(講演)

沖縄から見た平和憲法

〜万人(うまんちゅ)が主役〜

高 良 鉄 美(琉球大学法文学部教授)

 

はじめに

 只今紹介いただきました高良です。名前の字を見ますと、鹿児島の方ではおそらく「こうら」と読むと思うんですけども、沖縄の方では「たから」と読みます。私も大学時代、福岡にいるときには銀行で「こうらさん」と呼ばれ自分が呼ばれているのだとわからなくて、「まだですか」と言ったことがありますけれども、よろしくお願いします。

 憲法については皆さんも御存じのように、今月の三日は公布の五〇年です。その頃いったいどういう雰囲気があったのかということと、そして現在の状況とも含めて憲法というものは我々をどのように位置づけ、どういうものを与えているのかということを、今日沖縄の方から見た視点ということでお話ししたいと思います。

 実は鹿児島市内に来たのは昭和四五年以来です。というと、今から二五、六年前になりますが沖縄は復帰前で、鹿児島に着きますとドルを円に替えるという作業がありまして、かなり時間がかかりました。そういった思い出もありまして、今日感慨深く鹿児島を訪れて講演できるということを非常に嬉しく思っております。

 沖縄については昨年いろいろな事件や裁判もあり、ずいぶん全国的にも沖縄のことが知られるようになりました。実はそれ以前といいますと、沖縄においては一九五〇年代にもいろいろな問題があったのですけれども、なかなかマスコミの報道がなかったということが事実としてあります。そういった面を考えますと、情報が非常に大きな意味をもっていたと思います。実は沖縄の状態というのはアメリカ本国でもよく分からなかったということです。ですから、今日お話しする内容は憲法としては、「私は憲法を習ったけれどもこういうことは初めて聞く」というようなことがあるかもしれません。でも、それは憲法を見る際の大きな視点になると思います。それでは、沖縄の問題についてお話ししますけれども、私の帽子の件はいろいろご案内にもあったと思いますが、なぜ帽子をかぶっているのだろうとあまり気をとられずにひとまず話を聞いてください。

 沖縄の米軍基地についてはもうずいぶんマスコミ等で知られてきてますが、米軍基地といいますけれども、沖縄の米軍基地は誰が造ったものかということです。多くの方は「米軍が造ったのでしょう」と答えると思います。しかし、これは元は日本軍の基地だったのです。最初南方攻撃の基地として日本軍が建設したのです。だんだんと戦線が狭まってきますと沖縄からどんどん飛行機を飛ばす必要がでてきます。その為に拡張、あるいは新設するということがあり、現在の嘉手納飛行場も元はそういうふうに造られたわけです。造るということですけど、戦況が非常に厳しくなってくるので大急ぎで造るわけです。その際にはどうするのかといいますと、一般住民を動員するわけです。そうして大急ぎで空港・基地を造るわけですが、とにかく子供まで引っ張り出され、強制的に造るのです。命令にしたがって徴用されて、いわゆる人の労働力を提供するという形で基地ができてくるわけです。ところが、戦況が予想以上に思わしくない、そういう時は何をするのかといいますと、「基地を壊せ」ということになってきます。「この間一生懸命造ったものを壊しなさい」、これは一体どういうことなのかと住民には分からないわけです。すごく皆さんもこういう場合理解しにくいと思います。一生懸命働いて造ったものをすぐに壊せといわれ、一生懸命に壊すわけです。その理由というのが、実は軍の方では「占領されたとき、今度はこの飛行場を利用されてしまう。だから壊せ」ということなのです。しかし、造ったものが原型としてはあるわけですから、いったん壊した空港をまた元に戻すのは簡単なことです。基本的な部分ができてますから、最初に造るときよりははるかに簡単です。そうやって沖縄の基地は実はかなりの部分が日本軍が造ったところと一致しているのです。そういうことがまず一つあります。

 

一、国民の犠牲・地上戦・原爆・敗戦、の鳥瞰図

 太平洋戦争について考えてみますと、まず日本の戦争状態というものが国民に知らされていたかということが、問題になってきます。実は本土攻撃というのが始まったのは沖縄戦が始まるはるか前なのです。北九州に最初に空襲が始まるが、それは終戦よりも一年以上前の一九四四年の六月のことです。この時点といいますと、戦況はそれほど厳しくないというふうに国民は考えると思うのです。それは情報がそのように流れ、まだそんなに本格的な攻撃ではない、ということがあったかもしれませんけれども、国民に対する情報の発信といいますか真実というものがかなり歪んで発表されたということなのです。

 沖縄から多くの学童を疎開させるということで対馬丸が鹿児島に向けて出港しました。その時も危ないというよりも、最後の戦いをするからという話もあったのでしょうけれども、「安全だから早く乗ってください」ということだったのです。ところが、その時にはすでにもう沖縄近海には米軍の潜水艦がいたわけです。こういう状態をみていると、情報としても真実を話すべきではなかったのかというふうに、思うわけです。この対馬丸というのは学童疎開ですから、主に子供達が親と別れていくわけです。親は防衛隊として残るというのがほとんどです。親にも真実は知らされていない、子供にも分からない、そういう状態で結局魚雷に当たった対馬丸は沈没するわけですが、実は半分近くは生き残るのです。ですけど、乗客数としては子供が半分以上いるのですけど、子供の場合には死んでいった者がはるかに多いわけです。

 そして、那覇市の方で大空襲があります。この時は同時に北飛行場、中飛行場(現在の嘉手納)も攻撃されています。沖縄の方では「一〇、一〇(じゅうじゅう)空襲」と呼んでおりますけど、一九四四年のことです。まだ沖縄戦は始まっていません。一九四四年のこの空襲の時に非常に重要な証言がありました。それは今は沖縄といいますと観光で那覇空港におりていきますが、大空襲当日の早朝、空港の近くの丘で南の方を見ているとそこから飛行機が飛んでくる。それを見ていた人は何と思ったかというと、「これは友軍機の演習だ」と思ったわけです。情報が入っていないのです。ところが、この場合軍部はすでに情報を得て、「沖縄に一〇月一〇日前後には来るだろう」ということで、軍の知り合いを避難させるということもありました。前日に防空演習を行ったのですが、ほとんどの人はそれほど切迫した戦況とは知らずにそのままいたわけですから、これを発見した人も演習だと思ったのです。ところが、頭上を通り越して那覇市の中心街を爆撃したということなのです。一〇月一〇日といえば体育の日なのですが、沖縄の方では、特に年配の方は「一〇、一〇空襲」を思い出すわけです。

