月刊『まちづくり8・6ニュース』号外 二00ニ年二月二0日発行(一九九六年一二月一九日 第三種郵便物認可)

 

 

 

 まちづくり県民大学  第六十五回 二00一年一二月八日(土)加治屋町々民館

 

 

    戦中戦後体験を語る

              ー戦争への足音が聞こえる中でー

 

 

                発言者 大柳 一彦(おおやなぎ かずひこ)

                          大迫 幸子(おおさこ さちこ)

                         都築 三郎(つづき さぶろう)

                   司 会   木村 朗(きむら あきら)

 

 

 


 

 木村 今年の九月、テロ事件のあとでしたでしょうか、まちづくり県民会議の都築さんから戦争体験を語る企画を考えているというお話がありました。戦中戦後を体験された七十代の方、都築さんを含め三名の方に参加していただき、私を交えて、県民会議の事務局にて少し話し合いをするという機会を一度持ちました。

 その後さらに具体的に、十二月八日のまちづくり県民大学のテーマとして突っ込んだ討論をしたいということで、その準備としてアンケートや年表作りなどをいっしょにやりまして、それを集約した上で、今日それを発表し、さらに実際に体験された方の話を交えて、本日の企画を充実させたいということで準備をしてきました。

 私の手元にはアンケートの回答が分厚い資料となっていますが、アンケートは四十八通、その後少し増えているようですが、僕の手元には四十八通があります。アンケートだけでなく、いろんな資料、冊子なども送っていただいております。

 今日の資料の説明からいたします。まず今日の議事進行の段取りを書いたもの、そしてアンケート用紙、それからアンケート回答の中に手紙が入っているのがありまして、その中で特徴的なものを資料として掲載しています(以下資料は省略)。

 アンケートの回答の中でも触れられていたのですが、小学生たちに戦争体験を語るということをしている方が、小学生から感想文をいただいたということで、それを資料として送っていただいており、それも印象的でしたので、掲載しております。

 そのほか、進駐軍が鹿児島に来たことを伝える南日本新聞の記事(この記事自体は九九年の九月一四日のもの)、それに関連した、これは鹿屋の高須町の金浜(カナハマ)海岸でしょうか、そこに米軍が初めて上陸したということでそこに碑を立てたという資料が三頁分載せております。

 それからアンケートにこのような形で回答してくれているという事例を挙げておきました。私は全部一応目を通しまして、おもなものをメモにしてワープロにまとめました。この方の文章は特に全部載せてもいいかなというぐらい、主張がはっきりしている重要な証言ではないかなと思いまして、資料として挙げました。

 最後の二枚は都築さんから出されたもので、当時の新聞記事です。

 次に今日準備した資料としては、アンケート呼びかけの原文を県民会議で作っていただいたものがあります。

 さらに私がアンケートに目を通した上で、特徴的なものを四つの分野というか項目で分けたものがあります。ひとつは自分の人生を振り返って、次に戦時中の体験について、それから戦後の体験について、そして現在の状況について、という四つに分けてみました。

 アンケートを見て感じましたのは、四十八名の中で女性が八名、男性が四十名。また書かれている方の現在の居住地ですが、鹿児島市内がいちばん多いんですが、鹿児島市外、東京、神奈川、長崎、広島、山口、福岡など、全国各地に広がっているということです。都築さんや県民会議のネットワークの広さが示されているという感想を持ちました。

 年齢ですが、六十代以上が四十五人です。四十代が一人、五十代が二人、六十代が六人、八十代が七人で、七十代が実は三十人近いということで、まさに戦中派といっていい方々が中心になって答えているということがわかります。

 全体を通しての印象ですが、ほとんどが戦時中・戦前の問題を中心に語っていまして、戦後のいろんなできごと、ベトナム戦争、朝鮮戦争、湾岸戦争などに関する言及は少しはありましたが、やはり戦時中の問題に集中し、それから一足飛びに現在の状況に結び付けていろんな感想を述べられているというのが基本的な特徴だったと思います。

 アンケートの年表に、自分の気になった問題に丸をしていただくことになっていたんですが、かなりの問題に丸をしている方、あるいはところどころ自分の関心に従ってコメントをしている方、様々でした。

 一番主張として明確だったのは、やはり戦争というのはコリゴリだ、あれほど悲惨な体験というのは繰り返してはならない、あの戦争さえなければ自分の人生は違ったものになったのではないか、ということです。また現在の状況というのは戦争が始まる戦前の状況にいろんな意味で似通ってきている、と非常に危機感をもって現状への懸念を深めているということです。

 そうした中でこれだけは言っておきたいという主張では、やはり教育、戦前戦中でいえば軍国主義教育の恐ろしさというものを強調されておりますし、それからマスメディアの宣伝、大本営発表を含めた恐ろしさ、それは戦争直後にそれまで伝えられたことがすべて真実でなかったことを知らされて呆然とするというところから、戦後の経験の中でも近いところでは湾岸戦争などの報道でも、非常にメディアの統制、情報操作の恐ろしさということを指摘されています。二度と教育やマスコミ、あるいはそれらを牛耳っている国家権力にだまされてはならない、そういう想いを非常に強くもたれているというのが私の印象であります。

 それから自分の人生を振り返ってというところもまとめさせていただいていますが、やはり変わったものと変わらないもの、自分の人生、七十年なら七十年を振り返って思うところということで、そこらへんを触れられています。

 変わらないものという意味合いにおいては、人間の本性というものはいかに文明・科学技術が進歩してもそれほど変わっていないのではないか。戦争の歴史を繰り返している人間の愚かさというところを強調されております。

 また国家といいますか権力といいますか、そういうものの本質といいますか、恐さといいますか、そういったものにも触れられております。

 また国際関係に関連して、日米関係において戦後直後の占領から現在にいたるまで、日本は結局アメリカの言いなりで、アメリカの属国ではないのか。そういうものに対する憤り、そこだけは全然変わっていないというところを強調されています。

 そして現在の状況に対しては、第三次世界大戦につながりかねないような危機が、今自分たちの目の前に現れているのではないか。その割には国民は、マスメディアも含めて危機意識が非常に弱っていて、安保の時と比べても反戦平和運動などが非常に弱い。これはなぜなのか。今眠っている人々に真実を知らせて、そして立ち上がってもらわなければならないと。しかし今の現状を見たときに、政治家をはじめみんなが豊かさの中に埋没し、エゴというか自分のことのみ、狭い視野の中に閉じ込もっていると。こうしたことで本当にいいのか。

 特に将来を託したい若者についても、なかなかその行動様式、思考様式というものが自分たちとはギャップがあって理解しがたいところもある。だからいろんな面から見て、将来、このまま自分たちがなくなっていくことを考えた時、いろんな心配がよぎるという言い方をされています。

 特に印象的だったのは、この前、自衛隊が米軍への協力ということで、戦後初めての戦時での海外派兵へ出かけましたけれども、少なくともあの光景を死ぬ前に見たくはなかった。再び日本が戦争に参加する。そういった光景を自分が生きている間に目にするとは思わなかった。精神衛生上、非常に悪いものを見てしまったという悔しさといいますか、そういったものを強調された方がいます。

 以上、私が全体をざっと見たところでの感想ですが、これから、今まとめさせていただいたアンケートの中で特徴的なものを少しだけご紹介をさせていただきたいと思います。

 まず自分の人生を振り返ってというところですが、最初の方、「我らの世代はかつて世界の歴史の中で誰もが経験しなかった時代の流れの中にあり、戦前戦中戦後の困苦欠乏、飢餓の時代を体験しました。また一方で繁栄の極地の時代まで現在生きており、このような両極を体験した世代は歴史上かつてなかったと言ってよい。しかるに我らの世代すら、困苦欠乏の時のことを忘れ、あくなき物欲や欲望に溺れている。自戒しなくてはならない。」七十二才男性、市内の方はこのように言われています。

 また七十二才男性、市内の方ですが、「思えば今の日本はあまりにもぜいたくである。死んでいった兵士たちの心中を思うと、今でもどんな貧困や困窮にも耐えられそうな気がする。戦後アメリカナイズされることの早かった日本、憎むべき米英は一朝一夕にして忘れ去られ、この豹変ぶり。今でも不思議なくらいである。」このような印象を残しています。

 七十才女性、東京の方ですが、「科学医学が進歩しても、人間性、本質は全然進歩しないのかな。七十年またたくまに過ぎてみて今思うこと、人間はちっともよくならない。」このような感想を述べております。

 この項目の最後の方ですが、「この年表を見てもうれしいこと、たのしい出来事が少なくて、争いごとの多さに愕然とします。近年に限らず、人間の歴史は争いの歴史であり、人間ことに政治家が過去から何も大切なことを学んでいないことは悲しいかぎりです。政治を司る人々の選出方法が変わらない限り、希望がもてません。」これは年齢は書いてなかったんですが、東京の女性の方です。

 戦時中の体験につきましては、おもな印象的なキーワードを書いていただいていましたので、そこらへん、集団疎開、その他のキーワードをあげさせていただいております。また戦争の出来事についてずっと書いていただいております。まったくバカな戦争をしたものだとか、まったく役にたたない戦争をして腹立たしいとか、戦争なんてコリゴリだというのが基本的なコメントでありますが、やはり教育に関するコメントが非常に印象に残りました。

 「軍国主義教育がどんなにおろかな人間を作り上げていくか、それは恐ろしいことです。」七十一才女性、市内の方です。

 「今思うと、戦争さえなかったらという思いでいっぱいです。教育の恐ろしさを今痛切に感じています。戦争で得るものは何もありません。戦争は人間を狂気と不幸のどん底に追い込みます。」このようなコメントもありました。

 次に戦後の体験についてですが、「戦後になって考えたことは、教育によって国民はどの方向にも向くのであり、時の為政者が教育によって国民をうまく戦争に駆り立てたのだということがわかった。教育の力ほど恐ろしいものはない。」これは戦中体験の印象と重なるコメントであります。

 その次の方、「私たちは戦争が終わってからが地獄でした。」六十五才、男性、市外の方です。そのことがたいへん重みを感じました。戦時中はもっともたいへんだったろうという印象で、戦後のことについて、私たちは直接体験をあまりしていませんので想像するしかないのですけれども、生き残った者にとっての戦後の、とくに戦争直後の状況がいかに悲惨で厳しいものであったかということを感じさせるひとことでありました。

