「新しい戦争」と二つの世界秩序の衝突−9・11事件から世界は何を学ぶべきか−

                          木村 朗(鹿児島大学法文学部、平和学・国際関係論専攻)

はじめに

 「9・11テロを境に、世界は変わった」といわれるが、果たしてそうであろうか。確かに、9・11事件以後の世界は戦争モード一色に覆われつつある。米国のブッシュ政権は新保守主義者(ネオ・コンサーバティブ)が主導権を握り、「新しい戦争(対テロ戦争)」を掲げ、アフガニスタン(以下、アフガンと略す)に続いて、イラクに対しても一方的攻撃を国連や国際世論を無視する形で強行した。米国内では、事件直後から主にアラブ・中東系の人々に対する予防拘禁や盗聴・検閲の強化がテロ対策(愛国者法の制定等)の名の下に実施されている。日本は、その米国の「正義」に追随し対アフガン戦争に第二次大戦後初めての参戦をしたばかりでなく、イージス艦派遣や燃料補給等を通じて対イラク戦争への側面支援を行った。また日本政府は、拉致・不審船問題や核・ミサイル問題を通じての北朝鮮への国民感情の悪化を利用する形で、ミサイル防衛(MD構想)への全面的参加と朝鮮有事への対応を前提とした有事法制化を積極的に推し進めている。

しかし、こうした米国を中心とする世界の急速な軍事化・帝国化の動き、すなわち新保守主義者による「新しい帝国秩序」の形成とは逆の潮流が、国連を中心とする民主的かつ平和的な「多元的世界秩序」の構築を求める「世界(あるいは地球)市民主義」の萌芽、世界的規模での反戦・平和運動の高揚や反グローバリズム運動の登場となってあらわれている(1)。米国は、最終的にイラクへの武力行使を容認する国連決議の採択に失敗し、史上最大規模の反戦・平和運動が行われ国際的に孤立する状況下で、正当性を欠いたままイラクへの侵略戦争を敢えて強行した。イラクへの攻撃前に国民の過半数がそれに賛成した国家は、世界の中で米国とイスラエルのみであったという事実は、いかに米国が国際的に孤立していたかを示している。

このように、9・11事件後の世界は、新保守主義者が主導する米国中心の「新しい帝国秩序」と、それに反対する市民・NGOによる国連を軸とする「多元的世界秩序」という二つの世界秩序が衝突しせめぎ合っているといえよう。

本稿の目的は、9・11事件で国際社会に課せられた重要な課題、すなわち、安全保障・軍事同盟の見直しを含めた世界秩序の変容を根本から問うとともに、21世紀における世界秩序のあるべき姿・方向性を探ることにある。

 

1.9・11事件の意味と背景

 (1)米国の安全神話の崩壊と「イスラエル化」−教訓としての軍事力の無意味化

 2001年に米国で起きた9・11事件は、米国の安全(全能)神話が一挙に崩壊したということで全世界に大きな衝撃をあたえた。世界最強国家であると自他ともに認める米国の経済(世界貿易センタ−)と軍事(ペンタゴン)の中枢が、ハイジャックされた民間旅客機による自爆攻撃という最も原始的な方法で破壊されたのである。この事件直後に米国のメディアは、米国の本土が攻撃されたのは日本による真珠湾攻撃(1941年12月7日)以来のことであり、それは米国にとって予測不可能な出来事であったと伝えた。多くの米国のメディアや政府関係者が9・11事件を真珠湾攻撃と対比させるのは、真珠湾攻撃が何らの正当性ももち得ない卑怯な奇襲であり、それと9・11事件を重ねることで、完全な被害者である米国がどのような報復を行おうとも一切の責任を問われることはないというレトリックを自己の利益と考えたからである。また、米国政府には事前にハイジャック攻撃を含む数多くのテロ情報が内外から寄せられており9・11事件が「米国にとって予測不可能な出来事」では必ずしもなかったことも次第に明らかになっている(2)。

この9・11事件を別の視点から眺めるならば、米国本土の戦場化、すなわち米国の「イスラエル化」の本格的開始という見方もできるであろう。周知のように、中東地域ではイスラエルにおける極右のシャロン首相の登場により、イスラエル・パレスチナ双方による暴力と憎しみの新たな悪循環が9・11事件より1年以上前から続いており、その結果、双方(とりわけパレスチナ側)に多くの犠牲者が出ている。このパレスチナをめぐる紛争では、イスラエルの圧倒的優位な軍事力をもってしてもパレスチナ側の絶望的な自爆攻撃を含む抵抗闘争を完全に鎮圧することは不可能であるということが誰の目にも明らかになっている。このような状況は、米国がこれまですすめてきた「力による平和」、あるいは「国家(軍事力)中心の安全保障」がもはや意味をなさない、すなわち「軍事力によって市民(国民)の安全は守れない」ということを端的に物語っている。しかし、9・11事件後のブッシュ政権は、こうした教訓を学ぼうとする姿勢を一切見せなかった。ブッシュ政権の最初の対応は、「米国がなぜ狙われたのか」・「なぜ米国がこれほど憎まれなければならないのか」という設問を発すること自体がテロリスト側を利することになるという論理で、9・11事件の原因・背景を追求することを断固拒否するというものであった。その中で、9・11事件や炭疽菌事件の真相究明を求める多くの人々の声も完全に封殺されることになった。

 

(2)9・11事件の原因・背景と「テロとの戦い」の発動

9・11事件の原因・背景という問題では、これまでにノーム・チョムスキーやエドワード・サイードをはじめ多くの論者が、米国主導のグローバル化による貧富の極端な格差という矛盾や米国が過去に行ってきた世界的規模での恣意的な対外的軍事行動に対する怨嗟の蓄積、とりわけ中東・パレスチナ問題での二重基準の適用、すなわちイスラエルへの一方的肩入れと湾岸戦争以後も続くイラクに対する執拗な攻撃等、様々な直接的および間接的な原因を指摘している。特に注目されるのが、9・11事件はそれ自体が問題発生の原因・起点ではなく、それまでの米国の対外的行動がもたらした当然の結果・報復でもあるという見方である。例えば、チャルマーズ・ジョンソンは「二十一世紀には、過去数十年間の帝国主義の無謀な行為が原因で、無辜の人びとが予期せぬ報復を受けることになる。ほとんどのアメリカ人は、アメリカの名において何が行われたか、何が行われつつあるかを、ほとんど知らないかもしれない。だが、アメリカが世界支配を追求しつづけているために、すべてのアメリカ人は−個人としても集団としても−法外な代償を支払うことになるだろう。」(3)と指摘している。この指摘は9・11事件前のものであるだけにより説得力がある。

