斎藤博★プロフィール

生年月日/1936年3月17日

出身地/満州(中国東北部)大連市生まれ。終戦を経て1946年に
     京都へ引き揚げる。

出身校/京都府立紫野高校  趣味/水彩画

20代前半の頃は油絵の勉強に専念するが、結婚を機会に、
1960年頃に横山隆一氏の経営する『おとぎプロ』へ入社。
『インスタント・ヒストリー』や劇場作品の作画を数本手掛ける。

テレビアニメ『鉄腕アトム』の制作が開始した頃に、山本暎一氏の
紹介により虫プロへ入社。アトムの作画担当。

1968年虫プロ退社。荒木伸吾氏とともに『ジャガード』を設立。
『巨人の星』第2話「悪魔のギブス」で演出家としてデビュー。荒木
氏とともに作画も担当する。

1971年『巨人の星』の後番組『天才バカボン』の監督・吉川惣司氏
が降板になったため、急遽シリーズ監督に抜擢される。アットホー
ム的な内容はスポンサーの意向によるもの。脚本を直しすぎて、
脚本家から連名で抗議を受けたこともしばしば・・・。

1972年ジャガード倒産。遠藤政治氏と新しいスタジオを設立。
遠藤監督による『山ねずみロッキーチャック』に監督補佐として
参加。クレジットされてないが、沢山のコンテを修正している。
ズイヨーの立ち上がりに貢献。1974年放映の『アルプスの少女
ハイジ』の絵コンテも数本手掛ける。

虫プロ倒産のため、勝井千賀雄氏の手で進められていた『小さな
バイキングビッケ』の制作がズイヨーに移る。チーフディレクターに
就任。終盤は、遠藤政治監督が降板になった『みつばちマーヤの
冒険』を引き継ぐため、監督を降りる。同路線の『ピコリーノの冒
険』の監督も引き受ける。

1977年遠藤監督の『あらいぐまラスカル』の共同監督として就任。
宮崎晃氏の「本物」の脚本に出会う。後半、遠藤氏と意見が会わず
29話で降板。アニメの仕事を辞めようとまで考えるが、10月頃に
高畑勲氏から、翌年放映予定の『ペリーヌ物語』の監督を代わって
欲しいと依頼される。高畑勲氏は翌々年『赤毛のアン』をやりたが
っていたらしい。高畑氏の後押しもあって「ペリーヌ」の監督に就任
する。(ロケハンには行かなかったのではなく、以上の理由から行けなかったようだ)

1979年に2本のスペシャルアニメ(『まえがみ太郎』『トンデモネズミ
大活躍』の演出を手掛ける。

1980年『トム・ソーヤーの冒険』の演出(監督と同義)担当。
宮崎晃氏が結核で入院したため、初期の数本は脚本まで手掛け
る。アイデアが続かず、2クール目から参加予定だった宮崎氏に
早めに復帰してもらう。

1982年『南の虹のルーシー』の監督。この辺から視聴率が下降し
始めた。「オープニングが動いてないからだ」と言いがかりまでつけ
られたらしい。

1983年『アルプス物語わたしのアンネット』の絵コンテを多数担当。

1984年『牧場の少女カトリ』の監督。全体の8割のコンテを担当。
内容的には、ほとんど宮崎脚本のオリジナル。打ち切りの噂が流
れるほど視聴率が振るわない作品だったが、それが理由でシリー
ズ監督を降ろされたのではなく、「カトリ」で最後にしよう、と始めか
ら決まっていたとのこと。

1986年放映の『オズの魔法使い』の後半から、殿河内勝氏の後を
引き継いで監督に就任。脚本も手掛ける。

1988年『グリム名作劇場』
「ブレーメンの音楽隊」「かえると王女」「長靴をはいた猫」「白雪姫」
「ズルタンじいさん」「シンデレラ」などの脚本、絵コンテを担当。

1989放映の『あひるのクワック』の監督。オランダとの合作。
久々に宮崎晃氏とのコンビが復活。

1990年『楽しいムーミン一家』の監督。原作者がコンテをチェック
していたため、今一つ持ち味が薄れた感があるが、母国フィンラン
ドでは高い評価を受けたようだ。「カトリ」以来2度目のフィンランド・
ロケハン敢行。1992年には劇場作品『ムーミン谷の彗星』も公開。

1992年「ブッシュベイビー」の絵コンテを数本手伝う。

1992〜1995年『カリメロ』『チロリン村物語』などの幼児向けアニメ
の絵コンテを数本手掛ける。

1999年『ムチッコ物語』絵コンテ
2000年『ハムスター倶楽部』監督
2002年『一つの花』(児童文学ビデオ)演出・絵コンテ
2002年『ふぉうちゅんドッグす』監督
近年はご自宅の近くで蕎麦や野菜を作ったり、米作りにも挑戦され
ているそうです。絵本の企画も某スタジオで動いていたようで、一日
でも早く現場復帰されることを期待しています。

 

 

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