働く人へ

「筑紫哲哉のニュース23」で倒産する山一証券の社員がどういう気持ちでいるかを、何人かの社員にスポットをあてて紹介する特集がありました。中堅女子社員の切々とした手記、窓の外を眺め涙する勤続二十数年の支店長、一枚の解雇通達を手に言葉を詰まらせる勤続十一年の課長。彼らが無事に新しい職場を見つけられることを祈りたい気持ちです。

しかしそれと同時に「大げさなだなあ」という気持ちも僕の心の中に沸いてきました。最初に勤めた会社を2年でやめ、1年間アルバイトで生活し、次に勤めた会社は3年でやめ、といった人生を送ってきた僕には、「たかが会社じゃないの」と思えるのです。

しかも証券会社ですからねえ、印象が悪い。「バブル景気のときはいい思いしたんじゃないの?」とか「大勢の個人投資家をだました一方で、法人顧客とかには損失補填で優遇したんでしょう?」なんていうイヤミのひとつやふたつ、いいたくなります。

ま、それはいいとして、<会社>のこと。会社に人生を捧げるような、人生を賭けるような日本社会のこれまでのあり方がもともとイビツだったんだと思います。会社が一生面倒を見てくれる、だったら会社に意向に逆らうようなことはせずに言われたことを唯々諾々としていれば安心、そういう論理が成り立ってしまわざるを得ないのが、これまでの日本の<会社>だったのではないでしょうか。これでは企業の犯罪が後をたたないのは当然です。 働く人は、会社と対等の立場にならなければいけない。倫理に反していることは、たとえ会社の命令でも拒否できるようにならなければいけないと思います。一生を会社に捧げるような心根ではそれは望むべくもないでしょう。いつでも辞める覚悟で会社と相対しなくては。サラリーマンとは辞めることと見つけたり、です。会社なんかどんどん辞めてしまえばいいんです。

35歳を越えると再就職も難しいという現実はあるでしょう。そういう年代で、会社が倒産した人、リストラで首になった人には同情します。そういう人が増えないように労働組合にはがんばってほしいし、政府は雇用対策に力を入れてほしい。

一方で、働く人は貧しくなることを恐れる必要はないと僕はいいたいです。別に持ち家がなくたっていいんじゃない? 車がなくたっていいんじゃない? 高級料理が食べられなくなっていいんじゃない? 人生を楽しむ方法はいくらでもあるでしょう? と。

僕も実際はそんなに達観した境地にあるわけではありません。だからこれは自分自身に向けて書いていることでもありますね。僕は冬の昼下がりに道ばたに立って暖かい日射しを受けたとき、夏の夕暮れに夕日を見ながら涼しい風に吹かれたとき、アジの干物を焼いたのを御飯と食べるとき、妻や子供の明るい笑い声を聞くとき、いろいろなときに喜びを感じます。生きていることの喜びです。そういう気持ちを大切にしたいです。

1998/1/28

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