だが、ブッシュ政権は、こうした声を無視して、対外的には司法・警察・金融・情報等各分野にわたる「国際反テロ同盟」の構築に取り組む一方で、国内においてはテロ対策の強化に乗り出した。9・11事件直後に、事件に関係したとみられるアラブ・中東系の人びと約1200人を逮捕令状なしに拘束・長期拘留し、当初はそれらの人びとの氏名や容疑、人数すら明らかにしなかった。また、2001年以降に渡米したアラブ・中東出身者に対する事情聴取や留学生への監視強化が多くの反対者を抑えて実施された。さらにブッシュ政権は、10月6日に愛国者法(Patriot Act)を成立させた。この法律は、テロ実行の協議やテロ活動への支援を取り締まりの対象とし、テロ関与の疑いがあると当局が判断した移民・外国人の拘留期限を現行の2日間から7日間に延長、通信の傍受や携帯電話・Eメール記録等の強制的な開示を可能とする等を主な内容としていた。市民の反対や議会での審議で一定の歯止めがかけられが、特に問題なのは、「テロ」・「テロリスト」の定義があいまいで当局に大幅な裁量権を持たせることになったことである。その結果、テロ対策という名目で、合衆国憲法で保障された市民の基本的人権が過度に制限され、愛国心の異常な高揚とテロへの恐怖・不安が広がる中で、移民・外国人に対する差別と迫害等新たなヘイトクライム(憎悪犯罪)を生むことになった(4)。

 

2.「新しい戦争」の登場と「新しい帝国秩序」の形成をめぐって

(1)  「新しい戦争」と人道的介入論−アフガン報復戦争とNATO空爆の教訓

ブッシュ大統領は、9・11事件で行われた自爆攻撃に対して「新しい戦争」・「21世紀型の戦争」を宣言し、その報復としてアフガンへの軍事行動を英国と一緒に直ちに行った。しかし、この「テロとの戦争」を「新しい戦争」と規定し、また自衛権の発動として正当化することができるのだろうか。

多くの論者が指摘するように、米国に対する「テロ行為」は凶悪な国際犯罪ではあるが、それ自体を「戦争行為」と見なすことはできない。無差別テロは「人道に対する罪」として、犯行グル−プに国際社会による厳しい法の裁きを受けさせるのは当然である。しかし、その実行は、あくまでも国際的な警察・司法機関の協力によるべきである。米国はこうした手続きを一切無視して独自の判断・評価で終始一貫行動した。すなわち、状況証拠だけの早い段階でビンラディン率いるアルカイダを犯行グル−プと断定し、その証拠を何ら提示せぬままアルカイダの壊滅ばかりでなく、それをかくまうタリバン政権の打倒をも目的とした軍事行動を即座に実行に移したのである。

また、米英両国によるアフガン攻撃のやり方は、国際人道法に照らしてみても非常に問題の多いものであった。すなわち、アフガン攻撃では、湾岸戦争やNATO空爆でも使われたクラスター爆弾や劣化ウラン弾ばかりでなく、特殊大型爆弾デージーカッターやサーモバリック爆弾等の新型兵器が大量に使用された。そうした中で、多くの「誤爆」が繰り返され、9・11事件の犠牲者を上回る多くの犠牲者を出すことになった。「テロ」という犯罪に「戦争」を宣言して報復を行う米国のやり方は、既存の国際法秩序を乱暴に踏みにじるものであり、まさに「正義」を盾とした無法に他ならない。米国のアフガン攻撃は報復=復仇行為であることは明瞭であり、米国も賛同・署名している1970年の友好関係原則宣言(国連総会決議2625)にある「武力行使を伴う復仇行為を慎む義務」は完全に無視された。国連憲章では、戦争の違法化を前提に、国際紛争に対しては、個別国家による武力行使を禁止して(国連憲章2条4項)、平和的解決を優先させることを義務づけている(同2条3項)。そして、それらの努力を尽くしてもなお解決できない場合にのみ、例外的措置として国連による軍事的な強制措置(同42・43条)と自衛権の発動による武力行使(同51条)を認めている。しかし、今回のテロに対する米国の報復攻撃は、こうした要件を満たしていないばかりか、武力行使を容認する新たな安保理決議も欠いたまま実行されているだけに、自衛権の濫用以外の何ものでもないといえよう(5)。

近年、コソボ紛争への対応として人道的介入を名目にして行われたNATO空爆のように、米国を中心に、既成事実の積み重ねによって既存の国際法原理を否定し新たな国際社会の規範作りを行おうとする傾向が顕著である。NATOによる対ユーゴ空爆は、国連安保理の承認の欠如という法的な手続き上の瑕疵、目的と手段の不均衡(劣化ウラン弾等の大量使用や民間施設への攻撃等の戦争遂行手段の非人道性)、目的と結果の乖離(アルバニア系住民の救済・保護の失敗、ミロシェビッチ政権の政権基盤の強化)等から、法的・形式的にはまさに主権国家に対する侵略行為であり、政治的・実質的にも不必要かつ非人道的な行為であった(6)。

NATO空爆の正当性の否定が、一般的な意味での人道的武力介入の必要性・可能性を否定することにはならない。また、武力行使をともなわない人道的(援助)活動や、それを側面支援するために限定的な形で武器使用を認める人道的武力介入に意義があることも事実であろう。しかし、これまでの人道的武力介入は「特定の国あるいは特定の国家群」によって行われており、ほとんどがその名に値しないものであった。したがって、人道的武力介入の将来的な意味での意義を否定するものではないが、歴史上多くの場合に大国による介入の口実に使われてきたことを考えても未だにその条件・環境は整っていないといえよう(7)。

