直感を疑え

宗教でも思想でもいいんですが、人間が何かを信じるときの原動力になっているのは「直感」なのではないかと思うんです。「ひらめき」と言ってもいいでしょう。宗教でいうなら、本とか人の話しとかそういうのに接して「あ、これはきっと正しい!」と直感して入信する。その直感を得るまでにはいろいろ時間がかかるかもしれませんが、最後の一歩を踏み出すときにはその人の直感が背中を後押ししているのではないでしょうか。これは思想の場合でも同様しょう。

宗教や思想が、もし直感によってではなく、足し算引き算のようなシンプルなロジックでもって正否や良否がわかるものであるなら、人は直感によってではなく論理によって選択をすることでしょう。しかし論理で結論がでるようなものなら、誰にでも結論が明らかなものなら、この世にこんなに無数の宗教や思想はありえず、最善のもの1つだけが生き残るはず。現実はそうなっていない。ということは、やはり、人は論理によってではなく直感によってそれらを選択しているのだと言うことができるのではないでしょうか。見かけ上は論理をあれこれ積み重ねているようでいて、実は最終的な結論は直感に頼っている、そういうものではないでしょうか。もし論理で結論がでるとしたら、それは宗教や思想ではなく、科学であると言えるでしょう。

さて、ここからが重要。人は直感で宗教や思想を選択したのに、自分が正しいと直感したのとは別の宗教や思想を信じている人が大勢いて、その大勢はやっぱりそれぞれ自分の直感に頼ってその宗教なり思想なりを信じているわけです。そうやって世界を客観的に見てみると、正しいと自分が直感したことが、実は正しくないという可能性も大いにあるということが言えます。これ、当たり前のことを言っているだけですが、この当たり前のことを自分に当てはめることは、なかなか困難です。たとえばAさんは宗教イロハを信じている。Aさんにとっては、Bさんの信じる宗教アイウは間違っている(あるいは劣っている)。逆に、Bさんからすれば宗教イロハは間違っている(あるいは劣っている)。Aさんは「Bさんは宗教アイウを信じているけど、どうしてイロハのほうがよいということがわからないのかなあ」と考えているわけですが、もしかしたら自分がそういう状況にあるのかもしれないということに気付いていない。なぜなら、「直感」によって宗教イロハが正しいと思ってしまっているから。自分の直感は正しいと思っているのに、どうして人の直感が正しいという可能性を無視してしまうのか。それは客観的な態度ではないですよね。しかし人間って、直感によって受け入れてしまったものは、自分ではなかなか否定できないものです。

それが人間の性質だと言ってしまえばそれまでですが、信じる内容が「自分の民族は他の民族より優れている」とか、「自分の信じる宗教だけが唯一正しく、他の宗教とその信者は存在価値がない」とか、「自分は優れた人間だから人を犠牲にして生きてもいいのだ」とか、「この戦争は聖戦だから遂行しなくてはならない」とか、そんなようなことだったりすると、人に迷惑をかける場合があります。端的にいうなら、世界の歴史はそんなことの連続ですね。だから「直感を疑え」と僕は言いたいのです。

「直感を信じないなら、何を信じればいいのか。世の中、論理だけでやっていけるものではない」そういう反論は当然あるでしょう。確かに、自分が信じていることまで疑っていたのでは、身動きとれなくなってしまいますね。しかし、いろいろなことを疑うにしても、現代人の大半が同意できる、まず疑問の余地のない思想というか常識というか、そういうものはあるでしょう。例えばそれは「人を殺してはいけない」という思想(?)。人を殺していいのなら、世の中が成り立たないということは誰にとっても論理的に明らかでしょう。でも死刑という形で、世の中は人を殺すからなあ。厳密に考えるとまた難しくなってきますね。とまれ、「直感を疑え」ということは、大事なことだと思うのです。どうぞお試しを。(1998.12.5)

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