 「玉音放送を聞いて、一瞬わけがわからなかったけれども、負けたんだということだけわかって、天皇陛下にすまないと思い、自分たちの力が足りなかったんだと思って、焼け跡の仮住まいで泣きじゃくった。」七十才、男性、長崎の方ですが、ここらへんは非常に正直な感想がそのまま書かれているのではないかな、と思いました。

 また現在の状況についてですが、「今や世界は騒然として一触即発、第三次世界大戦にもなりかねない状況下にある。」そのように書かれた方がいます。

 それから「ミーハー的小泉支持は国を滅ぼす。小泉政権による今回のテロ対策法による自衛隊派遣は違憲であり、その狙いは改憲であろう。武器を持つものは武器にて滅亡する。」六十才、男性、奄美の方ですね。

 それから「こんにちの若者の生きざま、考え方が理解できない。将来の日本はどうなるのか、気になります。ひとつ政治をとってもグループの利益のために政治があるので、国益など考えていないように思える。このような不公平な世の中は昔にもあったでしょうが、今は特にひどいと思われます。」七十二才、男性、東京の方ですね。

 「日本の今後が案じられるこのごろです。安保改定時の盛り上がりがしのばれるこのごろです。」ということで、いろんな意味での危機感を募らせている七十一才、男性の方です。

 いちばん印象的なのが、「自衛隊を戦地に派遣することを見ないで死んだ方が、精神衛生上よかったのではないか、という気がしています。」七十才、男性、長崎。これはさきほども紹介したものであります。

 「同時多発テロ後の日本の各種支援はますますエスカレートしていくであろう。アメリカの言うがままに奉仕することは論外である。与党は六十年前の日本帝国に遡るようにしようとしている。眠っている人たちを揺り動かして目覚めさせる必要がある。死んだら靖国に行くなど、軍が勝手に決めたのであって、本人は戦死しても故郷の祖先と同じ所に埋められることを希望しているのである。」八十五才、男性、市内の方。

 「世界の警察官を自認なさる国の行動が正義だと押しつけられている感じが、天皇のご命令こそが正義だと教育された当時と似ているように思われます。」八十一才、男性、市内の方です。これはアンケートではなく、この方が送られた付録にあった文章から抜き書きをさせていただきました。

 最後に七十一才、男性、広島の方ですが、「わが国も自衛隊をなくし心の平和でいき、国家予算の二十パーセントを教育費に注ぐコスタリカのような国になりたいものです。日本も平和憲法を掲げた世界で初めての国なのですから。」ということであります。この方のアンケートの一部は本日の資料としても、お配りしたプリントの中に入れてあります。

 以上、私の方から戦中戦後体験アンケートについてのご報告とご紹介を終わらせていただきます。資料としては、このほか九・一一米国同時多発テロとアフガンに対する米英の軍事行動・報復戦争に関連した資料や、レジュメ、私が書いたもの、辺見庸さんの論評、藤田久一さん、国際人道法の先生の論評などを入れています。ここらへんを参照していただきながら、これからの論議に活かしていただければ、と思います。ちょっと長くなりましたけれども、これで資料のご紹介を終えさせていただきます。

 続きまして、前に坐っておられますお三人の発言者の方にご発言をお願いしたいと思います。それではアンケートのご紹介もふまえまして、今、改めましてどのような感想をもたれているのか、とりわけ八・一五、その時、自分は何をしていて、戦前戦中の問題にはどのようなことがいちばん印象に残っていて、現在それを、現在の状況とも考え合わせた時にどのようなご感想、ご意見をもっているかを中心に、お一人十分以内ぐらいでお願いできればと思います。

 それでは最初に大柳さんからお願いします。

 

 大柳 大柳でございます。私は今年七十一才で、従いまして終戦の時は十五才ですね。中学三年ですか。ですからいわば子供でですね、戦争被害は受けているけれども大人としての被害の実感というのはないわけですね。昭和十七年ぐらいから食糧も厳しくなってきまして、特に終戦になった時には、腹が減ったぐらいの被害観念しかありません。それと学校で、滋賀県に疎開していまして、近江絹糸長浜工場に動員に行っていましたから、それがきついということぐらいしかないんですね。家族の体験としても、親父も応召で中国に行きましたが、匪賊退治に行っているということ。まあ、中央政府に対する反体制ゲリラですよね、今で言うなら。だからあっちの方の戦争というのは、南アジアとか太平洋のような激しさではなくて、そんなに激しくないもんですから、終戦の前の年に「駿河湾に米軍が上陸する計画がある。だから防備隊として帰ってこい。」と呼び戻されて、向こうで捕まって捕虜になってソビエトにとか、という体験もしていない。そういうことで親父も被害をあまり受けていない。ですから私たちも疎開していますから、焼け出されてもいないし、戦争の被害者という実感はほぼなかった。

 戦後感じたのは、やっぱりひもじかったということですね。私は鹿児島商業に通っていましたが、朝ですね、食べるものがなくて、イモのツル、イモなどはありませんからね、ハッパ、ヨモギ、それから細いタケノコをきざんだものを二杯ぐらい食べて学校へいきます。弁当なんか持って行くったって、ありませんから持っていきません。そして二時・三時ぐらいに帰ってくると、お袋がひもじいだろうからと手配して作ったものをガサガサとかきこんで、一日の食事はそれで終りです。そういうことをやっていて、いつ頃でしたか、二十三年でしたか、進駐軍の放出物資といってですね、最初は大麦だろうと思ったら、アメリカの小麦は白くりっぱなもの。日本の小麦はそんなりっぱじゃありませんよ。アメリカのは丸いやつですね。それと塩ベーコンが配給になった。それでパンを作って、ベーコンなんか料理する暇もありませんから、そのまま親子でガツガツ、親父は県庁に行っていましたが、お袋を入れて親子五人でライオンが物を食うようにガブガブ言って食べました。姉もいましたが、もう女も男もないですね。ガウガウガウ言って食べましたよ。それがなんていうか、戦後の戦争体験の象徴的な思いだったですね。

 そういうことで、ひもじさを救ってくれたということがあるものですから、進駐軍を尊敬する遺伝子がその時からどんどん増殖して、今も進駐軍を尊敬する遺伝子は確実に増えつつあります。そうかといって、今のアメリカが好きかというと、大嫌いです。それがいつわらざる戦争体験です。

 戦争の被害ということについては、自分が実体験したよりもその後会社勤めであちこち歩き回りまして、いちばん感じたのは、長崎で被爆者たちとの仕事の上でのふれあいでしたね。これがなんと言っても衝撃的な戦争被害体験でしたね。一見すると普通の人と変わらなくても、被爆者ですから、突然に被爆症状というのが出てきます。そういう人は普通には皆といっしょに酒を飲み、ボーリングをして遊びますが、被爆症状が出ると三日・四日、ひどい時は十日ぐらい休みます。そうなりますと会社の規定の休暇、二十日、そんなもんでは足りませんね。勤続年数によって私たちは年に四十日休暇があっても、その人たちは二十日しか、最低限しかない。それをぱっぱっと何ヵ月かで使いますから、欠勤が多い。したがって昇級昇格も遅い。私と年は三つしか違わなくても、会社の等級でいうと六等級七等級ぐらい開いている人がいるんですね。そういう人に、あんたはがんばらなきゃ、あんただけじゃない、若い人のモチベーション・リサーチにも悪い影響があるよ、と私は会社の言い分を丸写しにしてその人にぶつけるんですね。そしたらその人は、心配しないでくれ、と言うわけです。私はそんなことは考えたこともない。何を考えているかというと、私にはお袋がいる(父親はいない人でしたが)、私がお袋より先に死んだら困るなあ、それから自分の子供にこの被爆症が遺伝するかどうか今のところわからないけれど、もし遺伝することがあったら困るなあ、と、そういうことしか考えていないと言うんですね。ですから戦争被害ということを、一般市民社会レベルで考えた場合、いちばんひどい被害というのはそういうものだなあ、と思いました。 そういう戦争被害をどうやって伝えるか。いろいろ伝え方が世の中にありますが、人それぞれのその時に自分の立場をよくするために、そのために戦争被害を訴えたりしていてはダメで、真実を伝える、ということでやっていかないといかんのじゃないかなあ、と思います。

 戦争体験から何を学ぶかということですが、たとえば自衛隊問題、日米安保、テロ対策、こういうのも政党なり国なりが、その時その時の自分の国益、国益と言っても国の省的利益、経済利益のためですからね。そういうものを考えながら、安全保障だとか、平和論だとかテロの対策だとか、そういうことを考えていてもダメですね。今はアメリカだけがスーパーパワーになっていますが、そういうスーパーパワーの国益重点主義ではなく、いわゆるグローバル、国連主導主義、国連中心で運営された安全保障なり、平和論なり、戦争反対論なり、テロ対策なり、でないと市民社会に役立つ平和論にはならんだろう、という風に考えています。以上です。

 

 木村 今最後のほうで言われている問題については、またこのあとお話していただく機会があろうかと思います。どうもありがとうございました。戦中戦後のひもじさのことにつきましては、アンケートの中にもいろいろありまして、自分が苦しいながらも友達にイモを分け与えた。ところが家に帰ると、親父から「なぜやったんだ、それは今夜の食糧だったんだぞ」とどやされたという話がありました。原爆に関してのアンケートでは、六十五才、長崎の女性の被爆者の方、「原爆の後遺症を今だに引きずっている私は、戦争に聖戦というものはありえない。目には目をという報復も許せない。」というコメントを寄せて頂いております。お話の中でいろいろ印象に残りましたが、進駐軍を尊敬する遺伝子があるんだ、現在の米国は嫌いではあるけれども、というコメントがありましたが、進駐軍に対する印象、米軍が上陸してきたら強姦されてひどい目にあわされるんじゃないかな、という感情を非常に持っていた進駐軍がそうではなかった。だから戦後直後のアメリカ軍のあり方には目を見開かされる部分のものもあったというのは、いろんな方がコメントに中に短くではありましたが、触れられておりました。それでは続きまして、大迫さんの方から自己紹介も含めて、当時を振り返って、アンケートの感想も含めてお願いします。

 

 大迫 鹿児島市内の小山田の山の中に住んでおります大迫幸子です。絵のほうを専門にして、油絵などを書いております。私はまだ子どもでしたから戦争体験を語るというのはおこがましいのですが、中国で生まれまして中国で育ったものですから、終戦の時は今の中学の二年生で、動員でほとんど学校に行かないで、あっちの工場やこっちの工場など、お菓子の工場に行ったり、お薬を選ぶ工場や、軍服のボタン付けとか、終戦の時は毎日ミシンを踏んでいまして、兵隊さんのフンドシを縫っていました。終戦の時は二百人ぐらいのクラスメートのうち二人ぐらいしか学校へは行っていなくて、その時は山のようにフンドシが積んでありましたが、あれを中国人はどのように使うかな、と思ったりしました。そのとき、玉音放送を聞いても、音も悪くて、私たちは今からまたソ連と戦えと言うんじゃないかな、と勘違いして帰ったんですが、翌日学校に行ったらほとんどの人が学校に来ていてびっくりしました。