 また情報の問題を如実に表しているのが、その約二週間後でしょうか大本営の発表があります。それはフィリピンのレイテ島沖でほとんどの日本の軍艦を投入した決戦があるわけですけど、この時に実際に沈没したのは日本の艦隊の三〇隻でほとんど壊滅状態なのです。アメリカの方の戦艦はそれほど被害がないわけです。ところが、大本営発表はどういう発表をしたのかといいますと、「アメリカの航空母艦を含めて八隻以上撃沈した」という発表をして、日本側はといいますと「日本側は戦艦一、空母一、以上の被害でした」ということにしたのです。ここにもまだ真実が出て来ない、あるいは知らされていないのです。

 それからしばらくして、東京に最初の空襲があります。しかしこの時には主に、戦いの能力ということで飛行場を攻撃してくるのです。沖縄の方でも飛行場の攻撃ということが基本的に入っていたのかもしれませんけれども、最初は飛行場、工場そういったところから攻撃されていくということです。

 そして、翌年一九四五年に入りますと、連合国の方ではもう終戦の計画を話し始めているのです。戦後の話を始めている、しかしそこではまだ情報の差があるのでしょうか、日本はまだそういう状態には入っていないのです。ところが、もうすでに戦況ははっきり分かってきているし、先に述べましたように「一〇、一〇空襲」の時でも沖縄に来るんだろうということが分かっていたのです。戦争が敗北に終わるということは、情報を分析すればはっきり分かっていたはずなのです。しかし二月一四日、今でいえばバレンタインデーというイメージだと思いますけども、実は二月一四日という日には非常に重要な判断がなされたわけです。この時に当時の国務大臣近衛文麿が天皇に講和を勧める、すなわちもう戦争を終わらせる方がいいのではないかという話を始めます。その理由ですけど、実はこれは戦況が悪いという以上に国体が守れない、三種の神器が守れないということが大きいのです。国民の被害はその次で、もしこのままいくと天皇制を維持できないのではないかということなのです。そこで昭和天皇の返答はどうだったかといいますと、いずれは講和をしなければいけないとみてはいたようです。ところが、講和はある程度条件を有利に進めていくべきだと考えたのです。連合国とはいろいろな地域で戦っていますから、一つの地域だけでも有利に展開している結果を出せば講和にいこう、と思ったわけです。これが、「あと一戦果」を挙げれば講和ということだったのです。これが最初の戦争を終わらせるチャンスでした。 「あと一戦果」という判断でしたが、結局その二日後には関東・東海地区が空襲され、さらに二月二五日には再度東京が空襲されます。そして、最も大きかったのが三月一〇日の東京無差別空襲でした。これは、歴史にはもしもということはないのですけど、二月一四日の近衛大臣が勧めた講和に対する決断が大きかったと思います。そして、その際の問題は情報が国民に知らされていないということです。講和をした方がいい状況にあるのを国民が知っているのか、知っていないのかということです。そういった点が講和についてはある一部の人だけが情報を握っていたということになろうと思います。先ほどの三月一〇日の東京大空襲では百万人が被害を受け、二五万戸ほどの家が焼けてしまいました。そこでは、ただ爆弾を落とすのではなくて焼夷弾というものを落として家を焼いていくという攻撃方法へと変わっていったのです。名古屋、大阪、神戸といった地域も、当時ついた名前では無差別じゅうたん攻撃という方法で破壊されていくわけです。

 その一六日後、沖縄に米軍が押し寄せてくるのですが、まだ沖縄本島には上陸しませんでした。ホエールウオッチングで有名になりました慶良間諸島に上陸をするわけです。ところが、慶良間諸島でも状況がいろいろ異なるわけです。つまり、慶良間諸島でも戦闘があったところとなかったところがあるのです。戦闘があったところは何故かといいますと、そこには軍がいたからです。戦闘がなかった島というのは住民はいたのですが、そこでは一切戦闘はなかったのです。米軍はすべての島に上陸していったのですが、戦闘があったのは軍のいた島だけでした。そして、なぜ慶良間に先に上陸し、どうして沖縄本島にしなかったのかといいますと、補給をするためなのです。沖縄戦は簡単には片付かない、日本も精力を傾ける、そうすると軍需品の補給をするためには慶良間を基地にする必要がある。つまりいくらでも攻撃しては補給してさらに攻撃するというために慶良間を先に占領したのです。米軍にとっては沖縄本島を占領するためにも日本本土を攻撃するためにも最も良い方法になってくるのです。そして現在の沖縄の基地というのもそうした役目をしているのです。補給をし、ここを拠点にいろんな攻撃ができるという形です。ところが面白いのは沖縄を拠点にして、軍事基地にしていろんなことをやっていく、という方法は実は日本も考えていたのです。沖縄戦の始まるはるか前の明治時代にすでに考えられていたのです。それからもちろんアメリカの方も沖縄を補給基地にして攻撃することを、これも日本と戦争をする前から考えていたのです。そういったことで、沖縄本島への上陸は四月一日でした。上陸をしますけれども上陸の際には戦闘があまりなかったのです。中部地区のあたりでは四月一日に亡くなった人は多いのですが、南部地区のあたりでは四月初めに亡くなった人は少ないのです。沖縄戦では、最後に追いつめられていく中で悲惨な状況が生まれてきます。約九〇日間の沖縄戦の中で後半の四五日間の方がはるかに悲惨であったということです。

 五月八日にはVEデーつまりVictory in Europe ということで、ヨーロッパでは戦争が終わってドイツも降伏をしたわけです。イタリアはその前に降伏をしています。そういった状況の時に、ドイツもイタリアも降伏をしました、もう戦争をやめたらどうですか、という声明がトルーマン大統領により日本に向けて発せられます。ところが、これに対して翌日日本側が出した返答といいますのが、いや断固戦います、ということでした。しかし、これまでの日本の方針はどうだったかといいますと、実は先に述べた近衛大臣が天皇に講和を勧めた時にもう一つの問題が提起されていたのです。日・独・伊は三国同盟を結んでいましたが、この同盟条約の条項の中で、他の二国と相談しないで単独講和をしてはいけない旨がありました。ですから、二月の時点で講和をしたくてもドイツやイタリアが認めないのであれば講和はできないのではないかという側面もあって、まだ続けるということがあったかもしれません。しかし、このVEデーの時期ではすでにドイツもイタリアも降伏をしています。そうであれば、日本だけが出し抜いて講和をしてしまうという意味がなくなるわけです。しかし、それでもなお、日本だけでも戦争を遂行するという声明を発表したのです。これが実は二度目のチャンスでした。先程の天皇の二月一四日の聖断は第一回目のチャンスだったのですが、この第二回目のチャンスも日本は無駄にしたのです。この時もやはり問題は国民への情報の流れです。ヨーロッパの戦争が終わっているという問題について日本の国民がどう考えたかということです。やはり情報が流されていなかったのです。それが、軍部の強い意向で結局戦争遂行、断固戦うということにされていったのです。そこに一番最初の材料としてヨーロッパではすでに戦争が終わったということが国民の前に示されてその上で戦争をなおやるかどうか決めるという、今でいえばそういう方式が妥当なのでしょうけれども、その当時は全くそういう方式はなしえない状態だったということです。