 

 (2)「ブッシュ・ドクトリン(予防戦争・先制攻撃戦略)」とイラク戦争

ブッシュ政権の新しい世界戦略の最初の徴候は、2002年1月に米国防総省が議会に提出した報告書「核戦略体制の見直し(NPR)」に見られる(8)。この報告書では、非核保有国を含む7カ国(イラク、イラン、北朝鮮、シリア、リビア、ロシア、中国)に対する核攻撃計画の作成や地下貫通型の新しい小型核兵器の開発とそのための核実験再開の必要性等が強調されている。特に注目されるのは、核兵器を「使える兵器」として考え、核兵器先制使用を「選択肢」の一つとして確保するという方針を明確にしていることだ。これは、ブッシュ大統領が同じ1月に行った演説で、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」として名指しで非難し、これら「ならず者国家」・「テロ(支援)国家」に対しては、従来の核抑止力は機能せず核兵器による先制攻撃を行うのが最も効果的だ、と表明した事実とも合致している。

こうした米国の攻撃的な姿勢は、同じ年の9月20日に公表された「米国の国家安全保障戦略」(9)の中でさらに明確になる。ブッシュ大統領は、「ブッシュ・ドクトリン(予防戦争・先制攻撃戦略)」とも称されるこの新しい戦略で、冷戦期に抑止と封じ込めを中心としてきた従来の政策を転換し、冷戦後における米国の圧倒的な軍事力の優位を前提に、大量破壊兵器を持つ「テロリスト」や「ならず者国家」に対しては必要ならば単独でも先制攻撃を行って政権を転覆させる「予防戦争」を打ち出した。これは9・11事件後の米国の新しい安全保障政策の集大成ともいえるもので、国際協調、すなわち国連や同盟国・友好国との国際的な協力よりも国益を優先的に考える、米国の「新しい帝国主義」的な考え方を鮮明に反映したものといえる。

こうした非理性的で常軌を逸した「ブッシュ・ドクトリン」を先取りしたのがアフガン戦争だとするならば、それを全面的に適用した最初の事例がイラク戦争であった。 国連安保理で新決議を採択することに失敗した米英両国は、世界中の圧倒的多数の反戦・平和の声を無視して320日ついにイラク攻撃に踏み切った。「イラクの自由」あるいは「衝撃と畏怖」と命名された米軍の作戦によって、一方的な攻撃開始から3週間余りでフセイン政権は事実上崩壊することになった。

 このイラク戦争に対しては、国連安保理での武力行使を容認する新決議の採択如何にかかわらず、その正当性に当初から強い疑義が出されていた。湾岸戦争後のイラクは、多国籍軍による徹底した攻撃・破壊とその後の一方的な経済封鎖や米英両国によって勝手に設けられた飛行禁止空域での25万回以上にもなる空爆、さらに湾岸戦争で大量に使われた劣化ウラン弾の後遺症等によって多くの人的あるいは物的損害を受けて国力は大幅に弱体化していた。米英両国が主張したイラク攻撃の最大の理由である大量破壊兵器の開発・保有とその隠匿、アルカイダ等のテロ組織とのつながりは、開戦以前と同じく、ブッシュ政権が5月2日に「戦闘終結宣言」を行って2ヶ月以上たった今も明らかになっていない。また、独裁的なフセイン政権の下での人権抑圧からの「解放」を目的とした人道的介入も、緊急性という点だけを考えてもNATO空爆以上に正当性を持ち得ない。米英両国が掲げた戦争目的がいかに欺瞞的なものであったかは、NATO空爆やアフガン戦争でも使われた劣化ウラン弾やクラスター爆弾だけでなく、あらゆる新型爆弾をも使用して放送局・浄水場・発電所・石油関連施設等の民間施設を躊躇なく破壊し、「誤爆」によって多数の民間人を殺傷しても気にもかけない、その汚い戦い方が物語っていた。

フセイン政権打倒にあれほどまでに固執した米英の真の戦争目的はどこにあったのだろうか。 9・11事件以後の経緯を仔細に検討すると、第一に、米国のコントロールに服さないフセイン政権を打倒することで中東地域での米国の覇権を完全に確立し、第二に、埋蔵量が世界第2位のイラクの石油利権を独占して世界の石油価格を米国政府およびメジャーがコントロールできるようにし、第三に、中東地域での最大の同盟国であるイスラエルの安全保障の強化をはかる、というブッシュ政権の隠された目的が浮かび上がってくる 。また第四に、支持率の低下や経済状況の悪化という現状から脱して大統領再選へつなげる、という内政上の理由もあげられる。これに、イラクによるブッシュ・シニアへの暗殺計画に対するブッシュ・ジュニアの個人的恨みや、新型兵器の実験や旧式兵器の一掃をもくろむ軍産複合体の意向等をつけ加えることも可能であろう。

ブッシュ政権の背後には、巨大な軍産学共同体(軍需・石油産業や一部の情報・金融産業等)の支援、キリスト教原理主義とユダヤ教強硬派の同盟の存在がある。その中核を占めているのが、米国流の価値観を世界に力で強制してでも拡大させることを米国の使命と考える新保守主義者である。また、ブッシュ政権は発足以来その正統性に疑義が出て支持率も低迷していた(10)。そのブッシュ政権の政治基盤の弱さと苦境を救ったのがあの9・11事件であった。

 

(3)「新しい帝国」の登場と「植民地戦争」・「正義の戦争」の復活

ブッシュ大統領は、「テロとの戦い」を「新しい戦争」(A War Like No Other)と位置づけたが、それは何を意味しているのであろうか。米国にとっての「戦争」は、冷戦終結を契機にその意味内容を大きく変えることになった。冷戦時代における戦争は、国家間あるいは大国間における「大きな戦争(対称的紛争)」であり、それは正規軍相互の戦闘を主としたものであった。しかし、ソ連という最大の脅威が消滅した90年代以降、従来の国家対国家の戦いよりも、国家対非国家組織の戦いを中心とする「小さな戦争(非対称的紛争)」、すなわち正規(政府)軍に対するゲリラ戦やテロ・グループによる攻撃を意味するものへと徐々に変化した。

