での交流、また琉球大学高良鉄美憲法ゼミの方々との交流、そして現地の方の貴重な話と、自分自身いい経験になったものが多くあった。これらの事を、平和問題ゼミナールの中でしっかりと生かしていきたいと思う。

 

 

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