 学校は行ったり行かなかったりでしたが、その前に、私たちが二人だけ働いている頃、鹿児島出身の軍属の野崎さんという方で、二十歳ぐらいの方でしたが、その人が、「君達もかわいそうだが、もう二・三日したらソ連が攻めてくるから、その時は手榴弾を持って戦車に飛び込まないとならないな。」と言う。私たちはその時はその覚悟でいました。奉天、今の陽ですね。日本人がいばっていて、日本人の街でしたからね。中国人を隅に押しやって、城内は日本人の街。中国人を私たちは使ったりして、ほんとにひどい話だと思います。外国に行って日本人が威張っていたわけですからね。終戦になって、私のところはまだよかったんですが、避難民の人たちは続々と小学校に入れられて、北の方の人たちがひどくて、飢えと寒さで毎日何十人と死ぬんですね。冬が来ると体も凍ってしまって、それを荷車に載せて、長沼という郊外にちょっとした池があるんですが、そこに馬車が毎日運んで行って、小学校にもいっぱい埋めました。だから戦後は外地の人はひどかった。うちにも戦後はすぐ、最初は二人兵隊さんが来て、それから十人ばかり来てお世話しましたが、その方達は一ヶ月したら四十才未満の男はみんな集まれということで、うちの父もなるべく民間人にみせたいということでみんなに背広を着せて出かけさせたんですが、その人たちみんな結局ソ連につれて行かれました。それからしばらくして一人だけ、ほんとにやせこけて骨と皮だけになって戻ってらしたんです。その人は使い物にならないと思ってソ連が釈放したんでしょうが、私たちはよろこんで、すぐ白米のご飯を食べさせたんですが、一週間ぐらいしてうちで亡くなられました。その方は群馬県の赤城山の方でしたから、その後遺骨を持って行ってあげましたが、ほんとその時はソ連が憎かったです。戦後に引っ張っていかれたんですからね。その人たちは保障もないと聞きましたが…。

 何十万もの人たちが、恩給に加算されないと聞きました。関東軍は捕虜、自分達の兵隊を自由に使ってくれと言って、オエラ方たちは戻ったんだそうですね。ほんとにそれは今でも許せないです。私は主人が海軍にいましたので恩給をいただいていますが、今でも少しずつですが年に千円ぐらいずつあがるんですね。そんなことしなくても、慰安婦の方たちにそのカネでも差し上げたらと思うんですが、日本政府はなってないと思います。そういうことをきちんとやるべきだと思います。引き上げも、今なら飛行機で二時間ぐらいで帰れるところですが、二ヶ月近くかかって、リュックひとつで無蓋車に押し込められて、雨が降ったら濡れて、おっしっこなんかするときは止まったときに急いでするんですよね。私たちは子どもだったからよかったんですが、大人は何十倍という苦しみだったろうと思うんですよ。重たいリュックを背負ってずっと歩いて、貨車に乗ったときは腕が痛くて、一晩泣いたりしました。それでも親子六人無事に帰れましたからよかったんですが、北の人たちはほんとにもっともっと苦しみを味わいました。

 それと、もうちょっと早く終戦になっていれば、そういうこともなかったのにと思います。主人の弟も海軍で、沖縄戦の六月になくなりましたが、どこでなくなったかもわからないで、遺骨の箱の中には石ころがひとつ入っているだけでした。弟が生きていればよかったのにと思いました。皆さんも同じ様なお気持ちと思います。

 

 木村 ありがとうございました。戦時中もたいへんだったけれども戦後の方が地獄だったというコメントも先ほどのご紹介の中にもありましたが、今お聞きしてとりわけ外地の人はソ連の参戦・侵攻があって、それから逃げまどうという中で、関東軍のオエラ方は草々に引き上げて、金品なども持って帰って、民間人はどんどん殺されて、今のお話にあったように凍死や餓死、強姦・略奪だとかさまざまな被害も受けながら、多くの人がシベリアに抑留され、何年もたって、それでも帰れた人は良かったんですが、何人も亡くなっているという状況があった。ソ連に対する憎しみとか批判というのは、短い文章で何人も書いておられました。またもう少し早く戦争が終わっていれば、という想いが、いろんな方がすこしずつコメントを寄せられておりました。その責任はどこに求めるかと言えば、天皇とかいろんなものに求める、というのもありました。何が日本を終戦・敗戦に導いたかというのはあとからまたお聞きしたいと思います。それでは続きまして、都築さんからお願いします。

 都築 県民会議の都築です。先にお話になったおふたかたと同じ様なことなんですが、今日の資料の中に写真がありますが、紅顔の軍国悪童たちと書いてありますのは、私の学友達、少年ギャングどもです。レジュメには一九四五年の動員先とメモしていますが、これは二月に撮っていますが、三月に東京の五反田にありました逓信省の電気試験所というところに動員に行っていた時の写真です。みんな学校の生徒たちですが、兵隊さんの帽子などをかぶっていきがっています。これが四五年の春ですから、十六才ですか。生まれて育ったところが東京の真ん中なんで、今でいう宮城の近くだったもんですから、軍とか官の施設が多いところで、正月などになると、軍人が天皇のところに挨拶に来るわけですね。それが四谷の駅から半蔵門に向かってゾロゾロと正装した軍人、それは兵隊ではなく偉い人ですね。それがうちの前を通って行くというような中で育ちました。子どもの頃覚えているのは、二・二六事件というのがありまして、これは有名な大雪の日なんですが、私のうちの前に反乱軍というのが陣地を作りまして争うという、実際に争いはなかったんですが、そういう雰囲気がありました。それに象徴されるように、さきの軍国少年になるまでに十年ぐらいあるわけですが、まあそういう軍国主義の雰囲気に包まれていたというのが少年時代です。

 近県から住み込みで働きに来ているような若い人たちの話の中にも、「今度満州に新しい国ができるんだぞ。これは日本とは違ってもっと新しい国ができる。」ということを聞いていた。そんなことで中学校時代を過ごしました。だんだん戦争に近づいてきますと、昭和十五年の紀元二千六百年奉祝式典というのがあります。「二千六百年、ああ凄いものだねえ」と思ったものですが、これはあとになってウソだったということがわかるんですね。それからドイツのヒットラー・ユーゲントというのが来まして、日本国中をいろいろ歩き回りまして、「バンザイ、ヒットラー・ユーゲント」という歌。今でも歌えと言われれば歌えますけれども、まあみっともないから歌いません。(笑い)まあ、そんな生活をしていました。

 そしていよいよ戦争が始まるわけです。開戦というのは今日、十二月八日ですね。それを知らせる新聞を見て欣喜雀躍するわけですね。それからNHKではなく、JOAKという放送で「帝国陸海軍は本日未明、西太平洋で米英軍と戦闘状態に入りました」大本営陸海軍はこのように発表しました。という風に書いてあります。ところが実際は非常に特徴あるチャイムで、ポンポンというんで、これもみっとないからやりませんけれども、これが臨時ニュースを申し上げますというようなことで、これは八時頃だったと思いますが、これを聞きながら小学校へ出かけたわけです。でその日の新聞に「天佑を保有し、万世一系の皇祚をふめる大日本帝国天皇は明らかに忠誠勇武なる汝有衆に示す」なんて難しいことがデカデカと出ている。それでみんな、ああいよいよ始まったなと。というのは十二月八日になる前に、さっき言った満州のことや、その三年ぐらい前に日中戦争が始まった。支那事変というんですが、それ以来中国で戦争をやっているんだけれど、なかなか終わらない。僕ら子どもの考えでは、戦争やっていると勇ましいからいつまでやっていてもいいなと思っていたんだけれども、だんだん硬直化というか、学校で地図に日の丸を占領した所に貼っていくんですが、それがあんまり増えなくなっちゃうんですよね。おかしいな、という感じですね。それからABCD包囲陣といって、アメリカ、ブリティッシュ、チャイナ、ダニッシュ(オランダかな)、というような国がだんだん日本を囲んでしまう。

 一方国内ではそういうものに対しては闘わなくちゃいけない。八紘一宇といって、これも難しい言葉ですが、世界中をひとつの家にしちゃおう。紘という字はおもしろい字で、この字は太平洋戦争が始まった頃に生まれた人の名前によく使われている。まあ一年もたたないうちに負け戦になっていくんですが、シンガポール陥落は戦争が十二月八日に始まってその次の春。そこまではよかったんですが、十八年三月にはもうガタルカナルが撤退、その前の年にはミッドウエーで大敗を喫するんですね。しかし街中では討ちてしやまんということをやっている。有楽町の日本劇場、日劇の壁にでっかいポスターを作っている。百畳敷きという大きなもの。その隣には朝日新聞社がある。横山隆一の漫画「フクちゃん」ではアメリカを蹴っとばしている絵が載る。

 戦争はうまくはいっていないのかもしれないけれども、戦争に負けるなんてことは少年達は考えなかったんですね。動員に行っていた電気試験所が焼けて、そのあとに陸軍の航空隊に勤労動員。飛行場に行って何をするかというと飛行場を耕す。「おかしいなあ、飛行場に飛行機はないんですか。」と聞くと、「いやそれは隠してある。いざとなったら出て来るんだ。」という話でしたが、それはまったくウソだった。八月六日になると、それまでも防空壕を掘っていたんですが、「新型爆弾が落ちたからもう一メートル深く掘れ」ということで、さらにずっと大きな防空壕を深く掘った。これがなんと原子爆弾であった。そんなにして八月十五日を迎えたんですね。天皇の聞きにくい放送で、なんか戦争が終わったらしい。教師もいっしょに聞いていたんですが、教師も泣き出したり、何が何だかさっぱりわからない。ところがその夜、将校達が来て、「いよいよアメリカが来るんだからここで一戦、闘わなければならない。君達は家があるんだから、親のところに帰りなさい。」ということで裸一貫のような形で帰される。「我々は残って闘う。もし師団長がそれを承知しなければ、撃ち殺して闘う準備をするんだ。」てなことを言っていた。で我々はそそくさと帰るわけです。一週間ぐらいたってから、新宿の京王線の駅でその将校に会う。でっかい荷物を背負って歩いている。「どうしたんですか」と言うと、「いや、戦争は終わった」と言う。我々には毛布の一枚も渡さないで、自分達はいろんなものをかついで帰る。これはおかしいなあ、てなことをその頃から思うようになるわけです。それまではおめでたいもので、いくら負けていても、これは負けないんだ、必ず勝つんだと思っていた。そんなことで戦争が終わったわけです。まあそんなところです。

