平和問題ゼミナール
平和への直言
Last Update :15:42 98/07/28

ピースボートに参加して

枚田 真由美(法文学部法学科)

はじめに

わたしがピースボートの名前を初めて耳にしたのは、木村先生の研究室であった。先生のゼミ生である野平さんという方がそこで働いているという、ただそれだけのことだったのだが、心の片隅に残っていたのだろう、大学の掲示板を見た瞬間、参加して見たいと思った。それからの行動はというと、私の性格特徴でもあるのだが、本当に素早かった。大阪に資料請求をしたり、木村先生に話を聞きに行ったり、はたまたピースボート東京事務所で働いている野平さんに電話をかけたりと,情報収集をしていくまでは順調に進んでいった。が、しかし、ここで難題にぶつかってしまった。それは両親の承諾である。22歳にもなってと思われるかもしれないが、私にとってやはり両親を無視することはできなかったし、また、自分がどうして参加したいのかもちゃんと分かってもらいたかった。それプラス金銭的にも両親の協力なしには参加することが難しかったということもあり、必死で説得の日々が続いた。時期的な問題がネックとなり、一度は諦めキャンセルまでした私がこうして無事、前半だけではあったが参加し終えて14日間の出来事を思い返すことができるのも、野平さんや大阪事務所スタッフの方々 の協力や、半ば諦めではあったと思うが両親の理解があってこそだと思う。まずそうした人たちに感謝したい。そして、この旅でで会った人たちにも感謝したい。私に、様々なことを本気で考えさせる機会を与えてくれたから…。

第22回ピースボート 春風Asianクルーズ紀行

1 出港

初めての横浜港は、鹿児島では見ることのできない大きな規模の港だった。様々な船が帰港しており、港町の風情を醸し出していた。必要な手続を済ませ、船に乗り込んだ。船内は外見よりもずっときれいで、かつ大きく感じられた。わたしは船員に案内され、これから数日間お世話になる自分の部屋にたどり着いた。私が部屋に入ったとき、既に同室のルームメイトがおり、4人そろったところで自己紹介。ちなみに私の部屋は4人部屋であった。みんな私よりも年下だったのだが、とてもしっかりしていて、初めての船旅に少し不安を抱いていた私も、彼女たちと話しているうちにそんな気も吹っ飛んでいった。1998年2月26日午後3時、とうとう出港の時がきた。陸地ではバンド演奏が始まり、今回いけなかった人や関係者の方々の見送りの数も次第に増え、いよいよというとき。流れる音楽のせいなのか、胸が熱くなった。この感情の昂ぶりの理由はいまもっても定かではないのだが、きっと、いろいろな人たちの温かいバックアップのもと成し得た旅であるという感情の結果だったのかもしれない。そんな気持ちに少し戸惑う私になど目もくれぬがごとく、船は次第に陸地を離れて、大海原へ と出発していったのであった。

2 船内にて

出港後しばらくして、船内活動のオリエンテーションが始まった。初めて参加者全員を見回すことが出来たのだが、とにかく若い人が圧倒的に多かった。ちらほらと年配の方がたの姿も見られたのだが、とにかく若い、しかも女性の姿が目立った。ひととおりの説明が終わると、この船を動かす原動力にもなっているボランテアのそれぞれの役割チームの紹介があった。それらをひととおりあげるときりがないのでやめるが、10チーム以上はあったと思う。それぞれがきちんと目的を持っていて私と同世代の人たちなのに、とても頼もしく感じられた。これまでの自分のどこか気力に欠けていた生活が悔やまれてならなかった。この船内の生活の中では、とにかく自分がしたいことをとことんしていかないと、ただただ無駄な時間ばかりが過ぎていくばかりだ。せっかくいろいろな人が乗船しているこの機会に、いろいろな人と話しをしたいと思った1日目であった。言い忘れていたが、この船には水先案内人といって、船内における講座やイベントを行う方々が乗られている。クルーズ2日目からそうした方々の話を聞くことが出来るのだが、それが毎日いくつもあって、どの講座を聞きにいけばいいか迷っ てしまうほど。それプラス、船に乗っている私たち自身が自主的にイベントを行うことができるので、時に参加したいものが重なってしまうということがしばしばあった。こうした数多くの講座について、全てお話することは無理であるので、私が特に印象に残っているものについてのみお話ししたいと思う。まずは、従軍慰安婦に関するものである。この問題に取り組んでいるハルモ二ロラチームが主催して行っていた講座やイベントがいくつかあり、私はそのほとんどに参加していた。(ちなみにこのチームに名ばかりではあったのだが私も加わっていた。)