これは米国の安全に対する新しい脅威を非対称的脅威、すなわちゲリラ・テロリストといった「見えない敵」とそれと結びつく可能性のある「ならず者国家」・「テロ(支援)国家」へ移行させ、またそれを排除・殲滅することが最大の目的となったことを意味している。冷戦終結によって唯一の超大国となった米国が、情報・通信技術の飛躍的向上を中心とする軍事革命(RMA)によって生じた軍事力の圧倒的な格差を利用して、従来の相互抑止・相対的優位から一方的抑止・絶対的優位へと戦略目標を根本的に転換させる意思を鮮明にしたといえよう。

ブッシュ・ドクトリンは、新しい脅威に対する米国の新しい戦略であり、米国が「新しい帝国」として登場したことを世界に告げるものであった。このブッシュ・ドクトリンには、新しい帝国主義・植民地主義ともいえる性格が秘められていた。それは、米国流の価値観、すなわち民主主義、人権、自由、資本主義・市場経済を世界に広めることこそが米国の「明白な使命」であり、必要な場合には軍事力を用いても米国にとって最も望ましい世界新秩序、すなわち米国の一極支配を前提とする「新しい帝国秩序」を確立しなければならないとする新保守主義者の考え方である(11)。この考え方に基づくならば、現代世界は米欧日等の一部の民主国家とその他多くの独裁国家・破綻国家から構成されており、その独裁国家の民主化(実際には親米化)、あるいは破綻国家の委任統治(実際には植民地支配)を行うことは最大の民主国家で「自由の帝国」である米国の「帝国的使命(責任)」であるということになる。米国が主導する「新しい帝国秩序」の形成に真正面から抵抗・挑戦するものは力で叩きつぶすという新しい帝国主義的な考え方は、アフガン戦争、イラク戦争という新しい戦争のやり方にもそのまま反映されていた。これまでの国家対国家の通常の戦争では、交戦権を保持する双方の正統政府が当事者となって戦争法規に従って戦闘を行い、何らかの形での当事者間における合意文書の取り交わし等で戦争が終結するというのが普通であった。しかし、非国家組織であるテロリストや民主国家ではない「ならず者国家」・「テロ(支援)国家」を敵とする戦争の場合は、敵・相手国について、交戦権を保持する正式の当事者として認めなくてもいいことになる。とりわけ、アフガン戦争は、敵・相手国には一切の人権・主権を認めないという徹底した非人道的な性格が顕著であり、まさに帝国主義時代に宗主国が独立を求める植民地に対して行った「植民地戦争」の再現であったといえよう(12)。

ブッシュ政権が発足以来行ってきた対外政策は、ミサイル防衛(MD)を含む宇宙軍事化計画の推進、CTBT(包括的核実験停止)条約の死文化とNPT(核不拡散)体制の形骸化、ABM(大陸間弾道弾ミサイル)制限条約の撤廃、京都議定書の批准拒否、世界人種差別会議への不参加、小型武器の規制強化への反対、生物・化学兵器禁止条約の批准拒否、国連PKO(平和維持活動)からの撤退、貿易における保護主義的措置の導入、極端な親イスラエル政策への傾斜、北朝鮮・中国敵視政策への転換等、「単独行動主義(ユニラテラリズム)」と呼ばれるものであった。ここに共通しているのは、国際条約や国際機構を全般的に軽視し、場合によっては敵視さえするという強硬姿勢であり、自国の国益を最優先する米国至上主義、あるいは自国のみが無制限の行動が許されるという米国例外主義であった。これらは、正確には従来の孤立主義と介入主義が結合した新しい孤立主義(あるいは新しい単独武力介入主義)ともいえる性格を有している。

9・11事件は、こうした米国の傾向に拍車をかける大きな契機となった。ブッシュ政権は、9・11事件以後、「テロとの戦い」を宣言して、米国の安全・覇権のためには国際機構・国際法の権威や他国の主権も躊躇なく無視して行動し、自国や同盟国も含む世界の人々の人権を一方的に制限することも構わないという形で「帝国化」した。これは、冷戦終結後に米国が喪失しつつあった国際社会への支配的影響力・コントロールを再び取り戻そうとする試みであった(13)。そして、ブッシュ政権の巧みな情報操作によってテロへの恐怖やイスラムへの偏見を一方的に煽られた米国民も、日常生活への不安から国際法秩序や憲法秩序を破壊して暴走する自国政府を支持することになったのである。9・11事件直後にブッシュ大統領は、「世界は米国の側に立つのか、テロリストの側に立つのか」という二者択一を国際社会に強要した。こうした善と悪、文明と野蛮、正義と邪悪を対立させる単純な二分法的思考は、ブッシュ政権が9・11事件以後に行う内外政策の本質的特徴となっていく。

米国は、9・11事件以前にも自国が中心となって行った湾岸戦争やNATO空爆等を「正義の戦争」として正当化してきた。そして、9・11事件を理由に、「対テロ戦争」の一環として強行したアフガン戦争・イラク戦争では、その傾向を一層強めて「正義の戦争」を絶対化する論理を前面に打ち出していく。ブッシュ政権は、9・11事件を「テロリスト」による米国の自由と民主主義への挑戦とし、それを絶対悪と位置づけ、それと戦う米国を絶対善として国際社会に一方的にアピールした。「正戦論」で著名な政治学者マイケル・ウォルツァーや「文明の衝突論」のサミュエル・ハンチントンら米国内外の多くの知識人も「われわれは何のために戦うか」という文書を発表して米国の対アフガン戦争を全面的に擁護した(14)。