 

 木村 八十代以上の方のアンケートの中にも二・二六事件のことはありました。ヒットラー・ユーゲントが日本に来て大歓迎されたということは私は知らなくて、非常に新鮮な想いをしました。それから負けるとは全然思っていなかったということはアンケートの中にありました。

 

 大柳 ヒットラー・ユーゲントは鹿児島にも来たんです。伊敷の高農に来ましたね。

 

 木村 それから新型爆弾、原爆のことですが、アンケートでも何人かの方が言及されていました。このあと会場の方も含めてテーマを少ししぼってお聞きしたいと思います。少し休憩を取って、そのあとで再開したいと思います。(休憩)

 それでは再開いたします。先ほどの三人の方のご発言の中にもございましたけれども、なぜ日本はあのような形で戦争をすることになったのか、どうして戦争を防げなかったのか、つまり開戦の問題ですね。また真珠湾攻撃をどのように聞き、そのことを改めてどのように考えているのか。そしてそれとは逆の終戦・敗戦ですが、原爆投下とソ連参戦という大きな出来事があったのちの最後の終戦・敗戦であったわけですが、その直前のポツダム宣言なども含めてどのように当時考え、今は改めてどのように評価されているのか。改めてそこらへんの問題を三人の方にお聞きしたいと思います。どなたからでも結構ですが、どうでしょうか。

 

 大柳 第二次世界大戦、主として日米開戦、日米戦争に首をつっこまなければならないようになったのは、私の記憶では、屑鉄をアメリカが日本に入れなくなった。それとか綿花を入れなくなった。それじゃあ日本が中国とかアジア地域から綿花なり鉄鋼石を入れる手だてをするために、中国に力を延ばす以外になくなった。そのうち石油も困ってきた。いきおいアジア地区の産油地域、昔で言うところの蘭領インドシナ、今のインドシナですよね。オランダ領インドシナ、それとかマレー半島あたりの英領インドシナ、こういうところに手を延ばすしかなくなってきた。そういうことがつもりつもって、アメリカがどうしても邪魔しますからね。アメリカが日本に言うことをきかせるために、いろいろそういうシバリをしてくるわけです。それがもとだと、私たちは思っているんですね。私はそういう風に感じています。戦争をしなくて、外交でうまくやれる力がなかったと言えばなかったなあ、と開戦については思っていますね。

 都築 今のことに少し関連してですが、戦争の道に入っていく背景は今おっしゃったようなことだろうと思いますが、少年達の愛読書に『敵中横断三百里』という少年クラブに連載されたと思うんですが、厚い小説本で、これは背景は日露戦争の時でしょう、建川という将校が馬でもってシベリアを横断するんですね。それを書いた小説。それの続編みたいなことで、今のお話になったような時期に出てきた本があります。『日米もし闘わば』、軍国少年達の愛読書だったものです。これは中身は全部忘れてしまいましたが、日本とアメリカがもし闘えば、どういうところに基地を作って、軍艦はどういう風に動いて、というようなことを血湧き、肉踊る感じで少年たちに読まれました。それだけです。(笑い)

 

 大迫 うちの祖父は日露戦争の勇士で、騎兵隊の連隊長などをずっとしていました。戦争中はもう退役で、奉天で満蒙学校という中国人と日本人を集めた学校の校長をしていましたけれども、今思えばスパイ学校だったんじゃないかと思うんですが、祖父の生きているうちに聞いておけばよかったんですが、祖父は戦争中は、東条はえらいえらいなんて言っていました。戦争が終わると、東条はバカだバカだと言っていました。(笑い)そんな単純な軍人が多かったんじゃないかなと思います。りっぱな人がやっぱり少なかったから、ああいうことになったんだろうと…

 

 都築 今おっしゃった騎兵隊というのは陸軍で、日露戦争の時にたいへん活躍するんですけれどね。司馬遼太郎の小説に出てくるんですが、秋山好古という日本の騎師団の勇将ですね。大将だったかな。弟が秋山実之といってね、海軍ですが、日露戦争の時に三笠に乗って主任参謀だったんですね。その兄弟というのが有名だったんですね。騎兵隊というのは日露戦争の時、初めて活躍するんですね。

 

 木村 なぜ戦争に至ったのか、なぜ防ぐことができなかったのか、ということについて、当時思われていたこと、今改めていろんなことを知った上で思われていること、私は当然違うはずと思ってお聞きしたのですが、その二つを重なるような形で言われている部分が強いのかな、という印象を今のお話で受けたんですが…。一般的に当時言われていたのは、満蒙は生命線であると。ABCD包囲陣で日本は鉄や石油などの経済制裁を受けていて、そこから生き残るためには南方の資源を確保せざるをえなかったと。そしてアメリカがハルノートなどを突きつけたのは、最後通牒で日本に先に攻撃を起こさせてそれを口実にして正当性を得て、正義を自分の側に得て戦争をさせるためであったと。真珠湾攻撃をルーズベルトは実は知っていて、日本に誘いをかけた。つまり日本にワナをかけて、日本がそれにまんまと乗った形になったんだと。つい最近出された『真珠湾の謎と真実』という本ですか、それもルーズベルトが事前にかなり知っていたということを実証的に裏づけたもので、そういう論調は強まっていると思います。ただですね、そういった問題の見方、問題の立て方は、戦争はやむをえなかった、日本の立場としては日本は国益を守るためにはやむを得なかったと。そして同じレベルで言えば、ABCD包囲陣というのはすべて欧米列強の帝国主義国で、植民地支配をしている国であって、今の日本の政治家もよく言うのは、要するに帝国主義戦争であったからどっちもどっちだと。市場と領土を分取り合戦をするのはどっちもどっちだと。だから日本だけが一方的に悪いのではないという論理だけを強調されるんですね。

 そうじゃなくて、日本がアジアに進出していった。日韓併合は一九一0年ですが、その以前から朝鮮半島には進出していて、まあ台湾は一八九五年、日清戦争の勝利のあかしで植民地にしていますよね。そして満州国の建国があって満州事変がある。満州事変以後戦争がずっと続いていたんですが、先ほどのお話にもあったのですが、なかなか中国戦線がかたづかないな、硬直化しているなと。そうした中で日華事変があって、日中戦争が本格的に三七年以後にはいってくると。そしてその延長線上に四一年の真珠湾攻撃があるわけですよね。国際連盟のリットン調査団が派遣されて、満州国建国を認めないという決議、勧告をされたにもかかわらずそれを無視して、さらに植民地支配を広げてやろうとして戦争になっていったと。そういうのが実際の経緯で、アジアの民衆、とくに朝鮮半島や中国、そして東南アジアの人々に対する明白なる植民地支配等侵略戦争、加害の側面の立場に立った改めて開戦論であれば、もう日華事変、日中戦争が始まった以降の段階で、ABCD包囲陣があってハルノートが突きつけられて戦争を起こしたと。日本は戦争はしたくなかったんだけれど、そういう状況下であの道しかなかったんだというのは、それ以前の選択というか歩みを前提にして、それを肯定した上で今の理屈は成り立つんですよ。そしてそれを、今の戦争を正当化する人はそういう言い方をしていて、とりわけアメリカとの関係で言えば、正当化できる、対等だと、あえて言えばどっちも悪いんだという言い方でしていると思うんですよね。だからそこらへんをどう見なければならないのか、というのがひとつです。それは戦争の大局に対する見方です。 いちばんここで話していただきたいのは、そういう日本の歩みについて、どのような教育を受けて、たとえば日韓併合、台湾も植民地下において中国に進出していったことについてどのように教育を受けて、それに対する批判的な意見、日中戦争における批判的な意見がなぜ国民の中から出てこなかったのか。軍部が台頭して、軍部がやりたい放題にやるのに対するチェックが、文民統制というレベルでももちろん非常に難しくなってくるだけでなくて、国民によるコントロールというのが全然及ばなくなったというのはわかるのですが。しかしそうした中でも、一部の人々は真実を知ろうとし、戦争に反対した人々がいなかったわけではないと。なぜ当時、真実を知ることができずに、政府や軍部を批判をする、それを止めるという努力がなぜできなかったのか。それをすべて教育とマスコミのせいにしてすませられるのかと。その意味あいは非常に大きかったと思いますし、そのことはアンケートの中にもあります。

 「言論思想統制で、国民の九九パーセントが批判できない状態。何が出ても何があっても無感動である。」「太平洋戦争の戦況などについて報道されることを疑ったことはない。神風特攻隊などについては、痛ましく思いながらも勇ましくかっこよいと思っていた。」「小学生の時はお国のために女スパイになろうと思っていた。」「軍国少年だった私は日本は必ず勝つことを信じ、将来軍人になってお国のために死ぬ事を夢見ていました。」こういうのが当時の置かれている人間の一般的な状況だったかもしれません。ただ改めて見た時に、今さっきも言いましたが、軍国主義教育がどんなにおろかな人間を作り上げていくか、それはそれは恐ろしいことですと。要するに与えられた情報を鵜呑みにして、それを真実だとして、それから物事を考えるというか、だから主体的に自分で物事を考え、判断し批判し評価するということができないという状況に人間が追いやられていたという状況があると思うんですが…。

 

 大柳 あのね、いいですか。今そういう戦争をしかけたのはやむをえなかったかどうかということで考えれば、ひとつの国が世界の中で国力が増してくると、自分も列強たらんとするわけですね。列強たらんとする過程においては、どうしても日本が中国や朝鮮半島でやったような侵略行為というのをやってくるんですね。それで日本も確かに、中国や朝鮮半島、台湾、そういうところで侵略行為をやってきたんだけれど、それはひとつの列強になりたいがためにやった。したがってアメリカにしろ、まあアメリカはあんまりやっていませんが、せいぜいフィリッピンぐらいですか、イギリス、フランスといったヨーロッパの国はすさまじいものでしょう。アフリカあたりでイギリスやフランスなんかがやってきたことといえば、アフリカの何千万という人間を滅ぼしているし、あそこの文化を何百年単位で後退せしめているわけだから、そういうひとつの列強たらんとしたことに間違いがあるとすれば、それが間違いですわね。だから日本が、そういうことをやったから、日本の戦争責任というのが比重が大きいという考え方に立つだけでは、長い歴史観というのは成り立たないと、私は思うんですね。その辺はだから、やはりさっき言いましたように、グローバルな考え方で、ひとつの国が列強たらんとすることを望まないような状況を作っていくべきだと思うんですね。日本が戦争をしたのはやむをえなかったんだ、と言っているわけではないんですね。