 アメリカの方では、原子力政策諮問機関の答申で原爆使用の問題についてトルーマン大統領に助言をするということがありました。これは六月の時点でしたが、この時にどういうことがあるかといいますと、日本に対して無警告で原爆を投下するというこの助言に対して、実は多くの学者は反対していたのです。

原爆は本来日本に対してやるものではなかったはずだ、あるいは対ナチスのために造ったものであるから我々は反対だ、と言って委員会から退場した学者が何名かいました。しかし、残った委員会のメンバーはトルーマン大統領に原爆の即時無警告使用を答申したわけです。原爆については実際の使用の前の七月に実験が行われました。それ以前は原子炉実験室で成功したことがありました。普通実験して使用する場合には数回やるのですけれども、その時の実際の原爆を使ってやる実験はたった一回の実験だったのです。つまり、この場合、原爆にはどういう威力があるのか早く使いたいというのが、先ほどの委員会も含めてアメリカの政策に入っていました。その当時世界には三個原爆がありましたが、一個はこの実験に使いました。残りの二個は言うまでもありません。広島と長崎なのです。

 その前に、実は三度目のチャンスがあったのです。広島、長崎の前にポツダム宣言が日本に対して放送されていたのです。我々が憲法を学ぶ場合にはポツダム宣言受諾は八月一四日です。基本的には一度しか登場してきません。二度というのも多くの人が知っているかもしれませんが、最初は七月の時点で日本に向けて出されていたのです。ところが、それを拒否するという形をとりますが、この拒否についていろんな問題がありました。最初は御前会議で受け入れの意向を決定していたのです。ところが、軍部の方で、いや拒否の意思を含めるべきだ、という非常に強い抵抗があり結局どうしていいのかわからず、どちらでもないという意味を含めて発表したのです。それが、ignore つまり、「無視する」ということになったのです。この「無視する」ということが、結局は黙殺と訳されているのですけども、この ignore というのは、英語でいえば、全く黙殺する、関係ない、このまま戦争を続けるという意味になるのです。そうすると原爆を使いたくてうずうずしている状況でポツダム宣言を受け入れないということになると、ちょうど落とす口実を与えているようなものです。ここで三度目のチャンスもまた失われていったということになります。ここまですべての状況をみてみますと、やはり国民の方に情報が流れていなかったということが指摘できます。あるいは、当時の憲法の構造からいいますと、国民は臣民という位置づけであって憲法上重要な役割を担っていなかったわけです。だから、情報を流す必要はないというのが当時の憲法構造だったのかもしれません。そして、世界の状況についてもまた情報が国民の側に流されてこないのです。すでに沖縄戦が終わった後、サンフランシスコ会議で国連憲章について調印をしており、その時点で日本の敗戦後の処理に向けての流れはもうとっくに始まっていたと言った方がいいかもしれません。しかし、国民はその状況を知らず、その後も戦闘は続いていくという状態を生んでしまったのです。

 このような状況にあって、犠牲になった臣民というのは現在の国民とは全然位置づけが違っており、だから情報も流す必要がなかったということが明治憲法の構造だったのです。憲法というのは英語では、constitution ということで、国家の構造ということを意味します。憲法というのは、基本的には法典の意味もありますけど、構造体という意味なのです。当時の日本の国家構造において、臣民は今のような国民ではなくて『もの』なのです。臣民は英語で、subject という言い方をしますけど、subject というのは、例えば潜水艦を submarine といいますように、sub は下なのです。marine が海ですから、海の下にあるのが潜水艦というわけです。sub-ject というとsub というのはまさに下にあるという意味で、この国民、当時の臣民というのは下にあるものといった位置づけでしかなかったわけです。こういった意味で先ほど述べた三度のチャンスというのは、ことごとく国民の方には知らされずにチャンスを失っていったということです。現在の情報化社会のような状況だったら、おそらくあの最初のチャンスの時期でやめようということも考えられたと思います。国民に情報が流されて、いろいろな状況の中で国民が判断をする、これが戦争を抑止するうえで大きな意味をもっているとすれば、今の憲法ができてきた過程の中で国民主権というのは当然にとるべき制度であった、ということになるのです。

二、外交のお供物? 沖縄

 「沖縄問題」において外交というのは非常に大きな関わりを持っています。日本の外交と沖縄との関わりといいますと、例えば廃藩置県が明治時代に行われましたが、廃藩置県というのは明治に入って全国、藩を廃止し県になるということで一八七一年からそういう制度に変わっていきました。ところが、その翌年に廃藩置県と全然関係の無かった地域が明らかになってきました。沖縄です。沖縄はその時は藩でも何でもなかったわけです。そこで、藩にすることにしたのですが、全国が県を置くときにどうして藩を置くのか不思議なのですけど、対外的には完全に日本のものであることを示す必要があった。しかし、そこでいきなり県にすると奪い取ってしまった感じがするので県にはせず、藩から県にいくという形をとったのです。廃藩置県という制度で、全国に県が置かれた後に沖縄では琉球藩というのが作られたのです。一八七二年でした。その当時の琉球藩はまだ前の琉球王朝の人が藩主になっていますから、それほど問題はなかったのかもしれません。そして、ようやく対外的に認められるためには県に、ということで一八七九年に沖縄県が誕生するのです。これで藩から県にということですが、県になる場合には普通はどうするかといいますと、以前功績のあった人を県知事、当時は県令といっていましたけど、そういうものを置くわけです。ところが、沖縄の場合は違っていて、県を置くときにどうしたかといいますと、県になることを認めよ、ということで、軍を熊本から送ったのです。つまり、認めない時には鎮圧をするということでした。他の地域では廃藩置県の時に強制的に軍を送って県にするということはなかったのです。これが一つの琉球処分という言い方ですけど、県にするというのは命令だったのです。こうして対外的にも琉球というのは沖縄県になり、日本の一地域になったのです。これには、沖縄の内部にも良かったという声と、そうじゃないという声とがあったわけですが、「ああこれで他府県と全く同じになった」と喜ぶ人もかなりいたのです。