3 私と従軍慰安婦問題

従軍慰安婦問題をテーマにした映画「ナヌムの家」の監督、ビョンヨンジュさんの講演を聞いた。一見きれいな男性かと思ったのだが、実は女性。おそらく身長は175センチ以上あったと思う。ユーモアたっぷりで人を引きつける術でもお持ちなのか、聞いていた人全てがいつのまにかビョンヨンジュワールドにすっかりはまってしまっていた。この講演のテーマでもあるのだが、「しあわせは他人の不幸の上にある」ということを自分の体験談から社会問題にまで突っ込んでお話しして下さった。世の中まさにそのとおりじゃないかと思った。この講演をきっかけに従軍慰安婦問題についてもっと知りたいと思ったわけであるがとにかく今までの私の知識は非常に断片的なもので、実はこの問題について何らわかっていなかったのだと痛感した。この問題を、ただ国家の問題としか捉えておらず、根本的な事を見逃してしまっていた。それはつまり人間として、また女性としての権利侵害という視点であった。元従軍慰安婦のイヨンスハルモニ。(ハルモニとは韓国語でおばあちゃんという意味)実はある本で名前だけは知っていたのだが、彼女の講演を聞いたり、実際話をしたりして、いやというほどこの 事を思い知らされた。そして今までの私に欠けていたもの、それは自分の問題として考える努力だったことに気がついた。今自分に何ができるのかといったら、結局何もできないけれど、この問題がその時強制連行され日本軍に暴行を受けた韓国の女性だけが抱えるべき問題ではなく、私たち女性全体が考えなくてはいけない問題であることを認識できたことは私にとって非常に意義あるものであった。私だけでなく、このクルーズに参加した人全員とは、今でも何人かの人とこのことを分かち合えたあの時間は、私にとって非常に貴重なものであった。また、この問題を日本の側から問い続けている水先案内人の西野留美子さんの存在は様々な人にとって大きく、かつ勇気を与えているように感じられた。1度お話を聞いただけだったが、西野さんを日本人女性として誇らしく思えた。