 木村 そこら辺についてはどうでしょうか。

 

 都築 実際は敗戦、八・一五を迎えるまでは目も閉ざされているし、少年ですから世の中を正確に判断することはできなかったわけですよね。ただ戦争が終わって、なんか全部アメリカに占領されちゃうんじゃないかというのはウソであって、民主主義というのが定着しそうになっていくわけですね。その頃十七・八才になるわけですから、世の中というのがどうであるべきかということをだんだん考えるようになる。そうすると、またふり返って昭和の二十年間、いろんな戦争の動きがあるのを見定めていく。さらに、じゃあそういう日本にどうしてなったのか、というと明治維新まで遡って考えなきゃならない。徳川以降の日本というのが何だったのか、というようなことを考えるようなことになると思うんですね。だから少年たち、あるいは青年たちにとってそれをすぐそこで、食糧難の生活をしながらそういうものを正確に判断するというような体験はない。しかし周りの動きとしては、ラジオでは民主主義とは何だ、真相はこうだ、とかいろんな宣伝が出てくる。それから労働組合などもどんどんできてきて、それぞれの働く人の権利が主張され出してくる。そういう背景がくる。それはもう少し先になっちゃうのかもしれないけれども、だから戦争が終わるまでのことをどういう風に判断するかというのは、少年にとってはその当時はできなかったわけです。

 さらにそのあとの動きですね。たとえばいちばん僕にとって象徴的だったのは、新円発行というのがあるんですね。お札に切手を貼って、いくらおカネをたくさん持っていても切手の貼っていないお札は通用しない。だから大金持ちでも月に使えるおカネが限られちゃうという、そういう制度になったんですね。僕のうちなどはとても貧乏で、すごく金持ちの友達もいたりするんで、ああ、あいつのところと明日からいっしょになるんだな、と思って喜んだものです。

 

 木村 あの、時間の制限もありますので、新円発行のことについてはまたあとにしてもらって、会場の方からも意見を聞きたいので、先ほどの議論を少し続けます。開戦の問題ですが、意外と植民地支配と侵略戦争はいけないと言っている人も、開戦の経緯はあまり詳しく知らずに、やむをえなかったんだ、時代の状況があったんだ、帝国主義時代は戦争して領土を取るのが当たり前であったし、ABCDというか欧米列強がやていることを日本がしないで果たして日本が生き残れたのか、という論調で正当化させるというのが一般的なんですよね。そこら辺を踏まえて、改めて今の時点で、開戦の問題、開戦の責任の問題にもなりますが、それをどのように考えればいいのか。そしてその時に国民は何をしていたのか。軍部がすべて決めていて、国民はすべてその段階では手足を封じ込められていて何もできなかったと。だから軍部がすべて悪いとか、あるいは天皇がすべて悪いという論調が、批判する側からされる場合もありますが、それでは本当の意味の反省になっていないと思いますし、真実の一部しかついていないということになると思います。この問題について少し、会場の方からご意見はありませんか。

 

 轟木 第一次世界大戦という戦争がどういうことだったか、ということを国民はもうちょっと知るべきだった。あの時は列強が中国を食い物にしたんです。日本は日英同盟を結び、先進国の仲間入りをしていろんなことをしましたが、第一次世界大戦がどういうことであったかについて、さかのぼって考える必要があります。中国(清国)を彼らは食い物にしてきたんですから。彼らというのはイギリス・ドイツ・フランス・イスパニア・ポルトガル・オランダなどのヨーロッパ列強のことです。日本は列強の仲間入りをしたくて国策を決めた。そうした第一次大戦の原因を分析する必要があると思います。そうすると日本はどのようにしてアジア、つまり中国や満州などの利権を得、いわゆる国益をどうしようとしていたか。それが肝心だと思います。私たちの習ったところでは、イギリスがいちばんあくどいことをやっています。

 

 都築 少し論点が違うのでは…。諸外国が悪いことをしたから、日本もいっしょに悪いことをした(笑い)ということになる。

 

 轟木 いやいやそういう意味ではなく、たとえば孫文は日本に留学し、朝鮮の独立を日本に求めてきて、明治二十年から…、彼らは日本人を頼っていた…

 

 木村 その問題は非常に複雑で、第一次世界大戦の本質は帝国主義戦争で、領土分割の闘いであったと。中国もその植民地分割の波の中で欧米列強によってなされた。その時に日本は世界の五大国にようやく仲間入りしたということで、中国の植民地分割に加わってしまったと。そのことこそが誤りの始まりであったと見なさなければならないということですよね、ただ今のご主張は。僕がお聞きしたいのは、そういった世界の流れの中での日本の動きと、国内的な問題、教育とマスコミも含めて、そういう植民地支配とか対外進出、軍部の動向に対して国民はどういう風に考えていたのか。いっさい抵抗できなかったと言われているんですが、果たしてそうだったのか。いつだったら抵抗できたのか。少なくとも反軍演説とか、そういう形で軍部を果敢に批判した政治家ももちろんいましたし、反戦平和を唱える新聞や人々も小数ながらいたわけですけれども、まるっきり戦争一色になる真珠湾攻撃以降はもちろん無理でありますし、三十七年以降はきびしくなっていたとは思いますが、国内的な問題についてはどうでしょうか。むしろその問題を主眼に話していただいたら面白いものが出るんじゃないかと思いますが…

 

 藤山 新聞の腰くだけという面から、あるいはご参考になるかもしれませんが、第一次世界大戦が始まって、日本の米の値段が四年で四倍に跳ね上がるというぐらいの暴騰をします。その中で一九一八年に全国で米よこせ運動、米騒動が起きています。当時の寺内内閣は「いっさいこの米騒動を新聞は書くな」というお触れを出すわけですけれども、これに対して新聞はこの段階ではいっせいに集会を開いて、内閣に反対を表明するという決議を出したりして、まあ結構がんばってはいた。ところがその米騒動の中で、大阪の朝日新聞が筆禍事件を起こします。白虹(はっこう)事件と言われていますが、要するに兵乱が起きるぞ、という予告をしたような表現になってしまったということで、これが睨まれまして、朝日新聞廃刊という脅しをかけられまして、第一次腰くだけが起こるわけです。ここで社長以下大量に退社したりして、そこで新聞綱領というものを初めて具体化したわけで、その中に不偏不党という言葉を初めて盛り込んだ。そこから政府攻撃というものがきわめて弱くなっていく。そうするとその次の二0年代には軍部が力を増してきて、右翼が頑張ってくる。そういうことでシベリア出兵だとか海軍の軍縮条約だとか、そういった問題でどんどん軍部と右翼が結託して国民を脅すような言論が出てきます。

 そして二つ目の腰くだけというは一九三一年の満州事変です。これは満州事変が起きるまでは、朝日新聞は満州事変反対反対を主張していたわけです。ところが戦争が始まって一週間たつと、コロッと百八十度転回して、満州事変頑張れ、満州で頑張らねばならない、という論調に変わっていく。それが何が原因であるかというのが、まったく社内でも社外でも定かでありませんが、とにかく見事に変節した。そのおかげで三0年代には五・一五事件とか二・二六事件とかを経て、日中戦争、太平洋戦争になだれ込んでいくわけですが、とにかくこの二段階の新聞の腰くだけというのは戦争を推し進めるのに役だった、と私は考えています。

 

 木村 当時のマスコミの姿勢の変化という意味で、今の二つの腰くだけのお話は非常に貴重だったと思います。教育問題に関してはどうでしょうか。戦前の教育、軍国主義教育と言われていますが、そこらへんの影響、コントロールというのはどうだったんでしょうか。

 

 芳村 教育ではありませんが、戦前の日本映画を見てまして、極端に変わるのが満州事変前後です、一九三一年前後に。もちろん検閲は以前からあるんですが、映画は割と自由な表現ができ、お国やオエライさんはどうでもいい、自分達が自由に生きるということが謳歌されている。昭和六・七年にもまだあります。ところが満州事変以降、特に子供映画、教育映画、チャンバラ映画もですが、急に子供が主人公になるんです。それまで大人が主人公。国定忠治であれヤクザの親分であれ、大人の話なんですが、満州事変以降に子供を主人公にした映画が増え、「お国のために」あるいは「何々のために」というのが非常に増えてくる。教育とは違いますが、映画という大衆文化でもはっきりと違いが出てくる。またそれを大衆のほうも支持したんですよ。そういう映画が受けたんですね。そんな背景はあったと思います。

 

 木村 貴重なお話ですね。大衆が支持したというのがポイントですね。今もブッシュを九割が支持しているわけです。フォークランド紛争の時にも、イギリスの首相が九割の支持になるのも同じなんですよね。

 

 松原 僕は戦争は直接は知りませんが、種子島生まれで、これまで体験したことと勉強したことで言えば、戦前の民衆には、軍国主義が突出していくとか、マスコミが片寄っていくということに対する批判力というのはまずまったくなかったんじゃないか。私の親戚には百姓がたくさんいますが、ほとんど三反百姓ですよね。三反で生活は絶対できない。大地主というのがいる。うちも小地主だったらしんですが、たとえば鹿児島から、桜島や大隅半島から種子島に移住者がやってくる。桜島の噴火の時がたいへんだったらしんですが、そういう災害の時にうちのジイさんなどを頼ってある人がやってくる。これは国や県の薦めもあったんでしょうが、まあやって来て下男として働く。何十年か働くと、三反歩ぐらいの土地、畑や田んぼをもらって独立させたというんですね。そうすると次にまた誰かがその人を頼ってやってくる。江戸時代のことは知りませんが、少なくとも明治からはそういうことがあった。それはものすごい貧乏ですよね。まあ、暖かいですから、それほど悲壮感はなかったと思いますが…。僕は戦後の自分の子供時代のことしか知りませんが、その人たちは完全に地主の言いなりですよ。種子島の地主の土地所有なんて知れたものですが、鹿児島でも大土地所有はあまり展開しなかったようですが、九州中部以北へ行きますとそれが大規模にあるわけですから、地主に隷属した零細農民というのが、民衆の大半を占めるわけですから、ここに判断力を求めたって無理でしょう。うちのバアさんは僕が小学校に行く前に死にましたが、文盲でしたからね。小学校には行かなかったということを聞いていました。つまりそういう状態が戦争に反対する勢力を作り出さなかった、ということではないでしょうか。

