子猫、来る

98年6月12日のことだ。我が家に家族が増えた。人間ではない。子猫だ。

ことのしだいは、こうだ。僕は妻と相模川へサイクリングへ出かけた。川沿いのサイクリングロードを走っていると、ぴーぴーという鳴き声が聞えた。猫好きの妻はすぐさまその声に反応し、声の主をさがし始めた。声はちょっとした植え込みの奥のほうからしていた。枝にからまって動けないのかとも思ったが、そうではないらしい。我々を恐れて隠れているのだった。植え込みの根元をよくみると、子猫がうずくまっていた。腹をすかせて鳴いているに違いない。我々はいったんその場を離れ、近くの売店で子猫が食べそうなものを買い、また戻ってきた。この時点では、我々はこの子猫を連れてかえるつもりはなかった。家にはすでに猫がいるのだ。

子猫は我々の差し出すものを食べなかった。腹はすいているようなのに、恐怖心がそれに勝るのか、やぶからやぶへと逃げるばかり。「食べ物をおいて帰ろう」と僕は妻に言ったが、彼女は諦めなかった。逃げ回る子猫をやっと捕まえたときには、その場所に来てから30分以上は過ぎていたと思う。

子猫はしっぽにひどい怪我をしていた。しっぽの先が、たぶん三分の一ほどだろう、切られているようだった。化膿し、悪臭をたてていた。あとで気付いたことだが、ヒゲも数本、途中で切られていた。先端が黒くなっていたので、焦がされたのかもしれない。さて、そんな怪我をした子猫を見捨てておくわけにはいかない。我々は、ともあれ子猫を病院に連れていくことにした。そこでもらい手も見つかるかもしれないと思いつつ、子猫を妻のリュックに押し込み動物病院へと向かった。

病院ではしっぽにつける塗り薬と飲み薬を処方してくれた。しかし子猫のもらい手については、ほとんど期待できないだろうという話だった。病院に猫を入院させ、その間にもらい手が見つかれば、という僕の期待は裏切られた。子猫は入院にもならず、結局、家に連れて帰るしかなかった。いったん家に連れていけば、もう手放せなくなるのは目に見えている。しかたがない。子猫の、こちらを見上げるつぶらな瞳を見ながら、僕はこの猫の一生について責任を負う覚悟を決めた。妻はしきりに、こういうことになったことを僕に詫びていたが、自分の中では子猫を飼うことになってしまったことを喜ぶ気持ちもあったことは確かだ。

子猫は雌だった。最初は食器棚の後ろにもぐりこみ、出てこようとしなかったが、やがて餌を食べるようになり、少しずつ行動半径を広げていった。先輩猫の「先生」も、最初は小さい同類の登場に驚いていたようだが、やがて受け入れた。子猫は数日後にはずいぶん元気になり、子猫らしくカーテンや先生のしっぽなどにじゃれつくようにもなった。名前は長男がミラと名付け、すぐさま、家族の反対に合い、ラミに変更された。いまでは自由に家の中を歩き回り、ときには駆け回り、ところかまわず眠るようになっている。

「先生」は生後2、3カ月のころ、家にやってきた。それからしばらくして、寝ている先生の姿を見ながら「猫が寝ているのを見ると平和な感じがする」と妻が言ったのを覚えている。それを聞いて、「先生」を家に入れてよかったと僕は思ったものだ(先生のツメ研ぎによって家財道具などが多大な被害にあっているにもかかわらず、だ)。そんな妻にとって、ラミの存在が大きな喜びになっていることは想像に難くない。生後一か月で、おそらくはしっぽを切られ、おそらくは捨てられたラミは、この家に連れてこられなければ餓死する以外になかっただろうから、今回のことは、我々にとってもラミにとっても、まずまず幸運なことだったと言っていいのかもしれない。(1998.6.29)


我が家にやってきた当初の幼猫ラミ

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