4 ベトナムにて

このクルーズで特に印象に残っている寄港地の一つにベトナムがある。寄港地で私たち参加者はオプショナルツアーというテーマ別に別れて現地を巡る、ピースボートが独自に企画し、現地の旅行者やNGO(市民)が主催するツアーに参加する。もちろん自由行動も可能である。私は、ベトナムでは昔の王朝のあったフエにいった。このフエは、ベトナム最後の王朝、グエン朝の都が置かれていた町である。ホーチミン市や港町ダナンに比べると、本当に静かな町で、観光地という以外の何者でもないところであった。ところが一歩踏み込んでみると、王宮などの遺跡の周りには、貧しい生活をしている人々でいっぱいだった。そう、ベトナムといえば急速に経済発展をとげている国と想像しがちだが、そうした都市化の陰でアジア最低の生活水準にあえぐベトナム農民も存在し、観光都市であるフエもその例外ではなく、水上生活者の急増などの問題を抱えているということだ。どこの国においても南北問題を抱えているのだと痛感した。どうして私がこのベトナムに印象を抱いたかというと、貧しいながらもたくましく生きている子供たちの姿を見たからだった。オプショナルツアーで立ち寄った「子供の 家」が、その一つのいい例であろう。この「子供の家」は、日本人の小山道夫さんらが中心となって建てた施設なのだが、何の為に建てられたのかというと、このフエで、親もいず、家もなく、子供たちだけで路上生活をしているという環境を、少しでもよくしようという彼らの善意によって建てられたのである。ここで暮らしている所謂元ストリートチルドレンは、今まで路上で物乞いしていたとはおもえないほど明るく、元気な子達ばかりであった。この「子供の家」で私たちは、子供たちに救援物資を渡し、短い時間ではあったけれど一緒に写真を撮ったり、紙風船で遊んだり、おしゃべりをしたり…。楽しくもあり、物足りなくもあり、またつらい現実を目の当たりにしたり、様々な思いが交錯したときを過ごした。しかし、私がそうした複雑な思いでいるのを尻目に子供たちはあくまで前向きに暮らしている。だからなおさらこの子達が、以前ストリートチルドレンであったことに目を疑ってしまう。何人かの子供たちと話をした。11歳のある男の子は、片言ではあるが日本語を話すことができ、かつ英語も話せた。毎日朝から夜遅くまで勉強をしているということだ。「大変だね」というと、笑って 「別に嫌いじゃないから。それに日本語をもっと勉強して日本にいってみたい」と答えた。なんて馬鹿な質問をしたのだろうと思った。ここは日本ではなくベトナムなのだ。目の前にいるのは、中学校まで義務教育で、何ら疑問も持たずに学校に通っている日本の子供たちではなく、学校に行きたくてもいくことのできないベトナムの子供たちなのだ。また、18歳という外見はもっと幼く見える女の子は、学校の先生になりたいという夢を持っていた。ここでであった少年少女たちは、真っ直ぐに自分の将来に向かってただひたすら勉強し生きている。これほどまでに貪欲でいられる理由は何なのか。恐らくそれはベトナム社会の「暗」の部分を反映したものであり、たとえ手に職を付けたとしても、実際仕事にありつけるのは少数であるけれど、何か特技を身に付けなければ将来は見えてこないという厳しい現実からであろう。「子供の家」で生活している子供たちみんなが自分の夢を掴み取れることを、私は今も願ってならない。あの時見たあの笑顔は、私に忘れかけていたものを思い出させてくれたから…。

5 カンボジアにて

今クルーズ最後の寄港地カンボジア。ベトナムのダナンから飛行機でまずシエムリアップへ移動し、アンコールワット遺跡を見学しに行った。ここでとても後悔したのは、アンコールワット遺跡とはいったい何なのかという知識が皆無であったということである。こうした遺跡巡りをする際には、最小限の知識を身に付けてから来なければならないということを再認識した。(今となってはもう遅いのだが)けれども、この遺跡がカンボジアにおいてだけでなくアジアにおいても重要なものであることだけはわかった。そして、この遺跡修復に日本も多大な協力を行っているということもわかった。日の出の瞬間のアンコールワットを見て(言葉では表すことができないほど神秘的だった)、首都プノンペンへと向かった。この間、周りの女の子達がばたばたと倒れていったのだが、私はというと、暑さに多少参ってはしまったもののその他はいたって健康であった。人生体力勝負である。プノンペンで私が見たもの、それはカンボジアの暗い過去であった。フランス統治下に高校として建てられたが、ポルポト政権時代に収容所となり、2万人もの罪なき市民が虐殺されたト―ルスレーン。こうした虐殺の背景 にあったのは貧富の差であった。都市住民に対する偏見ともいうべき恨みの念が、農村住民の感情を煽り、所謂ポルポト派と呼ばれる組織を作り上げ、虐殺というかたちへと追い込んでいった。このト―ルスレーンには、こうした虐殺によって亡くなっていった人々の写真や虐殺の様子を描いた絵が、壁いっぱいに飾られている。そして、頭蓋骨でかたちどられたカンボジアの地形を飾っている場所がある。ただただ残酷であるとしか言いようがなかった。と同時に、なぜカンボジアの人々はポルポトを今まで、そしてこれからも放っておくのだろうと思わずにはいられない。なぜ、裁判にかけないのか、今でも理解できないでいる。それをカンボジアの国民性であると言ってしまえばそれまでの話なのだが。そして、カンボジアと言って忘れてならないのが地雷である。カンボジアの中のオプショナルツアーで「ストップ地雷」という、世界最先端の技術で地雷撤去に望むNGOを訪問するツアーがあったのだが、それに参加した人に聞いた話によると、地雷被害者との交流や、地雷を見つけるのに警察犬ならぬ地雷犬を使っているということ、また実際に地雷を爆発させてみたりと内容豊富で、非常にためにな ったということだ。また、私はこの国がまだまだ治安の悪い国であると言うことを覚悟して行ったのに、私たち外国人は非常に手厚く保護されて比較的安全であった。何が危険なのか、誰に対して危険なのか。その答えは、結局そこに住んでいる一般の人々が一番の犠牲者なのだということであった。様々な理由があるにせよ、私たちピースボートの参加者は、政府あげての警備に守られ、本当に安全な旅を過ごせたのではないかと思う。それはそれで幸せだったのだと思う。カンボジア最後の日、そしてこの旅最後の日は、ちょっとしたハプニングもあったのだが、私にとって、この日なくして今回のピースボートのクルーズは語れない。同じホテルに泊まっていた水先案内人の田中優さん、コウ・ファンケイさんご夫妻、そして最後の最後に迷惑をかけてしまったピースボートスタッフの方々等と、カンボジアという国の話やボランテア精神とはなんぞやといった話、またピースボートを今後どのようなNGOにしていけばよいのかといった話を夜遅くまで語った。もっぱら私は聞く側にまわっていたけれど、こうした方々の日ごろの様子や考えを垣間見ることができ、最後の締めくくりにふさわしい一日を過 ごすことができたのであった。そして、こうした人々によって運営されているピースボートの将来はきっと明るいと思ったのであった。