米国の真の狙いは、既存の国際法では正当性をもたない人道的介入権や先制的自衛権を事実上の新しい国際法の基本原則として国際社会に受け入れさせることにあると考えられる。むろん、このような権利を米国だけに認めることは、米国に世界の統治権・決定権を委ね、「法の支配」を放棄して「力の支配」に屈することを意味しており、国際社会がそれを容認することがあっては決してならない。しかし、この問題は、国連の枠の外で米国が一方的に行ったアフガン戦争およびイラク戦争の大局が決した後で、それらを既成事実として、一部の国々ばかりでなく国連までもが容認するかのような状況がすでに生じているだけに、きわめて重大であるといわねばならない。

 

3.二つの世界秩序の衝突と日本の選択

それでは、このような米国の暴走を止め、「新しい帝国秩序」に代わる、もう一つの世界秩序を選択する可能性はあるのだろうか。1999年3月のNATO空爆、2001年10月のアフガン戦争の場合、米国は国連を通さずに、前者ではNATOを後者では同盟国イギリスを率いて一方的な武力行使を行った。こうした米国の国際法を無視した一方的な軍事行動に対して国際社会、とりわけ国連はなす術をもたずに完全な沈黙と消極的支持を強いられた。ところが米国は、今回のイラク戦争では、国際協調を重視する国内世論や多くの反対派を国内に抱える同盟国の英国・日本等の要請に応える形で、イラクの大量破壊兵器問題を国連安保理で審議する選択を行った。そして、一旦はイラクに対して国家主権を大幅に制限する厳しい条件付の査察を求める決議(安保理決議1441)を満場一致で採択することに成功した。しかし、イラクは予想に反してこの決議を受け入れ、また国連査察団にもおおむね協力的であった。米英両国が兵力を湾岸地域に集結させイラクに対する武力攻撃が急迫する中で、国連査察団は米国の圧力に屈せずに中立・公平な活動を貫いた。結局、国連安保理で米国に同調する国はわずかに3ヵ国(英国、スペイン、ブルガリア)で、イラクへの武力行使を容認する新たな国連決議の採択に米国は失敗した。それにもかかわらず、米国は英国・豪州等とともに、有力な同盟国である独仏の反対や圧倒的多数の国際世論を無視する形でイラクに対する一方的攻撃を強行したのである。また、イラク「戦後」においても一向に大量破壊兵器の存在が「発見」されていないばかりか、米英両国内部でイラクの大量破壊兵器保有に関する情報操作疑惑が浮上したことは、いかにこの戦争が正当性を欠くものであったかを改めて示しているといえよう。

注目すべき点は、今回のイラク問題をめぐる国連の対応についての評価である。国連が米国のイラク攻撃を阻止できなかったという事実だけを指摘して、国連の機能不全と権威失墜を強調し、否定的に評価する見方が米英の軍事行動を支持する論者の中にみられる。しかし、これは果たして妥当であろうか。むしろ、国連の多国間主義が今回ほど見事に機能したことはなく、イラク問題への対応を通じて、国連が世界的民主主義の中心であり国際的正統性を付与することのできる唯一の普遍的存在であることを実証・確認したといえるのではないだろうか。また、一部の論者によって国連の多国間主義が機能することを妨げたのは独仏露であるとの批判が出されたが、これは本末転倒の議論といわねばならない。なぜなら、事実は逆であって、米英両国こそが国連の多国間主義を否定して一方的に離脱したからである。独仏露をはじめ安保理メンバーの多くはそれを最後まで守ろうと努力したのであった。イラク戦争阻止を掲げて世界各地で繰り広げられた反戦・平和運動で「フランスへの連帯」が表明されたという事実は何が真実かを如実に物語っているといえよう(15)。

 21世紀初頭の国際社会は、新保守主義者が主導する米国を中心とする「新しい帝国秩序」と市民・NGOによる国連を軸とする「多元的世界秩序」という二つの世界秩序の選択を迫られている。現代世界において二つの世界秩序は国際・国内を問わずあらゆるテーマ・場面・場所で衝突し、日々せめぎ合っているといえよう。

この二つの世界秩序の衝突を具体的に考える上で見逃すことができないのが、国際刑事裁判所(ICC)創設問題であろう。国際刑事裁判所は、その規程を決めるローマ会議が148カ国の政府代表やNGO・専門家等の参加で1998年に開かれて以来、大方の予想を上回るスピードで2002年4月11日に批准60ヵ国に達して同年7月1日にローマ規程が発効した。第二次大戦後に制定されたジェノサイド条約(1948年)やジュネーブ四条約(1949年)等を柱とする国際人道法が、半世紀の紆余曲折を経て、対人地雷全面禁止条約(1999年3月発効)と並ぶ最も大きな成果を生み出したものといえよう。国際刑事裁判所の設立にいたるまでの経緯で注目されるのは、国連総会が構想の作成・具体化でイニシアティブを発揮し、小国・NGO等が重要な役割を果たしたという点であろう。英独仏伊等多くの大国を含む139カ国がローマ規程に署名したが、米国と日本は中国・インド等とともに署名手続きをまだ行っていない。その中でも米国は、ブッシュ大統領が批准しないことを明言し、国際刑事裁判所への一切の協力を拒んでローマ規程に明確に反対する唯一の国になっている(16)。

米国はなぜこのような強硬な姿勢を国際刑事裁判所に対してとっているのであろうか。その理由は、ある意味で明確である。米国は、自国を中心とする「新しい帝国秩序」を形成しようとしており、将来の世界政府へ発展する可能性を秘めた唯一の国際機構である国連から生まれ、世界市民主義と同じ流れ・性格をもつ国際刑事裁判所との共存を不可能と考えているからである。米国にとっては、世界の統治権を持つ新しい帝国の市民である米兵が万が一にも国際刑事裁判所で罪を問われることがあっては決してならないのである。このように考えるからこそ米国は、国連に対して自国の滞納金支払い拒否や国連部隊からの米軍部隊の撤収等の圧力をかける一方で、同盟国・友好国に対しても軍事的威嚇や権益供与等あらゆる手段を使って同調させ、国際刑事裁判所設置条約への批准を本気で阻もうとしたのである(17)。さらに、アフガンやイラクの「戦後」において、米英等の戦争犯罪を追求するNGO・市民たちの活動が世界中で活発化するなかで、それを米国が露骨に嫌って干渉する動きが出ていることも指摘しなければならない。