 こうやって日本の一県ということが対外的にも示されたのですけど、翌年一八八〇年に日清修好条約の締結の前交渉というのがありました。その時の修好条約の内容なのですけど、国際法でいう最恵国条項、つまり自分の国民と相手国の国民と同等に扱うという条項がありました。その当時、中国はアジアの国々に対しては最恵国待遇をせず、欧米の国々に対しては最恵国条項を置いていました。ですから、日本も欧米と同じように扱って欲しいという要望を条項に盛り込むためにある条件を出したのです。何だったかといいますと、「沖縄を半分渡しましょう」という条件を出したのです。当時日本と中国との間で沖縄の分属について、二分論と三分論に分かれていたのです。奄美、沖縄本島以南、この二つに分けたのが二分論です。それから三分論というのは奄美、沖縄、宮古・八重山です。中国側は宮古・八重山を中国に、奄美からは日本に、琉球は王国として、ということを主張したのです。中国のその主張に沿った形で、日本は宮古・八重山をやりましょう、その代わり最恵国条項を盛り込んで、日本も欧米諸国並に扱うように、ということだったのです。この交渉は結局いろいろあって、日本の提案によって日本は最恵国待遇を受けることに、その代わり沖縄の方は分島され、宮古・石垣を中国へ引き渡すことになっていました。それがもし成立していれば宮古・石垣は中国だったのです。ところが今は中国ではありません。なぜかといいますと、これは中国側が調印に来なかったのです。藩から県へとようやく日本の一県としたのを、ある条件をぽんと出して沖縄が外交のお供物という形で出されることがあったのです。

 さて、日米安保条約というのは日米間の安全保障条約として多くの方が知っていると思いますけど、その安保条約と対日平和条約つまりサンフランシスコ講和条約というのは、全く同じ日に調印され、全く同じ日に発効しました。ところが、性質はちょっと違うのです。対日平和条約というのは日本の中に占領軍を置かないということなのです。つまり、日本を占領状態から解放するというのが対日平和条約なのです。一方、安保条約というのは、日本に米軍を置くという条約です。対日平和条約の条項の中に九〇日以内に連合国の占領軍が日本から撤退をする、というのがあります。ところが、それが発効したのと同時に安保条約が発効しますから、結局占領軍という名前が米軍という名前に変わって日本にいるわけです。しかし形式的にせよ日本から占領軍が出て行くということは独立ということであり、これが対外的には表に出されるのです。これにより国際的には日本が独立国家になり、主権を回復したということになったのです。それが一九五二年の四月二八日でした。実はこの日は悲喜両面をもった日なのです。独立、主権を回復したということで、日本全国ではどういう発表をしたかというと、「非常におめでたい日です。日本は独立を回復しました。万歳。」ということでした。ところが同じ日に奄美、沖縄の地域は日本本土から分離され、そこでは本当は全く「おめでとう。」ではなかったのです。「おめでとう。万歳。」と言った地域は、この地域のことをどう考えていたのでしょう。奄美、沖縄の小、中、高校生が一九五二年の四月二八日に作文を書いていました。小学生の作文を見てみると、「日本のみなさん、独立おめでとう。」と書いてありました。どういう気持ちでその小学生は書いたのでしょう。「おめでとう。そして私たちも早くそうなりたいです。」これは非常に複雑なもので、うれしいのか、悲しいのか、いずれにせよ、小学生がそういう作文を書いたということなのです。ですから、一九五二年の四月二八日というのは大変な運命の日でした。そして、実は最近いろんな資料の中にでてきましたけど、米軍も日本本土から切り離したという点について懸念していたのです。国際世論が米軍に対して非難を向けてくるだろう、ということで、「やっぱり日本に返す必要があろう。」ということがこの時期に出てくるのです。米国の国務省は「日本に返すべきだ」としましたが、国防省は「いや、そうはいかない。軍事上の占領基地としては必要だ。」としました。その結果、国際世論から逃れるためにどうしたかといいますと、「奄美だけは返そう。」としたのです。奄美が返還されたのは翌年一九五三年のことでした。そういう形で結局対外的な顔色をみては都合よくケーキのように沖縄が分離されていったということなのです。

 日本の中で「国民」ということに対していろんな考え方があると思いますが、「国民主権」というのは実は一九五二年の時点でもう憲法上あるわけです。日本が対外的に独立しました、と言いましたけど、憲法はそれより五年も前に施行されているのです。どうして憲法があるのに独立していなかったのか、と思うのです。もうすでに憲法が施行されて国民主権という原理があったにもかかわらず、対日平和条約・安保条約問題については国民は主権者として扱われていなかったのです。そういった国家的問題があって、結局はそれについてある代表者が集まって決めていくんでしょうけど、でもその際に国家というものがまるでその代表者とは結び付いていないということです。「国が」といいますが、その国とは一体誰なんでしょうか。「国家が、あるいは国がこうした」といいますが、現在の政治家もそうかもしれません。「政治家がね、」という政治家がいます。「国がね、」という場合にはそれぞれの意思決定をする責任者がいます。そしてそれは最後には国民なのです。このことは主権者として国民はやはり考えなければならないことだと思います。

 いじめと社会の問題もこれと非常に深く結び付いていると思われます。責任の問題、つまり誰もいじめがあったと知らなかったと言います。こういう歴史、こういう事実があったことを知らないと言います。いじめがあったことも知りませんでした、とテレビなどで言います。本当は知っていたのではないか、いや知っていた、もしくはそういう事実があったかもしれないがもみ消していた、つまり事実を隠し、情報を広げないということです。これは国民に出されてくる情報と全く似たようなものです。事実があったことを隠し、広げない、そして「責任を」と言った時に、例えばどこかの学校の校長が「私は全く知りませんでした。」と言います。その構造というのは非常に共通した面があります。それは現在のいろんな事件が物語っているといえます。

 例えば若者を中心に薬害エイズの問題に対する関心が相当な広がりをみせていますが、これも同じようなもので、情報がいろいろ錯綜しています。そして、知らなかったと言い、非加熱製剤の問題でも知らせなかったのです。誰が責任をとるか、最後まで分からない状態ですが、結局こういう問題は我々国民がきちんと情報を知る必要もあるし、情報を引き出さないといけない、ということなのです。その情報を引き出せる社会をつくるのが国民主権なのです。

 最近は行政改革というのがずいぶん叫ばれており、今後は国の機関が非常にスリム化していくかもしれません。しかし、その体質が同じではいくらスリム化しても駄目なのです。国家機関の責任はもちろんのこと、主権者である国民もその責任をとれるように、国民が知る必要のある情報を与える組織になっていないとやはり同じことなのです。主権者国民に対して情報を隠すといった構造がずっとあったということです。