 

 木村 この問題も非常に大きな問題で、 話せばいろんなことがでてくるだと思いますが、時間の問題で次へいきたいと思います。アンケートでご紹介できなかった中にこんなのがありました。七十二才の女性ですが、東京のあきるの市の方で、「あと数年で、世界中英語だったら通じるという時期が必ず来るぞ。だからしっかり英語を身につけておけ、と先生が言っていた。でもあの先生、あんなことを言って憲兵につかまるんじゃないか、とずいぶん心配していました。」という内容です。だから少数のかたは国際的な感覚もあるんだなあ、ということがこういう具体的な証言からもわかると思います。 それでは今開戦のお話をしましたが、終戦に関してですが、僕は個人的にもこだわっているので、どうしてもお聞きしたかったんですが、ポツダム宣言を無視した形になって、その後広島に原爆が落とされ、そしてソ連参戦が早まって、その後に長崎の二つ目の原爆投下があって、最後に天皇のご聖断なるものがあった上での八月十五日の敗戦・降伏となったわけですが、当時、どれほど覚えておられるか。当時と今、両方の観点から日本を敗戦に追い込んだのは何だったのか。天皇の聖断と言われているものも含めて、戦争がどうやって終わったのかということと、先ほどから出ているなぜ戦争をもっと早く終わらせることができなかったのか、という問題提起にも、できれば少し答えていただければと思いますが…。会場の方からもどうぞ。

 

 大柳 戦争が負け戦だというのは海軍などは早くから言っていたんですね。ところが特に反米主義者なんかは、いや、参ったなんて言うとアメリカがやってきて日本人は皆殺しになるぞ、というようなことを言うんですね。そうすると海軍の人たちは、いや、そんな時代じゃないんだ、米軍が来て皆殺しにしたりすることはないんだ、日本はどう見たってこの先何年も戦争をすることはできないんだから、もうやめなきゃとんでもない目にあう、ということを海軍はおおっぴらに言っていました。だから戦争をやめようという声がまったくなかったわけじゃないんだけれども、それがなぜ国全体の声にならなかったというのは、やはり陸軍が持っていた統制の力ですね。極端に言うと、小林多喜二などが虐殺されたりしたでしょう。ああいう恐さがあるわけですよ。だから言論界が反戦で闘うという力に欠けていたということですよね。

 

 木村 四十四年の末に中国との停戦交渉を行って、四十五年の春以降はさまざまな終戦工作を本格化して、最後の段階はソ連ルートで最後の最後まで、広島の原爆が落とされてのちもソ連ルートにすがりついていたという経緯はあります。それから終戦のチャンスと言われているものは、四十五年のドイツの敗北、六月の沖縄敗戦、七月のポツダム宣言、少なくともその三つはあったわけですが、ことごとくそういったタイミングは逸しられて、最後の段階でのあのような原爆投下・ソ連参戦に至ったということなんですが、まあ一般の説は原爆投下によって日本は敗北に追いやられたという声が、特に政府などに都合のいいように流されていますが、そういった点も含めてどうですかね。

 

 都築 ウーン、今おっしゃったようなことは体験的には認識はできなかったですよね。ポツダム宣言なんてのはわかんないんだモンネ。八月十五日の昼に飛行場に集められて、何千人かの兵隊といっしょに聞くんだけれども、その時もポツダム宣言なんて全然知らない。しかも天皇がもっと元気を出して、ソ連と戦えと言っていると聞きまちがえる人もいるぐらいだから…。木村先生がおっしゃたようなことでの体験的な認識というのは、僕らの年頃ではわからなかった。もっと若い人はもっとわからない。もっとあとになって、半年後、一年後、特に食糧難になってきて、そういう生活の中でそんなことを認識していく、という感じですね。

 

 木村 なぜもっと戦争を止められなかったかという発想自体は…

 

 松原 藤山さんに質問したいんですが、新聞の購読数についてのデータは戦前戦後についてはないんですか。どの程度の人が新聞を取っていたんでしょうか。

 

 藤山 まあ…、結構取っていたんじゃないでしょうか。

 

 木村 ドイツが降伏したなんてのはもちろんラジオ、新聞でも流れますよね。

 

 都築 いやそういっても、戦争の最後の一年ぐらいは新聞はタブロイドのペラだよ。二頁だよ。

 

 松原 僕の幼児体験では新聞を取っている家なんてほとんどなかったですよ。鹿児島市はどうだったんでしょうか。エリートの話ではないですよ。

 

 轟木 小学校時代には新聞は学校を単位に配っていました。私の場合は上級生がいないもんですから、鹿児島新聞がオート三輪車で学校に新聞を配って、その学校から生徒が町を中心に集まってきて、だいたい六時に集まって、それを子供達が配ったんです。昭和十九年の頃です。新聞はそうやって配っていました。

 

 木村 なぜもっと早く止められなかったのかというのは、当時の体験からは非常に難しいというのは僕も重々おもっていました。当時の感覚で言えば、なんで日本は降伏に追いやられたのかということについては、たとえば直接ソ連参戦を体験された大迫さんなどはどういう風に受けとめられたんでしょうか。

 大迫 日本が負けるという感じはなかったですね。軍国少女でしたから(笑い)。ソ連が参戦しても、なかったですね。戦車に飛び込むつもりでいましたから…

 

 木村 今改めて思い出して、何が終戦を決定づけたか。ソ連参戦と原爆で言えば、どちらが敗戦につながったと思いますか。

 

 大迫 ウーン、どちらも…

 

 木村 どちらかと言えば?

 

 大迫 原爆でしょうか。

 

 大柳 私も原爆だろうと思います。

 

 都築 僕は戦争はまだまだ続くと。八月十五日を過ぎても終わりはないと…、神国日本だから。

 

 大柳 戦争に負けたというのは、わりと海軍の人とか、軍属の技術将校、そういう人とふれあいのある人は、この戦争はダメだ。ミッドウエーで負けたあたりから、この戦争は負けだと思って…

 

 都築 それは進んでいますね。

 

 木村 アンケートの中に、七十一才、市内男性の方で、「開戦初頭から親戚の海軍将校の方が、日本は負ける、全国がほとんど戦場になる可能性もある、と言い募っていました。」とあります。そういう発言もあるわけです。ただ何が降伏に追いやったのか、ということについて、僕は原爆投下とソ連参戦の問題でちょっとやっているんですが、国民感情、主観的な国民感情と実際に降伏決定がなされた経緯とは違うんですよね。戦争指導層、最高指導者にとってどちらがより影響を与えたかというと、少なくとも広島の原爆投下で降伏には全然動いていない。降伏に動きだしたのは、明らかにソ連参戦以後なんです。長崎はついでに追い打ちはありましたが、長崎の影響もほとんどなかった。もちろんソ連参戦がなくて、原爆が二発だけでなく、何発も落とすぞ、という脅しがあって落とされていたら、それで降伏した可能性はもちろんあります。現実には両方があって降伏しているので、どちらの比重が大きかったかというのは、非常に難しい。両方の影響、ダブルショックで降伏に至ったんだと一般的に見るのが当たっているのかもしれませんが、やはりソ連参戦の衝撃というのが、戦争指導層にとっては徹底的に大きかったと思います。また最後まで抗戦派の陸軍に対しての衝撃も一番大きかったというのはいろんなところに出ています。しかしソ連が参戦しても、原爆が二発落とされても、なおかつ戦争を最後までやろうという勢力がいたことはまちがいがない。それは天皇の聖断でさえもコントロールできずに、最後に暴発して何人かが立ち上がって、鎮圧されていますよね。

 

 大柳 ただあとになって聞いたのは、いよいよ手をあげようと決めたのは、天皇が戦争犯罪人として、極端にいうと処刑されるということにならないように、その道をさぐって、それでは手をあげようかと決めたという話もあったんだということも聞きましたよ。

 

 木村 だから戦争が長引いた最大の理由は「国体護持」でありますし、より身近に言えば、アフガニスタンでオマール氏が助命を言っているように、天皇自身の助命とか保身とか、そういったものが決定的な役割をはたしたのは間違いがない。ポツダム宣言を受諾しなかった一番の理由はそういうことです。あそこに無条件とされて、何等かの形で天皇制の存続を認める文言が削られていたから、受諾できなかったと。あるいはもしその文言が入れられていたら、あの時点でポツダム宣言を受諾した可能性は非常に高いと。いくら軍部が反対しても、天皇はその時点でしていたであろうと…。

 

 大柳 それはずっとあとになって聞きました。無条件の中には天皇の処刑も入っているんだと。

 

 木村 ただアメリカはそれを見越して、あえて最初に文言に入れていた天皇制存続容認という文言を最後の段階で削ったと。要するに日本が拒否するのを見越して原爆投下のチャンスを作ったというのが真実、歴史の経緯ではあります。それでは時間の関係もありますんで、現在の話に移っていきます。戦後体験の中で、もっともつらかったこととうれしかったことを、個人的なことや、事件にからめてもいいのですが、短くお願いします。

 大柳 戦後うれしかったということはほとんどないですな。つらかったのは腹が減ったこと。うれしかったのは、進駐軍のパンとベーコン。

 

 松原 そういう進駐軍からの恩恵というのは、戦後何年ぐらい続くんですか。

 

 大柳 学生服が破れてどうにもならないんですよ。そしたら進駐軍の、Pが入っている緑色のやつ、あれを払い下げてもらって何年も着ましたよ。職につくまで着ました。それとかシャツとかね、そういうものをもらった恩恵というのは大きいですね。昭和二十五年頃までは払い下げがあったでしょうか。

 

 木村 今のテーマはとても大きいのではないかと思います。アンケートの証言の中にもありましたが、「日本はずっとアメリカの言いなりで、アメリカの属国、下僕のようにこんにちまで来ているのが悔しい。」といううっぷんもたまっているんですが、その一方で、おっしゃられたようなアメリカに対する感謝、要するに寛大なる講和と占領ということで、歴代政府指導層、自民党や保守的な政治家はそういう感覚をずっともっているんですよね。なぜ従属しているか、その根本原因にたどりつくと、やはり占領期、条件つきの講和、独立さえ寛大なる講和、独立と言われて感謝しているぐらいですね。そこらへんの問題をどう見るかも少しお聞きしたんですが。アメリカとの関係、アメリカに対する感情ですね…

 

 轟木 私の体験では、あとでも知ったことですけれども、マッカーサー将軍がたいへん偉かったという、ただその一言です。日本国に対してどんな寛大な占領政策をしたかということです。