ブッシュ政権は、9・11事件直後にフセイン大統領等外国の要人暗殺を再び解禁し、ビンラディンらテロ容疑者が逮捕された場合には自国の特別軍事法廷で一方的に裁くことを打ち出した。このことは、米国が世界の検事と裁判官ばかりでなく死刑執行官をも兼ねるようになったことを意味している。キューバのグアンタナモ基地にアフガニスタンから連行された「捕虜」に対する人権無視の対応をみればその重大性が理解できるであろう(18)。ここにはまさに、二つの世界秩序が衝突する本質的な問題があらわれているといえよう。

 9・11事件後の国際社会の動きを冷静に観察するならば、米国はすでに帝国化して「世界最大のならず者国家」(ノーム・チョムスキー)になっているという現実が見えてくる。また、その最大の同盟国は、中東におけるイスラエル、ヨーロッパにおける英国、そしてアジアの日本であるという構図が自然に浮かび上がってくる。これは現在、先進大国中心で貧富・経済格差の拡大等歪んだ形で急速に進んでいる経済のグローバル化という問題において、米国が牛耳る三つの国際機構、すなわちIMF(国際通貨基金)、IBRD(世界銀行)、WTO(世界貿易機構)が人類的解決をはかるための最大の障害となっているという点とも重なる。そのことを、アルンダティ・ロイは「今日の世界は、世界でもっとも秘密主義の三団体によって動かされている―国際通貨基金、世界銀行、世界貿易機構。そしてこの三つのどれをも支配しているのが、実はアメリカ合州国なのだ。」と明確に指摘している(19)。

イラク戦争に「勝利」したブッシュ政権は、最大限の国益を確保するために、これまでの同盟関係や国際機構との関係を全面的に見直し、必要であればテーマ別の「アラカルト有志連合」や「第二の国連」を作って問題に対処するという、「新しい帝国秩序」にあくまでも執着する姿勢を変えていない。しかし、その一方で、イラク戦争で生じた米欧間の亀裂の修復はいまもほとんど進んでおらず、経済的にもドルの価値が下落しユーロが国際決済通貨となる兆しも見られる。米国は国際社会からの信頼と国際的な正当性を急速に失いつつある。米国の最大の敵は、他ならぬ米国自身であることがますます明らかになっている。国連、国際世論、同盟国・友好国との関係、そして国内世論の動向等を深く観察すれば、実際にはアメリカ帝国の崩壊はすでに始まっているともいえよう(20)。

このような状況の中で注目されるのが、日本の動向である。これまで通りの米国追随一辺倒を変えずに「新しい帝国秩序」の中で「第二のイギリス(あるいは小さな米国)」を目指していくのか、あるいは明確な理念・構想に基づいた主体的な外交政策を展開して民主的かつ平和的な「多元的世界秩序」に貢献するのか、が今日ほど重要な意味をもっていることはない。しかし、日本政府は、これまでアフガンに続いてイラクに対して行われた明らかな国際法違反の「侵略戦争」を終始一貫して支持し、米国主導の不当な「占領行政」にも自衛隊を派遣して積極的に加担しようとしている。また、ブッシュ政権内の新保守主義者がイラクの次の標的を北朝鮮に定めようとする動きが出ている中で、日本はそれに呼応するかのように北朝鮮敵視政策へと急速に転回し、朝鮮有事を前提とした有事法制を本格的に整備して朝鮮半島を舞台とした近未来の戦争への道に次第に踏み込もうとしている。

日本国内では、2001年12月の武装不審船事件(21)や、昨年9月17日の日朝首脳会談で拉致問題が全面的に浮上したのを契機に、一挙に排外主義的風潮が強まり、在日コリアンへの嫌がらせの急増等で顕在化するにいたった。この北朝鮮脅威論の高まりを背景に、対北朝鮮強硬派が台頭し、対基地(先制)攻撃論や核武装論等の軍事的な強硬意見が、有事法制必要論と結びつく形で相次いで出ている。今年の5月に行われた日米首脳会談でも北朝鮮問題が主要議題にのぼり、日米両国政府は朝鮮半島問題の平和的解決を表面上は唱えながらも、その一方で、経済制裁・海上封鎖の発動や最後の手段としての軍事力行使も排除しない姿勢も見せている。しかし、こうした日米両国による強硬路線は、朝鮮半島問題を真の解決に導くどころか、イラクに続いて朝鮮半島に戦火を招来することになりかねない危険な賭けであると言わざるを得ない(22)。

いま日本に求められているのは、米国の危険な核・軍事戦略に積極的に荷担して「新しい帝国秩序」の主要構成員になることではない。戦争国家・警察国家への道を選択するのではなく、平和憲法と非核三原則の原点にもどって日本の非核・不戦の意思を明確にし、核廃絶と軍備完全撤廃を目指して、世界的な民主主義・平和主義を強化する立場にもどることである。朝鮮半島問題では、あくまでも平和的解決を目指して、軍事的強硬路線を採るブッシュ政権を韓国とともにねばり強く説得して、朝鮮半島全体の非核化を含む北東アジア非核地帯化構想の実現に向けて努力を傾注すべきである。有事法制を放棄する必要があることはいうまでもない。

今日の国際社会で最も緊急の課題は、「新しい帝国秩序」の構築を目指して暴走を続ける米国に歯止めをかけて理性と法の支配に基づく世界的な民主主義・平和主義の方向に導くことである。NGO・市民を中心とした世界的な草の根ネットワーク(自治体や中小国、一部の国際機関等も参加可能)に基づいて、イラク開戦前に世界的規模で繰り広げられ米英等の戦争犯罪を告発する運動へと継承されている反戦・平和運動や、経済のグローバル化を推進するダボス会議に対抗して開催されるようになった世界社会フォーラムに結集する反グローバリズム運動の中に、世界市民主義の萌芽、将来的な民主的かつ平和的な世界政府の構築につなげていく可能性をみることができる(23)。