 

三、憲法制定と沖縄

 さて沖縄の憲法の問題ですが、実は一九四五年の敗戦後、沖縄に対しては憲法は当然には施行されないだろう、ということは当時ある程度分かっていました。それは直接占領と間接占領の違いがあり、沖縄の方は米軍が当初直接的に統治をしていたからです。途中で琉球政府がありましたけど、日本本土の場合には内閣があったわけです。形の上では、日本政府というのが残っていたのですから、間接的な統治ということでした。そういう体制でいきますと、日本は憲法も作れたわけです。憲法を作り上げ、そしてその憲法については憲法記念日に代表されるように非常な喜びというのがあったわけです。沖縄にもこの憲法制定のニュースは流れてきていました。憲法というのができたのですが、憲法ができたというよりも憲法の中味を見たわけです。これが大きな問題なのです。つまりすでに述べたこれまでの終戦の三度のチャンスをことごとくつぶしていった経緯があります。あの時に国民に情報が入っていればなあ、国民が知って、国民が決定できればなあ、という思いがあったはずなのです。憲法の中味には、そのための国民主権がしっかりと入っていたのです。

 沖縄の方で代理署名の裁判がありましたが、その裁判の中で大田沖縄県知事が証言をしました。沖縄戦は「鉄の暴風」と呼ばれましたけど、その暴風とは台風が吹き荒れる状態で、要するに必ず風雨にあたるわけです。ほとんど、立っていたら当たるような状況で弾丸が飛んでくるのです。これが鉄の暴風なのです。この中で生き延びるというのはよっぽどの運がないと無理です。知事はこの沖縄戦の際には、鉄血勤皇隊ということで、いろんな部隊と部隊との連絡役をしていたのです。ですから弾の中を避けながら連絡を渡していく、そういう役目をしていたのです。しかし、あの鉄の暴風の中でおそらく自分は死ぬだろう、万に一つも助からないだろうと思っていたわけです。だからもし万が一自分が生き延びたら、この戦争が絶対間違っているということを言おうと思っていたのです。そして、その万が一が起こり、彼は生き延びたのですから、あの戦争は間違っていたということをしっかり伝えようとしていたのです。そう考えている時に、新しい憲法に出会いました。日本国憲法をみて読んで、書き写したのです。書き写すということは当時はコピーというのはありませんから、じっくり見て書き写したわけです。それを見ると、戦争の反省が全部入っていたということなのです。国民が主権者であって、情報が国民に知らされ、政府が勝手な行動をしない、人の権利を、特に基本的な権利を簡単に侵害しない、ということが盛り込まれていました。沖縄戦の中で戦闘があった島となかった島がはっきりと分かれたのはそこに軍がいたか、いなかったかということでした。それをこの憲法は入れているすなわち戦力不保持ということです。そういうことが知事の中にあって、「憲法というものが沖縄の中で相当な意味をもっている。大変な見事な反省の上に成り立っている憲法だ。これは自分がこの戦争は間違っていたということを言うまでもなく、国民に大々的に知らされており、浸透されている。」と思ったのです。

 ところが、それが現在必ずしも実行されているとはいえない状況なのです。憲法が制定されて五〇年になりますが、「我々は本当に国民主権か」と尋ねますと「先月国会議員の選挙がありましたので、投票に行きました。」と言います。しかし、これだけでは主権者ではないのです。投票の時だけでは主権者とはいえないのです。三六五日主権者でなければならないのです。沖縄では自分たちの目を光らせていないと、いつ何がどのように決定されているかわからないので、情報も入れて三六五日自分たちで考え、行動しなければならないのです。憲法でいっている国民主権とはそういうものじゃないのでしょうか。ですから、住民投票もやりました。それだけ自分たちの意思を表さなければならないということです。また、基本的人権の尊重についてはどうかといいますと、「人権は保障されているじゃないか、五〇年も基本的人権の尊重ということをいってきたのだ。」と言いますけれども、今の社会のいじめとか、薬害とか、公害などのことを人権の問題ではないという捉え方をしていると大変なことになります。あくまで、子供の権利や弱者の権利、そういったものは今の社会の中ではまだまだ全然認識されていないということです。

 今日タイトルの方に万人(うまんちゅ)が主役と書いてありますけど、万人(うまんちゅ)が主役というのは、誰でもが主役ということです。多くの人々、誰でもが主役でなければいけないのです。沖縄ではカチャーシーという踊りが有名ですが、これは流派が全くなく、誰でも踊れるのです。つまり、流派がないものですから誰かが踊ればそれがカチャーシーなのです。そして、結婚式や祝い事があると舞台へ出て行って踊るわけです。その時に、自分の喜びを相手に伝えたいのであればそこで踊ってくださいということです。そこへ出て行くためにはその人が主役なのです。そういう気持ちがないと全くできないのです。その人が抜けてしまい、その中で踊っている人がいなくなってしまうと、誰もこの結婚式をお祝いしてくれていないのかということになります。自分の気持ちを表すということ、一人一人が本当に主役なんだ、ということがこの沖縄の方言です。

 国民主権というものは我々は総合的に考えています。国民というのがあり、それを統合単位にするという捉え方をしています。しかし、そうじゃないのです。国民というものは、個、パーソンなのです。個の捉え方を日本国憲法は構造としてもっているのです。だからこそ基本的人権の尊重というのがあるのです。そして、基本的人権の尊重と国民主権というのが非常に深いつながりをもっているのです。国民主権を実現するためには、基本的人権としての内心の自由から、言論の自由から、あるいは集会の自由から、意思を形成していくものをもっていないと国民主権は実現できません。そのための権利というのが当然基本的人権として現れてくるのです。そういったつながりをもっているとすると、これは全員が主役でないと国民主権というのは成り立たないのです。

 さらに、基本的人権の尊重ということを非常に良く表す沖縄の言葉があります。沖縄の方言というのも難しいので、標準語でいうと「十本の指は同じ指がありません」という言い方なのです。これは一般的な諺でいいますと、十人十色と同じではないかと思うのですが、それとはちょっと違います。なぜなら指というのは、右手と左手に同じ名の指がありますが、それでももっている機能が違うからです。右手の親指と左手の親指とは使い方が同じではないのです。人差し指もそうです。あるいは昔、名無し指というのがありました。薬指のことだと思いますが、これはほとんど何も役に立っていないから名もないということだったのだろうと思います。今は薬指といいますが、しかしこれ一本なくなると、いかに用が無かったかではなくて、この一本がどんなに大切だったかということが分かるわけです。それぞれが違う働きをもっていて、それぞれが非常に貴重である、それが「十本の指は同じ指はない」という沖縄の方言です。これは基本的人権の考え方もそうなのです。人権というのは一つ一つが大切なもので数多い少ないで計算できるものではない、ということです。どんな人の人権でもあまり役に立たない、価値がない、という考え方ではないということです。