 

 大柳 進駐軍・占領軍の高級幕僚が本省に出した手紙に、日本の極東のイエスマンたち、と書いているんですね。日本の政治家なり指導者はノーということを言わないんだと。だからこっちが言ったらイエスとしか言えない。実際にイエスメンと書いているんですからね。それほどやっぱり従属的であった。指導層が従属的であったと言えば、そうですね。

 

 木村 今二つの側面から日米関係の問題に入ってお聞きしているんですが、今の従属していることに対する憤りというものは、自分の国を自分で守れない国は滅びる、歴史がそれを物語ると。ブレジンスキーが言ったと、日本は所詮アメリカの下僕に過ぎないと。中国の李鵬も言ったと、あんな国日本はあと二十年たったら消えてなくなっていると。こういう発言に対するナショナリズム的な反発があるというのがひとつです。ただ、今の会場の方がおっしゃったのは、アメリカの寛容性とか、民主主義の底力とか、マッカーサーの偉大さとか、そういう側面で、マッカーサーが確かにカリスマ性を持った解放者としての側面で迎えられたというのは、その通りだと思うんですよね。ただある時点から逆コースと言われるように、マッカーサー自身も四七・八年以降は変わっていくわけでありますし、マッカーサーは最後の段階では、日本に対してではないんですが、朝鮮戦争で原爆投下さえも主張してトルーマンから首を切られるという最後になるわけですけれども、それでもマッカーサーに対しては非常に感謝・尊敬という感情は、日本人の中に、悪くはあまり言わない風潮として残っているというのは、そうだとは思いますけれどもね…

 

 松原 だってそういう風に教育されたんでしょう。僕などは昭和三十年に小学校に入ったけれども、アメリカからいろんな物資をもらったということは、学校で先生達たちから教えられましたよ。はっきりと…

 

 木村 もらったことは事実ですし、ガリオワやエロワという復興援助はそれほど巨額なものでありましたし、ミルクなどはアメリカの配給でずっと続いていたということでありますし、衛生関係、BBCなども援助ですよね。

 

 松原 もらったということをちゃんと教えろと先生達が指示されているんでしょう? 上から。

 

 都築 あの年の十月十日に共産党幹部が釈放されてですね、その足でもってマッカーサー司令部のところへ行ってバンザーイを叫んだ。徳田球一と志賀芳雄が、マッカーサーありがとうございましたと言った、ということになってますよね。だけども僕らは、戦争は終わった、そしてなんで今まで二十歳近くまでだまされたことをやってきたかというと、半年一年かけて考えながら、労働組合運動だとか歴史の勉強だとか、それ以前にできなかったことをいろいろやり始めるわけですよね。だからその力というのは、自分達が日本を作っていくんだというようなことは萌芽として出てくるはずなんですね。だけどそれはまあ、まだまだ弱かったから、すぐ今度は二・一ストというのがあて、ゼネラル・ストライキ、官公労・国鉄を中心にしたストライキがマッカーサー司令部の命令で弾圧されるとか、ということで、終戦後一・二年で様子が変わっていく。だからその変化というのを運動側でもしっかり捉えられなかった。でも街中というか、全国的に不景気、食糧難とかがある。ところが朝鮮戦争に突入すると、こんどは軍需景気で世の中が活性化してくると。いうようなあっちこっちの動きがある。そういうものを経過した上で、ほんとうの自立した国を作っていくという、運動の蓄積というものがだんだん弱くなっていっちゃったんじゃないか、という気がします。

 

 木村 はい、次のお話に移りたいと思いますが、ただ、今の問題でひとつだけ指摘しておきたいのは、アメリカに占領されてよかったと、マッカーサーもよかったという言い方の中には日本の本土の人にしか通用しない側面があるのではないか。沖縄・奄美、その他切り離されたところでほんとにアメリカ占領がよかったとか、感謝しているとか、そういうことが言えるのか。平和憲法も適用されなかったわけですので、そういう風に言われる時は、日本国民でありながら日本領土から切り離された、これは国際法違反の統治のやり方だと僕は思いますけれども、そういうことを平気でしたアメリカの占領政策の誤りに対する批判的な目の欠落があると。北方領土問題ももとをたどれば、ヤルタ会談でのアメリカ側での領土割譲の申し入れというのがあって、ソ連を批判するというのはよくわかるんですが、それ以上にアメリカを北方領土問題では批判しなければいけないんですけれど、アメリカに対する批判は出てこない、という限界があるということだと思います。

 それでは時間が少なくなりましたので、最後に現在のことをお話ししていただいて、まとめのほうに行かしていただきたいと思います。先ほどもコメントの中で、いろいろ戦前と現在との状況の類似、今行われている九・一一対米テロとそれに対する報復戦争、そして日本の軍事協力につきまして、いろんな懸念の声がでていますけれども、この問題をどう捉えたらいいのか。そして今、若い人たちに特に伝えるとするならば、どういったことなのか。そういった問題をお話していただきたいのですが。

 

 大柳 これからの問題としましては、冒頭にも言いましたが、安保だとかテロにしろ平和にしろ、スパーパワーだけの主観ではなくて、国連主導でやる。国連がやるということでないと、長続きがしないんじゃないかと思いますね。

 

 大迫 とにかく戦争はいけないので、戦争反対を叫ぶだけです。

 

 都築 敗戦以後六十年になるわけですが、その間の世の中の動き、その中での人々の運動、自分達の国を築いていく、守っていく自主的な運動というのが、労働組合だの団体だのいろんなことが出てきて、またいろんな力が蓄えられてきたとは思うんだけれども、いちばん欠けているのは、誰かがやっぱり民主主義の国を作ってくれればいいなとか、自分達はお客さんだというような考えが、その弱さがこの六十年間あったと思うんですね。で、いよいよ今度の体験で、ほんとは多くの人は、六十年後にまたこんな世界戦争になるみたいな状況がくるとは思ってなかったと思うんですよね。今だってまだアフガニスタンあたりで戦争をやっているという認識。実際はもう、今度のアメリカのやり方というのは、どこかで戦争を作っていく、戦争のタネを撒いていく、それを挑発していく、というやり方が世界的にアメリカを中心にしてやられるというような事態になってくるんじゃないか。その時に、やっぱり日本の政府はなんとかこうしてくれとか、と言っているんじゃなくて、住民自身が自分達で判断して自分達で作っていくということがいちばん必要じゃないか、と思います。

 

 木村 会場からのご発言もお願いします。若い方も、といっても若干一名おられますけれども、どうでしょうか。

 

  この前テレビを見ていたら、アメリカのブッシュ大統領が真珠湾のことを言っていました。おそらく今の若い方に真珠湾や十二月八日のことを言っても、なんのことかわからんだろうと思います。それをアメリカの大統領が、真珠湾攻撃を言いました。それは野党対策だろうという、一応のコメントもありましたが…。昭和十六年十二月八日のあれは、日本の外務省がアメリカの国務省に通達するのが遅れただけで、奇襲でも何でもなかったと我々は説明されています。私自身は海軍に行って戦争をしてきております。だけど真珠湾というのを忘れていたんですが、なぜアメリカの大統領がそんなことを言うのか、アメリカにはそういうことがあるのか。そういうことを、木村先生にお伺いするために今日は来たわけなんです。

 

 木村 そのことに簡単にお答えしますと、九・一一テロの時に真珠湾の再来、あるいはカミカゼだと言われました。真珠湾の再来というのは、真珠湾以来の本土攻撃であったという意味あい、そしてまあ予期せぬ攻撃、すなわち奇襲、あるいは卑怯な攻撃という意味あいも重ねて言われた。カミカゼと言われたのは、自爆テロでありましたのでカミカゼ特攻隊、飛行機での体当たりでしたので、戦闘機と民間機の違いはありますけれども、自爆テロでかつ飛行機でということで、カミカゼ特攻隊というのが言われたということですけれども、常にアメリカの場合、危機管理という時に、奇襲に備えるという意味で真珠湾の教訓というのをすぐに持ち出すというのが、指導層の習いになっているというので、今回も同じような発言がやはり出てきたと。九・一一テロの文脈でなくても、真珠湾攻撃の事例は国防を語る場合によく出されるということでありますけれど…。

 

 坂元 いろいろ話したいことはありますが、戦後体験アンケートをされたんですが、実際的には反省の弁と、これからこうあるべきだという意見とがあると思うんですよ。こうあるべきだというのは理解できますが、だけども今の国際社会においても似たようなことが大なり小なりあるわけですよ。現実に小さな戦争が起きている。じゃあ、アンケートに出てくる反省や意見が現代社会の中に活かされているのか。あるいは活かしているのかというと、必ずしも活かされていないと私は思うんですよ。私は鹿屋在住ですが、小さなことを言いますが、産業廃棄物の問題もあって、その地区の上祓川の地下水汚染になるということで、地区全体がまとまって反対運動をしていったわけですが、しかし周囲はそれに対する応援というのは何等なかったわけです、はっきり申し上げて。しかし自分達が水を守るんだという気持ちがあったから、まだ解決はしていませんが、仮処分という形で工事ができない状態にまで持って行っている。ですからこのアンケートについて、答が出ているようには見えますが、しかしこの社会の中で活かしきれるのか、というのが今後の大きな問題だと思います。だから体験云々よりも、その教訓をどう活かすかということが問題だと思っています。

 

 山下 私は戦争は日本史で習った事実だけ知りませんでした。背景にこんなに深い事実があることはわかりませんでした。たとえばソ連参戦も言葉では知っていても、大きな問題になっているという先生の話もありましたが、それがそんなにすごいことだったのかという気持ちです。若者の代表ということで言わせてもらうと、それがそんなにすごいことだったのかという思いです。原爆も何十万人が死んだというだけで、その背景の日本やアメリカのことも知しません。でも戦争は未来に生まれる人たちにも伝えていくべきことだという意識はだいぶ出てきました。私は来年四月から院生になって木村先生のもとで勉強することになっていますが、歴史や過去のことを知って、今起こっている民族紛争とからめて、平和な世界というのをめざしてもっと勉強していかないといけないな、と思いました。

 

 轟木 わずか十分ぐらいの間に鹿児島駅が壊滅しました。そして六月十七日、三時間で鹿児島市が壊滅しました。いかにおそろしいか。事実、先ほどの方からお話がありましたように、いろんな経験やお話はアンケートで出てきましたが、それをいかに活かすか、いかに伝えていくかということが大事だと思います。

 