21世紀初頭に生じた9・11事件で明らかになったのは、世界最強の軍事力でも国民の安全を守ることはできないという事実であり、これまでの安全保障概念は根本的見直しを求められることになった。しかし、その後のブッシュ政権の対応は、あくまでも従来型の国家(あるいは軍事力)中心の安全保障や集団的自衛権に基づく軍事同盟を強化・拡大することによって危機を乗り切ろうとする、まったく見当違いのものであった。いま本当に必要なのは、こうした旧来型の国家の論理に基づく力による平和ではなく、人間の安全保障の実現と国連を中心とする集団的安全保障の再編・強化をはかるという選択である。それは、紛争の根本原因である飢餓・貧困・差別などの構造的暴力の克服をめざし、市民・NGO・自治体などが積極的平和を創造する主体となり、その世界的・地域的ネットワークの構築と国境を越えた市民社会の形成を追究する世界市民主義を意味している。

より具体的には、ある特定の国家の中の周辺にある(あるいは複数の国家にまたがる)一つの地域から、平和を創造する主体としての市民の側が、安全保障問題を地球的規模で考え、国家の側とは異なるもう一つの平和戦略を考え行動することが鍵になってくる。この点で、これまでの労組・政党や特定の平和活動家が中心となった従来型の平和運動(「守る平和」)ではなく、9・11事件以後に、普通の市民、特に女性や若者が気楽に参加して音楽や絵画など多様な手段で自己表現をし、在日外国人との連帯やインターネットを通じた国際的ネットワークをも創り出そうとする新しい反戦・平和運動(「創る平和」)が登場しているのが注目される。「自分たちの安全は自分たちの手によって守る」という「市民(あるいは民衆)による安全保障」、自治体・地域住民を主体とする「地域から問う安全保障」という新しい考え方だ(24)。

9・11事件以後、日米軍事同盟をさらに強化・拡大する動きがある一方で、国家の側から有事法制の整備が執拗に提起されている。戦争国家・警察国家への道が加速化される状況下で、全国各地でそれに反対する地域の平和運動の側も大きな正念場を迎えているといえよう。国家中心の「軍事的安全保障」か、あるいは脱軍事・脱国家の「民衆による安全保障」を選択するのか、という問題は、世界レベルでの米国中心の「新しい帝国秩序」に組み込まれるのか、それを拒否して民主的かつ平和的な「多元的世界秩序」を目指すのか、という国際社会にとって決定的な問題と直接重なり合っていることは間違いない。そして、この21世紀の重い課題に、日本が、あるいはわたしたち市民一人ひとりがいかに応えていくのかが、いまこそ問われているのではないだろうか。

 

               < 注 >

 ※ 1 米国を中心とする「新しい帝国秩序」の形成とは、アメリカの「帝国国家化」(大英帝国がモデル)とアメリカの「世界帝国化」(ローマ帝国がモデル)の両方のイメージが重なるが、本稿では後者をイメージしている。また、「新しい帝国」という場合も、「アメリカ帝国」と「国際共同体による帝国」の二つがあり、本稿では主に前者を扱うが、長期的にはむしろ後者が重要であり、この問題はまた別の機会に論じたい。豊永郁子「二つの『帝国』イメージの間でー新しい世界秩序の構築とアメリカ政治社会の将来―」『法政研究』第六九巻第二号、336頁の注21、およびアントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著『帝国』(以文社、2003年)を参照。また、「地球民主主義」については、武者小路公秀『国連の再生と地球民主主義』柏書房、1995年、および坂本義和 /大串和雄著『地球民主主義の条件下からの民主化をめざして』 同文館出版、1991年を参照。  

※ 2 9・11事件については、ブッシュ政権が多くの事前情報を入手していたがそれに対して何の有効な対策もとらずに放置した、あるいはさらに9・11事件自体がブッシュ政権による「自作自演」ではなかったのか等の疑惑も出されている。ブッシュ政権が9・11事件を最大限に政治利用する中で、疑惑に関連する新たな事実関係の指摘もなされており、今日の時点で改めて真相解明を真剣に行う必要があると思われる。田中宇『仕組まれた9・11』PHP研究所、2002年4月、木村愛二編著『9・11事件の真相と背景』木村書店、2002年10月、成澤宗男「『9・11』事件の謎01〜06」『週刊金曜日』434号〜440号(2002年10・11月)、Thierry Meyssan,9/11 The ig ie,Carnot Publishing Ltd,2002,等を参照。

※ 3 チャルマーズ・ジョンソン著『アメリカ帝国への報復』 集英社、2002年6月、55頁。

※ 4 柏木宏「"テロとの戦い"がもたらした市民的自由の制約」『オルタ』2002年2月号、4〜7頁。木下ちがや「テロリストをつくり出す『愛国者法』の正体」『週刊金曜日』第403号(2002年3月15日号)、18〜20頁。

※ 5 松井芳郎「米国の武力行使は正当なのか」『世界』、2001年12月号、および藤田久一「“報復”と国際秩序−変質する“自衛権”の概念、対テロ“戦争”含めるのか−」(『朝日新聞』2001年10月20日付を参照。

※ 6 拙稿「『ヨーロッパの周辺事態』としてのコソボ紛争―NATO空爆の正当性をめぐって―」『日本の科学者』Vol.35、2000年7月号を参照。また、湾岸戦争ばかりでなく、ボスニア紛争・コソボ紛争でも劣化ウラン弾が大量使用された問題性については、篠田英朗「武力紛争における劣化ウラン兵器の使用」『IPSHU研究報告シリーズ 研究報告No.29(広島大学平和化学研究センター発行)、20002年10月を参照。

※ 7 人道的介入論については、千知岩正継「国際社会における一方的人道的介入の正当性をめぐってーNATOによるユーゴスラヴィア空爆を事例にー」『比較社会文化研究』第12号、2002年10月、安武真隆「『人道的介入』の政治的ディレンマ―NATOによるユーゴスラヴィア空爆の事例を手がかりに―」『法学論集』(関西大学)第51巻第23号(20019月)、Oliver/Ramsbotham/Tom/Woodhouse,Humanitarian Intervention in Contemporary Conflict,Polity Press,Cambridge,1996,Chris Browwn,Sovereignty,Rights and Justice:International Political Theory Today,Polity Press,Cambridge,2002,等を参照。