 それからもう一つの平和主義については、「ぬちどぅたから」すなわち「命こそ宝」という沖縄の方言があります。これはもう説明を要しないわけですけど、この平和主義は沖縄の方では徹底しています。「命こそ宝」というのは沖縄のこれまでの歴史や戦争の中から出てきた考え方です。沖縄戦の中であったことは、一人一人の命が非常に軽くあしらわれていたということが大きいのです。それが、一つ一つの命の大きさを表す言葉として、「命こそ宝」というのがあるのです。これは、戦争は絶対にやってはいけないということなのです。

 沖縄では「平和の礎(いしじ)」という石碑があります。これは国籍に関係なく、出身地も、軍人・民間人の区別もない、二三万以上という沖縄戦などで亡くなった人々の石碑です。「平和の礎」というのは、御影石で、さざ波の格好をしていますけど、平和のシンボルになっています。礎というのは漢字の通り、石でできているのですが、石でできているのには意味があるのです。実は、礎というのは建築用語なのです。日本の住居の建て方はツーバイフォーではなく、柱式です。したがって柱を立てる時には真っすぐ立てないと困るわけです。そこで柱を地面に埋めるわけですが、地面が軟弱な場合と固い場合があります。軟弱なところと固いところに、柱を一緒に立てますと柔らかいところはめり込んで傾いてしまいます。傾かないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。地中に石を埋めるのです。つまり、平たい石を地面に置き、その上に柱を立てるとあまり地盤の固さは関係ないのです。上から立てても平たい石が圧力からしっかりと守ってくれるのです。この石が礎です。ですから、石でできているというのにはそれなりの意味があるのです。「いしじ」といいますけど、先ほどの石から派生したもう一つの意味があります。それは物事の基本という意味です。基礎の礎という字がいしじということです。私もいしじと言っていますが、沖縄の方言なのです。普通に言いますと「礎(いしずえ)」ということで、礎という字は、基礎の礎、物事の基本という意味です。

 そうすると、日本の国家の基本、つまり、政治がある、行政がある、国民がいる、国民がどういう権力をもっているか、権利をもっているか、裁判所がある、地方が自治をもっている、こういう日本の基礎構造、これをつくっているのは日本国憲法です。この憲法を平和憲法といってますが、軍事構造が全くないのです。一番最初のところで述べたように構造というのがconstitutionといいましたけど、この憲法の中には軍事というのが全くないのです。そのために、この憲法は日本の平和構造の基礎になっているのです。こうやって映画風に言いますと「平和の礎」パート*が終わるわけですけど、パート*、*と出ましても、しかしこれだけでは物がきちんとそろっているというだけなのです。コンピューターでいいますと、ハードがそろったわけですが、完全にこういうものがいくら良くても役に立たないことがあります。それは、平和の礎というのはソフトつまり、きちんと動かすものがなければいけないのです。それが、平和を守ろうという心なのです。平和を守ろうというのは単純な言葉ではなくて、憲法の中では「日本国民は名誉をかけて」というのがあります。この名誉なわけです。なぜ名誉かといいますと、憲法ができたときに驚いたのは国民だけではないからです。外国も驚いたのです。その中で特に驚いたのがイギリスとオーストラリアでした。イギリスはご存じのように、議会制民主主義の発祥の地ですがそのイギリスが驚きました。「すごい憲法だ。」と。それから、正義というものに対して強い意識をもつオーストラリアです。フランスの核実験があった時にもいち早く反応した国です。そのオーストラリアがイギリスと一緒にこの憲法をみたとき驚いたのです。「すごい、けれどもこれが本当に実行できるのならもっとすごい。」と言ったのです。今はどうなのでしょう。イギリスとオーストラリアからみると、本当に実行していると思っているでしょうか。そこなのです。もし五〇年間、それが本当に実行してきた、というなら日本の国際的な信用度というのはおそらく世界一だったでしょう。この国は、自分たちの名誉をかけて約束したことを約束として守る国だ、という最大の信用を得ていたはずなのです。現在、アジアの諸国からの日本の信用度というのは申すまでもありません。国連の決議で、日本の提案にどれだけの国が賛成するでしょうか。おそらく、信頼度があるのであれば、「日本の提案の趣旨が厳密には分からないけど、アジア諸国の一員として日本の提案には賛成しよう。」というのが信頼される国だと思うのです。しかし、現実はそうではなく、むしろ、日本が提案するなら分からないけど反対しよう、という雰囲気さえ考えられるのです。そういう憲法を簡単に軽視する国は、あるいはその国民は信用されない、というのが事実としてあるのです。戦後五〇年というのは終わりましたけど、五〇年目以降の課題というのはその点にあると思います。我々は無我夢中で国民主権というのやら、基本的人権の尊重というのを分かったつもりでいました。しかし、本当にそうなのですか、という時にそれをじっくりとみていくのが私たちのやるべきことではないか、と思うのです。

 

四、基地の中の沖縄

 沖縄では住民投票をやりました。やはり、万人(うまんちゅ)が主役ということが行われました。そして、新潟県巻町の方にも私は行きました。住民投票の関係で見てきましたけど、その前に私が眺めていたのは乗っていた列車の窓の外でした。上越新幹線と在来線を何度か乗り換えをしました。何を私は見ていたのかといいますと、基地の金網が一つも無かった風景なのです。この列車に乗っている間じゅうでしたが、非常に不思議な気持ちでした。沖縄では普通に基地の金網があるのです。そして、ふと、その金網を見たときの子供達の非常に素直な感想を思い出しました。「あの金網はどこに向けられているのですか。どこが外なのですか。自分たちは金網の内側にいるのですか、外側にいるのですか。」と言ったわけです。刑務所の金網を見たら分かりますが、刑務所の金網は逃げられないように内側に向いています。米軍の金網は沖縄の住民の方に向けられています。どこが内側なのでしょう。