 柿木 母も言っていましたが、太平洋戦争がこんな大きな悲惨なものになるということは予想もつかなかったと言っていました。それぐらい母たちは世界情勢などに対する情報もなかったんだろうと思います。それぐらい無知だったことを反省して私にそういう風に言ったのかもしれません。だからこれからは、これからの先をどう見るかをちゃんと勉強しなさいよ、ということを伝えたいためにそんなことを言ったんじゃないかと思うんですが、だからといって、私がどれぐらい勉強できているかというと、ほとんどできていないんですが、私が思うのは、国益というものが必要なのかなあということ。今アメリカは自分の国益のために戦争をしているとしか思えないんだけれども、かつての日本も国益のために戦争をしたんだろうと思いますが、国益というのが国民のためになっていたんだろうか。ほんとの国益というのは市民・国民が考えること、自分達がどう生きていたいかということを考えることが一番大事なんだなあ、と感じています。やっぱり戦争を起こす人は国益を言いますが、結局は弱い人たちに犠牲が及ぶというのが戦争ですよね。そういうことを考えると、どこかの力のあるものが力を行使することには反対だな、と思います。

 

 木村 国益というのには国家的利益、国民的利益の二つあると思うんですが、本当の国益とは、政府などがいう国益とは必ずしも一致しないのが大問題だと思います。本当の国益というのはもちろん必要だと私は思います。

 

 小川 私は原発反対をずっとやっていますが、まあ新しい戦争というか、今恐いのは報復の報復で原発が狙われるんじゃないかということ。やっぱりとうとう空からの攻撃に対して何か防御を作っていこうということも報道されていますが、陸だけでなく防空をやっていこうと。それに合わせて原子力はやはり平和利用だということを宣言しようじゃないかという動きもあるようで、この際だから減らそうというのではなく、ますます逆行してるんだなあと感じています。劣化ウラン弾というのをユーゴや湾岸戦争、今回でも使っていますよね。戦争が新しくなるにつれて、武器がどんどん開発されて、今後の戦争は後遺症がもっともっとひどくなるんだなあ、原爆みたいなもんですよね。その辺からしてもなんとか戦争は止めないといけない。いろんな形で訴えて止めなきゃいけないと思っています。

 

 児玉 最近よく着物を着るんですが、きっかけは、米英軍艦が谷山港に来るという時に着物を着て出かけました。その後何かで、平和でなければ着物は着られないという文章を見ました。戦争中は女の人たちはモンペを着ていたと言います。私はモンぺ自体は機能的でいいな、と思いますが、着物は平和でなきゃ着られないというのはその通りだと思うんですね。自分がいろんなところに着物で出かけるということは、戦争につながるいろんなことに反対だ、平和っていいよね、ということを伝えるメッセージを込めているつもりなんです。

 

  今日のまちづくり県民大学のことは昨日の南日本新聞に出ていましたが、今日のまなびのコーナーには出てなかったんですよね。最近、このまちづくり県民大学が新聞にあまり出ない、と関係者が言っていましたが、たまたま今朝、西日本新聞さんに行って、今日の一二・八集会がほかでも二つほどあるんですが、最近はこういうことを新聞に載せることがシビアに時代になりましたね、と僕の方から言いましたら、向こうがニタッとしていました。平和運動と言いますか、木村さんがやっているゼミのことなどが新聞などに出ているのを見て、マスコミがこういうことを載せられる時代はまだ、平和問題を討論できる民主勢力が残っているということだけれど、これからこういう市民の自由活発な討論がマスコミに登場することが難しいという時代が一番こわいなあ、ということをここに来ながら感じました。

 

 坂元 先ほども朝日新聞の腰くだけの話が出ましたが、地元の発行部数がかなり多い南日本新聞は、実際は載せる部分と載せない部分がはっきりしているんです。南日本のこれだけの発行部数は、鹿児島県に与える影響というのは当然大きいわけですよ。私は個人的には、何が載る載らないかはわかっているつもりですが、だから何十万部が鹿児島県をダメにしているような部分もあるな、と思います。できれば他の新聞ももっと部数を伸ばすことで、全体のバランスがとれればいいなあと思います。鹿児島新報も西日本新聞も頑張ってほしい。やはり競争関係がもっとないと、平和の問題が気になるなあ、と思います。

 

 木村 今日の十二月八日を社説で取りあげているのは、主要紙では朝日だけでしたね。全国五紙全部見ましたよ。南日本も載せていませんでしたね。不思議ですね。八月十五日は載せるんですよね。加害者の側面をあまり重視していないということでしょうか。八月十五日に触れられたことは、やられたことばっかり、原爆と沖縄と大空襲…。

 

 土師 結論として戦争はいけない、人を殺してはいけないというのは当たり前のことなんですが、そのあとでは今度のようなテロが起きると、ではその相手をやっつけなければということになって、人を殺してはいけないということに説得力がなくなってしまうんですね。私自身も、そうねえ、テロはいけないからねえ、ということで一歩引いてしまいました。でも先日ペシャワール会の中村先生のお話を聞きましたけれども、殺されても殺してはいけないということを、現地スタッフの人に徹底させて活動しているということを聞いた時に、ああそういう人もいるんだ、私たちもそういうことを言える可能性があるんだということで、すごく勇気をもらいました。一度ころげはじめたら、このあいだの、といっても六十年前ですが、その戦争でもよくわかるように、何か小さなことでもいいから、昔何でも反対という政党もありましたけれど、とにかく何かに文句を言っていないといけないという状況ではあると思うんですね。ただそれはとってもたいへんなことで、このまえ馬毛島の砕石場の問題の活動をしている方の話があったときに、鹿屋の方だったんですが、そういう運動をしながらすごくさみしい思いをすることが多いということをおっしゃって、すごく胸にこたえました。でも一人ひとりがそういうさみしさなどに耐えていかないとダメなんじゃないかな、と思って、ま、それぞれここにいらっしゃる皆さんは孤独に耐えたりして活動していると思うんですが、そういう人が増えていけば大きい力になるかな、と少し希望を持ったりしているところです。

 

 種子田 私は今回のテロとかアメリカのいろんなことは、逆にちょっと反面教師という意味で、よかったなと思うところがあるんです。平和ボケしているとか、いろいろずっと、ここ十年二十年言われてきましたよね。ああいうことがあると、若い人でもちょっと考えるだろうし、あるいはアメリカの態度を見ていると、いかにアメリカが世界中を引っかき回して、必ず紛争地に顔を出しているかということが、今更ながらによく見えてくるし、そういう意味では良かったんじゃないかな。犠牲者の方々には申し訳ないけれども、みんなが考えるきっかけになったという意味では、すごく皮肉な言い方をするとそう思います。私は人殺しは絶対反対ですけれども。少しショックから立ち直ってきて、そういう風に思っています。

 

 入来院 私たち子供の頃は、中国人は劣等民族だと刷り込まれていましたね。だから満州事変の頃は、悪党どもの征伐だと思っていましたよ。少年雑誌、漫画の影響が大きかったですね。

 

 木村 そういう側面もあるから、李鵬があんな国日本はあと二十年もたったら消えてなくなっているという発言に、ものすごい反発がやっぱり自然に出る部分もあるのかな、と思いますけどね。今まで見下していた中国が今や世界の大国ですよ。核は持っていて、安保理常任理事国で、経済レベルも日本をはるかに上回っていくだろうと言われている。僕は中国を再侵略できなくなったという状況は日本にとってはよいことだと思っていますけどね。せっかくですので、記者の方もお見えです。何かご意見はありませんか。

 

 某記者 確かに若い同世代の記者としても、話をしていると十二月八日って何の日だっけ、という部分は強くなってきているとは思います。マスコミの責任については…、ニュースが多すぎますね。事件だけでもものすごい数ですよ。強盗、交通事故、死亡事故、犯罪、ユスリタカリまで入れると毎日すごい数ですからね。実際増えています。さらに失業問題もあって…

 

 小川  うちの子供が二十歳に成る前に、中学校の同級生が自衛隊に行っていまして、ワアもしかしたらあいつが行って死ぬかもしれない、と言っているんです。ところが二・三日前、ラジオが若者の声を流していまして、僕は自衛隊に行って鹿児島の平和を守ります、と言ってるんですよね。だからそうやって情報操作というというか、せっかく同級生が行くというので心配しているのを、英雄視する風にマスコミの放送が流しているんだと思ってショックでした。

 

 某記者 うちへの抗議の電話は多いですよ。逆にアフガン寄りだという抗議はすごく多いですよ。うちは左寄りだという批判がありますよ。

 

 木村 南日本新聞は論調的にはそうだと思いますよ。そういう意味では貴重だと思います。琉球新報、沖縄タイムスと並んで、地方紙、全国紙おしなべてすべて報復戦争容認ですけれどね。そういう意味では貴重な存在と思います。それではもう時間も超過しています。僕は今回、戦中戦後体験アンケートをまちづくり県民会議がされたこと、そして今日このような戦争体験を語る集いを持ったことは大きな意味があったと思います。ただこれをさらに意義あるものにするにはどうしたらいいか。このアンケートをどのように活かすことができるかは、今後の課題として残されていると。アンケートの回答自体には、昔とまた同じような状況にあると。戦争はいつまでたっても変わらない、人間というのは変わらないんだ、という少しあきらめ、無力感みたいなご意見があったのも事実です。ただそうしてはならないと、先の体験、経験から何を我々は学び、教訓として今後に何を活かすべきかという視点からの積極的な証言・コメントもあったわけです。そうした中でやはり教育とマスコミの恐さというのが身にしみたということであって、いかに主体的に真実を、そういう教育の場でもマスコミの場でも貫いて平和を実現していくか。殺される側ではなくて、殺す側には絶対立たないという決意

をどういう形で具体化できるかということを、真剣に個々に考えていく必要があると思います。僕は国民に見る視点さえあれば、今すでにマスコミの自主規制がかなり始まっていますけれども、行間を見るとか、真実を追及すれば必ずそれに至る道が今でも、大きく開かれている、残されていると思いますので、そういった方向で今後に活かしたいと。特にご年輩の方が憂慮されていることをすべて一掃できるように、より若い世代の方に(今日は二十代の方も来ていただいていますが)、前向きに引き継いでいくことこそが、今後の日本・世界をいい方向に持っていくことになると思います。本日は長時間にわたってありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第六十五回まちづくり県民大学

 戦中戦後体験を語る

     戦争への足音が聞こえる中で

            (二00一・一二・八)

 発行 二00二年(平成一四年)二月二0日

  編集 まちづくり県民会議

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