おわりに

こうしてピースボートの、短くてだけど長かった旅が終わった。今はまだ一つ一つの事がまるで昨日の出来事のように鮮明に浮かんでくるけれど、時間が経つにつれ、そうした記憶も薄れていくかもしれない。しかし、その時見たこと聞いたこと感じたことは、私の心の糧となり残り続けるであろう。ここでは触れなかったが、このクルーズに参加していた在日朝鮮人の方々との出会い、また、イ・ヨンスハルモ二と笑い、歌い、そして泣いた時間、台湾海峡でなくなった従軍慰安婦の方々の追悼式でチマチョゴリを着た人形を海に流したあの時、水先案内人の講演やその後の談話、寄港地のアモイ大学生との交流や、ベトナムで出会ったたたくましい子供たち、そして厳しく辛い現実。カンボジアでの残虐な過去や、至る所で見当たる華僑の進出、そしてそれぞれの国の民族問題などなど、時には逃げ出したい衝動に駆られたこともあったけれど、こうした体験がこの旅をいっそう振り返らせる要因となっているのは確かである。帰国してみて、日本の寒さを肌身で感じたとき、いいようのない哀愁の念に駆られた。確かに日本は私が行った国々に比べれば、インフラも断然整っているし、物質的にも圧倒的に 優れている。こんな国に育て上げた両親や祖父母の世代の人々に私達は感謝しなければならない。しかしこうした幸せは誰かの不幸の上にあるのではないかと思えてならない。そう、今の日本を、また未来の日本を語る上で忘れてはならない戦争責任の問題がそのひとつの例であろう。このクルーズで常に考えさせられた日本の戦争責任について、また真の平和とはいったい何なのかということについて、私たちは無関心でいてはいけないのである。過去を知らずして未来は語れなのである。ピースボートに乗って本当にたくさんの事を学んだ、と同時に多くの疑問や矛盾にもぶつかった。このクルーズに参加してただ満足するのではなく、こうした疑問や矛盾に今後どれだけ向かい合っていけるか、言わばこの旅は私にとって終着駅ではなく出発点なのであり、またそうしていかなくてはいけないと思う。最後に、ピースボートのこのクルーズで出会った全ての人に本当に心から感謝したい。

〜おわび〜

今回ピースボートの船旅に参加したということで初めて書かかさせてもらったわけですが、断片的な出来事のみをピックアップして書いたので、クルーズ全体の様子がいまいちはっきりと分からないのではないかと心配しています。自分自身どういったものをどういうスタイルで書いていこうかいろいろと悩んだ挙げ句、全ての行事を書くことは難しいと判断し、このような結果となってしまいました。至らない所が多々あり、読みづらい部分もあるかと思いますが、なにとぞご了承ください。また、ピースボートに興味をもたれた方は、やはり百聞は一見にしかず、クルーズに参加し、自分の目で確かめることをお勧めします。いろいろな価値観に出会い、考え、悩んでみるのも時には必要なのではないかと思います。