 沖縄の基地の具体的な状況というのをお話しして話を閉じていこうと思いますが、憲法の中に平和的生存権の素になっている規定があります。全世界の国民が「ひとしく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利」というのを有するということが定めてあります。この平和的生存権の規定はパックなのです。恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利。この恐怖と欠乏についてはアメリカのルーズベルトの提唱した四つの自由の中にこの二つが含まれています。これは特に戦争の生み出す悲惨な状況から第二次世界大戦末期に出されたものです。沖縄の場合に恐怖と欠乏から免れるためにはどうすれば良いのか、といいますと今いろいろ沖縄に対する振興対策費というのがあります。軍用地主のほかにも基地で勤務する人達が七千人以上おります。これらの人々の地代や労働に対しては何千億という金額になると思います。そういった時にこの人々は基地を心から喜んで受け入れているのか、というとそうではないのです。生活のためには仕方なく受け入れるという人々がいるわけです。むしろ、生活のためというのがなければ受け入れないのです。基地は、怖いけれども受け入れるということになるのです。その場合、恐怖と欠乏から免れるのかというとどちらか一方しか免れないのです。五〇年かかってこういう状況を生み出してきたのです。三世代にわたって、おじいさんの世代から土地を貸す、さらにその子供達も土地を貸す。おじいさんの世代から働いている、その次の世代も働いている。そういう状況を構造的に作り出しているわけですから、「いきなり生活を変えろ」といわれてもできないのです。その社会構造を変化させる、というのが今の沖縄がいろいろ政府に対して言っているアクションなのです。これを変えない限り恐怖と欠乏から免れることはできないのです。

 個人の尊厳と基地ということについて考えてみますと、基地の問題に関連していろいろ事件、事故が起こります。復帰後の刑事事件も四千七百件以上に達します。こういった問題は「事件、事故を起こす人がおかしいのだ」として、昨年の少女暴行事件についても、米軍は「あの三名のためにこんなことになってしまった」と言います。それは三名のせいではなく、軍の構造が問題なのです。海兵隊の訓練の中で、皆さんは映画でも見たことがあると思いますが、号令をかけながらランニングみたいなことをするのです。その号令の中でどういう言葉が発せられているかというと、人間の尊厳を打ち消すような言葉を発しているのです。戦争で人を殺す時には、相手を人間と思ったら殺せないのです。尊厳性を打ち消さないと殺せないのですから、その訓練をするわけです。そうすると、何から最初にするのかというと、一般的に最も敬愛の対象である母親を侮辱する言葉を訓練の中で言うのです。母親を侮辱する言葉を言えるようになると、だんだん人間の尊厳を打ち消す言葉によって、相手を人間と思わなくなるのです。そのようにして婦女暴行などいろいろな事件、事故が起こり得る状況を造るのです。ですから、そのような事件だけでも数えたらきりがないのです。そして実は一九四五年三月末に米軍は慶良間上陸をするのですが、その上陸した頃にもう婦女暴行事件は起こっています。ですからこれは何名の人間が、という問題ではなく、構造がそういうものなのです。

 それからもう一つ重要なのが教育の問題です。例えば授業中一時間に二分、爆音で中断されたとします。二分というのは少ない見積もりですが、嘉手納や普天間の基地周辺では実際はこれが何回あるかわからないほどなのです。そこで仮に授業の中断が二分としておきますと、小学校では一日に授業が五時間から六時間あり、そして月二回ほど週休二日ですから、週に五日か六日あります。そういう計算で一時間に二分をかけていきますと、だいだい一週間で一時間です。それが一年間、夏休みをはずしたとしても四五週ぐらいにはなるかもしれませんが、それを九年間義務教育でやるのです。そうすると、四百時間ほどになります。それを一日の勉強時間、五、六時間で割りますと七十数日になるのです。七十日間以上の授業が義務教育の間で犠牲になるのです。皆さん一学期の授業日数は分かりますね。だいたい、四月に入学して七月まで、その間に土日、休日を省いて出席日数は七十日間ぐらいです。義務教育の九年間で明らかに一学期遅れると、どれだけの学力低下があるかということです。これが一時間の授業中に五〜六分の中断だとすると、ほぼ一年の授業日数が消えるのです。本当に一日一日の中でこういった問題を考えなければいけないということです。

 まさに沖縄における現状というのは、たまたま沖縄を訪れた日が静かであるとか、あまり事件がないとか、そういう問題ではないのです。地位協定の問題についても、なぜ問題があるかといいますと、空港からこちらへ来るときに高速道路を通って来ましたが、高速道路は基本的には車の通行に便利で、時間を短縮するためにあります。九州自動車道でも、いちいち外務省とは関係はありません。沖縄には沖縄自動車道という高速道路がありますが、これは何のためにあるのでしょう。「観光地だから、早く目的地に行った方がいいからではないのですか。」と思うはずです。しかし、地位協定に基づいて日米合同委員会という機関が置かれていますが、この日米合同委員会が日本の基地の配置を決定するわけです。その日米合同委員会の中に沖縄自動車道特別作業班という班が置かれています。なぜ、沖縄自動車道が日米安保に基づく地位協定、その中の日米合同委員会の作業部会にあるのでしょうか。実は沖縄県内の軍事基地と軍事基地を結んでいるのです。沖縄自動車道は景色はあまり良くない上に出口は基地に非常に近いのです。それから自動車道の料金を米軍は払わないで日本政府が払っています。かつて山梨の高校生たちからお手紙をいただきました。米軍でずいぶんお金をもらっているのではないか、米軍で飯を食っている、ということも書かれていましたけど、やはり情報が入っていないのです。米軍の費用は思いやり予算ということで日本政府が出しているのです。

 私は刑務所に入りました。悪いことをしたのではありません。沖縄の米軍基地にある刑務所に入って見学をしたわけですが、非常にデラックスでした。入りたいと言ったら変ですけど、食事もビュッフェみたいにいろいろあるのです。個室、エアコン完備で、アメリカ本土の刑務所よりはるかにいいのです。ですから、犯罪を犯した米兵にどういうことを軍事教官は言うかというと、「悪いことをしたらアメリカに送るぞ。」と言うのです。沖縄の米軍刑務所がはるかにいいのです。そしてさらに施設を良くするために、何を要求するのかと思うのですけど、「もっと必要なことがあれば、日本政府に言えばいい。すぐにいいものをいくらでも造ってくれる。」と言うのです。こういう状況にあるのだということを国民はしっかり知らないといけません。これは国民の税金から出ているのです。税金というのは、我々国民の仕事の対価から出ているのです。この税金の問題を軽視できないのは、アメリカ自身も税金のために独立したからです。イギリス本国から法律をつくってアメリカにいろんな税金をかけられ、「代表なければ課税なし」ということで独立戦争が始まったのです。税金の問題は非常に大きいのです。我々自分で払ったものがどう使われるのかもっと関心を持つべきで、今度の消費税の問題について国民は相当意識を高めました。今、憲法五〇年経ちましたが、一番最初に述べましたように我々の問題は我々がきっちり見ないといけない、ということです。なぜこんなに国民と関係するのに、勝手に違うところで決めているのですか、ということがあるのです。特に沖縄の米軍に対する思いやり予算というのは我々のお金を使っているのですよ、ということです。その部分をしっかり考えて欲しいと思います。