    8 梅林宏道/前田哲男監修『核軍縮と非核自治体・2002』NPO法人ピースデポ発行、2002年7月、28〜41頁、130〜147頁を参照。

    9 「ならず者国家」ドクトリンの形成と背景、そして「悪の枢軸」ドクトリンとの関係などについては、菱木一美「『ならず者国家』から『悪の枢軸』への系譜―米国の来た朝鮮政策の視座からー」『修道法学』第25巻第一号、2002年9月に詳しい。

※ 10 ブッシュ政権の正統性についての根本的な疑義は、ブッシュの弟が知事をするフロリダ州で不正行為があったという指摘で出されていた(グレッグ・パラスト著『金で買えるアメリカ民主主義』角川書店、2003年、第一章を参照)。また、エンロン問題をめぐる疑惑については、北沢洋子「足もとに火がついた『ヒザ抜け』大統領」『週刊金曜日』第403号(2002年3月15日号)、14〜17頁。

※ 11 例えば、マックス・ブーツ「アメリカ帝国主義の主張」「外交フォーラム」編集部編『「新しい戦争」時代の安全保障』都市出版、2002年、ロバート・ケーガン『ネオコンの論理アメリカ真保守主義の世界戦略』光文社、2003年、ローレンス・F・カプラン、ウイリアム・クリストル著『ネオコンの真実―イラク戦争から世界制覇へー』ポプラ社、2003年、田原牧『ネオコンとは何か―アメリカ新保守主義派の野望』世界書院、2003年、Mark Steyn, ”Imperialism is the answer, CHICAGO SUN-TIMES, October14,2001,等を参照。

    12 西谷修「恐怖との戦争―グローバリゼーション下の安全保障体制」『世界』2002年5月号(西谷修著『「テロとの戦争」とは何か―9.11以後の世界』以文社、2002年に所収)を参照。

    13 Paul Rogers, Losing Control-Global Security in the Twenty-first Century, Pluto Press,London, 2002, p149.

    14 最上敏樹「正義と人道の法構造−何が法的な正しさを決めるか」『法律時報』74巻6号、2002年5月号、5〜10頁。

    15 最上敏樹「造反無理 この、理を尽くさぬ戦争について」『世界』2003年5月号を参照。

    16 ジョナサン・オドノヒュー「人類社会への罪をどう裁くかー国際刑事裁判所の意義」『世界』2002年8月号を参照。

    17 とりわけ、2001年12月7日に米上院で採択された米軍要員保護(ヘルムズ)法案は、「海外派遣の米兵が不当に扱われる」として米国政府の協力を全面的に禁じるとともに、ICC条約を批准した国に対しては共同訓練を含む米国の軍事援助を停止し、米兵が戦犯容疑で拘束された場合には軍事行動を意味する「必要なあらゆる手段」を取る権限を大統領に付与する、等の強硬策が盛り込まれていた(「朝日新聞」2001年12月9日付を参照)。

    18 新井京「『テロとの戦争』と武力紛争法」『法律時報』74巻6号、2002年5月号、17〜21頁。

※ 19 アルンダティ・ロイ「来たれ、9月よ」『世界』2003年6月、124頁。

    20 エマニュエル・トッド著『帝国以後―アメリカ・システムの崩壊―』藤原書店、2003年、Charles A. Kupchan ,The End of the American Era: U.S. Foreign Policy and the Geopolitics of the Twenty-First Century, Random House, 2002 ,等を参照。

    21 2001年12月に東シナ海(奄美大島沖ではない!)の公海上で起きた不審船問題については、日本側の対応を正当化する議論が一般的である。しかし、国内法的には明らかに違法であり、国際法上も深刻な問題を含むものであった。前田哲男「海上保安庁法の改定と領域警備」山内敏弘編『有事法制を検証する−「9・11以後」を平和憲法の視座から問い直す』法律文化社、2002年、192〜196頁。

    22 現在の日本で、この問題で最も積極的な発言を行っているのが、辺見庸、姜尚中の両氏であろう。辺見庸著『永遠の不服従のために』毎日新聞社、2002年10月、同『単独発言―私はブッシュの敵である―』角川文庫、2003年4月、同『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年5月、および姜尚中著『「日米関係」からの自立 ―9・11からイラク・北朝鮮危機まで―』藤原書店、2003年2月、同『反ナショナリズム―帝国の妄想と国家の暴力に抗して―』教育史料出版会、2003年5月、同『日朝関係の克服―なぜ国交正常化交渉が必要なのか』集英社新書、2003年5月を参照のこと。

    23 この点で、ラムゼー・クラーク氏や前田朗氏などが中心になって行っている、アフガン戦争やイラク戦争における米英軍の「戦争犯罪」を告発する草の根民衆レベルの国際ネットワークの動きが注目される。例えば、『アフガニスタン国際戦犯民衆法廷ICTA公聴会記録第1集(〜第6集)』耕文社、2003年を参照。また、アフガニスタン国際戦犯民衆法廷を開こう」のHPのアドレスは、http://afghan-tribunal.3005.net/ 。

    24 新しい反戦・平和運動については、松竹伸幸『反戦の世界史―国際法を生み出す力』新日本出版社、2003年、および拙稿「地域から問う平和戦略の構築−新ガイドライン安保体制と『九州・沖縄』−」石川捷治/平井一臣編『地域から問う国家・社会・世界−「九州・沖縄」から何が見えるか』ナカニシヤ出版、2000年9月を参照。また、反グローバリズム運動については、北沢洋子「グローバリゼーションの下での構造的暴力―国際的な経済格差と貧困の解消にむけて」前掲・山内敏弘編『有事法制を検証する』所収を参照。

 

       なお、この原稿は日本平和学会編『平和研究(特集 世界政府の展望)』第28号(2003年11月発行、早稲田大学出版)に掲載されています。