 沖縄の現状についてはあと二点ほどありますが、まず駐留軍用地特措法について述べたいと思います。この法律は現在沖縄だけにしか適用されていないのです。米軍に必要な土地を強制的に収用することができるという法律なのですが、現在、沖縄にある米軍の基地の地主のうちで契約を拒否した人に対してはそれを使って強制的に取り上げるわけです。これは、実は沖縄が復帰する前からあった法律ですが、復帰した後もこの十年以上沖縄にしか適用されていないのです。「国民の多数決によって法律で決めたら守らなければいけないのではないか。」と言いますが、例えば十名の人がいて、その中で非常に厄介なことが問題となっていたとすると、誰か一人に重荷を背負わせるために残りの九名が賛成したら、その一人に負担が決まるかということです。これは多数決といっても、土台のない多数決なのです。日本の憲法構造で基本的人権の尊重があります。この基本的人権に対しては多数決は働かないもの、作用しないものなのです。沖縄に基地を置くという問題について、沖縄にある特定法律を使って、「その法律は国会で多数決で決まったからいいではないか。」として強制することは基本的に民主主義に反する問題になってくるのです。そういった問題もいろいろ含ませながら、沖縄を法的に拘束するのにも憲法構造を理解していない面が現れてくるということです。

 沖縄の問題については普天間基地が返還されるということで、かなり進展したように言われています。しかし、問題はやはり人権なのです。基地が返還されるというが、普天間基地は沖縄の基地の中では小さい方です。しかし、その代わりの施設をまた沖縄県内に置こうという考え方が示されていますが、そうなると、人権という点では全く改善されないということになります。それを、「ああ良かった。首相があれだけ強く言ったから普天間が返還される。」ということではないということです。基本的人権というのは憲法の中で最も重要なものとして置かれているわけですから、その視点から基地というのをみると、やはり人権保障という面では全然解決になっていないということになるのです。この点もぜひ考えていただきたいと思います。

 

終わりに

 今日本来はいろいろな話をするつもりでしたけれども、基本的な話に終わってしまったかもしれません。それから、私の帽子についても話をするつもりでしたが、時間もきていますし、パンフレットのような形で事前に配られているようですので、詳しい説明は割愛させて頂きたいと思います。しかし一つだけ言っておきますと、都道府県議会や市町村議会にある傍聴規則のルーツを国会図書館で調べましたら、貴族院などの帝国議会時代の傍聴規則と同じものでした。その傍聴規則というのは、帽子、襟巻き、コート、傘、杖、を禁止し、そして羽織り袴又は当時でいう洋服を着て正装して傍聴するように、と定めていました。これは当時の傍聴する人に対してどのような姿勢だったかというと、傍聴をしたい者がいるなら聞いてよい、ただしこの規則を守りなさい、恩恵ですから、ということだったです。当時は臣民という時代でしたが、今我々の時代は国民が主権者です。恩恵で聞かすものではないのです。我々が自分の税金をどう使うのかということを、きちんと議会での議論の現場をみてそれで判断をする必要がある、ということなのです。傍聴は恩恵やサービスではなくて、議会の義務なのです。憲法五七条には「会議は公開である」と定めてありますが、なぜ公開なのでしょうか。それは主権者が見るためであり、監視をするためなのです。今の高齢化社会で老人の多くは杖をつかずにそんな簡単に議会に傍聴には行けない状態にもかかわらず、この人々を排除するということが簡単にできているのです。そういうことで、私は調べましたら結果的にはモデルは帝国議会であったのです。国民主権の世の中で、全くこれに気づかずにそのまま国民に対して許可する、つまりあなたの権利を与えましょうねと定めてあるのです。しかも、議長が許可すれば、帽子、襟巻き、コートも着用してよいという但し書きもあるのです。つまり、帽子をかぶっていても場合によっては議長が許可しますよというわけですが、しかし、人の権利は人が許可するものではなく、我々自身が享有しているということです。そういった面では、帽子をずっとかぶり続けて失礼だといろいろなところで言われる場合もありますし、テレビに出演しますと抗議の電話が三本ぐらい入るのです。何だあの人は、ということです。そして、審議会や委員会などでもかぶっていますので、外部からの抵抗や圧力は非常に強いのですけど、議会の考え方が基本的に国民主権、住民主権に変わるまではかぶっておこうと思っているのです。

 日本の裁判所にも議会と同様の傍聴規則があって、国民に閉ざされた感じがあります。アメリカの裁判所で非常にユニークなのは、日本の裁判所は静粛に、と言いますが、もちろんアメリカでも必要ですけど、裁判官の非常に気の利いたジョークに感心させられます。私がバージニア大学におりました時に、バージニアの高等裁判所が巡回裁判所ですからたまたま町の方で開かれることになりました。たまにしか来ないわけですから、町の人たちが非常に熱心なのです。そこでたくさんの人々が傍聴に来たのです。そうすると、裁判長が何と言ったのかといいますと、「今日はフットボールの試合よりもはるかに人気があるんだねえ」と言ったのです。私はびっくりしました。裁判官がみんなの前で、つまり公開の法廷でジョークが言えるのは非常に良いことだと思いました。リラックスしながら、我々の中で憲法を見つめる際に裁判官はなぜ裁判官という役をもっているのか、国会はなぜ国会として存在するのか、内閣は…、地方自治は…、というように自問してみますと答えは憲法の条文というよりもその構造の中にあるのです。つまり、憲法の核は人権ということなのです。人権を守るために裁判所がある。言論の自由という人権を駆使し、主権者の意思を伝える。そして国民主権を生かすために国会があり、それが内閣をコントロールしている。そうすると最後は我々国民が、行政や立法や司法についてもあくまで主権者としてチェックする必要があるのです。チェックをすることを、英語でoversightといい、これは監視をするという意味です。実はoversightには、二種類の意味があります。一つは今いいました監視をするという意味で、それからもう一つは見過ごすという意味です。しかし、国民は主権者として後者の意味であってはいけないということです。

 沖縄から見た平和憲法、沖縄の日本国憲法に対する視座の違い、特別な思いをご理解頂けたでしょうか。最後まで御静聴いただき、ありがとうございました。ここで講演を終わりたいと思います。_

<Copyright(C)1997,Tetsumi Takara>


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